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「………」
場所は変わって、『月』執務室。
混乱収まらない『花』執務室をフュンフごと放っておき、ディルと仕立て屋は移動していた。
移動まではいいのだが、現在室内にいるのは仕立て屋だけだ。ディルは席を外して十分程経つもののまだ帰ってきていない。
来客用のソファに座らされた仕立て屋は仕事にも入れずに居心地悪そうにしている。事の発端は仕立て屋が『花』執務室で多めに時間を使ってしまったせいだったから。
あまりの手持ち無沙汰に、仕立て屋が先程まで使っていた大きめの帳面を出した。中には幾つかのドレスの絵が描いてある。その中に、先程まで書いていた『花』隊長のドレスの図案も混ざっている。
ディルが戻るまでの間少しずつ手直しし、作成手順を考えてみる。彼女に似合うドレスを、完璧な形に仕上げるために。
「……待たせた」
そうして何度目かの改稿をしていると、やっと部屋の主が戻ってきた。仕立て屋は側に帳面を置いてディルに頭を下げる。
ディルはといえばずっと変わらず無表情だが、疲労を感じているのか仕立て屋と対面するようにソファに腰掛けると手を組んで俯いた。
「改めまして……、お待たせして申し訳ございません。直ぐに採寸に入りましょうか」
「……いや、まだだ」
俯いたままの顔は上がらない。
「どうされました、ディル様? 何処か体調でも悪いのですか、誰かお呼びしましょうか」
「……否。気にするな、少し待て。それだけで、いい」
仕立て屋としてはディルの心情に気付く訳もないので、執務の多忙に体調が良くないのだろうと受け止めた。……実は、名も知らぬ感情を向けている先である『花』隊長の下着姿を見てしまったせいで、まだ混乱しているだけなのだが。彼女の肌は元から白いと思っていたのに、それよりも更に白く飾り気の無い下着がディルの瞼の裏に張り付いて剥がれない。
一体この『月』隊長は短時間とはいえ何処に行っていたのだ。その疑問が仕立て屋一人では解ける筈も無く。
仕立て屋は『少し』の言葉でどれだけ待てばいいのか分からないので、再びソファに腰掛けて帳面を開くことにした。
「……それは、『花』隊長のドレスかえ?」
「え? ……ええ、そうです」
急に声を掛けられた仕立て屋が顔を上げる。ディルは膝の上の帳面に視線を向けていた。
彼女の希望を入れた図案は薄青の布地に濃い青の差し色が入るドレスだ。彼女自身は着飾る事に疎いので、細かいところはお任せになっている。
製作期限は一か月。凝ったものは作れないと先方には伝えてあるが、何の為のドレスかは仕立て屋だって聞いて知っていた。だから、誠心誠意心を込めて作ろうと思っている。
「……青、か」
ディルは、一番目を引く濃い青を示した。
しかし仕立て屋は、布地の薄青だと受け止めて肯定する。
「はい。『花』隊長様はこちらの色をお選びになりました。完成したドレスをお召しいただくのが私も楽しみで――」
「あの者が、選んだ? 青をか」
その一言で、ディルの胸が激しく痛んだ。
差し色になっている濃い青は、アルセン王家の血を引く者が髪に宿す色に似ている。厳密に言えば彼らの髪の色は濃紺だが、王子が婚約者を選ぶ場所で纏う服に、王家の者を示す象徴とも言える色に近いものを入れる意味。
彼女は、乗り気でない訳ではない。
寧ろ、自分を選んでほしいとさえ思っている?
