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小栗栖綺譚  作者: 奈良松陽二
1/3

本能寺の変から山崎の合戦を経て、全ての謎を抱えたまま舞台は小栗栖の地へ

序章


 一五八二(天正十)年 六月二日 早暁。

 京都 本能寺において、歴史上最大の事件が起きる。

 いわゆる本能寺の変である。


織田信長に仕えていた太田牛一による「信長公記」によれば、明智勢が本能寺を包囲して、鬨の声を上げ、いよいよ攻めかかる時にようやく気付いたという。


「これは、謀反か? 如何なる者の企てぞ」

と、信長が小姓の森蘭丸に尋ねると、

「明智の者と思います」

と答えた。

これを聞いた信長は、ただ一言。


「是非に及ばず」

とだけ言ったという。


その後、奮戦むなしく信長は自刃し、妙覚寺に宿泊していた嫡男信忠も変事を聞き、二条御所に移って籠城し、あえなく自刃した。


これらは太田牛一が生還した関係者からの聞き取りによる伝聞で書かれたもので、彼自身が現場にいたわけでもないので、いわゆるニュースの文章と変わりない。


 これまでも様々な小説・講談等で語られて来た事件であるから、詳細はここでは省略するとして、この事件が未だに私たちの興味を惹きつけるのは、やはり織田信長と言う人物の魅力によるものが大きいだろう。

天下統一を目の前にして信頼していた部下に裏切られ非業の死を遂げる、一時代を築いた英雄の最後としては極めて悲劇性がありドラマチックでもある。


 その後の展開もまたドラマチックで劇的すぎると言えるだろう。

 もう一人の英雄、豊臣(羽柴)秀吉が主君の敵討ちの為におよそ不可能ともいえる「中国大返し」をやってのけ、ついには敵を見事に討ち果たし、天下に信長の後継者として名乗りを上げる。

物語としては余りにもよくできた狂喜乱舞する展開だ。


 飽きがくるほど描かれたのに色褪せることなくテンションが上がるものだ。

 しかし、近年はさすがに飽きが来たのか、視点を変えて描かれることも多くなってきた。


 ここで重要なのは、光秀の動機である。


 未だ解明できてない光秀が謀反を起こした明確な動機に、想像のつけ入る隙がある。

これにより様々な視点で事件を描くことができ、読み手はその度ごとに新たな解釈でもって事件を新鮮に感じられるのだ。


 書き手は、この事件を扱うにあたり、いかに斬新で、しかも言われてみればそうかもしれないと思える程の信憑性のある動機を想像して描かねばならない。


 本作もこれに倣ったものであるが、荒唐無稽すぎるものであるかもしれない。

 よって、一つの側面として描かれる与太話としてお付き合い願いたい。




第一章   小栗栖郷



 話は、本能寺の変が起こった日から十日が経った六月十二日。


 場所は京の都から少し隔たれた山城国醍醐村小栗栖郷(現在の京都市伏見区小栗栖)である。


 この小栗栖は、古くからある小栗栖八幡宮の社領と醍醐寺の寺領だったらしいが、鎌倉末期に関東から足利尊氏に従って上京した飯田氏がこの地に土着し、八幡宮の神主の地位を得て領主となる。

経緯は定かではないが、建武の新政から南北朝の動乱期にあっては土地の諍いは各地で絶えずあり、領有問題は棚上げされてしまうことも多かった。

 また、醍醐寺に幕府が多く関与していたことから、飯田氏は醍醐寺領の一部を管理する地頭の地位を得て、後に坊官の地位にもついた。

 そういうわけで、この戦国末期までこの地の領主であった。

 飯田氏は、幕府に出仕し、将軍家の足軽衆の末席にあったらしいが、十三代将軍義輝に出仕していた飯田左吉兵衛は、義輝が三好三人衆と松永久秀の息子により暗殺されたのを機に消息不明となった。


 それ以降、長年領主が不在となっていたところ、信長が突然他所から連れて来た者を強引に飯田氏を継がせて領主に据えた。


 天正十年六月十二日におけるこの小栗栖の領主は、その飯田氏である。

 

 小栗栖は、北に勸修寺、東に山科川、南に湿地帯と巨椋池、西に木幡山や大岩山があり、その山の向こうは後に伏見城が築かれる桃山の地となっている。

 山の裾から麓に至って田畑と集落があり、傾斜地や窪地も多く、耕作農地がそれほど広くはない。ここに大体数世帯、百近い人間が住んでいた。

 八幡宮と寺領の一部含めて、石高は百石にも満たない、正直、多くは無い。

 領主の飯田氏は、神主を勤める小栗栖八幡宮の隣、この地を見渡す小高い丘陵地に館を構えた。

 現在、小栗栖城とも言われるが、構えはそれほど大きくもなく、城と言うには規模が小さ過ぎる、どう見ても砦である。

 だから誰も城とは言わず、小栗栖砦、平時は主に小栗栖館といった。


 さて、六月十二日、季節はもう夏である。

 真上から照り付ける太陽は何もない畑に容赦なく降り注ぐ中、その畑でひたすら鍬を入れている若者がいる。


 名前を源太という。


 この郷で育った源太は、郷の者が感心するほどよく働いた。両親はいないらしく、今は〝おじじ〟と言われる郷の長老と一緒に暮らしている。


 さすがに暑さに参ってか、源太は木陰に入ってしばし体を休ませることにした。

 涼みながらも、蝉の声や山から聞こえる鳥の声に耳を傾けていた。

 ふと、その声に交じって細く小さい声で自分を呼ぶ声がすることに気付いて周囲を見回すと、木の陰に隠れて源太を見る女性の姿があった。


「おつるちゃん・・?」

驚いて、人目を気にしつつ、源太はおつるという女性に寄って行く。


「・・・ちょ・・・、何? どしたん? 」

 源太は優しくおつるに問いかけた。

「・・・うん・・、その・・・」

 おつるは、源太の顔が近づくと顔を伏せる。

 おかしく思った源太はおつるの顔を覗き込むと、おつるの顔に痣があった。

「また、どつかれたんか? 」

 顔に手を当て、ゆっくりとおつるは頷いた。

 源太はおつるの顔の痣にやさしく触れた。

 おつるも源太の手を取る。

 しばらく、二人はそうして見つめあった。


 今年で二十歳になる源太は、込みあがる抑えがたい衝動を我慢ができない。

「おつるちゃ・・っ・・・! 」

 抱き着こうした瞬間、おつるの

「あかんっ! 」

という声と共に飛んできたパンチをもろに食らって、源太は一間先まで後ろに吹っ飛んだ。


「なんでぇーっ? ええやないかぁーっ! 」

 もう抑えが効かなかった分、拒否された恥ずかしさは相当大きい。


「あかん! だって、だって・・・」

 おつるも当然、嫌で拒絶したわけではない。

 理由があった。


「あのアホォか? あのアホォかっ? 」

 ただ、その事情は分かっていても源太も男だ。

 引っ込みは付かないから、より感情的になってしまう。

「やめてっ! 誰か聞いとったら、殺されてまうよっ! 」

 殺されるとは何とも物騒な話だ。

 この二人の間にある事情はよほど深刻なのだろう。


 そこへ、また一人、源太を呼ぶ声がする。

 源太が返事するまでもなく呼び声の主は源太に気付いたが、同時におつるの存在にも気づいた。

 おつるもそれを察すると、逃げるように源太から離れて行ってしまった。


 源太を呼ぶ声の主は、名を長兵衛という。

 源太とは幼馴染であった。


「お前、あれ、飯田党の。わかっとんのか? ありゃ、飯田党の統領の嫁になったんやぞ。まだ続いとったんか? 殺されるぞ! 」

「嫁やない! 浚われたんや! 無理矢理! 」

「アホォ! そらそやけど、今はあいつらがここの領主や。下手なこと言うてみい」

「領主? 織田の家来になったとかで調子こいとるだけで、元々、どこぞの野伏せりやないか! 」

「大きな声で言うなっ! 」

 長兵衛は思わず、源太の口を塞いだ。


 つまり、信長によって新たに領主になった〝新〟飯田氏は、元々、野伏せり、いわゆる野武士という奴で、盗賊とも言えるはぐれ武士の集団だった。

 それを一団諸共、信長が召し抱え、その一団の統領に領地を与えたということだった。

 さらに、この一団の統領と思しき男が源太の恋人だったおつるを気に入り強引に浚って妻にした。

 しかも二人の関係は切れておらず、こうやってたまの逢瀬を重ねていたといった所だろう。


 ここまで聞くと、どうやら新領主様と領民との関係は良くはなさそうだ。

 源太の場合、大分と個人的事情が絡んでいるが、長兵衛の言い方から察するに、長年に渡って築いてきた領主と領民の信頼関係をすべてぶち壊すくらいの乱暴狼藉があったことは想像に難くない。


 元々から領民から略奪の限りを尽くしてきた野武士の一団だけに、急に合法的に年貢を徴収する立場になっても、なかなか品行方正にはならないものだ。


 しかも、戦国の世であれば、多少無茶もまかり通るのが道理で、強さこそが正義であり、まして当時最強の権威を誇る信長の威を借りれば、誰も文句も言えなくなる。


 ただ、誤解があってはいけないが、信長本人は非常に規律や規範にうるさく、冷血に見えるが領民には非常に優しい。

 逆らう者には容赦しないが、従う者には非常にいい領主であった。

 だから、理不尽な領地支配についてはかなり厳しく対処したので、小栗栖の民も信長に訴えれば、それなりに信長も対応したであろうとも思うが、この頃ともなれば、さすがにこんなちっぽけな領民たちの声などなかなか届かないほど雲の上の存在だろうし、その前に、信長のこれまでの行いが先行していて、すっかり恐怖の大王のようなイメージが定着してしまっている為、不満を口に出そうとも思わない。


 ところが、そんな恐怖の大王がいなくなった、いや、この段階はまだいなくなったのかもしれないレベルの話だが、京の都にいる民から噂が伝わるのはこの小栗栖にしても日はかからない。


 長兵衛にしても、その噂を聞きつけて、それを源太に伝えに来たのだ。


「信長? そや! ・・源太、信長や! 」

「なんや? 信長がどないしてん? 」




 そして、その噂は当然、領主である飯田党にも伝わっていた。

 彼らがいる小栗栖館は、そのことでごった返していた。


 さらに、明智方から使いが来て、早々に味方に付くように言いに来たかと思ったら、今度は信長の三男で事件当時堺で四国へ出航待ちをしていた信孝からの使者が来て、こっちに味方しろと言って来た。


 そして追い打ちをかけるように、今度は羽柴秀吉名義で使者が来て、やはり味方に付けと言う。


 しかも、この使者が言うには、もうすでに羽柴軍と信孝軍は合流し、摂津まで進発し、光秀も乙訓の勝龍寺城まで兵を出し、このままいけば山崎で戦になるから即時兵を出して加勢するようにということだった。 


 さて、この飯田党を率いる統領は、飯田虎之介というまだ二十代前半くらいの若者である。


 一見したところ、まさに荒くれ者の野武士を束ねる統領としてふさわしいほどの大きく立派な体躯で、顔もなかなかにいかつく無造作に生やした髭も年齢を感じさせない堂々たる風貌をより誇張しているようだった。


 そんな彼も手下たちが、どうする? とか、どうしよう? とかを言い合ってる間、ずっと眉間にしわを寄せ、何かを悩んでいるように見えた。


 その様子を、幼いころから一緒だった、腹心の家来である市松は心配そうに見つめていた。

 他の手下たちはともかくずっと共にいた市松には、どうやら虎之介の悩みが分かっているようで、さりげなく虎之介の近くに寄って、小声で虎之介に話しかけた。


「親方? ・・・なんて、書いとるんですか? 」

「おお・・・おおお・・、俺に読めるかいっ! 」

「べたべたやないですか」

「ほな、お前読んでみいやっ!・・・そや、お前読め、お前」

「親方が読めへんのに、なんで、俺が読めますの? 」

「わかっとるわ! どないすんねん? せっかくの密書がわからんやないか! 」

「そない言われても、元々、わしら学ないですやん? 」

「そりゃそうやな、がはははははははっ!!」


 どうやら、どっちにつくとか以前に、先ほどの使者の伝えた内容を記した手紙が読めてもいなかったみたいだ。


 そう、残念なことに、この虎之介、いかにも戦国時代の猛将でございと言うほどのいかつい風貌でありながら、字が読めなかった。

 しかも、とにかく無学で、これまでの人生もある意味勢いだけで何とかして来たような男だった。

 当然、統領がこの調子なので、これについて来てる手下どもも推して知るべしといった具合であった。


 信長も、こんな一団の何が使えると思って召し抱えたのか、いささか疑問ではあるが、当然、これにはそれなりの理由があったのだが、その話はまた後程。


「笑うとる場合かっ! 」


 この一団の騒ぎがこの一喝だけで静まり返った。

 この言葉を放ったのが、鬼子母と呼ばれる虎之介の母親である。


 こんなごっつい息子を産み、今こうして並み居る荒くれ者たちを一瞬で黙らせるほどのとてつもないオーラを纏った、まさにゴッドマザーという雰囲気を持っていた。


 なるほど、実質的な統領が誰なのかは一目瞭然である。


「あ、かか様ぁ・・・。」

 見るからに髭もじゃのいかつい男が、声高めに甘えた声を出すのは非常に気持ちの悪いものだ。

 これを聞く度、当の鬼子母もイラッとするのか、いきなり怒鳴り散らすように言った。


「あんた、いつまで字が読めへんねん。もう野伏せりやっとった頃とちゃうねんで。侍になったんやから、読み書きして出世すんだよ! 」

「でも、かか様ぁ~っ! 」

「かか様言うな、言うとるやろっ! 」

 もう、手が二、三発出ていた。

「痛い、痛いよ、かか様ぁ~っ! 」


 本来、こんな姿を手下に見られるわけにもいかないはずだが、日常的に繰り返されてる光景だけに、手下たちも慣れてしまっている。

 こんなアホで情けない統領でも、みんなついて来ているのだから、虎之介にしてもそれなりに手下に信頼される何かがあるのだろうが、おそらく何よりもこの鬼子母のカリスマ性あってこそなのだろう。


「今、お帰りで? 」

 市松が、鬼子母に尋ねた。

 というのも、本能寺の第一報が届いた頃に、

「京の様子を見て来る」

と言って、出たっ切り帰って来なかった。


「で、戦に行くんで? 」

 しびれを切らして、手下の一人が鬼子母と虎之介に向けて尋ねた。

「んっ?・・うん・・、まぁ・・なぁ? 」

 虎之介は判断がつかないように答えたものの、恐らく質問の意図すらわかっていないかもしれない。

 困ったように市松を見たが、

「へっ? ・・いや、あの? 」

 当然、市松も同様だ。

 ただ、虎之介と違って質問の意図は何となく理解しているようで、なんとなく決断できないといった具合だった。


「兵は出さへん! 」

 さすが鬼子母は一発回答だった。


「所領安堵。それが一番や」

「せやけど、それやったら、わしら乗り遅れてまうんちゃいますか? 」

 すかさず市松が尋ねた。

「アホ、今どっちかに付いてみぃ。付いた方が負けたら乗り遅れるだけで済まんで」

「あっ、なるほど」

「まぁ、勝敗は直ぐにつくやろ」


 鬼子母はどっかと座って、煙管に煙草をつめ、火をつけてゆっくり吸い、ぷかりと煙を吐くと、

「やる前から勝敗はわかっとる。秀吉の勝ちや」


「え? そうなの? かか様? 」

 とりあえず、虎之介を煙管でどついてから、


「・・・どうにも気に入らへん。あの明智光秀の動きが不細工すぎやわ」


「は? 」

 ぼそっと呟いた鬼子母の言葉を、当然虎之介も市松も理解はできなかった。


「あの・・・」

 縁側の隅で、どうやら門番をしていた手下が、何かバツが悪そうにして何かを伝えに来た。


「なんや? 」

 市松が問い返した。

「それがその・・・、郷の者が話を聞いてか、館の前にぎょーさん詰め掛けとりますけど、どないしたらええですやろ? 」

「何やとぉ? 上等や、皆、叩っ斬ったる! 」

 虎之介が傍らに置いていた自分の身長ほどある六尺くらいの大太刀を手に取ると、勢いよく飛び出そうとしたところ、鬼子母が煙管で虎之介の足を引っ掛けると、おもしろいくらいに虎之介の大きい体が一回転してうつ伏せに倒れ込んだ。


「アホなことやめぇ! 会うたるさかい、代表数人だけ残して大手門の前に待たせとき」

「あ、へい。わかりやした」


 鬼子母に言われた門番は返事すると、さっさと門に戻って行った。





 大手門の前で待たされたのは、源太、長兵衛、おじじ含む十人ほど。


 長兵衛とおじじは先頭の列で座っていたが、源太は最後列の端に座った。


 源太は機嫌が悪そうで憮然としている。


 正直、ここに来たくなかったのだが、おじじは郷の長老であり、代表としては筆頭となる為につきそわざる得なかったからだ。


(だいたい、館に入れたってもええやろ。俺ら領民やぞ。昔は要入ったのに、あいつら来てから一度も入らしてくれへん)

 そう源太は心の中でぼやいていた。


 半面、代表格にしては若すぎる長兵衛は自ら先頭に陣取って、妙に浮足立っていた。


 鬼子母と虎之介、傍らに市松が門を出て来て会うのかと思ったら、大手門の上、櫓の所に出てきてそこに並んだ。


(あんな上から見下ろすように、貧乏領主のくせに偉そうに、目の前に出て来たら何されるかわからんと思おうてビビっとんのか? )

 所々で、源太の心のツッコミが入る。

 本当に嫌いなのだろう。


 謁見が始まったのだが、話を切りだしたのは長兵衛からだった。


 郷でも既に風の噂が届いていて、山崎で決戦があることまで伝わっていた。

 長兵衛は、この大戦に飯田党も参加するのか、と聞きに来たと訪問の目的を説明した。


「戦には加わる気はないで。で、何しに来たんや? 」

「そやから、わしは、戦に行くなら加わらして貰おうかと・・・」

 長兵衛は、食い気味に答えた。すると、突然、虎之介が、

「何やとぉっ? 」

と、声を荒げて身を乗り出して来た。

 何が癇に障ったのか全く分からないから、長兵衛も少しびくついた。

 すかさず、鬼子母が、

「怒るとこちゃうねん」

と制すと、虎之介は、

「すんません」

と大人しくなった。


(話が分からんから、とりあえず怒っとこうという作戦なんか)

と、市松なりに虎之介の心情を理解した。


「なんや? 戦にでも出て銭でも稼いどこうとでも思うたんか」

「へぇ。わし、侍になりたいんですわ」

「何やとぉっ・・こら・・ぁ・・、・・すんません」

 虎之介がまた身を乗り出したが、怒ってはみたものの、見切り発車だけに心配したのか、うっかり鬼子母に確認してしまった。


「怒るとこや」

と、鬼子母が言うや否や、お墨付きを貰ったので、

「なめんなっ! こるうあぁぁっ! 侍になりたいぃっ? 何ぬかしてけつかんのじゃっ! おるうあぁぁっっ! 」

と怒り倒してみたものの、何がダメなのかがわからないから、これ以上言葉が続かない。

「・・・・あかんの? 」

と、鬼子母に問いかけた。すると鬼子母が一言、

「あかん」

と言ったものだから、

「あかんのじゃっ! こりゃうぁぁっっ! 」

と、続けてみたが、やっぱり理由が分からない。

 それで、

「・・・その・・なんで? 」

と、ようやく理由を聞いてみた。


「おのれが侍になったら、誰がうちらのめし作んねん? 」

「作るんじゃっ! ぼけぇぇっっ! ・・どういうこと? 」

 また勢いで怒ったものの、まだ、全然理解できなかった。


 こら、あかん、とばかり市松が助け舟を出した。

「あのでんなぁ、ええですか? わしらは、こいつらの作る米で食うてますねん」

「うん。そや」

「一人が侍になったら作る奴が一人減りますやろ? 」

「そうなると? ・・・どうなるの? 」


 虎之介はまだ理解できていないようだが、端で聞いていた源太は理解した。

 理解したからこそ、もう黙っていられなかった。


「横暴やっ! お前らのもんやないっ! 俺らが作ったもんは、俺らのもんや! 俺らのもん奪って、ほなお前ら、俺らに何してくれたんじゃっ? 」

 わざわざ立ち上がってまで、言ってしまった。


 さすがにこれには長兵衛以下郷の者たちもシャレにならないと思ったのか、必死に止めに入った。

「こらっ、源太! お前、何を言い出すんじゃ」


 郷の者たちのフォロー空しく今度は鬼子母がキレた。


「浸けあがるんとちゃうぞっ! ドン百姓がっ! ええかっ、弱い者は強い者に守ってもらわんと生きて行けへんのじゃっ! その代わりに、おのれらドン百姓は、うちら、強い者を精一杯食わしていかなあかんのじゃっ! 」


