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自身の思考を言語化する。
感情を伝える。
それをディルに強いるのは難易度の高い話だった。
ソルビットが『月』執務室を出て行ったあと、考え事をすると言って執務の全てをフュンフに押し付けて隊舎の自室に戻ったディル。ひとりきりになったのは、まだ日も沈んでいない夕方だ。
食事は部屋に置いてある戦闘糧食の予備で済ますことにする。城仕えのものには『不味い』『味が無い』『噛まずに飲み込まないとやってられない』などと大不評だが、ディルにとって食事は義務なので胃に入って動けるだけの滋養が取れるならそれでいい。紙に包まれたぼそぼそとした口触りのそれを、寝台に腰掛けたディルは無言で口に入れる。供する飲み物も水だけだ。
味なんて、これまで気にしたことはない。同時に食欲にも疎いので、必要量を口にしてそのまま寝転がる。
ディルは幼い頃から感情を抑圧されて生きていた。幼いながら逆らわずに生きていたのは、ディルも生まれながらに感情が希薄だったから。それを助長するような幼い頃の生活を送ったディルには、先代『月』隊長のダーリャでもどうしようもなかった。もとより、多忙な彼はディルに深く関わる事も出来なかったが。
ディルは『花』隊長と関わるようになって、初めて自分の感情というものに目を向けてみた。
彼女は信頼に値する。
だから側に居ると不快ではない。
けれど距離が近ければ近い程、心に騒めきを覚える。同時に心に圧し掛かる重さは彼女を厭っているということか?
彼女のような有能な人材に、その才能を継ぐ子供がいないことは憂慮すべきことだろう。
分かっているのに、ディルは彼女が誰かを特別な存在として伴侶を取る事に焦燥感を覚える。それが本当に焦燥なのだろうか、と考え直してみるが答えは出なかった。
自分に他人行儀なのも、苦しい。
彼女が下級士官だった頃から知り合っている。その頃はまだ会話も通常通りに交わせていた筈だし、彼女から話しかけてくれた。今では、そんな事殆ど無い。笑顔も、ディルに向くことは殆ど無い。
だから、今の願いは『彼女に以前のように接して欲しい』。ただそれだけしか思い浮かばなかった。
『貴方が人形じゃなく、心を持った生き物だっていうんなら。少しだけ、ちょっとだけ、がこの先もずっと続きます』
ソルビットの言葉が脳裏に蘇る。
「……人形、か」
自分を差した嘲りだというのは前から知っている。けれど、自分が人形でないという事は文字通り痛い程分かっていた。
寧ろ、そうあって欲しかったと願うのも。
もし人形であったなら、痛みを感じる事も欲求を抱くこともない。『花』隊長の事を考えて思い悩むこともないだろう。
剣を振るうだけの人形でいられたら、苦しみとは無縁の筈だ。
深く息を吸って、目を閉じる。まだ明るいからか、睡魔は訪れない。
すこしずつ。
すこしずつ、おかしくなる。
どうすればいい。
元の関係に戻りたいのか、それとも彼女を知らなかった頃の自分に戻りたいのか。
ソルビットから考えろと言われたけれど、考えたところでどうなる。
希望など、抱くだけ無駄だから。
次の日になり、執務室に入ると書類は殆ど片付いていた。代償はフュンフの目の下の隈だ。
寝不足のせいかいつも以上に不機嫌な様子のフュンフを気遣ってやっても良かったのだが、彼は彼でいつも通りに今日の執務について話し始める。
「本日は昼休憩前に一件、執務以外の別件を入れております」
「別件?」
「式典用の礼服作成の為の採寸です。ソルが……ソルビットが、『花』隊長の為に業者を呼んだというのでその後にこちらの予約も入れるよう言いつけております。業者が来るまでは待機となりますので、招集等が無ければご自由にお過ごしください」
「自由……。汝と修練場にでも行くかえ」
「御勘弁を。今日の体調では私は隊長に御満足いただける動きが出来ません故に」
「防具を付けて立っているだけで構わぬ」
「おやめください」
腹心を木偶人形にする気しか見えない言葉は即座に断られた。
空き時間にするような趣味も無いので仕方なしに、これまで配られていた閲覧用書類に目を通す。
『花鳥風月』各隊からの報告と、物資在庫と、予算配分。『月』各分隊所属名簿と、『月』担当孤児院からの報告書、等々。ここにあるすべての書類はフュンフの頭の中に全て入っている。だから、ディルも目を通すだけでいいのだが。
「……ふん」
下から二枚目に回されていた書類でディルの指が止まる。
それまでは国内の報告書だった。しかし、下の二枚は国外の報告書だ。
国家の象徴として王を据えているが政治は国民が舵を取る共和国。
小国同士が結託して中立の立場を取っている連合加盟国。
エルフが王となりエルフの為だけの政治をしている国家もある。
そして一番アルセンが頭を抱えている国外の問題は近隣国家の中でも隣の国にある、皇帝を元首に据えた帝国に纏わる。
その帝国の動きが、少しずつ不穏になっているというのだ。
「どうされました、隊長?」
「帝国についての報告書を、今更見ようとは思わなかった」
