04
鍵を外したドアノブに手を掛け開く扉。日が傾きかけたことで薄暗くなる室内には、玄関から差し込む光の部分だけ浮かび上がり舞う埃の姿が見える。歩く度に腕に負担の掛かる重たい荷物から解放されるまで、あと十数歩。それなのに室内へと足を踏み入れることを躊躇ってしまうのは、人気の無い部屋に漂う蒸し暑い空気のせいだ。開け放たれたドアから一目散にと逃げていくそれが重たくてとても気持ち悪い。
「…………はぁ……」
数秒だけ。扉に手をかけたままその場で止めた動き。
別に、部屋の中に不審者がいたとか、そういう話は一切無い。ただ、この部屋に足を踏み入れるということにどうしても気が進まないのだ。その理由は至って簡単。【この空間が、今の自分にとっては苦痛に感じるもの】になってしまっているから。
ぼんやりと暗くなっていく室内を見ていると、背後から近付く足音が耳に届く。誰かが階段を上がりこのフロアに着く気配。慌てて生温い室内へと飛び込むと、乱暴に扉を閉め鍵を掛けた。
いつもなら利用しないドアガードをかけようと思ったのはどうしてだろう。ドアスコープの向こう側を歩く人は、偶に挨拶をするアパートの住人。全く知らない顔というわけではないのに、今は自分の姿を見られたくない。しっかりかけられた鍵とドアガードは、そんな気持ちの表れだったのかもしれない。
指に食い込む荷物を腕に抱え直し廊下を歩く。暖められた室内温度のせいで、肌にじんわりと滲む汗。からからに乾いた喉が潤いが欲しいと意識を急かし、上がった息のせいで呼吸する度に肺が痛みを訴える。
『おかしい……そんなに、疲れているわけじゃない……はず……なのに……』
乾きのせいで引き攣るような違和感が走る喉を手の平で押さえながら、何とかダイニングまで移動する。荷物をテーブルの上に置き駆け寄る冷蔵庫。食器棚から取り出した小さなグラスに、数日前に作っておいた麦茶を勢いよく注ぎ喉を鳴らして飲み干していく。一杯目、二杯目……気が付けば茶色の液体はグラスから三回目の消失を果たした後だった。
「……はぁ…………はぁ…………」
急いで取り込んだ水分により、急激に冷やされていく思考。未だまとわりつく暑さに不快感を覚えはしたが、少しずつ呼吸は落ち着き、感じていた喉と胸の痛みは徐々に治まりつつある。四杯目の麦茶をグラスに注いだところで、汗をかき始めた冷水筒を冷蔵庫へと戻す。
「……はぁ……」
グラスをワークトップの端へと移動させ、放置していた荷物を取りにキッチンを出る。ダイニングテーブルの上には未だ中身が整理されていないマイバッグ。あれも、これもと詰め込んだせいでシルエットは歪に膨らんでいて。まるで出来の悪い饅頭が潰れたような姿に思わず苦笑が漏れた。
一度それらの荷物を無視して手に取ったのは空調をコントロールするためのリモコンだ。完全に沈黙していた機会に向けてスイッチを押すと、小さな電子音の後に上下の風向き調節板がゆっくりと動き出す。運転を開始した白く四角い箱状の機械からは、無機質な女性の声で設定された温度を示す数字が読み上げられ、遅れて冷たく冷やされた風が機械音と共に部屋の中へと吐き出されていく。機械の下に立つとダイレクトに吹きかかる風が心地良い。瞼を伏せその冷たさを堪能していたら、自然と涙が零れ、頬を伝い胸元に落ちた。
「……へん…なの……」
我慢していた。
我慢して、我慢して、涙をずっと堪えていた。
本当は、待ち合わせに来ないと分かった時点で泣いてしまいたかった。
周りの迷惑など考えず、大きな声を上げて泣く事が出来れば、どれだけ楽になれたのだろうかと。
それでもそれは出来ずじまいで。結局はみっともない自分をさらけ出すことは出来ず、理性が感情に歯止めをかけてしまう。