 これで黙って平謝りに謝ったらいいのに、源太はさらに言い返す。


「お前らかて、信長いう強い者にくっついて偉そうに生きとる、怖ぁて、よう戦にも出れへん寄生虫やないかっ! 信長が死んでもうたら、お前らなんぞ、ただの野伏せりやないかっ! 」


 鬼子神に真っ向から喧嘩を仕掛けるような奴は、当然、飯田党内にも郷にもいない。

 それだけ、この鬼子母には反論を許さないオーラがあった。

 ところが、この若造は臆することなく食って掛かった。


 鬼子母自身もそうだが、市松すら、

「へぇ~・・・」

と心の中でやや感心した。


 しかし、郷の者からすると生きた心地がしないだろう。

 もう、止めようともせず、ただ下を向いたままだった。

 そしてもう一人、この言動に感心するどころかストレートに激怒した者がいた。

 虎之介だ。


「このガキ! 黙って聞いとったらかか様に何言うてけつかんのじゃっ! 」

 大太刀を取り、3~4m位の高さの櫓から飛び降りた。

 着地して何ともなかったように平然とどかどか歩いて、下向いて平伏するばかりの郷の者たちを蹴散らして、源太を思いっきり蹴り飛ばした。


 二間近く蹴り飛ばされ、むせ返りつつも、

「何がかか様やっ! アホボンがっ! 」

と、まだ折れない。


 こう来たら、虎之介も引っ込みがつかない。

「ぶった斬ったらぁっ! 」

 と当然そうなる。虎之介はでっかい大太刀をすらっと抜くと大上段に構えた。


「待たんかいっ! アホっ! 」

と言う声と共に、空気を切り裂くような気迫が虎之介目掛けて飛んできたかと思うと、虎之介はピタっと動きを止めた。


 当然、声の主は鬼子母だ。

 そして、今度はゆっくりとした口調で続けた。

「・・さっき言うたやろ、作り手が減るやろ」


「アホかっ! 早よ殺せやっ! 」

 よせばいいのに源太はまだ煽る。

 しかし、鬼子母は挑発には乗ることもなく、より落ち着いた口調で虎之介を諭すように言った。

「殺すんやったら、前におる、作り手にもならん、ただ飯喰いやろ」

と、おじじを顎で指した。


 虎之介にしてみれば怒りの矛先がどこになろうと治め処が欲しいだけなので、何でもよかった。

 嬉々として、おじじに向けて刀を振り上げた。

「おじじっ! このっ、アホボン。やめぇっ! 」

 源太も、自分の短慮でおじじが斬られようとしているのに、未だに虎之介を罵倒することしかできない。


 今、まさに振り下ろされようとされる、今、この瞬間に至るまで全く動じることもなく、只管口をモゴモゴさせていたおじじが突如、半ば閉じかけていた目をカッと見開き、


「カァ―ッ! 」


と、一体このよぼよぼのじじいのどこから発せられたのだろうと思うほどの声と気迫が周囲に放たれた。


 まさに斬ろうとしていた虎之介は至近距離でそれに当てられ、一瞬金縛りにでもかかったのかと思う位、動かなくなった。


 すると、そんなことが無かったかのように、気の抜けたおじじが、

「・・・ペッ」

と痰を吐いた。


 それを見て、虎之介も不思議と何事も無かったように落ち着いて、

「あんなぁ、じじい。そんなとこに、痰吐くなや、汚いやろ」

と注意した。


 空気が一変していた。

 緊迫し、怒気で充満していた空気がおじじの気迫の喝一つで一気に吹き飛んでしまったのだ。


「アホ。下がっとれ」

「はい」


 鬼子母の一言で、さっさと元の席にそそくさと虎之介は戻ると、おじじはフォフォフォと笑い、

「この役立たずのじじいの命を取る気やったんとちゃいますんかいな? 」

と、鬼子母に問いかけた。


「このうちに並ぶ見事な痰吐き見してもろうた。今回は見逃したるわ」

「このバカ孫が、先走った事を言ってもうたみたいやけど、今回は、このじじいに免じて、見逃してやってくだせぇ。さぁ、ご領主様の気の変わらぬうちに早う帰るで」

 そう言って、皆で源太を引きずる様に足早に帰って行った。


(さすがだねえ、郷を束ねてたことはあるよ)

 鬼子母は内心感心しつつ、興味は源太にも向けられた。


「ええねぇ、あの源太とか言うの」

「かか様、あいつ、とと様になるの? 」


(なんで、そうなるっ? )

と市松の心の中のつっこみが入ると同時に、虎之介には鬼子母の正拳が顔面に入っていた。




第二章    落武者狩り



 翌十三日夕刻となった。

 鬼子母の元には、次々と山崎の戦況が伝えられているようだが、いずれの報についても、まだ戦局は硬直状態というものだった。


 実際、戦局が動いたのは午後四時頃で、約三時間の戦闘でほぼ決着が着いたというから、天下分け目の天王山と言われる大戦の割には、蓋を開ければ、ほぼワンサイドゲームだった。


 思えば、同様に天下分け目の関ケ原の合戦も始まってしまえば、非常に短かった。


 ただ、この山崎に合戦に至っては兵力差においても圧倒的で、実際、開戦の前からも勝敗は決していたと言ってもいい。


 ただ、この時間においては、まだ勝敗は決していない。


 鬼子母が気にかけていたのは、当然、勝敗の行方ではなかった。


 勝敗後の両者の動きを気にしていた。

 だが、事態は日も沈み、空も白みかけた飯時の今になっても、まだ動いたという一報が届かないのでやきもきしていた頃、そんな鬼子母の気持ちも知らぬ愛息、虎之介は館中をうろうろして探していた。


「おつるぅー! おつるぅぅー! 」

「なんやっ? やかましなっ! 」

「親方?まだ、つるがおらへんのでっか?」

 市松まで、声をかけて来た。

 こんな熊みたいな男が情けない声を出して館中をうろうろされたら、鬱陶しいと思うのは無理もない。

「そうなんやぁ~。どこ行っとんのやろう? 」

「あぁ、もう情けない。たかが女1人になんちゅうザマや。だいたい、あの女のどこがええねん。ええか、今度、うちらの付く大将が決まったら、武家の娘を嫁に取るんやからね。それまでのつなぎやからな。わかっとるか? 」

「うん。わかっとるで、かか様」

「も、ほんまかいな」

と話してるうちに、他の女中と混じって膳を持ったおつるが来た。


「ほな、帰してくれへん? 迷惑やっ! 」

と虎之介と鬼子母に向かってストレートに言った。


 虎之介は、おつるのストレートな文句に一切答えることもなく、

「おつるぅ~っ」

と、気持ち悪い声を出して甘えて来ようとするが、すかさず、

「寄るな」

の一言でパシィンと頬を思いっきり張られる。


 どうやら、この扱いを受けるのが、虎之介にはいいらしい。

 あれだけどつきまわされてもマザコンな虎之介にとって、暴力的で雑な扱いをしてくる女はむしろ自分に好意があると勘違いしてしまうらしい。


「情けなっ。そら、うちも早いとこあんた追い出したいけどなぁ、このアホがこの調子なもんやからなぁ」


 夕餉の膳も揃い、鬼子母も席につき、煙管に葉を詰めて火をつけ、ぽかりと一服、煙草をふかしたその時に、


「何者じゃっ? こらぁっ! 止まらんかいっ! 」


と、館の外で騒いでいると思うと、縁からいきなり何者かが乱入してきた。


「何者じゃ、わりゃぁっ! 」

 虎之介は楽しみにしていた夕飯に今から口を付けようとした寸前の狼藉に腹を立てたのか、太刀をぶん回すが、狼藉者は身軽にかわす。


「このボケッ! 」

 市松も刀を抜いて斬りかかり、明らかに斬ったはずだが、狼藉者はなんの反応もなく、続けて繰り出した二太刀、三太刀は巧みに躱すと、ひとっ飛びに飛んで鬼子母とおつるの間に入り、鬼子母に斬りかかるが、鬼子母は見切っていて、ひょいと避け煙管で弾く。

 弾いた煙管を翻し、狼藉者の喉元にぴたりと当てた。


 二人はその姿勢を保ったまま、動じることもなく、

「何者や、あんた? 」

鬼子母は眉一つ動かさず、冷静に狼藉者に問いかけた。


 狼藉者はにやりと笑うと翻し、おつるの前に短刀を後ろ手に回し喉元に突きつける。

「おつるっ! このボケェ! 」

 虎之介も、そう怒鳴ったところで手が出せない。


 すると、何故か捕まっているはずのおつるが、

「暫くっ! しばし、・・・動かれるな」

と言った。一瞬、聞き間違いかとも思ったが、間違いなくおつるの口から出た。


「? ・・・へ? おつ・・るちゃ・・ん? 」

 虎之介は状況が呑み込めず、既にパニックで動きが止まっていた。


「構へん。殺ってまいぃな。うちには、縁のない女ややし」

 その点、鬼子母は全く動じることもなかった。

「かか様ぁ~っ」

「うろたえんな、アホ。どんっとしとれ。つるがしゃべっとんのとちゃうわ。傀儡の術か・・・。ほな、この木偶の棒も本体やないな」


「なかなか、肝の据わった人物と見受けた。飯田の鬼子母殿」

「〝同業〟が何か用か? 」

「いかにも」


 鬼子母が木偶の棒と称した通り、今、おつるののど元に刃を突きつけている。


 この狼藉者の正体はただの傀儡くぐつと呼ばれる人形で、術者は遠隔でこれを操っているらしい。


 しかも、この傀儡の術というのは他人の口を乗っ取り話すようだ。

 これが現実にそうしているのか、それとも幻術の類でそう見えているのかはわからない。


 ただ、これを見抜き、術者をして〝同業〟と呼ぶということは鬼子母と呼ばれるこの女もただの元野武士の首領ではないということなのだろう。


 傀儡は懐から書状を出すと、おつるの口を借りてこう続けた。


「仔細はこれに。口では言えぬ」

 鬼子母は「けちくさ」と言って、書状を取るとさっと読み流す。


「かか様・・? 何て? 」

と、心配そうに虎之介が尋ねると、読みつつ鬼子母はふふっと笑うと、

「へぇ・・。うちらに手柄をくれるっちゅうんかい? 」

「ま・・、そういう事になる」

 おつるの口がそう言うと、傀儡は鬼子母から書状を奪う。


「おもろいねぇ。まずは刀引いて姿見せたらどないや? 紙一枚で信用は出来んやろ」

 鬼子母がそう言うと、傀儡はおつるの喉元の刀を引く。


 虎之介は、すぐにおつるを引き離すために、

「おつるぅ~っ」

と甘えた声で抱きつこうとしたら、おつるのカウンターパンチが飛んできた。


「・・・出て来えへん気か? 虎、その木偶の棒、真っ二つにしたれ」

「うん。わかった、かか様」

 おつるが戻れば何も怖くないとばかり、虎之介は鬼子母に従って大太刀を振り上げる。


「・・おっと、そら困る」

と今度は市松の口が勝手に動き出し、市松が傀儡と虎之助の間に入って来た。


「なんやぁ? 」

 虎之介は、またパニックになる。


「さて、これだけでは何とも言えんで、報酬の出所ははっきりしてもらわんと・・・」

「鳶加藤の一族であれば、この術をもって大方分っておられるのではないか? 」


 〝鳶加藤〟の一族?


「それはもう捨てた名や。・・・なるほど、確かこんな術を使う奴がおるいうのは聞いたことあるわ。伊賀者かい? なるほど、ということはそういうことかいな」


「ならば、これで十分。さて、返答や如何に? 」

「ええやろ。おもろそうや。この話、乗った」


「詮索は程々にな。・・忠告はしたぞ。鬼子母殿」

そう市松の口が動いた刹那、傀儡が飛んで、そのまま館の外まで飛び続けて、すっと消えて行った。


 市松は、ぼーっとしてへ垂れこむと、正気を取り戻した。


 鬼子母は、すっと立ち上がると、その場にいる郎党に向けて、


「ええか! 皆を集めぇ! 郷の百姓どもも全員や! 」


「何なんすか?」

 一体、何事かと思って市松は尋ねた。


 鬼子母はさらに大きく声を発した。


「落武者狩や! 武具・鎧、刀剣に槍、弓矢、ありとあらゆるもん出して来んかい! 百姓共には、竹槍持たせや! 今すぐじゃ! 郷中に松明を掲げて街道から道っちゅう道全部封鎖せえっ! 」


 実質的な首領である鬼子母から直接発せられた命令である。


 郎党すべてが一斉に、

「へいっ!!」

と、間髪入れずに応じると共に、慌ただしく動き出した。


「虎―っ! お前も気合入れーやっ! 」

「わかった。こりゃぁーっ、お前ら、気合入れろやっ! 」


 一気に館全体が活気に満ちて、落武者狩り決行の〝触れ〟は直ちに郷全体に伝えられた。


 日本近世史上、恐らく最も謎に満ちた長い夜がこうして始まった。





 小栗栖の郷中に召集の法螺貝が鳴っている。


 長兵衛も、ボロボロの腹当てを付け、竹槍を手に取り、それこそ勇んで小栗栖館に向かおうとしていた。


 源太は、ちょうど畑仕事を終えて、鍬を抱えて帰ってるところで、その長兵衛と出くわした。


「おう、源太! 大変や!」

「何や、お前? その恰好? 何事や? 」

「触れが出とったやろ。今から落武者狩りや」

「落武者狩り? どこの戦のや? 」

「決まっとるやろ。山崎のや」

「山崎? 山崎の戦で、何でこんな所に落武者が来るんや? 」

「知らんがな。郷中の男は飯田党から召集がかかっとる。お前も・・」

「悪いけど俺は行かへん。お前は行って来いや。そやけど、俺は興味がない。侍になる気もない。ましてや、百姓が侍を殺して銭稼ぎなんて、それこそ盗賊と一緒や。あいつらの商売の片棒を担ぐなんぞ、絶対嫌や」

「また、そんなん言うて・・。わかった。ほなええ、俺は弱い者より強い者の方がええ。どないなっても知らんぞ」

「なったらええ」

 源太の返答を聞く間もなく長兵衛は足早に小栗栖館に向かって走って行った。

 源太の言葉も実際聞こえなくてもいい独り言のようなものだった。


 当時の百姓からすれば、源太の考えは非常に稀だろう。

 いや、稀と言うより相当甘い、現実とかけ離れた精神的に幼い理想論と言ってもいい。

 そんな考えでは到底生きてはいけない過酷な時代だ。

 小競り合いのような小規模でも大戦でも、兵糧は欠かせない。

 そんな戦闘が日々あちこちで行われていて、米はいくらあっても足りないくらいだ。

 それこそ、作り手である百姓に行きわたるものでは当然ない。

 領主が負けるようなことがあれば、今度は敵兵による略奪行為が当然の如く行われる。

 それは食料だけに留まらず、人までも略奪対象だった。

 しかも、略奪行為に走っている者たちも元を正せば、兵として徴収、もしくは志願した百姓たちだ。

 奪い奪われ、自らが明日を生きるために持てる者を殺して奪い取るのが、この戦国の世で生きるあらゆる階層・職業の者であれ例外なく常識であった。

 逆に言えば、支配階層である武士の方が知識層でもあるので、まだ道徳的というか一定レベルの倫理観を持っていたとも言える。

 武士道というのは、その後の江戸時代という太平の時代にあくまで精神論として尊ばれたものであり、この時代にはそこまで潔癖な精神論はないにしても、武士一人一人それぞれの美学と呼べる矜持というものはあったと思われる。

 とすれば、この源太の考え方はむしろ当時の知識層(例えば、公家、武家、高僧レベル)でもより高い階層の人間の方が共感を得やすいかもしれない。

 言い換えれば、それだけ世間ズレしていない「世間知らず」の理想論であったということだ。


「そんなに、侍が嫌いか? 」


 すっかり日が落ち、空は白みから濃い青へと変わり、月も星もよりくっきりとしてきていた。

 声がするまで気付かなかったが、田んぼの畔に、僧侶が腰掛けている。

 周りに人がいないので、どう考えても源太に声をかけているのは間違いない。

 見た目で旅の僧というのは暗くてもわかるが、坊主に声を掛けられるほど信心深くもない。

 源太は返事するのをためらっているが、この僧はお構いなしにゆっくり立ち上がり、今度はしっかり源太に向かって話を続けた。


「いやや、済まんの。立ち聞きする気はなかったのじゃが、つい、な」

「坊さんには、関係あれへん」

「それもそうじゃ。ん~、少々頼みがあるんじゃが聞いてくれるか? 」

 うっかり会話をしてしまった。


 源太は、改めて近づいてきたこの坊主の目を見た。


 この時代、僧侶の格好をしていても信用はできない。

 乞食僧や俄か坊主に偽坊主はごまんといる。

 いずれもお恵み目当てか、恵んでやったら最後、殺して全て奪い取る奴もいる。

 ひどい話だと、本職であってもやる僧だっているから全く油断できない。


 まして、見ず知らずの人間に声を掛けて来るなんて、よほどの「世間知らず」か悪僧しかいない。

 この手の人間は、だいたい目を見ればわかる。

 目が死んでいて、妙に血走っていたり、とにかく目の中に多分に狂気を含んでいる。


 薄暗い中でこの坊主の顔がうっすらと見える距離になった。

 五十から六十代といった所だろうか、少し伸びた髪の毛は白髪が多い。

 顔にすすけた汚れがややあって、旅の僧と言うのにも違和感はない。

 何より目だ。澄んでいるとは世辞にも言えないが澱んでもいない。

 まだ生気は孕んで、はっきりしている。


(この坊主は、多分大丈夫だな)

 源太は、とりあえず警戒心を少し緩めた。


「今会うたばかりやで。いきなりかいなっ? 」

「たいしたことじゃない」

「何や? 」

「それはそうと、まずは、家へ案内してくれぬか? どうも、腹が減っては頼み辛い、メシでも食って話すとしよう」


(なんやこの坊主、やっぱりか・・・)

 源太はやたらニコニコして馴れ馴れしく、素直に食い物を恵んでくれと言わず、まるで御馳走してくれそうな言い方でご相伴に預かろうとするこの坊主の言い方で、こいつが怪しい坊主ではないことを確信した。


 悪意のある奴なら、それを隠す為により下手に出るのが常套手段だろう。

 ところが、この坊主は、もしかしたらそれなりの高僧なのかもしれない。

 一定のプライドがあるのだろう。愛想は良いものの「恵んでくれ」とは言えないらしい。


「厚かましい。あんたのメシちゃうやろ。回りくどいこと言わんと、素直にメシ恵んでくれ言うたらええねん」

「ははははは」

 笑っている。

 やっぱり言えないのだ。

「笑ってごまかすな」

 そう言って、この坊主を家に連れ帰ることにした。





 さて、小栗栖館では篝火が多く焚かれ、昨日、源太たちが引き出された大手門の前には郎党が松明を掲げて横一列に整列して、その正面に召集された郷の男たちがそれぞれに武装して集まっていた。


 武装と言っても、当然粗末なものだ。

 実際、百姓たちの目の前に並んだ郎党たちでさえ、どっちが百姓か分からないくらいだ。


 ちっぽけな小領主で元は野盗上がりの連中だから、当然まともな武具なんて持ち合わせちゃいないのだ。

 

 そこへ、虎之介と市松が館から出て来た。

 市松も胴丸を付けているものの、いつの胴丸かわからないくらい古くボロボロだ。


 虎之介に至っては、やはり領主であり一党をまとめる統領だけに粗末なわけにもいかない。

 有り物の甲冑から良いとこどりして独自のカスタマイズしたものだろう。

 さらに、足りないところを獣の毛皮や鳥の羽根などで装飾している。

 立派な体格もあって、それなりに威風堂々たるいで立ちにはなっている。


「これで、揃うたんか? 」

「へい」

 市松が答えた。


「よっしゃ、ほな。おいっ! お前ら、よう聞けっ! 」

「おいっ、こらっ、聞けやっ! 」

「今から、落武者狩りやんどっ! 」

「やんのじゃっ! 」

と、市松が続けたが、そのあとの言葉が肝心の虎之介から出てこない。


「・・・へっ、もう終わりでっかっ? 」

「えっ、あかん? 」

「いや、わけわからんでしょうっ。ここは、バシィッと締めんと」

 求めたものの虎之介のボキャブラリーでは、これが精いっぱいで、結局、

「ほな、バシィッと締めて」

と、丸投げされた。

 気の利いた檄は飛ばせないものの、そこは背筋を伸ばして腕を組み、いかにもという雰囲気だけは出してくれるので、


「・・・そうでっか、ほな。・・・え~」

と、こうなるであろうことを予想していたのだろう。


 場が締まるような檄を市松は用意していた。


「・・・ええかぁっ! 本日、山崎の戦にて、主君織田信長公を裏切った逆臣、明智光秀が、信孝君を総大将とした羽柴秀吉軍に敗れ去った。しかしっ! 仇敵光秀は、いまだ討ち取れず、所領、坂本城へ落ち延びんと、この小栗栖街道を手勢数人のみを連れ通るとの、通達があったっ! これより、我等、小栗栖郷飯田党が、街道を封鎖し、憎き仇、光秀めを待ち伏せし、一気に討ち取らんっ! 見事っ、第一の槍を入れた者には、望みの褒美を取らすっ! せいぜい励むがよいっ! ええかっ! 相手は歴戦の誉れある大将だが、恐るるに足らんっ! 手勢は数人、数に勝るものはないっ! 気合入れろやぁーっ! 」