「……『風』からの定期報告です。読まれても気分の良くなるものではないと思いますが、目を通していただければ」
前年度より課された重税。
冬を迎え畑の労働の手が少なくなる時期に、端の村にまで徴兵に向かう役人の姿。
どう好意的に見ようとしても、再び戦火を巻き起こそうとする魂胆が透けていた。
「また、戦争か」
「……」
「領土を幾ら掌中に収めようと、最期に所有できるのは死して骨になり収められる空間のみだというのに。火葬でも土葬でも、その空間の広さに大差はない」
「欲深い者の思考は、分からないものです。高い場所に設置された椅子から地を見下ろす者共が、地上でのたうつ者の苦痛を感じることはない」
今すぐ国同士での戦争が始まる事はない。戦争にはそれなりの大義名分が必要だという事も、二人には分かっていた。
書類を読み終えて書類棚に置き直して一息ついても、まだ業者が来る様子はない。女性の衣装は仕立ても着替えも時間が掛かるとは知っているが、採寸だけというなら直ぐに終わるだろう、というのが男の考えだ。
時計の針は進む。執務開始時間から一時間経ち二時間経ち、ついには正午十分前になろうと業者は来ない。
ディルは別に待つのは苦ではない。しかし寝不足であるフュンフは限界に達していた。
「……遅い!!」
目は血走り始めている。一晩二晩の徹夜ならば耐えられる筈のフュンフだが、心労が祟ったのだろう。ディルの乱心にソルビットの暴言に、と気を揉みすぎたせいで疲労が溜まっている。
それで自分のせいだと反省するディルでもないけれど。
「業者は何をしているのだ、指定の時間まで間が無いというのに……!」
「そういうものだろう。王城部外者を呼んでいるのだ、こちらとしても焦る理由はない」
「申し訳ありませんが隊長、私も休息を頂かないと仕事が捗りませんので」
「……ならば先程の時間まで寝ていれば良かったであろ」
実際、今日はいつも以上に予定がない。フュンフが先回りして執務を終わらせてくれているお陰だが、それで体調を崩されてもディルだってありがた迷惑だ。
次第に苛々を隠せなくなって来ているフュンフ。ディルがその様子を静観していると、フュンフはふらりと体を横に揺らしながら背を向けた。
「『花』執務室に行って様子を見てまいります」
「……本気か」
「急かしてでも予定を済まさない事には、こちらも動けません。昼からは視察も入っております、これ以上こちらの時間が浪費されるのは許されない」
「止めはしない」
自分達は待てても、時間は待ってくれない。
フュンフの言葉を肯定する振りをしながら、ディルも椅子から立ち上がった。
「我も行こう」
「良いのですか? 私が呼んでくるまでお待ちいただいても」
「座ってばかりでは体に良くない。……汝が言った事であろ」
かつてフュンフから言われた言葉を盾に使って、二人で執務室を後にする。
実際の所、一目でも『花』隊長の顔を見ておきたかったからという理由があるのにフュンフは気付いているだろうか。
王城内の他の施設と比べれば、比較的近くにある他隊長執務室。それを二人は道を違えることもなく進む。途中で擦れ違った『花』の騎士達は、『月』の隊長副隊長の予告ない出現に皆驚いていた。特に、広まったままディルは特に否定していない『一夜を共にした』の噂のせいでもあるが。
フュンフはそれを快く思っていないので、無駄に声を潜めて話をしだす無作法な連中には怒りの籠った一瞥をくれてやった。
けれどディルは、無責任な噂話を流されていても不愉快にはならない。
「……『花』は隊長から下級士官に至るまで頭も口も軽い者ばかりで嫌になります」
「その中には汝の妹も入っているだろうが良いのかえ」
「……………」
フュンフはやはり寝不足らしく、普段だったらソルビットを除外して言っていただろう嫌味にもいつもより冴えがない。ディルの指摘で更に不機嫌になったフュンフが歩幅も大きく道を行く。
引き離されてしまった二人の距離は、『花』執務室目の前で再び縮まった。そして足を止めたフュンフは無遠慮に数度扉を殴りつける。
「入るぞ」
中から来るであろう返事を待たずして、フュンフが扉に手を掛ける。昨日ソルビットからされたのと同じ事だ。意趣返しをするなど、兄妹らしい。ディルはフュンフの一歩後ろでそんな事を考えていた。
――しかし。
「っひ」
ディルも。
扉を開けたフュンフも。
中の光景に一瞬硬直してしまった。
「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!?」
『花』隊長が下着姿で室内にいた。
色気も何もない、平たい胸を更に押し潰すような上半身の胸当てと、臍の下から大腿部の半ばまでを包んで隠す下半身の下着を晒したまま。
大音量で響き渡る叫び声。
招かれざる客に喉が張り裂けそうな程叫ぶ『花』隊長。
配慮に欠けすぎた兄に対して呆気に取られるソルビット。
仕事をしていたであろう固まる仕立て屋と女従達。
たった一瞬の悲劇が齎した修羅場は大混乱を招き、『花』隊長の手からフュンフへ物が乱れ飛ぶ。
ディルは平静を保った顔をしていたが思考が停止し、暫くの間動けなくなってしまった。