始めに入った書店でも、次に訪れた図書館でも。最後に立ち寄ったスーパーでも、何度も何度も涙は常に寄り添い囁きかけていた。『悲しいと思うのなら、泣いてスッキリすればいいじゃない』と。
それを我慢していた反動が、今、こうやって感情の爆発を起こす。
悲しくて、悲しくて、仕方が無い。
あの人が居ない。
あの人に会えない。
あの人が自分から離れていってしまう恐怖と、一人残された部屋に居るという寂しさ。
感じていた幸福が遠ざかる度、忍び寄る孤独が手を伸ばす。
いい加減に受け入れなければならないと、心の何処かでは分かっているはずなのに……
未だそれを認める事は出来ないまま。
ただ、ただ、無意味な時間だけが過ぎていくだけなのだ。
「……ど……して……」
何がいけなかったのだろう。
あの日以来、ずっと考え続けている疑問。
それは言葉だったのか、行動だったのか。未だに答えは見えてこない。
ただこういっただけだ。
『偶には感想が聞きたいんだけどな』
それに良い反応を示さなかったのは目の前に座るあの人で。
面倒臭そうに溜息を吐かれた後、無言で席を立ちこの部屋から出て行ってしまった。
慌てて後を追い掛けたけれど、異なる歩幅のせいで追いつけない距離。
漸く階段を降りきった時には、既にその人の姿はどこにも無かった。
「………………」
一度堰を切って溢れ出した涙は、なかなか止めることは難しい。少しずつ流れ出る物が増える度、口から零れる嗚咽が大きくなる。きっと今、酷い顔をしているのだろうと頭では分かっていても、どうすることも出来ないまま、鼻を啜り唇を噛む。上手く息を吸い込むことが出来ず驚いた横隔膜が痙攣を起こし吃逆を繰り返してしまう。それでも、頭の何処かでは、購入した商品の心配をしてしまうのだから呆れて物も言えない自分もそこに居て。結局は、涙が枯渇し気が晴れるまで嗚咽を零し終わるまで、その場に座り込み肩を抱え震えることしかできなかった。
漸く涙が止まった頃には、身体はすっかり冷えてしまっていた。
それもそのはずで、汗で塗れた肌や衣服は、直接当たる冷気により熱を奪われてしまっている。唯一熱いと感じるのは泣きはらして真っ赤になった目元だけ。蹌踉けながら立ち上がると、重い体を引きずるようにして洗面所へと向かう。
ユーティリティテラスへと繋がる扉を開ければ手前に洗面化粧台、奥に洗濯機がある。壁をなぞるようにして探すスイッチ。指が触れたところで軽く力を入れ明かりを点せば、狭い空間は眩しい白で照らされた。
「……はぁ……」
化粧台の前に立つと鏡に映る自分の姿。涙のせいで化粧は崩れ、セットしていたはずの髪の毛はボサボサに。身につけていた衣服も皺が寄り何ともみすぼらしい格好に見えて恥ずかしくなる。
蛇口に手を伸ばし軽く捻ると、勢いよく飛び出した水が洗面ボウルの表面に当たって飛び散っていく。いつもなら掃除が大変だと水圧を弱く調節するのに、今日は何だかそんな気分になれない。床に飛び散った水滴はそのままに、排水溝へと流れていく水をぼんやりと眺めるだけ。
「そうだ……食材……」
遠のきつつある意識を現実へと引き戻せたのは、購入してきた冷蔵食品のおかげだろう。それに気が付いたところで慌てて首を振ると、軽く顔を洗い水を止めた。
「化粧は……後で落とすか」
流れ落ちる水を手で受け止め、軽く涙で汚れた顔を洗う。外に向けて良い印象を与えるために作った仮面が綺麗に剥がれた訳では無い。中途半端に残ったこの状態は気持ちが悪かったが、買ったものが痛む方が大問題だ。慌ててダイニングへと引き返すと、起きっぱなしだったマイバッグを抱えてキッチンへと戻る。ワークトップに放置されたままのグラスの足元には、小さく広がる水たまり。中で揺れる茶色の液体はすっかり温くなってしまっていた。