 さすがに用意していたとは言え、なかなかの檄に自分自身酔いしれている。それに応えるかのように、

「おおーっ! 」

と、郎党・百姓全員もテンションが最高潮に盛り上がり、士気は上がりに上がった。


「カッコええ、ようそんな難しいことペラペラ言えんのぉ」

 虎之介も聞き惚れたようだ。

 市松も苦労して覚えた甲斐がある。


「いやぁ、そうでっか。・・・あれっ?親方、あの間男がおりまへんでっ」

「あ、ほんまや」

 間男とは、おそらく源太の事だろう。


 市松は先頭に立っていた長兵衛を捕まえると、

「おいっ、こらっ! あの・・、ほれ、源太の奴はどうしたっ? 」

 そう聞かれて、長兵衛もさすがに反抗心からの不参加ですとは言えないので、

「えっ?・・いや・・・あの・・、病欠です」

「はぁっ? 病欠ぅ? アホかぁ! 昨日までごっつう元気しとったやないか! ・・・あんなぁ、親方はな全員に召集かけはったんやで。1人でもおらへんかったら、示しがつかへんやろうっ! 」

「すっ・・すんまへんっ! 」


(なんで俺が謝らなあかんねん)

と長兵衛も正直思っただろう。


 そこへ、何故か虎之介が止めに入った。

「まぁ、まぁ待て。ええやないか、来とない奴は来うへんで」

 長兵衛が責められるのは筋違いと思ったのか、いや、明らかにそうではないのだろうが、これには市松も納得ができない。

「えっ? そらちょっと、あかんのとちゃいますのんっ? 」

「ええんじゃっ! もしかしたら、かか様の男になって、俺のとと様になるかもしれへん」


(いや、そらないやろ)

 市松の頭の中で即つっこみが入った。


「そら、ちょぉっと、かんぐり過ぎちゃいます? 」

 口に出すのは少しオブラートに包んだ。

「いいやっ、かか様は本気やったっ! 」

(あかん。想像以上にアホかもしれへん)


 これ以上こんなアホみたいなことに構ってはいられない。

 と思ったら、虎之介も話題を変えた。

「・・・そらそうと、何人か物見に行かせぇや。怪しい奴が来よったら、すぐ知らせぇ! 俺らは、街道沿いの封鎖や。あと他は万が一の為に・・・」

と、あれこれ指示を出した。


 聞いていても、特に違和感なく割と的確に手際よく指示を出している。

 これには、長兵衛すら感心した。

「なんや、アホボンのくせして、えらい気合入れて、手際よう指示出しとるな」

 心の中で言ってるつもり、あまりにも意外な一面だったか、つい口に出してしまった。

 それを聞いた市松が、普通に答えた。

「そら、当たり前や。こういうのは、得意中の得意やしな。元々野伏せりやったから、こんなことばっかしては、物奪ったり、金取ったり、・・・・! 

て、何言わせるんじゃ、こらっ! 早よ、お前も物見に行かんかいっ! 」


 市松は、長兵衛を勢いよく蹴り出す。

「はひ~っ! 」

 長兵衛はそのまま駆け出して行った。


「言うた通りにせぇっ、ええなっ! 」

 一通り段取りを指示し終えた虎之介が市松の元に戻って来たところで、改めて市松は源太の処遇を問い直した。


「ほんまに、あの源太、放っといてええですの? 俺らの留守中に、また、つるとしけ込みよるんとちゃいますか? 」


 そう、源太とつるとの逢瀬は、虎之介と市松の耳にも入っていた。

 だから、二人の間では「間男」で通っていたのだ。


 ということは、当然鬼子母も知っている。

 快くは思ってないものの咎め立てするほどでもないと鬼子母は思っているし、未だにつるは愛息の趣味みたいなもので、嫁という認識ではないから、正直興味も関心もなかった。


 虎之介にしても、鬼子母の許しなく源太をたたっ斬ることもできないし、第一、彼自身、その気がなかった。

 彼にとってみれば、これもつるとの関係の中で彼を燃えさせる一要素という考えである。

 つまるところ、虎之介は現代で言うところの、Mなのだろう。

 外見はどう見てもSなのだが、内面はドMだったのかもしれない。

 いや、ここは彼の名誉の為に、言い換えよう。

 そう、彼は追われる恋より、常に追いかける恋が良いのだった。


「それやったら、今度こそ、俺の手で真っ二つにしたるっ! 」

 部下の前では見栄もあるからこう言うしかない。

 当然、市松はそれを十分知っている。

「そやけど、とと様になるかもしれへんのでしょ? 」

 知っているが故に、ついいたずら心で遊んでしまう。

「あーっ! そやったぁっ! どないしょっ? 」

(おもろい。ほんまに飽きひん)

と思いつつ、

「知りまへん」

と突き放す。

 何よりこれも虎之介は内心喜ぶのを市松は知っている。

「おいっ、こらっ、ちょーっ待ってぇなぁ。そやけど、俺の嫁の男に、かか様が惚れて、俺のとと。なんか、ドロドロやな」

 虎之介は嬉しそうにブツブツ言っていた。





 源太の家では、囲炉裏を囲んで、おじじと源太、そして、あの旅の僧が雑煮を食べていた。


「で、このやかましい坊主は誰じゃいな? 」

「先ほども名乗りましたが、拙僧、比叡山延暦寺の僧で、天海と申す」

「天海やて」

「あ、天海さんかいな」

 どうにもこの調子で、おじじを挟んで会話が進んでいなかった。


「・・・ああ、うまい。そなたは、このおじじと、2人でここに? 」

「んん。まぁ、そないなとこか」

「なんじゃ? 妙に言葉を濁すの。ここの領主にも反抗的なようじゃが、それと何か関係があるのか? 」

「いや、全然。俺の話なんぞ坊さんに話てもしゃぁないし」

 身も蓋もない。


 会話が続かない。


「で、何でこんな所におんの? 」

 そこへ、食い気味に源太が核心の質問に入った。


「おおっ! それじゃそれ! ちと、それで困ったことになってしもうての」

「困ったこと? 」

「うむ、実は、この先の勧修寺にこの経文を届ける所での」

と言って、背負っていた行李から大事そうに桐の書簡を取り出した。


「これは? 」

 源太が訊こうとしたところ、おじじが先に箱に手を伸ばしていた。

「なんとも、見るからにありがたそうなものやのぉ」

「いかぁーんっ! 」

 天海がいきなり大声を出して、おじじの手を払い、箱を抱きかかえた。

「いかんいかんっ! 一体、何をする? 」

 おじじは、天海のあまりの狼狽ぶりに目を丸くして、

「どないありがたい経文かと思うたもんじゃから」

と言うと、天海は未だに落ち着く事ができず、息を荒くして、

「摂家など、それはそれは格の高いお公家様や皇室の方にまでお見せする経文じゃ。いくらなんでも見せるわけにいかん」


「で、それが、どう困んねん? 」

 源太にとっては、それがどういうものかなどに興味はない。


「いや、じゃから。勧修寺に参るには、この街道を通らねばならぬ。じゃが、今は例の戦で落武者狩りをしておるのであろう? 」

「元野伏せりのアホやけど、さすがにほんまもんの坊主は手出さへんと思うけどな」

「あの信長の家来だぞ。坊主だろうがお構いなしに殺しまくって来た奴の。いやいや、違う。ワシの心配ではなくて、これじゃこれっ! 」

「だから字も読めへんアホばかりやから心配いらんのとちゃう」

 それを聞くと天海は、はぁと溜息をつき、さらに深刻な顔をした。

「字が読めんのか。なおさら困ったのぉ。ならばこの経文のありがたさがわからず、偉そうに改めるとか言うて捨てるとも言いかねん」

「ああ、そりゃあり得るわ」

 確かに、あの虎之介の場合、その光景はありありと想像ができた。


「そこでよ、落武者狩りをあれほど嫌がるお前にお願いしたいのじゃ。ここはひとつ、協力してほしいのだ」

「協力・・・? なぁ? ・・・協力したら、何かしてくれるのか? 」

「ん、まぁ。こうして飯も頂いておるし。もちろん、タダとは言わん」

「なら、この土地の領主を替えてくれって言うのも? 」

「そりゃ、まぁ、容易かろう。ここの飯田党も元々信長公に臣従した余所者じゃから、正規の領主でもないし、信長公亡き今、置いとくこともないと思うしの」


 それを聞くと、源太はみるみるやる気が出て来た。

「よし、じゃ、協力する。いいか、おじじ? 」

 一応、おじじの許可を取るのも、また源太らしい。本当にまじめで律儀な青年なのだ。


「天海殿、正確には何と申される? 」

 おじじは、ここで源太の質問には返さず、意図がよく分からない確認をした。

「拙僧、南光坊、南光坊天海と申す」

 天海もまたこの意図の分からない質問に疑問を呈すことなく、普通に即答した。


「南光坊・・・。なるほど、心得た」

 おじじはそう言うと、改めて源太の確認に答えるように源太に向かって、 

「源太や、まずは、この僧正の申すことを、よぉ~く聞いて、逆らうことのないようにせぇよ」

と言った。

 

 この時は、源太も多少このやり取りに違和感を覚えたが、特に気に留めることも無かった。

「わかった。ほな、坊さん、俺、何したらええ? 」


 こうして、天海は源太を伴って、封鎖された街道を通る為に家を出た。





 街道は封鎖され、道行く者は厳しく詮議を受けて許されれば通行できる。


 ただ問題なのはその詮議をするのが、ここの場合、あの虎之介と市松だった。


 市松はともかく、虎之介の場合、詮議といっても何を詮議するのかがわからない。

 それどころか詮議そのものがわからない。

 通るのは簡単そうで極めて難しいかもしれない。

 とにかく、虎之介の気分次第なのだ。


 長兵衛が、天海と弥藤次を陣幕を張った詮議の場まで通して来た。


 長兵衛からしてみれば、源太のせいで詰められもしたのにこんなところへ訳の分からん坊主と同伴して来たことには文句の一つも言いたくなるのだろう。

 終始ぶすっとしながらも、天海に対しては、

「ここで待っとけ、言うてはるんで、とりあえず」

とそれなりに対応する。


「いやいや、痛み入ります」

 天海も、とりあえず丁寧に返す。


 しかし、長兵衛は後ろに控えた源太に寄って肩をガシと掴むと、耳元に顔を寄せ小声ではあるものの声は荒く、

「お前、来うへん言うとったやないか? 何や、この坊さん? 」

 当然、源太はそんな長兵衛のイライラは知らない。


「何でも、偉い坊主やそうや。これには、郷の未来がかかっとる」

「何、訳わからん事言うとんねん。悪いこと言わへんから、お前も落武者狩りに参加せえよ」


(そうでないと俺まで立場が悪くなるねん)

と言いたいのだが、源太はそこまでの事情には気が回らない。


「嫌や、言うとるやろ」

 どこまで行っても平行線のまま、市松が陣幕に入って来た。


 長兵衛は仕方なく下がり、天海と源太は平伏した。


「親方様が直々に詮議致される。嘘偽りなく申されよ」


 そう言うと、重々しく虎之介が入って来て、床几にどかっと座る。


「ワシが、この小栗栖郷を預かる飯田党の統領、飯田虎之介である。ここいらでは、「鬼の虎之介」。略して「鬼虎」「鬼虎」言うて、それはそれは」


(アホのボンボン、略して「アホボン」の間違いやろ)

 口に出して言いたいところだが、そうなると自分のせいで無茶苦茶になる。源太は目的の為にここは我慢した。


「いや、親方、親方っ。自己紹介はええですから」

「あ? ああ、そう。・・・では、まず、何処の誰か名乗られよ」

 なんとも、先行き不安な出だしである。


「は。拙僧、比叡山延暦寺の僧、南光坊天海と申す。去る叡山焼き討ちの折、命からがら生き延び、諸国を流浪し、叡山復興の為、勧進の旅をしております」


「ふぅ~・・ん」


 虎之介のリアクションに早くも危うさを感じたのだろう。

 市松が耳打ちした。

「・・・あの・・・、わかってはります? 」

「なんとなく偉いのかな・・、とだけ思った」

 率直な感想だった。


 これを聞いて市松は、しばらく自分が質問して行こうと思ったのだろう。


「ところで、何処に向われる? 」

と尋ねた。


 しかし、天海が答えるより先についうっかり源太が、

「それさっき言いましたやんか」

と言ってしまった。


 それを聞くまで、源太の存在には気付かなかったのだろう。

 それもそのはずで、実は虎之介も市松も公的な詮議など初めてのことで正直緊張していたのだ。

 

 よく考えてみれば、こんな夜にこんなところをどうしても通りたい人間などそういない。

 皆、厄介事は面倒だし道は他にもある多少迂回したところで、現代のように一分一秒を争うほどの用事でもないのだ。


 実際、封鎖はいわゆるポーズでしかない。

 求める敵は、当然、こんな道を堂々と通るわけがない。

 道なき道を進んでるに違いないのだ。

 道や街道は封鎖する、それだけで十分なのであって、いざ本当に詮議するなんてことはよほどのことがない限りない。

 ただ、いつの時代でも通行止めをわかって素直に引き返さない奴はいるものなのだ。


 とはいえ、今、その緊張から一瞬解かれ、源太の存在に気付いた。

 市松は思わず、

「あ・・、とと様」

と、言ってしまった。


「はっ? 」


 当然、言われた源太は、何のことか分からない。

 さらに虎之介も気付いて、

「ほんまや、とと様や。何でおんねん? 」

「はぁっ? 」

 源太はより意味が分からない。


 〝とと様〟の意味より、今は何故ここにいるのかという質問が重要なので理解した天海がフォローした。


「この者、この郷から私の案内役をしております。私が無理に頼み込んでしもうて、郷を上げての大事にも参加できないのでございます」


 ナイスフォローだった。

 落武者狩り欠席の理由も全て自分のせいだ、としたことで源太の立場も長兵衛の立場も後々悪くならないように配慮したのだ。


「あぁ、あっそ」

 これを聞いた虎之介も、事情が分かってそう答えるしかない。


「で、一体、何の用があって、勸修寺に向われる」

 市松は質問を続けた。

「これをお届けする為でございます」

と言って、天海は桐の箱を出した。

「何、それ? 」

 虎之介が訊いた。


「そもそも延暦寺に所蔵しておった門外不出の秘蔵の経文。叡山の焼き討ちを避ける為、拙僧が持ち出しました。御存知とは存ずるが、そもそも延暦寺の座主は、親王殿下が代々お就きあそばす程、天皇家ともゆかりは深うござる。近年、この経文のありかを帝がお尋ねになられ、前の関白近衛前久公のご命令により、中納言勧修寺晴豊殿がお探しになられていた所、この拙僧が持っていることを知られ、その要請をもって、勧修寺に向う処でございます」


 話の途中から、虎之介は「うん」とか「あ、そう」とか「なるほどね」を繰り返し、目はどこか上の空といった具合だった。


 再び、心配になって市松が声を掛けた。

「あの、親方、わかってはります? 」

「なんかクラクラしてきたけど、なんとなく偉いおっさんいうのは感じた」

「よかった。そこまでわかってもろうたら、もう大丈夫ですわ」

 虎之介は急に市松に縋りつくと、

「もう、ええか? もうええやろ? わし、もう限界や」

 何がどう限界で何に対していっぱいいっぱいになっているのかさっぱりわからないが、市松は励ました。

「もう少し頑張っとくんなはれ。あと一息ですわ」

 一体この二人のゴールはどこにあるのだろうか。


「あのぉ・・、もうよろしいですか? 」

 いい加減面倒になって来た源太が言った。


「お前が言うなっ! まだやっ! 」

 天海すら面倒になって来たのか、

「まだ、何かお尋ねで? 」

 少し辟易したかのように尋ねた。


「いや、あの、ちょー待ってや。あと一つやさかい」

 二人の雰囲気を察した市松が虎之介に手で促した。

「おほん。その・・・経文とやらを、とりあえず改めさせて・・・」


(ああ、やっぱり来たか)

 源太は想定した質問が来たことで、これに対して天海がどう返すつもりなのかは事前にも聞いていない。


「それは、難しい話」

と天海は返した。


(見せへんつもりなんか? )


 源太がそう思ったのと同じく、市松も、

「見せれへんとはどういうことか? 」

と問い質した。

「見せれぬとは申しておらぬ。難しいと申しただけ」

 天海はそう返した。


「どう違うんじゃ? 」


「先刻申したように門外不出の天台の至宝なれば、それはそれは、目にするだけでも恐れ多いもの。それなりのご身分の方でなくば、目を焼き、三代に渡り祟られる謂れあるものにござれば・・・」


 正直、耳を疑うような下手な言い訳である。


 しかし、そもそもこういう場が苦手な虎之介にしてみれば、とにかく早く終わらせたいのが本音で、よほど怪しくなければ、いや、もう確信できるほどでなければ通してしまえという思いであるだろうから、こんな言い訳でも通用してしまう。


「ああ、もうええ、もうええっ、見せれへんのやったら。せめて、詠んで聞かせて」

「それもそれで、大変なことでございますぞ」

「今度は何? 」

「そもそも、この経文は、大乗密教の秘伝。その長さはゆうに一昼夜かけて詠み上げる物でござれば」

「ほな、ちょっとだけ」

「喝―っ! 何たる事を申す! このありがたき経文にちょっとなどと! そもそも、尋問のついでに聞くような経では決してない! 」


(もうええから素直に見せたらええのに・・・)


と源太も思うほど、もはやもう屁理屈でしかない言い訳の連続で何が何でも現物見せたくないのがありありとわかってしまい、余計怪しくなってしまうはずなのだが、


「ああっ! もうええ、もうええっ! そもそもそもそもそもそも、そもそも教の教祖か、わりゃぁっ! 早よ、通れっ! 頭が痛うなって、ガッツンガッツンしとるわっ! 」


 市松はついに限界を超えた虎之介がこうなった以上、これ以上の詮議は無理だと思った。


「えっ、じゃっ? 」

 源太がもう一度、確認した。

「通ってよしっ! 」

 虎之介が改めて言った。


 天海と源太が立ち上がり、虎之介と市松に一礼して陣幕から出ようとした所、源太だけが市松に捕まり、

「お前、何しとんねん? 」

「は? 」

「もう用済んだやろ。おのれはここから落武者狩りや」

「いや、まだありますねん」


 実際の所、天海との約束はこの段階で終了のはずだから市松の言ってる方が正解なのだが、もとより落武者狩り不参加を決め込んでる源太からすれば、当然天海の言ったアリバイに乗っかる気だった。

 ただ、さらにそこに虎之介まで加わって、

「ない。あんな坊さん連れて来よって、この俺の頭を破裂さす気かっ! 」

「いや、そんなん、知りませんやん」


 確かにそこはもう単なる言いがかりだ。

 しかし、二人がかりとなると、さすがに源太も分が悪い。


「いやいや待たれよ。この者は領界までの道案内をするという約束。申し訳ないが、今しばらくお借りしたい」

 見かねた天海が、やっとフォローしてくれた。


「あかん! 通すのは通した。あとこいつをどうしようが勝手やろっ! 」

 虎之介は即座に返した。


 当の本人には理屈なんてないのだろうが、好き嫌いは別にしても源太は自分の領民である。

 その領主に断りなく勝手に仕事を頼むのも越権行為だし、まして天海の話した源太の事情からすれば、その依頼した仕事も済んだのだから、領主である虎之介の言うことは確かに筋が通っている。


「そうじゃっ! そもそも、そんなことなら勧修寺殿から、わしらの所にそれなりの使いが来てもおかしないやろうがっ! 」

 虎之介の言葉に乗っかって市松もまた至極尤もな指摘をした。

 ここに至って、二人して極めてまともな指摘をしてきた。


(ああ、ほら言わんこっちゃない。折角通れたのに俺がいることでややこしいことになってもうたわ)

