07
作りすぎたポトフは冷めたところで冷蔵庫に。日中徒歩で移動したせいか、肌が汗ばんで気持ちが悪い。バスルームに移動してどうするかを暫し考える。バスタブに湯を張りのんびり浸かるのは心地が良いだろう。でも、今日は何故かそんな気分になれない。
結局、バスタイムはシャワーだけで済ませることにし、いつもよりも短い時間で済ませたお風呂。身体の汚れを落とすだけで、思考は大分スッキリとしてくる。未だに尾を引く感情は完全に消えてしまったわけではない。それでも、気持ちをリセットするのに御祓に似た行動というものは必要らしい。
付けっぱなしのテレビからは、今流行りの刑事ドラマの音声が聞こえる。シーンは丁度、刑事が犯人を追い詰めたところで、二人の人間が対峙するように向かい合っていた。
『なぜ……あなた…が……』
刑事だと思われる男性が目の前の相手に銃口を向けながら吐き出す言葉。
『…………なぜ……かしら……ね』
犯人らしき女性が寂しそうに笑いながら言葉を続ける。
『…………許せなかったのよ』
静かに始まる自白。それを懐かしむように遠くを見つめながら女性は過去を振り返る。
『だって、私の知っているあの人は居なくなってしまった。……あの人は、変わってしまったから……』
ドラマの全容は分からない。電源を入れた時からこの番組は流れていたのかも知れないが、真剣に見ている訳では無かったし。だから、一体何があって不幸に繋がっていたのかを把握するのは難しくて。
『あの人を変えてしまったあの娘の事が、どうしても許せなかったの』
ただ、耳に届く言葉から、何となくパターンというものを感じ取れるような気はする。作られたシナリオの中では良くある話。どうやら相手の男性は犯人の女性以外に良い仲の女性が居て、その人のせいで自分から心が離れてしまった事で起こる痴情の縺れ。その結果引き起こされた悲劇とその解答編、と言ったところだろうか。
「……うん」
画面の向こう側で展開される悲劇的なシナリオは、頭から見ていたら違って見えたのだろう。途中から見ているせいか感情移入が上手く出来ない。それでもリンクする感情があるのは、単純に自分が感じてしまっている寂しさ故のものではあった。
『ずっと一緒だって言っていたのに……』
左手の薬指で光るリング。永遠の祝福を約束されていたはずのシンボルが、今はとても冷たい色を放つ。
『あの人が選んだのは私じゃなかった』
愛おしそうに撫でながらも、瞳に宿るのは悲しみともう一つの別の感情。
『約束したのに裏切られたと知ったときの気持ち、アナタには分からないでしょう?』
少しずつ強くなる憎しみの焔。纏っていた穏やかな空気が徐々に薄暗い物へと変化していく。
『だから殺したの! 許せなかったから!!』
場を支配する緊張。刑事役の男性がゆっくりと唾を飲み込む。
『あの女さえ居なければ、あの人は帰ってきてくれるかもしれないでしょう? そう思うと身体は自然に動いてしまっていたわ。今でも鮮明に思い出すことが出来る。こうやってね……あの女の首をしめてやったの』
女性の手がゆっくりと動く。まるでそこにもう一人、首を絞められている女性が居るように行われる迫真の演技。その表情は楽しそうで……それでいて、苦しそうに歪められていて。気が付けば彼女は泣いていた。唇を噛み、嗚咽を零しながら。
『歪んでいったわ、彼女の表情が。ごめんなさい、許してって、何度も何度も私に言うの。でもね、そんなこと出来るわけないじゃない』
居もしない幻の存在。それが力なく崩れて地面へと倒れ込む。同時に犯人の彼女は両の手で顔を覆い、表情を隠してしまった。
『あの娘があの人を奪った。私にはその事実だけで十分だった。許せなかった。私の幸せを奪ってしまった彼女の事が。だから首を絞めたの。止められなかったの。だって、憎かったんですもの! 返して欲しかったの! 彼女が奪った全てを! 私だけを見てくれていたあの頃の彼を帰して欲しかった!!』
奪われたのは自分の幸せで、奪ってしまったのはあの娘の命。この嘆きは犯してしまった罪に対してのものなのか、戻すことの出来ない時に対してのものなのか、それが作中で語られることは無い。結局の所その解釈は視聴している観客に託されており、見る人間によって捉え方は様々。明確な答えというものは存在していないのだろう。
『それでも貴女は罪を犯した』
抵抗する気配が消えたことを確認した刑事は、構えていた銃を下ろすとゆっくりと彼女へ歩み寄る。
『越えてはいけない線というものは存在しているのです。それを越えてしまった以上、貴女はもう罪人だ』
ガンホルスターに銃を収めると、代わりに取り出された鉄の輪っか。鈍く光を放つ銀が、彼女の白い腕に小さな音を立てて嵌められる。
『……午後九時三十八分。被疑者、確保しました』
その場で項垂れる彼女を立ち上がらせると、支えるように肩を抱きながら刑事は歩き出す。遅れて到着した同僚や上司に犯人を引き渡すと、カメラは彼女の後を追い一度暗転。次にはもう画面が変わっており、もう暫くすると主題歌に合わせてエンドロールが画面の下に現れるはずだ。