「ええ。ソルビット様は御悩みでしたが、結果的にはこちらのお色で決まりました。早速今日から取り掛かろうと思っています。勿論、ディル様の御衣装も全力を尽くしますので、ご心配は無用です!」
「……いや」
胸が、締め付けられている。
実際は何にも縛られていないというのに、軋んで痛む胸に無意識に手を当てた。
痛い。
痛くて、苦しい。
「我の物は、後回しで構わぬ。……我の礼服が不完全でも良い。『花』隊長の、このドレスを……完全な形で、用意しろ」
「え……? で、ですがディル様、お話は聞いております。貴方様も理由があって礼服で参加されると」
「それでも、だ」
このドレスが完成しなければいいと思っている。
何かの理由で、彼女が婚約者候補から除外されればいいと願っている。
先程見た、何の飾り気も無い下着に包まれたあの肢体が、誰かの眼前に晒される日が永遠に来なければいいと。
けれど、それは彼女の願いではない。
自分の欲求の延長線上の足枷を、彼女の細い足首に掛ける訳には行かない。
かのじょが、しあわせになればいい。
「あの者の未来が、掛かっている。……ドレスを仕立てた女人の中から王妃となる者が現れたら、汝にも良い宣伝になろう?」
しあわせになれと、くちさきだけでねがうことくらい、どうかゆるしてほしい。
「それはそうですが……いえ、ありがとうございます。ですが、大丈夫です。どちらにも手は抜きませんので!」
仕立て屋は笑って見せたが、ディルにはその笑顔に返せるものを何も持っていない。
仕事の熱意を汲み取って、一度だけ頷くと立ち上がる。採寸を始める為だ。
「ディル様の礼服を仕立てるのはいつ以来でしょうか。体型に変化は無いとお見受けしますが、司祭服とは違いますので、少し念入りに測らせていただきますね」
「……では、そのように」
こういった事に疎いのはディルも同じで、図案も全て仕立て屋の言葉に任せる事にした。
新しい服が作られるというのに、ディルの心は浮かない。
図案通りのドレスを彼女が纏う所を想像すると、思考の中の彼女の美しさを現実にも見たいと願う。
けれどその美しさが自分に向けられたものではないことに、苦痛さえ覚えてしまう。
このドレスを着た姿を見れば、アールヴァリンの心も想い人から彼女に動いてしまうかも知れない。それは喜ばしい話の筈だけれど。
彼女はきっと幸せになる。周囲が幸せを願ってくれるような女性だ。そして彼女は伴侶のことも幸せにするだろう。
その幸せを心から願えない自分には、いつか報いが来る。
五番街にある『花』隊長の育ての親が経営する酒場には一か月の間行けなかった。
行こうと思えば行けたが、王子の晴れ舞台に粗相をする訳にもいかず、入念な下準備を強制された。それを自分への言い訳に、ディルは仕事と準備に時間を使った。
ソルビットは相変わらず城内で擦れ違っても不機嫌な表情を隠さない。
『花』隊長はいつにも増して多忙な日々を送り、遠目からやっとその姿を見せる程度になった。
たった一か月だ。遠征任務があれば、それよりも会う頻度は少ないというのに。
その一か月で、ディルの『人形』『氷』と評されていた筈の精神は大きく揺らいでいた。
時間は無慈悲に過ぎる。
そして雪の降る夜、アールヴァリンの誕生日がやって来た。
誕生日一週間前に、王妃殿下より直々に誕生祝い出席の命令が出た。『花』隊長にも同じ命令が届いているらしく、その指示を待っていたかのように城内が浮ついた。
王家嫡男の成人は確かに喜ばしい。子供だと侮られていたアールヴァリンだが、昨日今日で何も変わる訳が無いのに陰口は成りを潜める。次期国王としての将来像の輪郭が鮮明になってきたのだ、今までと同じように見下した振る舞いを続けているとそっくりそのまま返って来る。
ディルにとっては王子だろうが騎士だろうがアールヴァリンはアールヴァリンだ。彼に対する振る舞いが変化する訳はない。