 源太も源太で他人事のように思う。


 しかし、ここに来て正論をぶつけられるとは思わなかった。

 もう通してもらえたとすっかり安心してただけに天海はどうこれを切り抜けるのかと思ったら、


「控えよっ! そもそも、この僧は王城鎮護の要、叡山にて阿舎利という位にあるっ! まして、帝の命にてこの経文を届ける役目を受けた拙僧は、そこもとらごとき者共らに四の五の咎めを受ける謂れもないわっ! 」

 なんと開き直ってキレだした。 

 それこそ、今までの比較的落ち着いた口調とは打って変わって、かなり激高している。


 強気で短気な虎之介も天海の余りの逆ギレっぷりに圧倒されて少し引いている。


 天海の勢いは止まらない、箱を持って、二人の目の前に箱の上蓋部分を見せつけ、

「控えぃっ! この箱にあるは紛れも無き菊のご紋ぞ。この下郎! 頭が高い! 控えおろう! 」

 

 そう、上蓋には確かに天皇家を現す菊の紋が打ってある。


 虎之介にしても、市松にしても今まで生きてきて菊の紋を目にすることなど無かったであろう。


 ただ、それがどれだけ高尚な物かぐらいは、いや、虎之介はともかく少なくとも市松にはわかるだろう。


「控えまひょ。こら本物や」

 市松は虎之介を強引に座らせ、自身と共に虎之介の頭を持って強引に平伏させた。


 当然、本来はさらに下の層にいる源太などは畏れ多いと数歩下がって平伏すべきところなのかもしれないが、とにかく天海の逆ギレっぷりに茫然としていた。


「さ、源太。来るがよい」

と、天海から声がかかってようやく「は・・、はい」と空返事して、天海について陣幕を出た。



 さて、天海に完敗した形になってしまった二人は下げた頭を上げるやいなや、

「あーっ! むかつくぅ! この怒り、どこに向けたろ! 」

虎之介は天を仰いで絶叫した。


 市松は即座に、

「当然、明智光秀に決まってますがな」

と言った。

 感心するほど前向きな男である。


「よっしゃぁーっ! ギッタンギッタンにしたるっ! 」

 それを聞いた虎之介も、口惜しさをバネに俄然やる気を出して立ち上がる。


 当然、二人は通行人の詮議なんていう面倒な事は末端の手下に丸投げして、この地に来るであろう明智光秀捕殺のみを目的に山の間道や獣道などの探索に重点を置くことにした。





第四章 明智光秀



 陣幕を抜けて街道を足早に進んだ天海と源太は、ようやく勸修寺の寺領に入った。


 少しばかりほっとしたのか、源太は詮議の場で感じた疑問を天海に尋ねた。

 

「あの・・・、お坊さん。その箱、大層に持ってるけど、中身無いんと違います? 」

「・・・なぜ、そう思う? 」

 質問の意図がわかってか、天海は少しいたずらっぽく笑った。


「よかろう。ならば特別にそなたには見せて進ぜよう」

 天海は箱を出して、なんの躊躇もなく、蓋を開けた。


 慌てたのは源太の方だ。

 あれだけ眼が潰れるだの言っていたからそれがハッタリだと思っていても、一応心の準備がいる。


 天海もそれが分かっているから、わざとしているのだろう。

「ほれ、見よ、源太。」

 源太は恐る恐る見た。

 見た瞬間に思ってもいない、いや、もしかしたら入っているかもしれない物がそこに入っていた。


 箱いっぱいに、大きく図太い巻物が収まっていて、巻物にはおそらくこの経典と思われるタイトルが書いてある。

 が、当然源太には読めない。

 と、わかったと同時に源太は必死に目を抑えた。


 それを見て思った通りのリアクションだったのか、天海は大笑いした。


「いや心配いらんぞ。眼が潰れるというはさすがにない。ただの脅しじゃ」

「そうなんか・・・。やっぱりそうやと思った。せやけど中身がちゃんとあるんやったら、あないな事せんと、見せたったらもっと、すんなり行けたんと違うんか? 」


「逆じゃな」

 天海は答えた。


 天海が言うには、この経典は「大熾盛光法」という国家鎮護の修法を記したもので同様の真言の修法「大元帥法」と並ぶほどものだという。


 源太にしてみれば、そんなことを聞いてもチンプンカンプンだろう。


 当然、それは、虎之介や市松にも言える。


 要するに、見せたところでわからんし、説明したところでわからない。

 逆に易々と見せてしまうことで価値が下がり、当初の懸念通り没収とかならまだましだが、最悪破くとか捨てられる可能性もある。


 何としても守らねばならない物はできるだけ値打ちを付けて、最後の最後まで相手に姿を見せないのが一番だと言う。


「へえ・・・。大したもんやな」


 源太は感心したものの、そこまで交渉上手であれば猶更、もう一つの疑問が湧いて出る。


「こんなんやったら俺がおる必要なかったんとちゃいます? 」


 そう、要らないはずだ。

 まして余計に面倒になっただけでしかない。


「ん、何じゃ、あの尋問なぞの為にそなたに付いて来てもらった訳ではないぞ」

「えっ、違うんすか? 」

「そなたの仕事は、これからだ」

 天海は、ここからが本当の仕事だと言う。


「とても、大事な仕事じゃ。おそらく、ここから一里程向こうにおるだろう。この山間の山道を抜ければ、落武者狩りに出くわす前に会えるだろう」


 話が見えない。


 源太は、誰のことを言っているのか、問い直した。


「ここまで言うたらわかるであろう。明智日向守殿じゃ」


「はぁ~っ? 」


「そなたには、これよりこの手紙を届けてもらう」


 そう言うと、小さく畳んで結んである手紙を源太の手に強引に握らせた。


 未だに話が見えずただ狼狽える源太に対して、天海は源太の肩をガシと掴み、

「わからぬか。織田信長は、我等叡山の僧にとってみれば、大仇敵じゃ。確かに仏道に背いた悪僧が溢れんが程乱れておったが、それでも、根本中堂に至るまで焼き払い、至宝とも言うべき数々の経典、仏像、仏典、書画までも紅蓮の炎に包み込み、女、子供に至るまで容赦なく皆殺しにしよった。あの地獄絵図はいまだ忘れられぬ。思えば、我等のようにあの魔王に無慈悲にも踏み潰された者共は数限りなし。光秀殿はあの魔王に仏罰を下すという我等の望みを叶えて下さった。こんな所で、あのような、愚か者に殺させては断じてならぬお人なのだ、わかるか? 源太? 」


 興奮気味に話すが、その話は淀みが無かった。


「は・・・はぁ、わかります」


 おそらく天海の正直な気持ちなのだろうというのは理解できた。

 それだけ明智光秀を救いたいのだ。


「頼めるか? ・・いやっ、頼む! 光秀殿を救ってくれ! 」

 かなり熱っぽく迫って来られた。


 正直、おっさんにこれだけ熱っぽく迫られるのはかなり暑苦しいし、うざい。

 ただ、源太にしても信長には個人的なことも含めて思う所はあった。


 彼からしてみれば、明智光秀もまた信長と同類である。

 救うべき命とは到底思えない。

 天海も、うんと言ってくれない源太の心の内を察してさらに付け加えた。


「聞け。聞くのだ、源太。これは、はじめにそなたと交わした約束じゃ、この勸修寺領まででよい。ここまでお連れすれば、朝廷を通じて、飯田党をこの地より追い出して進ぜる。この菊の紋が何よりの証拠じゃ。わしにはそれができる。わしを信じろ。それに、考えても見よ、このまま、光秀殿一行と、飯田党が出くわせば、必ず殺し合いじゃ。飯田党の連中が率先して前に出るとも限らん。恩賞欲しさに郷の者たちが前に出れば、間違いなく数十人は命を落とすことになる。それを阻止するには、落武者狩りを避け、無事この地にお連れする以外にない。それで、皆が救われるのだ」


 これを聞くと、さすがに源太も受けざるを得なくなってくる。


「・・・わかりました。行ってきます」

「頼む・・・」


 源太は握った手紙を懐に、街道をまた郷に向け戻って行った。


 天海は源太をしばらく見送ると、笠を被り、また街道を足早に進んだ。





 街道を逆に引き返して来た源太は二町程行くと、今度は山へ向かう山道に入り、さらに細い間道を抜けて行った。


 竹藪が多い本経寺という法華宗の寺の脇道に出る。

 さらに進むと分かれ道となり、広い道を行くと小栗栖館に繋がる。

 細い道は山手になりちょうど館の裏側を抜けていく。

 源太は道々、落武者狩りの捜索隊に注意しながら進んだ。


「よかった。ここまではまだ手が回っていないみたいや」


 そのまままっすぐ行くと木幡道という伏見からの山越えの道に出て、その道を下り湿地帯の手前で小栗栖の街道に変わる。


 なぜ、明智光秀一行がこの小栗栖を通ることがわかるのか、源太には一向にわからない。


 それでも一応小栗栖を起点に山崎からの逃走ルートを自分なりに考えてみた。


 天海の言うには、一団は夜に乙訓の勝龍寺城から脱出、普通に考えれば桂川沿いに上るルートだが、恐らくそこは封鎖されている。

 都へのルートもおよそ封鎖されていると考えれば、淀川から宇治川を使って伏見に入り、奈良街道を抜けて山科に入る。


 坂本へはそこからまっすぐ山伝いに北上する。

 山科は寺社や貴族の持つ荘園が多く、朝廷や貴族の多くに顔が効く光秀なら抜けるのは容易だ。


 小栗栖を抜ければ、すぐ山科である。


 封鎖されているであろう主な街道筋を避けての最短ルートで考えると、

(なるほど、必ずここを通るっちゅう算段も納得いくな)


 しかも、周辺の小領主や土豪などと比べても、確実にバカと思う虎之介の治める地だ。

 知恵を使って、だましだまし抜ければ、何とかなりそうと考えるのも頷ける。


 弘法大師が杖をついて水が湧いたという湧水地がある。

 そこを通り過ぎると、また分かれ道になっている。

 木幡道から大岩神社の参道が伸びていて、その参道がこの道と繋がっている。


 源太の狙いはその参道だ。

 参道から大岩神社を抜けると、深草の少将の百夜通いで知られる大岩街道にぶち当たる。

 そこからなら小栗栖を通らずに勸修寺に抜けられる。

 約束通りなら大岩神社まで道案内すれば、それで果たしたことになる。

 あとのことはどうなろうと知ったことではない。


「意外と楽勝や」


 天海の約束も守れて、義理も通せる。

 郷の皆の命も救われ、約束の報酬として飯田党も追い出せる。

 全てがウィンウィンだ。


 そんなことを巡らせてると、例の弘法大師の湧水地に来た。

 もはや夜、月明りはあるものの山道である。

 

 地元で慣れてる源太ですら、足元はおぼつかない。


 暗がりの向こうにうっすらと人影の集団を見つけた。

 水場で一時の休息をしているようだ。

 不慣れな山道をよくぞまあこんなところまで来たものだと、源太は感心した。


「そこの一団、待ったぁっ! 」

と大声を出すと、驚かせてしまい一刀のもとに斬り殺される可能性もある。


 相手はただでさえビクビクしているに違いない。

 さらに、すでにここは一応小栗栖郷の中だ。

 いつ、ここに落武者狩りの一団が来るとも限らない。

 大きい声を掛けるのはどちらにしても得策ではない。

 しかし、かと言って、小声で近づいても警戒してる彼らからすれば脊髄反射で斬られることだってある。


(どないしょう・・・)


とあれこれ考えていたが、例の一団はすでにゆっくりと近づいて来る源太に気付いていた。


 一人を中心に守るようにして刀の柄に手をかけ警戒しながら、そのうち一人が小さな声で、

「そこの者、何者か? 」

と源太に向けて問いかけた。


 話しかけるのを悩んでいた時に不意に向こうから話しかけられて少し慌てた。


「あっ、あの、その・・・そや、・・こ・・、これ」

 源太は、天海から預かった手紙を懐から出すが、暗がりだから相手には全く見えない。


 すると、それを聞いて、中心にいた人物が身を乗り出す。

「それは、天海僧正より預かったのか? 」


「そや、そう、これを渡してくれと頼まれたんや」


 頭のいい人間はとにかく話が早くて助かる。

 余計な説明をしなくてもいいから回りくどくない。


「よし、持ってくるがよい」

 中心にいた人物はそう言った。


「殿? 」

 傍らにいた武士が諫めたが、

「構わぬ、持って参れ」

と、手招いた。


 警戒を怠らない周囲の侍たちに源太は、恐る恐る中心の人物に近づき、手紙を渡そうとしたが、すかさず傍らの侍が取って源太を押し戻した。


 傍らの侍が手紙を中心の人物に渡す。

 人物は手紙を開けるが、暗がりだから当然読めない。

 まだ月明りの差す明るい所を探し、光にかざすように手紙を見る。


 手紙は、そういう状況も考慮してるのか、一文字だけ大きく書かれているようだ。

 なんの字なのかはさすがに源太にはわからない。


 月明りで見えたその人物は、敗残の将とはいえ、立派な甲冑を身に纏い、白地に紺の柄で背中には桔梗の紋の刺繍が入った陣羽織を着ている。


 兜は当時変わり兜が流行っていたにもかかわらず、金色の桔梗の前立てが月の光できらきらしている以外は特徴のない質素なものだった。

 兜の庇が陰になり目まではわからないが、蓄えた髭はほぼ白い初老の人物である。


(これが、あの明智光秀か・・・)


 どう考えても、この中で一番偉いだろうから、この人物が明智光秀と考えていいだろう。





「何と? 」

 控えていた侍が光秀と思える人物に尋ねた。


 この侍、兜はしておらず、引立て烏帽子に鉢巻、胴丸を着た軽装だ。

 しかも月明りで見えた顔は、源太とそう歳が変わらない若侍だった。


「関を越えられたようじゃ」

「左様ですか」

と何かこの手紙を待っていたようで、この一報に安堵したような感じだ。


「・・・そなた、名を何と申す? 」

と光秀と思しき人物が、源太に尋ねた。


「げ・・・源太にございます」

 名を聞くと、しばらく間を開けて、

「道案内を頼まれたか? 」

と尋ねた。


「そや、この道を戻って分かれ道を山へ続く参道へ向かえば、山科に続く大岩街道に出られます」

「大岩街道・・・?おお、深草少将の百夜通いの道か? 」

と光秀は即座に行ったが、当然言われても源太は知らないので、何ともリアクションは取れない。


 部下たちも、その光秀の言葉には乗っかることなく、

「まずは勧修寺まで、いかほどか? 」

と源太に尋ねた。


「一里もないくらいやないですか」

「一里もない・・・すぐそこだな」

「うむ、なれば、ここで二手に分かれよう。そなたらはこの源太の案内でそちらへ参れ、我等はこのまま街道を行こう」


 光秀が意味の分からない提案をしてきた。

 源太からすれば、本末転倒甚だしい話だ。


「ちょっ、ちょう待ってくれや。俺は坊さんの言い付けで」

「わかっておる」

 光秀は食い気味に答えた。


「わかってへんっ! この先には小栗栖館の飯田党が落武者狩りを」

「だから、わかっておるっ! 」

 今度は若侍が強めに言って来た。


 こうなると、また源太に火が付いた。

「ああっ? わかっとって何でわざわざそっちに行くねん。あんたら、アホとちゃうかっ? 」


 相手がどんなに偉かろうが、納得できない、彼なりに理屈に合わないことがあると、自制が効かなくなるのがこの若者の悪い癖だ。


「なにを! この百姓っ! 誰に口をきいておるかっ! 」

 若侍がキレた。

 そりゃそうだろう、身分が違い過ぎる。


「やめんか、脇坂」

 光秀が諫めた。この若侍は脇坂というようだ。


「源太の申す事はもっともじゃ。きちんと話さねばわからぬ」

「し・・、しかし」

「家臣が無礼を申した、お主の申す事いちいち尤も。なれど、我等、敗残の将。生きるも死ぬも天命と定め、このように恥じを忍んで落ち延びておる。百姓の手に落ちようとも、ここは正々堂々と参りたい」


 なんと、無礼な一百姓相手に数万の兵を率いる将がなんと丁寧に話すものであろうか。

 しかも、この人物はちゃんと名前も言ってくれた。

 比べてもなんなのだが、どこぞの領主は「われ」だの「間男」だの「とと様」だの訳の分からない呼称を好き放題に言い、まともに名前で呼ばれた記憶がない。


 しかし、火が付いた源太はそんな事だけではついた火は消えない。


「訳分からん。武士やなんやかんや、俺にはさっぱりわからへん」

「おのれ、百姓の分際で、殿に何を申すかっ! 」

 さすがに脇坂という若侍もこの口の利き様には黙っていられない。

 フォローするわけではないが、この場合、脇坂がキレるのも無理はない。


 現代においても、初対面でしかも三倍近く歳の差があり、且つ社会的地位が明らかに違う相手に、この口の利き様はさすがに無礼だ。


 まして身分に厳しいこの時代であれば、第一声で斬り捨てられても文句は言えない。

 明らかに光秀の対応がおかしいのだ。


 他の家臣たちは光秀が押さえているし、脇坂が吠えているので敢て何も言ってはいないが明らかに耐えている。


 その甘い対応の為か、源太は脇坂の言葉に食って掛かる。


「百姓の分際で悪かったのう! 武士がなんぼのもんじゃ! 死ぬんが偉いか知らんけど、助かった命を粗末にすな! 俺に言わせりゃアホや」


 脇坂はわなわなと震え出して、もう刀に手がかかっている。

「まだ、言うかっ! 」


「待て、待たぬか! 構わぬと申しておる。控えよ、脇坂。・・・源太・・・。何故、我等を助ける、お主、小栗栖の村の者であろう?さらに申せば、おそらく、侍をかなり嫌っておる様子。ならば得心いかぬ。我等が如何なることになろうとも、そもそもお主には関係ない話」


 確かにその通り。

 本心からどうでもいいと思っている。


 彼を動かし、下手な説得までしようとしているのは、ひとえに天海との約束と郷人の安全の為だ。


「あんた、明智光秀様やろ? 」

「・・・。いかにも」


 光秀は、少し間を開けたにしても、あまりにも素直に認めた。


 脇坂含め家臣たちもこれにはさすがに唖然としている。


「落武者狩り言うても、郷の者も無理矢理駆り出されとる。あんたらは、武士の面子とかで殺しあって勝手に死んだらええかもしれんけど。その巻き添え食うんは、いつも、弱い百姓や。厳しい年貢の取り立てをして、戦と言うては人を駆り出し、邪魔や言うて人の家は燃やす、田畑は踏みつけにして荒らし放題、そのくせ、やれ年貢が少ないなどと言っては同じ事の繰り返しや。ええかげんにしてくれって言うとんねん」


「何をっ? そもそも我等は、お主ら民の為に戦って」

 これには脇坂が黙っていなかった。


 武士の起源は領地の自警団である。つまり、無法な略奪者・侵略者から領地・領民・作物を守る為に戦う者たちだ。

 この基本的なスタンスは、武士が誕生してから約800年経とうかというこの時代でも変わってはいない。


「ぬかせっ! 俺らの為なんぞ、軽々しゅうぬかすなっ! 」

 

 ただ、これについては源太の言うことも決して間違ってはいない。


 領地・領民・作物の為に戦うという武士の大義名分はあっても、武士という存在が余りにも強くなりすぎたせいで自分の立場を勘違いしてしまう者も増えて来た。

 私腹を肥やす為、極めて私的な事情の為に戦争を繰り返す者が多くなり、大義無き戦いで奪い奪われを繰り返す内に混沌とした時代が百年近く続いている。

 武士も百姓もそんな理不尽で過酷な毎日を生まれたときから強いられている。

 地獄のような世界を生き抜く為なら、道理や倫理なんてものは必要もなくなるから、またそこに戦いの理由が生まれる。

 どこまでも続く負の連鎖だ。


 それを強制終了させる為に動いていたのが、結果的に織田信長だった。


 本人にその意図があったのかはわからないが、それを信じて付いて行った者も少なくない。

 ただ、余りにも苛烈で容赦のない強制終了のやり方に付いて行けず脱落する者、反抗する者、求める世界に違いがあった者も多くいたのも仕方のないことだ。


 そして、それは今ここにいる光秀もまた、その一人であったのだろう。


 光秀は源太の言葉を聞いて、その心に去来するものがあったのか、思わず崩れるように地面に両手をついた。


 端から見れば源太に土下座しているようにも見える。


「殿っ? 」

 脇坂ら家臣たちは、主君が百姓に手を付いている状況に、ただただ、狼狽している。


「済まぬ。我等武士がお主に迷惑を掛けたようじゃ。それ程憎む武士にも関わらず、お主は僧正との約束と郷人の安全の為、儂を生かそうとしてくれておるのだな。それを知らず勝手を申した、申し訳ない」