「……あ……れ……?」
このドラマに感情移入しているつもりは無かったはずだった。それなのに、頬を伝う涙に気付き驚いてしまう。流れているメロディはどこかしら切なく、耳に届く歌詞の言葉も寂しいもので。それが先ほどのシーンにリンクして余計に気持ちが落ち込んでしまう。
「……ははっ、やだなぁ……」
あれだけ泣いたのだからもう大丈夫だろうと思って居たのは勘違いだったようだ。腰掛けていたソファの上。膝を立ててクッションを抱き、身を小さくして吐き出す溜息。誰も見ている人なんて居ないのに、泣き顔を見られるのが嫌だと思ってしまう自分に笑ってしまう。意識してしまう寂しいという感情。それを上手くコントロールすることは、今の自分にはまだまだ難しいようだ。
涙が落ち着いたところでソファから立ち上がり、顔を洗うため洗面所へと向かう。化粧鏡の向こう側に居る情けない自分は相変わらず健在。泣きはらした目が真っ赤にそまってみっともない。兎みたいだなんて可愛い表現、全く似合わないから余計に質が悪いんだと、向こう側の私自身に悪態をついてから、熱を持つ目元を覚ますように顔を洗う。
いい加減諦めなければ。肌に生温い水が触れる度そう思う。
諦めて先に進まなければ、いつまでもこのままなんだよ、と。鏡の向こう側の自分が悲しそうにこちらを見ている。
「わかってる……わよ……」
それを言葉にするのが怖くて、未だに逃げ続けている弱い自分。まだ、寄り添う孤独を受け入れる事は出来そうにない。
皮膚に付いた水滴をタオルを軽く当てることで拭き取る。保湿のための化粧水は、少し多めで湿らせたコットン。刺激を与えないように優しく皮気始めた皮膚に馴染ませた後、次に手を伸ばす美容液のボトル。プッシュの回数は決まった数で。手の平の上で揺れる透明なジェルを指で掬い、肌の上を撫でるように滑らせていく。全体的にジェルが行き渡ったところで最後は保湿クリームで潤いを閉じ込めて仕舞えばおしまい。化粧をすることが当たり前になったように、この一連の動作も、毎日当たり前のように繰り返して何年が経ったのだろう。
使い終わった道具をミラーキャビネットの所定の場所へと戻すと、軽く頬を叩いてからリビングへと戻る。付けっぱなしのままで放置していたテレビには、今注目されているお笑い芸人がMCを務めるバラエティ番組が映し出されている状態。軽快なトークでギャラリーの笑いを巧みに誘いながら進む内容に、無意識に笑い声が出てしまっていた。
黒くて大きな薄っぺらい箱の中。電波によって届けられた映像が次々と映し出されている。今回の特集は気になっていた内容だったお陰で、気が付いたら夢中になって見てしまっていて。その片手間で借りた本の文字を追う。
「撮った写真をSNSでシェアしてみたらいかがでしょう? かぁ」
折角作った料理なのだから色んな人に見て貰うと良い。そんなアドバイスに思わず目が止まる。
考えてみれば努力の成果を認めて貰うために、必ず同居人という存在を作る必要は無いのだ。そればかりに依存するのは良くないと思いながらも、誰かと繋がっていたいと思ってしまう心は誰にだって存在するもので。それが対面で言葉を貰える相手なのか、画面越しの見知らぬ誰かなのがという部分の違いは確かにありはする。それでも「頑張ったね」「美味しそうだよ」と褒めて貰うという行為に差違はないのだ。
今自分が求めているものが、そういう行為なのかの判断は難しいのだろう。それでも『情報をシェアしてみましょう』とアドバイスをされたことで、確かに背中を押して貰えた気がする。
ローテーブルの上に放置されていた携帯端末。身を乗り出してそれを手繰り寄せると、休眠させっぱなしのアカウントにログインするためアプリを起動させる。辛うじて思い出せたIDとすっかり忘れてしまったパスワード。結局、何をしても設定したパスワードを思い出すことが出来ず、登録したときのメールアドレス宛てに再発行用のURLを飛ばして新しく設定する管理コード。今度こそ忘れないためにとメモに記し、数ヶ月ぶりにマイページを表示させると、見た目のデザインが変わってしまっていることに随分驚いた。
「えっと……このボタン、何……だろう……?」
新しく追加された機能に戸惑いながら、画面に表示されたボタンをタップする。開いた画面とアイコンから機能を予想し四苦八苦。何とか目的の操作を行い投稿されたのは、先ほど作った料理の写真だ。
「うん。これで良し、と」
数枚撮ったものの中から、一番美味しそうに見えるものを選んでみた。コメントは良い言葉が思い付かずにとてもシンプルで。それでも、こうやって携帯端末以外の場所に情報が掲載されると、少しだけ嬉しく感じてしまう。
「記念すべき一枚目、だしね」
そんなことを呟いた時だった。
「え?」
指に伝わる振動。ディスプレイには投稿した写真に反応があったことを知らせる通知が表示されている。
「う……そ……」
通知をタップして確認してみると、写真の下に表示されているマークの隣に増えた数字。コメントには見たこともないアカウントから「とっても美味しそうです!」というメッセージが入力されていた。