それが例え、『花』隊長と婚約したとしても。
誕生日当日の『月』隊としての仕事は城下の警邏だ。『鳥』は賓客棟、『風』は会場と周辺、『花』は王城全体。しかしその警邏の配置には、夕暮れから先は隊長達は除外されている。
ディルも、夕暮れを待たずしてフュンフに連れ出される。自分達の執務室で、礼服に着替えるためだ。
「……」
分厚い黒の生地に金の刺繍、肩の飾りまで豪奢な上着は太腿の半ばまで裾が伸びている。肩飾りは刺繡と同じ色の飾り紐が取り付けられ、貴族が着る服のような重厚な威厳を漂わせていた。
あまり趣味ではない。仕立て屋に任せたから仕方ないのだが、ディルとしてはもっと身軽で飾りの少ない服の方が動きやすかった。
フュンフは最終確認として、着替え終わったディルの礼服の調整にしか部屋に入らなかった。これまでフュンフはディルの着替えを一度として見た事が無い。
「ディル様、いよいよ本番ですね。今日が終われば元通りの生活に戻れます、あと暫しの我慢です」
皺ひとつ無い筈のディルの上着の裾を丹念に伸ばしながら、、フュンフが安堵混じりの声を漏らす。
今日までディルは慣れない命令に乱されていた。王女に対する当て馬役の婚約者候補だ。内面はどうあれ外見が飛び抜けて秀麗な騎士隊長が婚約者候補として側に居る、となると他の婚約者候補は外見を補って余りある程の財力や利点を見せつけないといけない。そうして始まる婚約者の座争奪戦に、ディルは加わる気は一切ない。
フュンフだって当の本人だって、婚約者として選ばれるとは思っていなかった。だから、心を乱す理由は他にある。
「元通り……か」
ディルの声が漏れる。
本当に元通りになれるのか、ディルには分からない。それがディルの本当に望んでいる形とは違う事は分かる。
「フュンフ、……あとは、任せる」
「はっ。御安心ください、不埒な輩は見逃しません」
「……では、行って来る」
その一言だけでフュンフに全て任せて、執務室を出て行った。
結局自分がどうしたいのかも分からない。
『花』隊長が誰かと幸せになる未来を拒みながら、彼女が笑顔でいられる世界を望む。
彼女について考えるたびに混乱してばかりだ。答えが出ないなら考えなければいいのに、彼女の事が頭から離れない。
こんな状態で、婚約者候補として王女の前に出て良いのか?
「ディルぅ?」
そして執務室を出てほんの数歩。まだ『月』執務室の、修理されたばかりの扉が見えているというのに滅多に聞かない声が耳に届いた。
声は女のものだ。聞いていたいと望んだ女性の声ではない。彼女よりも少々高く、僅かに粘性を持つ声だ。
声が聞こえた方向に顔を向けると、祝い事の為に灯りを多く点された廊下で濃紺の長い巻き毛が目に入る。白い肌に鮮やかな色の化粧を施した女の微笑みは、他者が見れば蠱惑的とでも表現するのではないか。纏っている服は髪色を引き立たせるための生成り色のドレス。真っ赤な口紅は、まだ成人していないというのに年齢不相応の色気を湛えている。心無い者からは女狐と呼ばれる、女性としての魅力を漂わせた王女。
「お疲れ様。あらまぁ、その服よく似合ってるわ。それ、私の為に誂えたのよね?」
「……アールキリア殿下」
アールキリア・R・アルセン。
第一王女として王家に名を連ねる齢十六の女だ。冬を越えれば十七になる彼女は、件の婿探しの余興に付き合わされる一人。
ディルを婚約者候補の一人とする今回の祝い事の準主役が、『月』執務室に来ようとしているのが疑問だった。既に会場に入るか控室で待機しているかと思ったが、今こうして控えの者も居ない状態で城内を動いているのが不思議だった。
「先に一目見ておこうと思ったの。私の婚約者候補として立つ騎士隊長がどんな服を着て来るか、って。とてもいい服だと思うわよ、けれど貴方が貴方の意思で仕立てたものでは無いってことがよく分かる」