 生かそうとする切実な思いでもって、極めて無礼で不躾でぶっきらぼうな説得ではあったが、なんとか源太の真意は伝わったみたいだ。

 ひとえに光秀の懐と広さと高い理想に起因するところが大きかったのは間違いない。


 そして、それは源太もわかっていた。

 光秀に向かって放った暴言と無礼を詫びるように数歩下がって平伏した。


「・・・いや、こちらこそ。すんませんでした。なんか、八つ当たりしたみたいで。・・・坊さんが言うた通りのお人や。ほな、俺の言う事、聞いてくれはりますか? 」


 光秀は、少し困った顔をして、

「それじゃが、仔細あって訳は言えぬが、我らはどうあっても小栗栖を通らねばならぬ。これは天海僧正との約束でもある」


「坊さんとの? 」


「左様、ただ、坂本へも仔細を伝えねばならぬ。よって、この者たちには、そなたの言う道を使って行ってもらう」

「いやいや、せやからそれやったら意味がないって」

「いや、だからそこでじゃ」


「は? 」


「この道行きも、我等を連れてでは容易と行かぬであろう。もし、落武者狩りの一団に出くわすことあれば、その時は、さすがに手向かうことになろう、そうなっては源太、お主の郷の者も傷つけてしまう。そこで、源太、その折はお主の手で儂を討つが良い」


 源太としては、ますます意味が分からない条件提示だ。


 光秀は続けた。

「お主ならば、この者共らにも一切手は出させん。よいか、囲まれることあれば、構わぬ、迷わず突き通すがよい。脇坂っ、お主もよいなっ! 」


「・・・は」

 脇坂は刀を抜き、近くにある竹袈裟懸けに斬って、枝をうち竹槍にするとぶっきらぼうに源太に渡した。


 確かに、天海との約束はともかく、郷の者たちの安全を考えればおつりが来るほどの交換条件だが、光秀側に何のメリットも無いように思える。


 いや、聞こえようによっては、わざわざその結果に自ら向かおうとしているようにしか思えない。


(このおっさん、死ににわざわざ小栗栖に入りに行くんか。ここは、ただの最短の逃げ道の一つでしかないんと違うんか?こんなくそみたいな所に一体何がある言うんや? )


 仔細があって理由は言えないと言っていたから、聞いたところで答えてくれないだろう。

 まして、武士の事情に百姓の自分が首を突っ込むつもりもない。


「なんで、俺に? 」

 質問を変えた。


「なぁに、同じ百姓に討たれるのなら、お主のような若者が良いと思うただけよ。さっ、源太、案内してくれ」


 こうなっては仕方がない。

 とりあえず、坂本へ先行する者たちと光秀と共に小栗栖を通過する者たちが選別され、先行隊に源太は道を教えた。

 元来た道にあった辻を右に曲がって、後は一本道だから道案内の必要もない。


 口頭で伝えただけで彼らは行った。


 問題は小栗栖の突破ルートだ。

 できるだけ危険を避けるならば、自分が来た道を行くしかない。

 かと言って、郷の連中も当然、熟知している道だ。

 到底安全とは言えない。こうしてる間にも、道に捜索の手が回っていてもおかしくない。


(とにかく、速さが必要やけど・・・)


 月明りがあるにしても、松明もなしに山を歩くのにスピードは求められない。

 とにかく、ひたすら行くしかなかった。


 源太を先頭に光秀一行は、暗い山道を進んだ。





 さて、光秀を待ち構える飯田党はと言うと、少し戦略を迷っていた。


 というのも、野盗の頃のように道行く人間を待ち構えて片っ端から金品を奪うようなやり方ができないからだ。

 今度は、特定した人間で、しかもどこを通るかわからない。


 とすると、人海戦術で郷中の道という道を抑えてしまえばいいが、いかんせんそれほど人がいるわけでもない。


 まして相手は敗残兵でも歴戦の猛者だ。

 飯田党は二十人足らず、あとはド素人の百姓たちだから、あまり広げ過ぎると難なく突破されてしまう。

 しかも相手の具体的な数もわからないから戦略の立てようもない。


 情報がいる。


 よって、本隊は本陣である小栗栖館に待機し、郷内の各地に物見を走らせた。

 特に山手側は集中的に探させた。

 物見には、

「くれぐれも見つけても手は出すな。即帰って来い」

と重々言い聞かせておいた。

 物見の情報をもとに、場所と人数を把握した上で進行方向の先に全人員を投入して、待ち伏せし、来たところで完全包囲して討ち取るという作戦だ。


 アホの割には手堅い策を取るものだと思うだろう。

 中には、鬼子母の立てた策か、百歩譲っても市松かと思うかもしれないが、なんと虎之介の策だ。


 この男が、本当に一から十までアホだったら、やっぱり誰も付いて来ない。

 普段はアホだがやるときはやる男だから、逆にみんながそこに惚れて付いて来るのだろう。

 ただ、付いて来てる連中もやる時にしかやらないアホだからなのかもしれない。


 方々に散らした物見から有効な情報がもたらされたのは、探索開始から一刻程経った時だった。


「なんやて? 」


「いや、せやから大岩神社の参道脇にに古い間道がありましてな、そこを通ると館の裏側を回って、本経寺の脇道を抜けて勸修寺に程近い街道に出るらしいんですわ。奴ら、その道を使うたみたいですわ」

「誰が言うたんじゃ、そんなこと」

「物見の百姓がそない言いましてん。名前何ちゅうたかなぁ? 」

「人数は? 」

「光秀と、供回り四人程らしいですわ」

「なんや、えらい少ないの」

「ほんまに拍子抜けですわ。ま、決死行やし、人数多いと遅くもなるし、見つかる危険もある事考えたら、妥当な人数とちゃいますか」

 虎之介は躍り上がった。


(もう勝ったも同然や)


「そうなると待ち伏せする手間も省けますな」

 市松としては、館の裏を通るなら、そこで襲えば済むと思っていたが、虎之介は違うと言う。


 館の裏は山の麓で、道は館より高い所にある。

 しかも館は松明を焚いているから、正直向こうからはこちらの動きが丸見えだ。

 館の近辺で襲うのは、逆にこっちの策がバレてしまうという。


「ほな、どこがよろしい? 」

「う~ん・・・」

 虎之介は地図とにらめっこしだして、すぐに、

「よっしゃ! この本経寺の脇道や。他の道に行かんように、ここから松明持っていて、方々に立てえ。この道にまで誘い込め」

「そこの脇道が何でよろしい思うはったんです? 」

 市松が尋ねると、虎之介は得意げに説明した。


 本経寺の脇には竹林があり、道も狭い上にちょうど谷合の窪地に沿って道がカーブしている。

 カーブの手前に少し道が広がっていて、囲みやすい上にカーブで死角が作りやすいので待ち伏せにもうってつけであった。

 前後挟み撃ちで完全包囲し、必要あれば窪地に追い込んで落とし、下で待ち構えて足を取られて動けないところを討ち取ることもできる。


「ここや。おら、急いで用意させ。全員わしに付いて来いっ! 」

 虎之介と市松は急襲する場所に向かった。


 現在、その地は『明智藪』と言われている。





第五章 一番槍

          一


 天海が向かっていた勸修寺は、この当時だと荒れ果てた廃寺になっている。


 応仁の乱の際に本堂から伽藍一切が焼け落ちてしまっていて、広大な敷地に仮の本堂として粗末なあばら家と言ってもいい小さなお堂が建つだけであった。


 天海がそのお堂に来ると、二頭の馬が繋がれ、馬回りの小者が松明を持っていて、お堂の戸の前に公家侍が控えていた。

 暗がりから松明の明かりによって天海の姿を確認すると、公家侍は一礼した。


 お堂にはうっすら明かりが漏れている。


 木戸を開けて中に入ると、一人の人物が座っている。


 この寺の名を冠する藤原氏の支流、武家伝奏の役にあった勸修寺晴豊であった。


 創建時の関りで名を勸修寺としているが、ゆかりと言えばそれくらいで、特にこの地に関係があるわけでも無い。

 しかも普通に考えて、こんな夜に会うような場所でもない。


 天海がこの地に用があったのはこの人物に会う為で、当然用件は天海の持つ経文を届ける為であった。


 しかし、いくら天皇家ゆかりの大事な経文といえども、会う場所と時間がかなり違和感を覚える。

 

 これは明らかに人目を忍んだ密会としか思えない。


 天海は、桐の箱を晴豊に見せると、晴豊はふっと笑って、

「よかった。あったのだな」

と安堵の表情を見せ、呟くように言った。


 天海は、箱を開けて経文を取り出すと、そのまま晴豊に渡した。

 

 それを受け取った晴豊は恭しく掲げた後、

「危ない、危ない。これが手に落ちると、帝のお立場も危うい所であった」

と天海に再び笑って見せた。


「いやいや、帝と言うより、前太政大臣の近衛公でしょう」

と天海は返した。


「調伏を主導したのはそうじゃが、帝の御内意があった故じゃ。とはいえこれはあくまで焼き討ちの復讐で延暦寺座主にあった帝の弟君の覚恕様が勝手にやられたことということにしておかねばならぬでな」

「それはそうと、お約束の物はこうしてお届けしたい以上、この箱に本来収めるべきものは、ちゃんとお持ち頂けましたか? 」

 天海は急かすように言った。


「そうよの。済まぬな。少々、手間取ってしまったせいで」

 晴豊が懐から2通の書状を出して、天海に渡した。


 天海は受け取ると早速、書状の中身を改めると、

「確かに・・・」

 すぐに畳んで、桐の箱に収めた。


 晴豊は、経典の巻物を広げるが、どうも経典の裏側を気にするようにくるくると広げてゆく。

「ふむ、当然中身は抜き取っておるのだな」

「それも、ここに」

と言って天海は桐の箱を示した。


「お帰りは気を付けられよ。すでに目はつけられておるであろうし」

と言って桐の箱を行李に収めて背負って、笠と錫杖を取る。


「なんじゃ、もう行くのか? つれないの」

と晴豊は寂し気な表情をするが、口角はやや上がっている。

  

「こんな所に長居は無用で御座ろう。まだ、やらねばならぬことがある。時が惜しい」

「なんとも、せっかちなことよ。・・・誠に大丈夫であろうな? ここまで帝に動いてもらった以上、その者には何としても動いてもらわねばならぬぞ」


 この時だけ晴豊の声が低くなった。


「御心配は無用に願います。すべてはこの為に仕込んだこと故」

 そう言うと天海は、お堂を出て行った。


 勸修寺晴豊もゆっくり立ち上がると、

「だそうじゃぞ」

と大きい声で言った。


 木戸の外で立っていた公家侍が中を覗いて、

「なにか? 」

と晴豊に尋ねた。

「いや、たわいもない独り言じゃ。気にするな」

と晴豊は返した。

 

 そして、小さくぽつりと、

「なんじゃ、もう追いかけて行ったか」

と呟いた。


 公家侍は独り言が聞こえたか、きょとんとしていると、

「戻るぞ。三七(織田信孝の幼名)殿が待っていよう。事の成り行きを見極めねばな」

 晴豊に言われた公家侍は、「は」と返すだけだった。





 お堂を出た際に小者から松明を一本貰い受け、天海は勸修寺を後にした。


 何を思ってなのか、天海の足は再び小栗栖に向かっている。

 行きと違って明かりがあるので結構歩くのも早い。


 半町ほど歩いて、ふと立ち止まった。そして、背後に松明を掲げた。

 何か気配を感じたようだ。


「いい加減にしたらどうじゃ? くっ付いておっても何も手に入らぬぞ」

 誰もいない暗闇に向けて天海は言った。


「あらら、ばれてたか」

 暗闇からそう声がする。何か影が動いている。


「おおよそな。勸修寺のお堂にもおったな? そこからずっとつけて来ておる。いずれの者か? 」

「聞かれて答えるはずは無かろう。なぜ、戻られる? 」

「聞かれて答えるはずが無かろう」

 天海はそっくりそのまま返した。


「だろうな。では本題に入ろう。別にあんたの命には執着しない。ただその書箱を頂きたい」

「・・・断る。下らぬ問答をする程、暇ではない」


「まぁ聞きなって。あの百姓に御執心のようだが、どうする気だ?まさか本当に光秀を救うとは思えないがな」


「呆れた奴だ。そこからすでにつけておったか? ・・・解せんな。ならば箱の中身も知っていよう。なぜ、今になって中身を欲しがる? 」


「公家は信用できん。あんたが確認したなら、中身は本物だろう。しかもこちらが欲しい物が全て揃った状態でないとな」


「なるほど、尤もだ。ならば、質問に答えてやろう。あの若い百姓は明智光秀を救うであろうよ。間違い無くな」


「へぇ~。何か筋書きがあるらしい」


「問答は終わりだ。いずれにしても捨て置けぬ。姿を現せ。この書簡、奪いに来たのであろう? 」


 天海は松明を掲げた明かりの向こうから声が聞こえ、暗い中、何かが蠢く影を感じていた。


 しかし、予測に反し、背後から突然、背中の行李目掛けて傀儡が襲い掛かってきた。

 咄嗟にその気配に気づき、持っていた錫杖で振り向き様に傀儡を殴り飛ばす。

 軽々と飛ばされる傀儡だが、身軽に体を翻し、着地と同時に地を勢いよく蹴って、向かって来た。


 天海の持つ錫杖は仕込み刀になっており、今度は刀を抜いて、傀儡の繰り出す剣を避けつつ斬り抜けた。

 しかし、手ごたえもない上にまったく効いていないようで、傀儡は何事も無いように続けざまに剣を繰り出す。

 とにかく何をしても傀儡には効かず、天海は次第に押されて行く。


 とにかく、これでは分が悪い。


 対策を考えようにもこの状況では考えもできないので、とにかく一旦距離を取りたい、が斬っても全く動じないので動きに隙が生まれない。


 ならば、と急所狙いを止めて、腕を狙いに行った。

 斬り落として、隙を作り距離を取る狙いだった。


 しかし、傀儡はこの動きに反応し、始めて躱して避けた。

 天海は、それを見逃さなかった。

 すかさず、徹底して傀儡の四肢と首を狙いに行くと、これを守るために防御に回ったために、大きいひと振りで傀儡は引き、ようやく距離が取れた。


 術者はどこかにいるのだろうが、常に移動しているのか位置を特定できない。

 

 まだまだ余裕なのか、術者は高らかに笑うと、

「卜伝流の使い手の貴公でも、俺の死蟲には手こずるようじゃの。四肢が弱点と読んだようだが、斬られるとくっつけるのが面倒なだけじゃ、後の面倒を考えなければ、攻撃に一切隙は無いぞ。俺は暗殺専門の術者じゃ、結果は見えとる。あきらめられよ」


「くそ、余裕じゃの」

「そこで、条件付きで見逃してやっても良いぞ」

「どういうつもりだ? この書箱の中身も手に入らぬぞ」

「このまま貴公を斬って書簡を奪うのは造作もないがな、なんとも面白くない。どうやら勧修寺からまた引き返すつもりのようだから予定通りに動いてもらおう」


「・・・貴様、何を企んでる? 」


「企んでるのはそっちだろ。その企みに乗ってやろうって言ってんだよ。ま、手柄を鬼子母に渡すって約束もしてることだし、自ら戻るって言うんだったら、止める理由もねぇしな」


( 下郎めっ )


 その瞬間、傀儡は高々と跳び上がり、森の暗がりに姿を消した。

 天海は、しばらくは気配を感じ取ろうとその場で警戒したが、気配が完全に消えたと判断したか仕込み刀を錫杖に収め、再び足早に小栗栖に向け歩を進めた。





 同じ頃、小栗栖館、奥屋敷の裏庭に裏口があり、おつるがこそこそとその裏口から出ようと木戸に手を掛けたとき、


「何しとんの? 」

と声がする。


 ふと振り返ると、屋敷の縁に鬼子母が立っている。

 当然、声の主は鬼子母だ。


 おつるが言い訳に困っていると、さらに鬼子母は続けて言った。

「まっ、別に止めへんけどね。隙さえあったら、毎晩抜け出しとるのは前から、知っとった。あの源太とかいう男の所け? よければそのまま帰って来なくてもええぐらいや。何度も言うけど、あたしゃ、あんたに、この館にいてほしないんやから」


 そう言われると、「だったら」と言いたくもなる。

当然、その返答を見越して、おつるが口を開いた瞬間、それを制すようにさらに続けた。


「あかん、言うとるやろ。あのアホ息子が連れ戻してまいよる。いっそ、この村を出たらええんや」

「あの人はダメなんやろ? 」

 当然、あの人とは源太のことである。

「当たり前やないの。大事な飯の種やねんで。まぁ、あの男かて出る気ないやろし」

「源太が出たら、おじじを殺すからやろ」

「まるで悪者みたいに言うねんな。フン、うちから言わせりゃ、まるでママゴトやな」

「なんやて? 」

「あの源太って男が本気やったら、いつ死んでもおかしないじじいの命捨てて、あんた連れ出して逃げるくらいの根性あるはずやろ? 」

「そん・・・っ・・。」


 これには、さすがにおつるも言葉を詰まらせた。

 鬼子母は続ける。


「何でも願望を叶えようって思うたら、必ず犠牲はつきものや。何かの犠牲の上に立って始めて願望は叶う。それがわからんで正論ぶる奴は、所詮お子ちゃまや」


 こう言われると、返す言葉も無かったおつるも、少しは言い返したくなる。

「・・・あんたに何がわかるんよっ! ただ、あの人が、おじじの命だけ惜しんで、この村におる思うん? ヘドが出る程嫌いなあんたらに従ってるのも全部! 」


 何かしらの事情がありそうな言い方をしたが、鬼子母は聞く気も興味もなく一笑に付した。


「やめとくれ。こんな時代にありがちな不幸自慢なんぞは、そこらに石投げても当たる程、ごろごろおるんやで。それに、不幸自慢したけりゃ、相手を選ぶことや。うちは少なくとも不幸自慢なら、誰にも負けたこと無いねぇ」


 そう言うと鬼子母は煙管をくゆらせ、ゆっくりと煙を吐く。

「それで? あんたはあんたでようやく姿を見せてくれんのかい? 」


 おつるは、鬼子母がどこの誰に話しかけたのか、わからず、返答に困った様子だったが、すぐにその相手の声だけが返って来た。


「さすがは、その名を轟かす鳶加藤の鬼子母。説教話もなかなか」

 声はすれども姿は見えず、どうやら声の主はあの傀儡の術者らしい。


 鬼子母は分かっているようだ。

「その名で言うんはやめてくれるか。鳶加藤の名は捨てて、今は飯田で通しとるんでな。何や、お目当ての物、取りに行ったんと違うんか? 」

「それよりも、おたくの彼氏、結構おもしろい」

「源太が? 」

 おつるは声を低くして問い直した。

 その問いに対して、術者はくくくっと笑うだけで、何も答えない。

「1人でおもしろがらんと、ちゃんと、状況教ええな」

 鬼子母が少しイラついたように言った。

 術者は笑いながら返した。


「ま、その内わかる。おっと、最後にひとつ忠告しておくが、この件結構根が深いようじゃ。気を抜くなよ、鬼子母殿」


 そう言うと、すっと術者の気配は消えた。


「源太・・・」

 おつるは、気が気でない様子だ。


 これを気遣ってか、いや、正直、どうでも良かったのかもしれないが、

「何も言わへん。好きにしたらええ」

と、鬼子母はおつるに言うと、おつるも何も言わず、鬼子母の言葉に甘えてか裏口から出て行った。


 鬼子母は、煙管の灰を落とすと、

「気になんなぁ、・・般若」

 すると、屋敷の奥の間からすっと、影が動いた。

「あの傀儡使い、どこに消え寄った? 」

 般若と言う影は、控えつつ鬼子母の問いに答える。

「集落の方に向かったものかと思います」

「光秀は、この近くをほっつき歩いとるのに、その逆方向に行った言う事かいな。あんたの報告通りかもしれへんな」


 雲間から月明かりが差し、般若の姿を照らす。


 年若いくノ一だ。色も白く、眼鼻も通って、どことなく気品すら漂う。

 

 鬼子母の問いかけに静かに「はい」と答える。

「鳶加藤の鬼子母が舐められることがあってはならへん」

 これにもは般若は「はい」と答えた。


「・・・般若」

これまで、厳しい口調であったのが、この呼びかけはこれまで無かった口調で、息子の虎之介にもしない、優しいものだった。

「あんたには、いつも、苦労させるねぇ。あのアホ兄貴のケツばかり拭かせて」


 これを受けて、般若は首を振ると、

「鳶加藤の一族として、たとえ野伏せりに身をやつしてようとも、鬼子母神の力を信じて参った末、飯田と名を変えても、ここまで来たのです。その鬼子母神の名跡を継がせてもろうてるんやから、何も」

「般若。鳶加藤の全てはあんたや。この大仕事が成れば、飯田の手柄や。天下に飯田、うんにゃ、再び加藤の名を戻して知らしめるんや。あの傀儡使い、なんぞ裏を掴んどるようや。先手を打ってこの一件の裏を突き止めて切り札を押さえるんや」


「わかりました、母上」


 どうやらこの般若も鬼子母の娘、つまりは虎之介の妹のようだ。


 これまでも何度も出てきている〝鳶加藤〟とは?


 詳しい人なら、説明は不要かもしれないが、〝鳶加藤〟とは、戦国期に活躍した忍者で、加藤段蔵のことを言う。


 ここでは多くを語らないが、この加藤段蔵の逸話には枚挙に暇がないほどある。信長やあの武田信玄、上杉謙信など有名武将の元で功を上げた伝説の実在した忍者として有名である。しかし、そのあまりにも腕が立ちすぎるが故に警戒され、結果として、謀殺されてしまった。


 鬼子母は、その加藤段蔵の妻だった。

 おそらくは正式な妻とも言えないかもしれない。

 というのも、鬼子母自身もくノ一だった。

 

 どこでどのように出会って、二人も子をなしたかは、互いに影の世界に生きる者だからわからないが、少なくとも、長男の虎之介は加藤の名を受け継ぐ者として鬼子母は育てた。

 

 しかも、忍者としてではなく、あくまで武士として。

 恐らく市松含め、飯田党の郎党も、元は段蔵配下の忍びたちの子弟や縁者なのだろう。

 虎之介を統領に武士団を作ったが、士官もできない浪人なら、大所帯を食わす為にやむなく昔取った杵柄ではないが、忍びとして鍛えた腕を使って盗賊や山賊まがいの野武士として生きるより無かったのだろう。


 鬼子母は鬼子母で、元々の仕事があって、〝鬼子母衆〟というくノ一を一気に束ねた集団の頭目だった。

 恐らく、これも鳶加藤の郎党の子女をまとめて面倒見る為だったのかもしれない。


 この〝鬼子母衆〟に目を付けたのが、信長だった。

 

 女となると、色々な所に入り込みやすい。

 特に、公家に武家に商人に宗教、様々な階級や地位の人間が、各々の特権の元で跋扈する都にあっては女の方が都合がいい。

 この鬼子母衆を取り込むために、虎之介以下、飯田党を家臣として取り込んだのだった。


 領地経営どころか武士として振舞すらままならない虎之介の面倒を見る為にも本業に手が回らないので、娘の般若を新たに鬼子母衆の頭目に据えた。


 般若以下鬼子母衆は、これまでずっと京での任務に当り、その報告に鬼子母の元に帰って来た。

 その調査が、どうやらこの一件と関係することのようだ。鬼子母としては、その上で明智光秀を討ち取る以上の〝何か〟を、あの傀儡使いと彼を雇った雇い主よりも先んじて掴みたいようだ。


 鬼子母は般若の顔を見た。

 般若を見る顔は、まさしく慈母のようである。


「そやけど、無理はあかんよ。あの忍びも、光秀らも、皆、結構な手練やからね。何度も言うけど、あんたが鬼子母衆の、飯田の全てやねんからな」


「はい」

 般若は母の思いもしっかりと分かっているように微笑みながら返事をして素早く消えた。





 虎之介たち飯田党と百姓たちは、館から三隊に分かれた。第一隊は虎之介と主に飯田党を中心に、待機して藪に潜み、裏道から出て来た光秀一行が本経寺の脇道に入った段階で追い込みをかける。

 第二隊は、百姓を中心に、脇道のカーブの先に待機し、合図とともに光秀一行の行く手を竹の槍衾で塞ぐ、第三隊は市松が率いて、第一隊が谷あいのカーブまで追い込み、谷下に落とし足元を取られ、身動きできないところを悉く討ち取るという算段だ。


 組分けの時に、長兵衛が虎之介に第一隊への参加を志願した。

 あまりにも積極的に参加を希望するものだから、虎之介も困って理由を聞くと、

「一番槍やったら、取り立ててもらえるやろうし」

という理由だった。


「ああ、確か、そない言うとったな」

 昨日の館の事を思い出した。

「おお、それやったら、こっちは入れや」

と、虎之介は気前よく言った。


 こういう所は親分肌というより、気のいい兄貴という感じが出る。

 手下たちがこの統領について来ている理由の一つがこういう所だろう。


 とにかく、組分けも終わり、三隊それぞれが持ち場に向かった。

 虎之介の第一隊は、本経寺の脇道に入る手前の竹林に身を潜め待機した。


 しばらくして、源太と光秀一行が山道から出て来た。

 ただし、月が出ているとは言え、暗い夜道である。身を潜めた虎之介たちに人物まで特定できるわけでも無い。

 しかし、その一団のシルエットだけでも、甲冑姿に帯刀している一団なのは一目でわかる。間違いなく目標の光秀一行だ。


 さて、その一行を案内する源太も、まさか罠を仕掛けられてるとは思っていなかった。

 無理もない、彼はただの百姓で素人だ。


 山道を通る時には左手に小栗栖館を見下ろすようにして取って来たものの、警戒した割には何もなかった。見下ろした館の中も特に動きがあるわけでも無い。

 正直、源太もここが最大の難所と思っていた分、それを無事抜けられたことで、かなり安心しきっていた。


(案外余裕かもしれへん。やつら、まだこの郷の事を把握できてへんのや)


 よく知っている郷の百姓たちもいるのに、ここまで手をまわしていないのも、彼らの日頃の行いのせいで、百姓たちが嫌々、落武者狩りに参加させられてるからに違いないと思っていた。

 

 そして、その源太が思っているように、脇坂を筆頭に光秀に付き従う者たちも、館の背後を通る時程の緊張を持続させなかった。


「殿、あと少しで勧修寺でござる」

 脇坂が、いかにも油断しているようなこと言った。


 それを聞いた光秀だけは、なんとなく雰囲気として罠かもしれないと察していたかもしれない。

 緊張の少し緩んだ家臣の顔と比べても、ただ一人緊張を解いていないように見える。

 ただ、脇坂の問いかけに対して、

 本来は、

「油断するな」

と一喝すべきところなのに、何故か、やや顔を綻ばせて、

「そうか、源太。道案内、ご苦労だった。お主のおかげじゃ」

と、まだ着いてもいないのに源太に礼を言い、労った。


「よかった。坊さんとの約束も守れそうや」

 当然、すっかり油断している源太も、光秀の礼に素直に答えた。


 こうして一行は、光秀を除いて、何の疑いもなく本経寺の脇道に入って行った。


 半町ほど、一行は道を進んだのを、潜んでいた第一隊は見定めると、虎之介の合図と共に、一気に鬨の声を上げつつ、竹林から道へ躍り出た。


 いきなり後方から躍り出た一団に、当然ながら源太と光秀一行は驚いた、と同時に、一目散に走り出した。


 しかし、鬨の声が上がるの合図に、待ち構えてた第二隊が、一斉に道を塞ぐように数列の横隊となって、竹槍を構え、槍衾を完成させた。


 隊長の合図で、その体制を維持し、少しづつ前進して行く。

 光秀一行はカーブで挟まれた。このカーブで道は膨らみ、一定のスペースがあるが、道の片側はかなり勾配のある傾斜の登り、逆は、その反対で坂と言うよりほぼ崖である。

 



 

 光秀主従は完全に包囲されてしまった。


 背後の傾斜を上がれば、それこそ竹槍で背中を刺されるのが目に見えてる。

 逆に正面の崖を下りても、この分では間違いなく崖下にも兵を控えさせてるだろう。

 もはや、力づくで突破口をこじ開けるより他にない。

 無論、その場合、百姓中心で構成された第二隊を狙うのが、上策と言える。


 まさに、源太にとっては最悪の状況であろう。


 脇坂以下郎党は抜刀して、光秀を中心に輪となって防御態勢を取る。

 源太は光秀の傍らにいて、一応輪の中にいるが、

「源太、もしや、そなた図ったかっ? 」

 脇坂はこの状況に、源太を疑った。


「知らん。どないなっとんか・・・」

 そう言う源太の顔を見て、脇坂も目線を周囲に向けなおした。


 今ここでそれを尋ねた所で仕方のないことだとわかっていたからだ。

「まあよい。悪いが手向かうぞ。この場を切り抜けるには、立ちはだかる者は迷わず斬り捨てる。よいな? 」


 この二人のやり取りは、当然、包囲している側にも聞こえている。


 今、取り囲んでいる相手の中に、どう考えても場違いな人間が竹槍を構えるでもなく、抱きかかえるように持って、光秀と思える男と一緒に守られているのが、あの源太であるのがわかる。


 第一隊も第二隊の中にも、一部で動揺しているのか、ざわつきだしている。


 当然、虎之介もその一人だ。


「源太ぁ? こりゃあっ! わりゃどういうつもりじゃっ! 」


 と尋ねられても、源太にしたって説明のしようが無いし、今、事情を説明するような状況でもない。虎之介も勢いで尋ねたものの、今、源太に構っている場合じゃないと気が付いたか、


「どういうつもりでおのれがここにおって、こいつらの手引きしとんか知らんが、ここまで連れて来てくれてごくろうなこっちゃ。こらぁ! おのれが光秀かっ? 」

と、大刀を抜いて、切っ先を光秀に向けた。


 それに併せ、第一隊もじりじりと距離を詰め始める。

 先頭には長兵衛もいる。


「長兵衛っ! 」

 ここに来て源太も脇坂の言ったことを覚悟した。


 しかし、長兵衛はその中でも一番の親友である。できれば、後ろに控えて欲しかった。

 これでは、真っ先に斬られる可能性が高い。


「源太、もうよい。・・・突け。そうでなくば、お主の友にも危害が及ぶ」

 源太の心を読んでか、光秀が囁いた。


「そやけど・・・」

 源太としては、当然躊躇する。

 本人が良いと言っても、脇坂らはそれを本当に許すとも思えない。


 第一、そんな心配の前に、人を突き刺すなんてことを自分にできるとも思えない。


「構わぬ。ここまでじゃ」

 光秀は、どうやら覚悟の上で言っているようだ。そして、なまじ突き刺されるなら源太がいいと言ったことも嘘ではないのだろう。

しかし、二人の会話を聞いていた脇坂が割って入った。


「殿。なりませぬ。これほどの者、斬り伏せれば・・」


 光秀は、当然脇坂たちがそう言って来る事はわかっていた。


 脇坂たちに向かって、

「わしが源太に突かれれば、一瞬でも隙が生まれよう。その隙に皆逃げよ。今は、それが一番よい。源太、お主もこのままでは迷惑が掛かる。あらぬ嫌疑を晴らす為にも、わしを突けっ! 」

 

 確かに言っている事は分かる。

 一緒にいたはずの源太が突然、光秀を突けば、さすがに面食らって一瞬でも動きが止まる。

 その隙を狙って包囲を突破しろと言うのだ。


 しかし、普通に考えて、それはあり得ない策だとわかる。

 どこの世界に守るべき主君を突かせて、家来が逃げるなんてことがあろうか。

 それこそ、まさしく本末転倒だ。


 ただ、逆に言えば、あり得ないからこそ猶更、脇坂ら家臣の脱出する成功率がさらに高まるのも事実だ。


「そんなん言われたかて、でけへん。・・・でけへん」


 源太には、そこまで頭が回っていないだろうが、この場を脱する為とはいえ、人を傷つける、いや、イコール殺傷する行為に及ぶ事自体が、もはやあり得ないことに違いない。

 しかし、その躊躇は、この後確実に起こる長兵衛含んだ、この場にいる郷の者たちの命が奪われることを意味する。

 それも源太は分かっている。

 その葛藤が源太の中で、渦巻き、もはや決断ができなくなっていた。


「源太っ! 」

 光秀は、それを承知で源太に決断を迫る様に怒鳴った。

「あかんっ! 」

 それでも、源太は竹槍を強く握って抱きかかえて固辞した。


 虎之介は虎之介で、硬直した状況に少し焦っていた。


 というのも、ここで乱戦に持ち込まれるのは避けたかったからだ。


 相手は武士である。

 しかも甲冑を揃えた。

 逆にこちらは数こそ圧倒しているが、半分以上、いや三分の二は素人の百姓で、装備もほとんどしていない。

 竹槍は、数に物言わせた威嚇にはいいが、実戦ともなれば身体諸共一刀の元に斬られて終わりである。

 作戦通り、追い込んで谷に落とすのが良策だ。

 でなければ、討ち取れても味方の被害が計り知れない。

 いや、下手をすると大将首の光秀を逃すことも考えられる。


 当然、いざ乱戦ともなれば腕には絶対の自信がある自分が先頭に立って、光秀以下全員を相手取って、一人残さず討ち取ることだってできるかもしれない。

 それにしても、人の壁を作って、彼らの退路を塞いだ上でだろうし、そうならそうで、やはり幾人かの犠牲は出るだろう。

 個人的にはそれでもいいのだが、とにかく母親がうるさい。

 百姓一人の命ですら、作り手が減ると言ってうるさい上に、手下にしても、その者が養っている家

族の面倒も含めて、少ない碌でなんとか切り盛りしてる以上、極力殺すなと厳しく言われている。


 さらに言うと、「お前は統領だから、極力前に出るな」とも言われてもいた。


 大将がやたらと前に出て、手柄を全部持って行くと部下は不満に思って付いて来ないからだという。


 虎之介はイライラしながら、なんとか、谷に落とそうと考え、

「長兵衛っ、一番槍入れるんと違うんかっ? さっさと、いてこませ! 」

と、長兵衛を前に出して、まずは一団の塊を崩そうとした。

 ここで虎之介も、正直、多少の犠牲はやむを得ないと判断しての事だった。

 

 ここで声を掛けられた長兵衛は、虎之介にどちらかと言うと捨て駒的な扱いを受けているとは、思っていないのだろう。妙に鼻息荒く興奮状態の中、竹槍を光秀に向け構えると、


「うわぁ~っ! 」


と雄叫びを上げながら、今にも突進しそうだ。


 すると躊躇する源太に構わず光秀は刀を構え、向かってくる長兵衛を斬ろうと前に出た。


 これを見て、源太は咄嗟に光秀が刀を振り上げたことでできた右わき腹の鎧と草摺の僅かな隙間に竹槍を思いっきり突いた。


「は? 」


 この一瞬、この場の空気が止まり、源太と光秀以外の全員の思考が見事にシンクロした。


 光秀は、この瞬間を逃さない。


「ぐっ・・・今ぞっ! 行けぇーっ! 」


 痛みに耐えつつ、脇坂たちに促した。


「・・!・御免っ! 」

 光秀に構うことなく、脇坂らは一斉に第二隊目掛けて刀を振り上げて走り出した。


 驚いたのは百姓たちで、緊張していた中で一瞬の不意の出来事が起こったせいで、その緊張が切れてしまい、挙句に気が付くと世にも恐ろしい形相で刀を振り上げた侍が眼前に向かって来ているという状態だ。


 不幸にも、隊列をきちっと組んだ割と完璧な槍衾を作ったのが、ここに来て災いした。

 最前列がのけ反り後ずさりしたせいで、物の見事にドミノ倒し、いや、この場合ボーリングでストライクのピンのようにきれいに将棋倒しとなった。

 隊を指揮していた飯田党の手下もそれに巻き込まれて下敷きになった。


 勝手に道が開けたおかげで、脇坂たちは、難なく包囲を抜けて行った。


 虎之介に至っても、源太の一番槍で一瞬不意を突かれたが、最も考えられないのがその後に起こったことだ。


 刺された主君をほったらかして家臣が一斉に逃げ出すという常識的にあり得ないことが起こったせいで、完全に思考が停止してしまった。

 ただ、これはもうこの場にいたほぼ全員が同じ状態に陥ったと言ってもいい。


こうなると、もうパニックである


「はっ? ああーっ! 追えっ! 追うんじゃーっ! 」


 虎之介の声に反応して全員が逃げた脇坂たちを追おうと走り出すが、その先には何分、将棋倒しで起き上がれない百姓たちが道を埋め尽くしてるせいで、さらにその上に倒れ込む者も出て、収拾がつかない。

 飛び越えようとして誤って谷に落ちる者まで出ている。


 冷静に考えれば、そこに大将首が刺された上に突っ立っているのに、それを一切気にすることなく、とにかく全員が追おうとしている。


 まさに総崩れだ。


「いや、待て。全員行くなっ! 残れっ! 待てっ! 」

 虎之介も気が付いて、指示を訂正したところでもう手遅れである。

 もはや誰も聞いていない。


 そして、ここにもう一人、極度のパニック状態に陥っていた男がいた。


 長兵衛である。


 いざ突こうと興奮状態だった中、親友の不意打ちで一番槍の手柄を奪われた、いや、実際には助けられたのだが、そんなことは本人は知りやしない。

 完全に興奮のるつぼで落ち着く先を失った上に、今の集団パニック状態である。


 そこに折り悪く、虎之介が声を掛けた。


「ああっ!もう長兵衛っ! とどめやっ! いてまえっ! 」


 その一声で、我に返るどころかパニくにだしてしまい。

「うわぁ~ぁぁ~っ! 」

と奇声を上げつつ、突進して、〝ブスッ〟と突いたのは良いのだが、どういう訳か竹槍は虎之介のケツに突き刺さった。


「そうや、ぐさぁ~っといてまえ。そんな感じで? 」


 パニック状態なのはお互い様なのか、虎之介も自分の尻に竹槍を突き立てられたことにしばらく気が付かなったが、遅れて痛みがやって来た。


「いっ・・ったぁ~っ! お前、アホかぁっ! 俺突いてどうすんねんっ? いっったぁっ! このボケがぁっ! 」


 その時、当の源太はと言うと、思わず反射的に光秀を突いてしまったことに気が付き、槍を抜くまでにもかなり時間がかかった。


 さらに気が付くと周囲はまさに狂乱の真っただ中にあり、もう訳が分からず放心状態となっていた。


 そこへ長兵衛の、「うわぁ~ぁぁ~っ! 」と奇声が聞こえて来て、声の方向に目をやると、なんと、あの虎之介のケツに長兵衛が竹槍を突っ込んでいる。


(なんやこれっ? どないなっとんねんっ? )


 しかし、パニクっていられる状況でもなさそうだ。


 虎之介が、今にも長兵衛を斬ろうとしている。

 源太の体は再び反射的に動いて、虎之介に体当たりをしていた。


 不意を突かれた虎之介は、大刀を思いっきり振り上げてたせいか、下半身目掛けて突進され、谷の際までその大きな体が飛んで行った。

 立って着地はしたものの慣性の法則には逆らえない、体は谷に向かって持って行かれるのを必死に堪える。


「えっ・・・いやっこのぉっ! ・・あ・・あかん。この窪地に落ちるのは俺やない! あ・・・あっ・・あああああ~っっ」


 抵抗空しく堪えきれずに虎之介は谷底へ落ちて行った。




第六章 源太とおじじ



 狂乱の時は、ようやく去った。


 静寂を取り戻した頃、その場には光秀と源太、そして長兵衛の三人だけになっていた。遠くではまだ狂乱の声がしているが、それもどんどん遠のいて行っている。


 長兵衛はまだ息が荒い。まだ興奮状態が続いているのかと思って、源太が声を掛けた。

「長兵衛、大丈夫やっ! もう済んだっ! 」

 長兵衛の目を見ると、どうやら正気を取り戻しているようだ。


「あ・・あかん。えらいことになった。もうあかん、皆、殺されるど。まだ飯田の鬼子母がおる。皆、殺される」

 この息の荒さは、やってしまったことへの恐怖からだった。


「落ち着け。な、長兵衛。落ち着けっ! 」

「おまえのせいじゃっ! 何もかんも、全部! 」

 源太も当然それが長兵衛の本心でもないことはわかっている。

 そうでも言わないと耐えられないのだろう。


「そこの2人」


 光秀の意識はまだある。

 痛みで苦悶の表情をして、脂汗を書いている。


「光秀様っ! 大丈夫でっかっ? すんまへんっ! すんまへんっ! 」

「何を謝る?お主は約束通りの事をしたまで」

「やっぱり、わざとやったんですか? 長兵衛を斬る気なんぞなかったんやな」


「よかった。よかったはずであったが、・・すまぬ。どうやら、お主らだけが損な役目となったようじゃ」

「謝って、済む問題ちゃうやろっ! なんで・・、こんなことに」

「長兵衛。今更や。言うても始まらん。・・・それより傷は? 」

「わかってはおったが、あの突き方では急所まで到底及ばん。残念ながら致命傷にはならん」

 中途半端なだけに余計傷が痛むのだろう。

「そやけど血が・・・。どないしょ。どっかで、とにかく手当を」

 とは言ったものの、どこに行けばいいものか。


 追い掛けて言った連中もいつ、その狂乱が覚めて、ここに戻って来てもおかしくない。

 どちらにしてもここに長居はできない。


 ここで、長兵衛は改めて確認した。

「お前、こいつが誰かわかっとんか? 」

 