「……何故?」
「分かるわよ。私はアルセン王国の第一王女なのよ? 騎士隊長達がどんな趣味嗜好しているか知っていて当然だわ。貴方は一番分かりにくいけれど、そんな派手な格好を好きでするような男じゃないってことは理解しているつもりなの。ダーリャでもあるまいし貴方が金色を身に纏うなんて、まるで質の悪い冗談ね。城内に暗殺者が出たって話を聞く方がもっと楽しいわ」
「祝い事で着るに相応しければ、色は関係あるまい」
「完全に私の事が眼中にないって意思を見せられて、不快にならない婚約者候補っていないわよぉ」
白い絹の手袋で覆われた指で、扇のように自分を仰ぐ姫。
言葉に棘はあるものの、その態度こそがいつもの王女だ。アールヴァリンを兄に持ちながら、彼に母の胎内にある穏やかな部分を全て持って行かれてしまったかのように饒舌で辛辣。
奥歯に物が挟まったような言い方をされるのは好きではないディルだが、王女の事も好きでは無かった。彼女の物言いは、意図的に誰かを傷付けるのに特化した言葉選びだから。
「でも、下手に色気出されても困ったからそれは別に良いの。私、例え貴方と政略結婚したとしても側にいたくないから」
「……ふん」
「顔はいいの。ディルの顔は私としても好みよ。でもね、私は扱いやすい人が好き。私より馬鹿だったらもっと好き。貴方、絶対私に転がされてくれる人じゃ無いのよねぇ。貴方と結婚するくらいだったら私の顔と体目当てで簡単に転がってくれる他国の年寄りでも捕まえて早世される方が何倍もマシよ」
「話が早くて、此方としても有難い限り」
互いに婚約者候補として接する意思は全く無い。
年齢にそぐわぬ現実主義に、ディルが逆に感心した。欲の為に自分を最大限利用とする姿勢は、王家の者として理想的なのかも知れなかった。
打算と計算で立っている。着飾った姿は、刃を持たぬ王女の武器。
「だから、ね。ディル。いいのよ、来なくて」
その武器をひけらかしながら、王女が鈴を転がすような声で笑った。
「お父様って、言ったら悪いけど滅茶苦茶鈍感なのよ。貴方が会場に来ることで、お父様に貴方が乗り気って誤解されたらお互いに大変なことになるかも知れない。来たくなかったら来なくていい。来ても貴方に良い事なんて何一つないわ。貴方のその格好を見せびらかしてやれないのは残念だけれど」
王女でなければ無礼でしかない口調に、ディルは憤慨することも無く目を伏せた。
行かなくていい、と言われても命令は命令だ。自分の意思で無視していいものでは無くて。
「それに、――もきっと、貴方の姿を会場で見たくないって思ってるわ」
ディルの言葉を強く動かしたのは、アールキリアが口にした名前だった。
それは『花』隊長のもの。
自分でも思っていたが、第三者から改めて言われると胸を突き刺すような不快感が押し寄せた。
再び開いた瞼の先の視界で、王女の巻き毛がディルを嘲笑うように揺れる。
「私の言いたい事はこれで終わり。どう、ディル。貴方から私に言いたい事はあって? 今なら無礼講で許してあげるわ」
「……否」
「そう。良かった、こういう所で長話もしたくないから。それじゃ私は会場に行くから、本当に気が乗った時以外来なくていいわよ」
冷たい一言を残して、踵を返して廊下を進むアールキリア。
ディルはその背中を視線で追うだけで、廊下向こうに姿が消えるまで動かなかった。
別に王女の言葉が衝撃的だったからではない。一緒に居たくないと言われた女と同じ方向に進みたくなかっただけ。
王女の姿が消えて漸く、ディルはフュンフにまだ近くに居ると気付かれぬように歩き出す。
目的地は何処でも良かった。
会場以外の何処かへ。出来れば、何も余計な事を考えなくて済むように。
そうしてディルは行く当てのないまま、王城内を哨戒という名目で流れ歩くことになる。