 そう、そもそも光秀の首を目当てに、こんな夜中にも関わらず郷中かき集められて落武者狩りをしているのに、その光秀に一鑓入れたまではいいが、それを助けて匿い、傷の治療をするとなると間違いなく裏切り行為だ。


 ただ、その前に領主のケツに竹槍を突っ込んで、崖に突き飛ばしてる段階で既にアウトなのだが、これを無かったことにできる唯一の方法が残されている。


「もおよい。首を取れ、源太」

 光秀は、その唯一の方法に言及した。


 しかし、源太は光秀がそれを言い切る前に、

「アホ抜かせっ! 生きとるんやろ。簡単に言うなっ! 」

と一喝した。


「源太ぁっ! 」

 長兵衛にしてみれば、自分の命が救われる可能性があるのはそれしかない。


 しかも、相手までそれに同意してくれているのだから、乗っかるのが一番だと思ってるのに、このお人よしはそれをさせてくれない。


「おじじやっ! おじじの処に行くぞっ! 」


 それどころか、さらにおじじまで巻き込もうとしている。

 ただ、源太にしてみれば、もはや頼るべき人はおじじしかいないのだ。

「正気かっ! お前、そんなことしたら・・・」

 明らかに光秀をここで殺した方がいいと考えている長兵衛に対して、源太は、

「うるさいっ! 」

と言って、相手にしなかった。


 何も考えずに、おじじのいる集落に入るわけじゃない。

 源太もそれなりに考えがあっての事だった。


 状況を冷静に考えたのだ。


 今、郷の男たちは全員、落武者狩りに狩り出されている。

 しかも、そのほぼ全員が、さっきまでここに居て、さらにパニック状態の中全員が脇坂たちを追って、北の街道方向へ雪崩を打って追い掛けて行っている。


 つまり、今、集落の警戒はゼロだ。


 女子供はいるが、こんな夜中だから出歩くこともない。実は最も安全なのかもしれない。

 源太は、光秀を担いでおじじのいる家の方へ向かって行く。

 それは追って行った一団の反対方向、つまり、小栗栖館の側を通って行くことになる。

 ただ、源太は見つからないと確信していた。


 長兵衛もおたおたしながら、ついて行った。





 さて、窮地を脱した脇坂以下侍たちはと言うと、追手が将棋倒しから立て直すのに、かなり時間を食ったおかげで、かなり引き離すことができた。

 追手を交わす為に、色々と工作する時間まで稼げた。山道に入ったように見せかけたり、草が生い茂る所を刀で払ったり、泥地に足跡をつけたりした。

 こうすれば、追手は可能性を消していく為にも、それぞれに人員を割いて向かわせることになる。


 一団は捜索範囲を広げることで、また分散されるのだ。

 ただ、あのパニック状態の一団がそこまで冷静になるかどうかはわからないのだが。


 脇坂達は、普通に道を進んで街道に出た所で、ちょうど反対から来た天海と出くわしたのだった。


「・・・な・・。何故、このような所に? 」


 脇坂達は、天海と会うなり動揺した。


 それよりも彼らはどうやら、天海と面識があるようだ。


「そちたち?・・そうかっ、遅かったか」

「源太という者からは、すでに勧修寺に着かれているはず、と聞いておりますのに、何故、このような所に? 」

「それはよいっ! 」

「ようござらぬっ! 何の為にわれら!・・・」

 いきり立つ脇坂を、天海は手で制した。


「案ずるな。勸修寺には無事に参って来た。首尾は今の所問題なく進んでおる」

 その言葉を聞いても、脇坂はまだ不安そうに、

「いや、勸修寺に参られたのなら猶更、坂本に向かうべきでござろうっ? この事態を収める為にも、御動座願わねば、殿を勤めた斎藤様らが浮かばれませぬっ」

「それも叶ったのだ。もうあちらを発って、こちらへ向かわれておる」

「!・・・なんと。なれば・・・」


 この一言でようやく脇坂たちの顔も和らいだ。


「しかるに、これ以上の犠牲は払えぬと思い、戻って来た。いましばらくのこと故、もはや、損な役回りを続けずとも良い」

 天海は安堵の表情を浮かべる一同の顔を一人一人見て、

「して・・・」

と、この場にいない光秀のことを尋ねた。

「それが・・・」

 脇坂たちも、これについては口ごもった。

 まさか一番大事な人間を、囮に、いや正確には贄に差し出して逃げて来たのだ。


「・・うむ、わかった。もうよい、申すな」


 脇坂との間で交わされた会話の内容は一体何を意味するのだろうか。

 いや、それもあるが、この南光坊天海と称する坊主は何者なのか、勸修寺晴豊との密会の際にあった会話、そして、経典と引き換えに貰った書状、謎は深まるばかりだ。


 その時、一同は一斉にある気配を感じ取り、刀の柄に手を掛けた。

 天海は、その気配に、またあの傀儡の術者かと思ったが、あの者の気配とはまた違う。


「・・・脇阪」

 天海は警戒を促し、気配のする方向を目で合図した。

「御意」

 脇坂も心得ている。方向は脇坂の背後になる。


 気配の相手に気取られることが無いように、全員、殺気を消し何事もなく振舞った。


 姿は見えないが、物陰からゆっくりと脇坂の背後に近づいている。

 脇坂は背中に意識を集中させ、そこに伝わって来るわずかな気配を感じ取る。


 影のようなボヤっとした者が、脇坂の間合いに近づいたのを感じ取り、脇阪は振り向き様に居合一閃。


 明らかに影のような者を真一文字に斬り捨てたが、手ごたえはない。

 本当に影だけを斬ったようだった。

 影は止まることもなく、それを追って各々斬りかかろうとするが、影は素早いスピードでするすると一同の周りをすり抜けて、刀を振り下ろす暇すら与えてくれない。


 天海たちから十分間合いの取れた位置でようやく止まったと同時に、その姿も視認できた。


 般若だ。


「何奴っ? 」

 お決まりのセリフだが、尋ねた所で当然答えるはずもない。

 分かり切ったことでも脇坂は言ってしまった。


 般若は当然、そのことについては応える気はない、が、天海を見て、


「・・・明智光秀殿とお見受けする」


と言った。


 天海は落ち着いて答えた。

「いや、拙僧は、南光坊天海と申す僧で・・・」


 般若は、薄笑いを浮かべて、天海の返事を遮る。


「お惚けめさるな。お初にお目にかかる、と申せ。私めは、何度もお目にかかっている」

 天海は、これを聞くと言い掛けた口を閉じた。


「京の町でも、二条の御所でも、前の関白様のお屋敷でも、・・・それと愛宕神社でも」

 これを聞いて、天海はある程度の察しがついた。

「なるほど・・・、鬼子母衆か。噂には聞いておった。さすがは、鳶加藤の娘御じゃ。身のこなしは大した者。ついでに、手癖の悪さもか? 」


 天海は、背中にあったはずの行李が無くなっていること、さらに、その行李が中身も入ったまま今般若が背負っている事に気が付いた。


(鬼子母め。傀儡に乗せられ、裏に気付きよったか)

 

 天海、いや、この際、改めよう。

 そうこの南光坊天海と称した男は、般若の言う通り明智日向守光秀、その人であった。


 従前からの脇坂との会話からも、それは全員が知っていたことだろう。

 つまりは、源太が助けようとしている光秀は、影武者ということになるのか、しかし、似ているわけでも無い。

 顔を知ってる者なら、般若同様、一目でわかる。

 おそらく、影武者と言うものでなく、家臣の一人が身代わりとなっているのだろう。

 ごくごく普通にあることだ。


 だからこそ、虎之介たちの包囲を抜ける際にもあのようなあり得ない行動が取れたのだろ

う。


「この書簡、確かに頂き申した」

「さすがにそればかりは、はいそうですか。と参らぬな」

「なるほど・・。ならば、如何される? 」

 般若には余裕がある。


 わざわざ姿を見せて宣言までする必要もないのだ。

 書簡を奪うだけが目的なら、あのまま影のまま立ち去っておけばいい。

 この状況でも、余裕で切り抜けられるという自信があるのだ。

 その上で、姿も見せて自身の素性と背後を示す必要があったからだろう。


(おのれ、あの傀儡使い同様に、この儂を煽るか? 捨ておけぬ輩よ。儂がこの謀についてボロを出すまで、ここから出さんつもりか? )


 天海改め光秀は、初めて焦りの表情を浮かべた。ここで、力づくで取り返すのは恐らく難しい。

 先ほどの動きを見ても相当の手練れであることは間違いない。

 またあの動きを使われたら、取り逃がしてしまうのは目に見えていた。


「では、これにて」

 般若は両手を広げると、徐々に手や足の先から全身に向けて黒くなって行く。

 不思議なことに、それを見る光秀や脇坂達の視界も黒く閉ざされて行くのだ。


「くそ、幻術かっ? おのれっ」

 苦し紛れに、一斉に般若目掛けて斬りかかるが、急速に視覚を奪われたせいで、足元もおぼつかない。

 

 脇坂には真っ暗の中でも、光の線のような物が素早く飛び交う感覚だけがあった。

 

 おそらくこれは刀の軌道か? 

と思うと、次々に、「ギャッ」という声がした。

 そして、間を置かず自分に向かって光が飛んで来た、脇坂はそれをなんとか刀で受けた。


 これらはほんの一瞬のうちに起こり、視界はすぐに戻って来た。

 当然、その場に般若の姿は無い。


 脇坂は、闇の中で聞いた声が気になり、後ろに居たはずの仲間の方を見た。


 一刀のもとに斬られ、地面に突っ伏し絶命していた。


 光秀も、刀を構えたまま、立っている。

「殿っ? 」

 脇坂は、まず光秀に無事か確認した。

 光秀は、脇坂の方も向かずに、

「うむ、大事ない」

と答えたが、その目は何かに取り付かれたように、鈍く光っている。


 脇坂は、光秀が一瞥としなくても、斬られた部下のことを思い、さらに奪われた書簡のこともあり、あのくノ一に対して並々ならぬ憎悪の感情が目に現れているのだろうと察した。


 次いで脇坂は、倒れた仲間の傍らに寄り添った。


 あくまで光秀を無事に逃がす為の囮の役であるから、元より命を捨てる覚悟で臨んではいる。

 身代わりとなった光秀もまたそうであろう。


 ただ自分一人が死にきれずにいることを仲間に心の中で詫びた。


 しかし、主君が今そこにいる以上、最後の一人として、この主君の側にあって守る事こそが武士の本懐と仲間たちも思っていることに違いないと脇坂は思い、亡骸に手を合わせた。

   

「脇阪っ! 追うぞっ! 」

「この者たちは・・? 」

「あとじゃ、あのくノ一を捨て置けぬ。全ての犠牲が無駄になる」

「はっ・・・」


 立ち上がり、光秀の後を追うが、脇坂には多少気になることがあった。

 仲間の傷跡と自分が受けた刀の感触にやや違和感があった。

 何分、まだその違和感をうまく言葉にして説明ができなかったので、光秀にも聞かずにいた。





「うるぅぅわぁぁ~っっ! 」

 時間は少し遡って、虎之介は谷を転がり落ちていた。


 谷底にまで落ちたはいいが、そこはちょうど泥地で受け身を取ろうとした両手両足はその泥に捕まって、身動きが取れない。


 そこへ、

「来たぁっ! 一気にいてまえ~っ! 」

という声がした。


 聞きなじみのある声、市松だ。

 すっかり作戦通りに疑うことなく市松や第三隊が出て来て、一気に取り囲み、一斉に虎之介目掛けて刃を突き立てた。


「いたっ! 痛たっ! 痛い痛い痛い痛いっ! いた、たたたた。いっ・・たぁい! ちゅうとんねんっ! こりゃぁっ! 」


 血塗れになった虎之介がブチ切れして刀を抜いてぶん回しだしたので、全員が逃げ出して距離を取る。

 ふと、市松がようやく気付いた。


「あれ? 親方? あーっぶっなっ! 恐いわっ! 」

「恐いの、お前らやっ! 危ないどころやないやろうがっ! 」

「文句言う前に、生きとる事が不思議ですわ。いたっいたっ言うてましたけど、それ痛いどころとちゃいまっせ」

「アホッ! 重傷やぞっ! 」

「重傷言うか、なんでまだ生きとんのか不思議なくらいですわ。そこは人として死んどかなあかん程血まみれでっせ。・・・ほんで、何で親方ですの? 」


「へ~っ?・・・何が? 」


「今、落ちてきはったでしょ? 何でですの? 」

「へっ? ああ~、そうやっ! 思い出したっ! くそっ、あのボケッ! 」

「光秀でっか? 」

「そうや、光秀やっ! あのボケッ! ってちゃうわっ! 」

「はぁ? 」

「長兵衛と源太じゃっ! あのボケ共、ぶち殺したるっ! 」

「その2人が、何しよったんでっか? 」

「えぇ、何しよったってお前? ・・あのぉ・・、そのぉ・・。何や・・その・・ほれ・・・あれやあれっ。あーっ、えーっ・・あかん、忘れた」


「はぁ? 」


「お前らが、斬ったり突っついたりするからじゃ、とにかく、まずは逆襲や!行くどっ! 」

「何の逆襲かわかりまへんけど、要するに、光秀取り逃がしたんでんな」

「わかっとっても口にするなや。嫌なやっちゃな。で、どう戻んねん? 」

「はっ? ・・え・・え~。どう戻んねん? 」


 市松が近くの手下に聞いた。聞かれた手下も突然振られたので、首を傾げるほかない様子だ。


「何や、上からここに来たんやろ? 」

「いや、なんちゅうか。・・その」

 かなり市松が言い難そうにしているので、かわりに手下が口を開いた。

「わしらも滑り落ちて来ましてん。そやし、打ち身がひどおて」


「・・何しとんねん」


 虎之介は冷静にツッコんだ。


「いや、あんたに言われたない」

市松が冷静にツッコみ返した。


「あんたって、お前・・・」


 虎之介が市松の返しにツッコミ返そうとした所、部下の一人が叫んだ。


「見とくなはれっ! あっこに道案内の看板がありまっせ」


 どうやらこの第三隊は全員、この谷底に待機していたというより、単純に遭難していたようだ。


 泥地に半分埋もれてる石碑があった。

 どうやら、これも以前に上の道から転がり落ちて来たのだろう。

 虎之介は、石碑を軽く引っこ抜き、とりあえず、足場の悪い泥地を抜けると、石碑を地面に突き立てた。

 上の道でどう立ててあったかによって方向も違うのだろうが、彼らにとって問題はそこではなかった。


「ああ~ん。・・・んーっ・・・。こらっ! 」


 虎之介は、その問題について市松に振ったが、

「はっ? ・・あ・・、あぁ~。え~・・。あ~・・」


「何て、書いてあるんでっか? 」


 ついに手下の一人が問題の核心に触れた。


 そう、まず石碑の文字が読めなかった。


 全員が首を傾げて、声を揃えて、


「・・さぁ~・・」


と言うしかなかった。





 源太と長兵衛が光秀の身代わりとも知らずに怪我の治療をするために向かっている中、おじじは、家で囲炉裏に火を焚いていた。

 もう夜中で、本来なら寝ている時間だが、源太の帰りを待っているのか、おじじは起きている。


 焚いた火をじっと見つめて、

「・・・長かったなぁ。左吉よ」

とぼそっと呟いた。


 源太の名ではない。呟いた名は〝佐吉〟という人物であった。


「その名は、亡くなったご子息の名かな? 飯田源三郎殿? 」


 家の中から声がしたが、どこにも姿は見えない。

 しかし、おじじは声に対して特に動じることなく、

「その名の者は、もう居らぬぞ」

と落ち着いた口調で返した。


 声の主は、あの傀儡の術者だ。


「ああ、そうだったな。今はこの郷の長老と言う立場だったか。なぜ、領主の地位を捨て、一介の百姓に? 隠居していた身とはいえ八幡宮の神主の地位もあったろうに」


「すでにあの頃は本殿も焼けておる」


 現在、小栗栖には小栗栖館または小栗栖砦、小栗栖城とも言われた遺構はほぼ残っていない。

 その地には小栗栖八幡宮だけがひっそりと残っている。


この小栗栖八幡宮は864(貞観4)年に創建され、意外と古くからある。

 前述した南北朝期に土着した飯田氏によって八幡宮の側に小栗栖館を構え、代々神主を勤めて来たのだが、数十年前の火事で本殿も焼失して以来、そのままであった。


「あの鳶加藤の一族が来るまで、実質的には領主として振舞っていたんだろうがな」


 おじじは、落ち着いた口調で返す。

「どこまで掴んでおる? 」


「十七年前の出来事についてまでな」

 これを聞くと、おじじはやや動揺したのか、体はピクりと反応した。


「では、源太についてのことも、ということだな・・・」

「いやいや、まだわしの憶測でしかない。確たるものはまだ掴めてはおらん」

「ならばそのままにしておけ、どうせ、お前の依頼主にとっては大した問題にはならぬ」


 傀儡の術者は、少し黙った。


 これまでの事から考えると、結構おしゃべりな男だ。

 術に対して自信があるのだろう。絶対に自分の位置が相手にわからないと踏んでいる。


 そんな奴が一瞬黙った。


 何か考えたのか、おじじの言葉にあるこの者の依頼主に言及されたことか、いや、違う。

 術者が引っ掛かったのはその次の言葉だった。


「妙なことを言うな。俺の認識だと、とてつもなく大した問題になるはずなんだがな。光秀と大きく違うみたいだ」

「・・・かもしれぬな。いや、恐らくそうであろうな」

 おじじは、ここに至るまで、じっと火を見つめたまま動いていない。


(・・・もう、これ以上、我が子を失いたくない。ここに至る生活の中でようやくそれがわかった)


 おじじは、ちょうど今から十七年前のことを思い出していた。


 おじじは、あの術者の言う通り、元の名は飯田源三郎といい、この小栗栖の地頭職を代々勤める飯田氏の当主だった。


 飯田氏は室町期に醍醐寺の坊官となり、三宝院にも本拠を構え、しばらくずっと醍醐と小栗栖を本家と分家で収めてきたが、応仁の乱で三宝院含む下醍醐の多くの門跡寺院が焼失し、醍醐寺領の民の暴動なども起こり、かなり荒れたことから、醍醐寺の坊官の地位も継承せず、本家も小栗栖館に移って、自領の統治に専念するようになった。


 幕府の権威は完全に失われ、力も財もない中、幕府のことに首を突っ込み過ぎるのは見返りも少ない上に、却ってごたごたに巻き込まれた挙句、存続を危ぶむことにもなりかねない。


 実際、応仁の乱以降、幕府内は常にごたごた続きで、巻き込まれて、えらい目に遭わされたことは幾度としてあった。

 幕府に近い醍醐寺の坊官を辞めたのも、そういう理由もあった。


 しかし、少ない石高で、一族郎党を食べさせるにはかなり厳しかった。


 この地は耕作地が少ない上に、拡げようにも限界がある。

 また、醍醐寺でも起こったように、この頃だと百姓たちも黙って年貢を納めてくれるほど大人しくもないし、田畑を捨てて逐電する者だって少なくない。


 前述した鬼子母の言葉や対応も、間違っているわけでも無い。

 米が経済の全てである以上、作り手は一人でも多い方が良いのだ。

 収入が無ければ、強引にでも作らねばならない。

 最も手っ取り早いのは、他所から奪うことだ。


 この考え方が、結局、この戦国時代の基本的な考え方と言える。

いや、人類史における戦争の根本とも言えるだろう。


 しかし、それにしたってタダで戦ができるわけでも無い。

 力も金も必要だ。

 

 そんな余力も無ければ、とにかく、自力で働くより他にない。


 頼れるのは己の力のみである。


 源三郎自ら、鍬や隙を持って、作り手のいなくなった田畑は面倒見なければ仕方がない。

 こうして一族郎党揃って、畑に出て百姓と一緒になって、なんとか収穫高を上げていく努力をしていく。


 こういうのは、別にこの地に限った話ではない。

 この時代ではどこでも見られた話だ。

 日本の歴史を見る時、大きな括りで見てしまいがちだが、これは本当にかなり上層部分の動きでしかなく、大名と言うのは、こんな小領主たちの複合体ピラミッドの頂点みたいなものだ。

 

 教科書レベルではあくまでこの点の動きを知るに過ぎない。


 つまり、自力で働いても、自領を守り切れない、それでも足りないものは足りないのだ。


 結局、誰かの配下となって、働かないと食っていけない。

 飯田氏も元から幕府に出入りはしていた家だ。

 この関係を頼れば、配下とならずも支援先くらいは見つけられる。

 飯田氏が頼ったのは、幕府奉公衆の一人で、三淵氏だった。

 源三郎の代となると、幕府では将軍足利義輝と管領細川晴元、そして、その家臣の三好長慶の間で起こったゴタゴタの最中で、正直、飯田と言うあまり聞かない小土豪のことに構ってられないが、京都近郊の者であれば、飼い慣らしておけば何か役に立つかもしれないという思惑もあったのだろう。一応、臣下のお墨付きはもらった。ただ形だけである。


 それでも、少しは効果がある。幕府奉公衆の名門から庇護を受けているという看板だけでも対外的には十分だ。

 まあ、今の京都の事情を理解している人間からすれば正直何の役にも立たないのだろう。

 もう少し事情に明るければ、恐らくこの時点で頼るべきは三好だったろう。


 ただ、選択を誤ったわけではない。

 この場合、どれを選択したところで、近い将来に悲劇がやって来るのは、後の情勢を知っている我々にはわかる。

 細川晴元も三好長慶も権力の座からいなくなり、権力のキャスティングボードはここから常に入れ替わっていくことになる。

 当時では、そんなことを誰が知り得ようか。


 源三郎には、左吉兵衛という長男がおり、長年ゴタゴタした幕府のいざこざも、その原因の細川晴元も死に、翌年には三好長慶も病死したこともあり、これでようやくしばらくは落ち着くだろうと思い、翌1565(永禄8)年の正月に、源三郎は正式に隠居を決めて、家督を左吉兵衛に譲った。




 その年の5月だった。


 今まで何も言って来なかった形ばかりの主家、三渕藤英と弟の細川藤孝から突如召集の声がかかった。 


 しかも、何かただならぬ様子で至急とのことだ。

 理由や目的は定かにしてもらえない。

 とにかく、今すぐに来いというのだ。


 一応、恩はあるから、たっての願いとあれば聞かずばなるまいと左吉兵衛は一族郎党を引き連れ、出発した。

 源三郎はもはや隠居の身だ。

 留守を預かって、息子たちを見送った。


 しかし、その後、幾日経っても、帰って来ない。

 便り一つも来ない。

 主家に尋ねようと使いを出しても、もはや京には事情を知る者は誰もいなかった。


 そんなある日、主家の使いの者がやって来た。


 十兵衛と名乗るその使いは、三歳くらいの男の子を連れて来ていた。


 ただ少し異様なのは、その男の供について来た連中だ。

 五十人くらいの一団で見るからに侍とは言えないし、かと言って百姓というには目が殺気立っていて不気味だ。

 中に同じ歳位の幼子まで数人いる。


 源三郎は、留守を預かって以降、館の清掃と手入れは欠かさぬものの、館には住まず、隠居以降にいつも世話していた畑の近くに庵を構え、そこで暮らしていた。


 この使いの一団についても、その異様さから館には入れずに、自身の庵に通した。


 この十兵衛という使いは、主家の使いとして館に通さないという扱いに憤慨することもなく、不満も口にすることもなく、素直に従った。


 そして、この十兵衛の口から源三郎は半ば覚悟はしていたが、消息が絶えた息子たちの事を聞かされた。


 全員、討ち死にしたという。


 ここに至っても仔細は言えぬと前置きしたところで、今、十兵衛の隣に座る幼子を守る為に、追手を振り切る殿を勤めて、全滅したというのだ。


 そのまま逃走したので、遺骸はおろか遺髪も遺品もない。

 敵方は、松永久秀という。

 聞いたことはあるが、確か三好長慶の家臣だった男だ。


「この子は? 」


と源三郎は尋ねた。


「今、仔細は言えぬのです。ただ、いずれはお判りになるでしょう。この子をここにお連れするのは、左吉兵衛殿の御遺言によるものです」

「左吉兵衛の? 」

「この子も何故か左吉兵衛殿にだけ心を許され、左吉兵衛殿も、我が子のように接しておられた。この子の境遇に殊の外同情されたのであろうか、この地にて匿われることを強く訴えられての」

「・・・左吉兵衛が」


 源三郎としては、正直、どこまで鵜呑みにしていいか分からない話だ。


 我が子が命を賭して守ろうとしたこの子が何者なのかも教えてもらえず。

 なぜこのようなことになったのかという経緯も分からない。

 しかもあろうことか、そんな中、この男の子をここで面倒を見ろと言う。

 息子の遺言というが、直接聞いてるわけでもない伝聞でそれを信じろというのも無理からぬことだ。


(理不尽だ)


 源三郎は憤った。


 いくら何でも理不尽が過ぎる。こんなバカな話は無い。

「三渕様は? 」

 怒りを抑えて、十兵衛に尋ねた。

「藤英殿も藤孝殿も、今は京におられぬ。いずこかに落ち延びておられる」


 これに応える必要があるのか。ここで断っても、主も消息不明であれば何も忖度する必要もない。


「お断りなさるおつもりか? 」

 十兵衛は源三郎の心中を察していた。


「であれば、なんとされる? ここで儂を斬るか? 」

 十兵衛は、その問いにすぐに答えなかった。

 沈黙は、逆にそれを認めることになる。


「この飯田はもう終わった。倅に子は無く、一族諸共討ち死にしたとあれば家名は断絶。もはや、この老いぼれの隠居にできることは何一つとして無い。斬られたところで失う物は何もないの。・・・斬ると言うのなら、それも望むところ。むしろ、願わくばここで、主への抗議として腹を切る故、そこもとには介錯の上、この素っ首を主の元にお届け願いたい」

とまで言った。


 十兵衛は、黙って聞いていた。

 そして、

「誠に御尤もな言い分」

と源三郎に頭を下げた。


「なれば、これよりはこの明智十兵衛光秀の存念を申し上げる」

と言った。


 その話を聞いてしまった源三郎は、その幼子を預かり、敵の目を欺くためにも、隠居のまま館に入らず、この庵にて百姓のように暮らし、幼子を育てた。


 その幼子こそ、源太だった。


 あれから十七年経ち、源太も二十歳となった。

 そして、この地に再び光秀が来た。


(左吉よ、今しばらくぞ。あと少しで、そなたの無念を晴らせる)

 

 今、その〝計画〟が動こうとしている。

 そして、その動きを、傀儡の術者に知られた。

「あの光秀の持つ書簡を回収するのが俺の役目だが、なんだか、それ以上の何かを考えているようだな。ならば、それも止めねばなるまい」

「息子の命と飯田の名まで奪われようとも、今日まで生きて来たのは全てこの時の為よ。あの源太をお主等の好きになんぞさせてなるものかっ! 我等積年の思いを無駄にはせんっ! 」


 おじじは、急に身を起こし床板を叩くと簡単に床板が外れ、中から太刀が出て来た。

 万が一の時の為に、この家に仕掛けがしてあったのだろう。

 老体とも思えない機敏な動きで太刀を取り、素早く気配の方向に斬り込んだ。


 気配は消えた。


(おのれ、逃げたか・・・)

と、そこへ別の気配と共に、


「裏切る気だな・・・」


と明らかに傀儡ではない、ただ聞き覚えのある声がだった。

 と思うと、〝ヒュン〟という風を切る音が耳元で鳴った。





 源太一行はようやく光秀と思っている男を抱えて家にまでたどり着いた。


 源太の思った通りで、集落は静まり返り、外に人の気配はない。


 しかし、家に着いたものの、戸は内側から棒をかましてあるのか開けられない。

 周りの家に気付かれたくないから、小さく戸を叩いたり、小声で呼んでもみたが、一向に返事も無ければ戸を開ける動きも感じ取れない。

 おじじも年で耳も遠い。最近、ややボケても来ていると思っている源太はこれでは気付かないのではないか、と思っている。

 まして、この時間なら寝ているだろうからなおさらだ。


 光秀と思っている身代わりの男は、家の壁にもたれて座らせていたが息も荒く血色も悪い。

 汗もひどい。


 本来介抱するなら、まず重くて暑い甲冑を脱がせてやるべきだろう。

 まして、季節は真夏だ。

 痛みが激しいが傷そのものは浅く重傷とも言えないが、暑さと重さで必要以上に体力を奪われていた。

 しかし、二人は百姓で、かつかなりテンパっていた。

 甲冑を脱がせればそれなりに軽くなるのに気づきもしなかった。


 この家には裏口もある。

 あまり目立って使うことも無い。

 おそらくこれも万が一の事を考えてのことだったのかもしれない。

 源太が表にいるので、裏口は長兵衛が行った。

 幼い頃から出入りしている家だから勝手は知っている。


 長兵衛が裏から戻って来た。

「あかん。裏もあかへんぞ。早う中に入らんと、こんな所誰かに見られたら大変やぞっ! 」


と、その時、背後の雑木林の方からガサガサと音がした。


 言ってるそばから、誰か来たと思い、長兵衛は竹槍を構えた。

 暗がりの中から月の差し込むところまで姿を現したのはおつるだった。


「源太! 」

「おつるちゃんっ! 」

「どないしたん? 心配したんよ。・・・そこにおるの誰? 」


「ああ、これは・・・長兵衛。おいっ! 」

 長兵衛は、おつるに竹槍を向けていた。


「源太っ! 言うなっ。こいつは飯田の者や。信用したらあかんぞ。おいっ、何しに来た? 」

「やめえな、長兵衛。うちにそんなもん向けんといてっ! あたしは好きで飯田の所におるんとちゃう。それはあんたもわかっとるやろ」

「そうやっ! 長兵衛っ! やめろっ! 」

 長兵衛の槍を握る力が少し緩んだのか、槍先が下がって来た。

「・・・、誰にも言わんか? 」


「それより、何があったん? ・・・わけがわからへん」

 源太は、長兵衛を気にしつつ、おつるの質問に答えた。

「訳あって、明智光秀を助けてもうて、俺が明智光秀を突き刺してもうて、俺が明智光秀をここまで連れ込んでしもうて、とにかく、明智光秀を手当てして、助けたいねん」


 どうやら源太はまだテンパっていたようだ。


「源太っ、言うなっ。ちゅうか、明智光秀、明智光秀って連呼すなやっ! アホかっ! 」

「お前かて、でかい声で」

 二人して未だにテンパっていた。


 それがわかってか、おつるは落ち着いていた。

 というより、

「っていうか、何言うとんのかわからへん。えっ、要は、その人は明智光秀てことなん? 」

 これに源太と長兵衛は声をそろえて、

「まっ、そういうことや」

と言った瞬間、


「え―っっっ!! 」


 おつるが絶叫したものだから、長兵衛が急いでおつるの口を塞いだ。


「アホっ。でかい声出すなっ! 」


 おつるも少し落ち着いて、

「そない言うたかて、明智光秀がなんで? ・・・そっ!それに、あのアホボンは? あんたら、落武者狩りに行っとったんやろ? 」


「あ、それ? ・・こいつがアホボンのケツに竹槍突っ込んで、」

「こいつが、谷底に突き落とした」


 互いに指を差し合い、比較的冷静にそこは答えた。


「あんたら、何しとんのっ? 」


 おつるは思わず思いっきりツッコんでしまった。


「こんなん、あの鬼子母にばれたら・・・」

長兵衛の妙な視線におつるは気付いて、

「えっ、ちょっと。アホな勘ぐりやめえやっ! こんなん言うたら、うちまでとばっちり受けてまうよ。・・・で、何しとんの? 今? 」


 おつるのその言葉でようやく、問題を思い出した。

「そやっ、おじじが出て来うへんねん。こんな時間や、出歩かへんはずやし・・・」

「裏は? 」

 おつるが聞いた。

 おつるも長兵衛と同じく出入りしていたので裏口の存在は知っている。

「いや、あかん。おれ見たけど、締まっとって」

と長兵衛が答えた。


「おらんのちゃう? 」

「中から、棒がかかっとるねんて。表も裏もやったら、間違いなく中におるってことやないか」

 割と適当に答えるおつるに源太はイライラしたのか、キツメに言った。

 

「そら、そやけど。ほな、寝とんのちゃう? おじじ耳遠いし」

「もう音も気にしてられへんな」

 そう言うと、源太は再び戸まで行って、今度思いっきり叩いて、叫んだ。

「おじじっ! おじじっ! 俺やっ! 源太やっ! 」

「おい、源太っ! 周りが起きるっ! やめっ! 」

 長兵衛は、周りが気になってびくびくしている。それもそうだ、周りに気付かれたら、後は大事になるのは目に見えている。


 これだけ、叩いて叫んでも、中から何の反応もない。

 いよいよ源太は、おじじの安否を心配する。

 もう歳だ。いつ体がどうなるか分からない。


 四の五の言ってられない。源太は強硬手段に出る。

「おじじっ! 悪いが、入るぞっ! 」

 源太は戸に体当たりを三回ほど試みて、次に助走をつけて勢い良く体当たりした。


ドカーッ! 


という音と共に、戸と一緒に源太が中へ倒れ込んだ。


 すぐに身を起こして、家の中を見回そうと顔を上げた。

 囲炉裏にまだ火がついていて、明るい。

 そもそも、土間を入れても四間四方の狭い家だ、普通に顔を上げただけで十分視界にその光景は目に飛び込んで来る。


「・・!・・・おっ・・おじじっ! 」


 中で源太のタダならぬ声におつると長兵衛も中を覗き込んだ。


「ひっ! 」

 おつるは悲鳴にもならない声と共に手を口に当て、長兵衛も驚いて腰が抜けその場にへ垂れ込んだ。


 壁には血飛沫が飛び散り、囲炉裏の脇におじじの体が横たわっているが、その体に首から上が無い。

 体から離れた頭部は首元から噴き出したであろう大量の血飛沫の先、土間に無残にも転がっていた。


 源太はおじじの首を恐る恐る拾い上げ、その顔を確認する。


 間違いなくおじじだった。首はまだ少し暖かかった。


「おじじ・・・。なんで、なんで・・。おじじっ! 」


 源太はあまりのことに状況が呑み込めず、おじじの死すら受け入れることができないでいる。


 長兵衛は、土間の先にある裏口に目をやった。


「裏口が開いとる。さっき見たときは締まってたのに・・」


「何?ほな、さっきまでおって、逃げたって言うん?ほな、まだこの近くにおるかもしれへんやん」

 ほぼ放心状態になっている源太より先に、長兵衛の方が我に返り状況を飲み込んだ。


「源太っ! ここも危険やっ! 出ようっ! 」

「待てやっ! おじじが死んでんぞっ。お前ら、なんでそんなに平気でいられるんやっ! 」


 源太も、自分でそう言った瞬間に、おじじの死を受け入れることができた。

 そうであるがゆえに、先に冷静になった二人が妙に冷たく感じた。

「平気やないから、慌てとるんやっ! 」

 長兵衛が語気を荒げた。


 それもそうだ、事態はもはや尋常ではない。

 悲しんでる暇などない。

 これは、かなり危険な状況なのは明らかだ。


「なんで、おじじが殺されなあかんねやっ! 」


 源太はまだそこまで冷静になれない。

 それもそうだろう。

 彼にとってはたった一人の親のような存在だ。

 それをいきなり、このような無残な姿で失ってしまったのだ。

 ショックで何も考えられず、動けなくなるのは無理からぬことであろう。


「飯田の鬼子母やっ! もうばれたんやっ、報復やっ! 」

 長兵衛は、すでに飯田党の報復が始まったと思ったようだ。





 光秀の身代わりの男が、源太を呼んだ。


 源太にその声は聞こえない。

 改めて、

「・・・源太・・・。」

と呼んだ。


 ようやく、おつるが気付いて、

「ちょっと、源太っ」

と源太に声を掛けた。


 源太がようやく気が付いて、光秀の身代わりの前に、源太の顔にはさっきまでの生気が感じられない。


 光秀の身代わりは、そんな源太の肩を強く掴み、源太の眼をじっと見て、

「頼みがある」

と言った。


 ずっと考え込んでた長兵衛は、ようやく結論が出たのか、源太の肩を掴んだ男の手を振り払い、改めて源太の両肩を掴んで、

「源太っ! 今からでも遅くないっ! やろうっ! 」

「やろうって何を? 」

「光秀を殺すんや。光秀の首を持って、小栗栖館に行けば、まだ、助かるかもしれへん」


 源太は、長兵衛の顔を見た。

 どうやら、やけになった発言ではない。

 割と本気で言っているのはわかった。


 確かに、おじじの件が、飯田党の報復によるものであれば、それしか助かる道は無い。端で聞いていたおつるも、暗にそれに同意しているかのように何も言わない。


「やらへん。・・・」


「源太ぁーっ! 」

 長兵衛の言っていることは恐らく正しい。

 しかし、源太はどうしても光秀を殺してまで、飯田の連中に許しを請いたくなかった。所詮、単なる意地でしかない。そんな下らない意地に長兵衛を付き合わすのは心苦しい。


 しかし、どうしても納得できないのだ。

 何かが引っ掛かる。


 悩む源太に、再び男が声を掛けた。

「・・・源太、よく聞け。小栗栖館に行け」

 またしても、自分を犠牲にしろというのか、と源太は思った。

「あかん。あんたを殺してなんて・・」


 違う。

 そうではないのだ。

 源太の中で何かが引っ掛かっている。

 それが、何か分からない。


 すると、男の口から、

「違う。そうではない」

という言葉が出た。

 源太の心の中を読まれてる気がした。

 男は続けた。

「そなた1人でも行って、助けを求めよ」


( は? )


 何を言うのかと思えば、助けを求める?

 あの飯田党に? 

 源太には全く理解できない言葉だった。

「はぁ? なんで、おじじを殺した奴に助けを求めなあかんねん」


 少しは自分のもやもやに答えてくれるのかと期待したのに、何とも期待外れな言葉に源太も苛立ちを隠すことなく男にぶつけた。

 しかし、男は、そんな源太の苛立ちに構うことなく、いきなりもやもやの核心にふれる発言をした。


「おじじと申す者を殺したのは飯田ではない」


「何? ・・・あんた、何を知っとるんや? 」


 源太の疑問に対して、この男は明らかに答えを知っている。


 その瞬間、突如、源太の背後から、男の顔面に向けて竹槍の先が一直線に飛んで来た。

 男は、これを寸での所で躱した。

 竹槍を突いたのは、当然、長兵衛であった。


「なっ! 何をしとんねんっ? 」


「お前がやらへんのなら、俺がやるっ! 邪魔すんなやっ! 」

「待てっ! 長兵衛っ! ここで、この人をやったらあかん」

「うるさいっ! 俺はまだ、死にたないっ! 」

「落ち着けっ! やったのは、飯田やないっ! なんか、あるんやっ! 」

「そんなもん。真に受けるお前がおかしいねんっ! 命乞いやっ! 」


 源太は、男の前に立ち塞がったが、男は立ち上がると、源太を押しのけ刀を抜いた。


「源太っ! ・・・よい、それより、早く行けっ! 」

「あんたもあんたで、何しようっていうねん? 」

「ほれ見い! ワシら斬って生き延びようとしとる。源太、早よどけっ! お前がまず斬られてまうぞ! 」


( なんや、どうなってるんや? )


 長兵衛が、改めて男に突きにかかろうとする瞬間に、どこからかわからないが、突然二人の間に般若が割って入って来たかと思うと、繰り出そうとしていた長兵衛の槍先を弾き、長兵衛とおつるに向けて、両手を広げた。


 光秀と脇坂に掛けた術だ。


「なんだ? 目がっ? くそぉっーっ! どこだっ? どこ行ったっ? 」

「何? 見えないっ! 」

 長兵衛とおつるの視界だけが黒く塗りつぶされる。


「双方、動くなっ! 黙って引け」


 般若はそう言うと、源太と男の方を向いて、

「これより小栗栖館まで同行願う。傷の手当てもそこでして頂く。よろしいか? 明智家重臣溝尾勝兵衛殿」

と明らかに、男の方に言った。


「・・・結構でござる」

 男は答えた。


「なんやて? 明智光秀やないのか? ・・・どういうことや? 」


「仔細は館にて話す。勝兵衛殿、書簡は我等の手にございます」

 般若の言葉に、溝尾勝兵衛という光秀の重臣は全て悟ったように、

「何? そうか・・・」

と返すのみだった。


「母、鬼子母の命によりて、館にて匿い申す」

 般若の声がしてから、急激に視界が黒くなっていく、と同時に、無数の手が源太の体に触れたかと思うと、ふわっと宙に浮く感覚になった。

 源太の意識は遠のいて行った。

 おそらく眠らされたのだろう。


 源太は自分だけが何も知らず、状況も呑み込めていないのがわかった。



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