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「んで、あたしが呼ばれたって訳?」
場所は変わり、扉が消失した『月』執務室。アールヴァリンの言葉通り、相談するに相応しい人材が二時間ほどでやってきた。
中に用意されている来客用のソファに足を組んで座るせいで、丈の短い裾からは肌が露わになっている。滑らかな素足が覗く、目のやり場に困る光景だというのにディルは全く意に介していない。
彼女は事の顛末をアールヴァリンの口から聞かされているであろうに、執務室にやってくるなり仔細を一から聞いてくる。そんなソルビットに対応しているのが『月』副隊長であるフュンフだ。
ふんふん言いながら彼の口からされる説明を聞いて、一番最後に被相談役が吐き捨てたのは。
「馬鹿じゃね」
そんな無礼千万な一言。
「ソル、お前は『月』を統べる隊長に向かって何と無礼な口を!」
耐えられなかったのはフュンフの方だった。
眉間に寄った皺の数を茶化すように数える傾国の『宝石』は唇と尖らせて茶化してみせる。
相談役として連れて来られたのはアルセンが誇る『宝石』、口さがない者からの仇名は『雌猫』。『花』副隊長を務めるソルビットだ。
「えー? 何自分は違うみたいなこと言ってんの。馬鹿なのは兄貴もだよ。『月』はマジで揃いも揃って童貞ばっかで嫌になる」
清らかな異性経験を切り捨てられてフュンフが口を閉ざした。
かつては『風』の隊員として国内外問わずに有力者を骨抜きにして回っていた、元諜報部隊所属のソルビット。男女問わず惚れさせた者は数知れず、任務の為ならば淑やかにでも情熱的にでもなれる変幻自在の女。
そんな彼女がただひとり心を許し、傍に居たいと願った人物こそ『花』隊長。
「ソル、しかし隊長は昨日『花』隊長と」
「あー、あの噂? 何もなかったらしいよ。たいちょー言ってた」
「何と!?」
「だいたいヴァリンもおかしくない? ヴァリンで解決できる話だったでしょ、わざわざあたしをこんな話に引っ張りこむ意味ってなくない? あたしだって暇じゃないのよね。たいちょーの礼服とか仕立てるのに業者の予約取らないといけないし、それでなくとも今たいちょー仕事どころじゃないから執務溜まりまくってるってのに」
「……可能な限り、手短に済まそう」
ぷりぷり怒っているソルビットに、ディルが声を掛けた。その表情はいつもの無感情で、ソルビットが眉間に皺を寄せる。
フュンフが紅茶を運んできた。ディルとソルビットの二人分。ディルはソファには座らずに執務机にいるので、二人の距離は開いている。
「『花』隊長が、個人的に好ましく思っている者がいると聞いた。……と、先程フュンフが話したのは聞いていたな?」
「ええ、聞きましたよ。ヴァリン……アールヴァリン殿下からも聞いてます。なので、その辺りはそこそこ理解出来ていると思っていますが」
「それが誰であるか、聞かせろ」
冷たい声で言い放たれた命令を聞き流しながら、ソルビットが紅茶のカップに指を掛けた。淑女然とした仕草で香りを堪能する。
はぁ、と漏れ出た溜息は香りに対する感想か、それともディルに対する呆れか。
仕事ではなく私情で呼ばれているのだから、払う敬意も何もないとばかりにソルビットは傍若無人に振舞う。
「お聞かせしたらどうされるんです? まさか、たいちょーの想い人を害そうだなんて思ってませんよねぇ?」
「……問いに問いを返すな」
「お言葉ですけれど。聞かれて『はいそうですかぁー、あいつですよウフフ』って言えるほどあたしは口が軽くないんですよ。それでなくとも、自分の力でどうにか状況を打開しようっていう根性が見えない男には何も言う事はありません」
ソルビットは香りを堪能するだけで、紅茶に口をつけようとはしない。そのままソーサーにカップを降ろす。
フュンフが二人の会話に棘を感じて勝手に焦れた。二人の存在は彼にとって形は違えど特別だから。
「打開と言ったな。ソル、お前にとってどう行動すれば『打開』となる? 例えば、隊長がどうすればいいと考える」
「まぁ、そもそも兄貴だって色々知ってんだから兄貴の口から言えば済むことなんじゃないかなぁ」
「…………それは」
何やらもごもごと口を動かすフュンフに、ディルが冷たい視線を投げかけた。
この兄妹は全てお見通しの顔をしながら、悩んでいるディルに決定的な言葉を寄越さない。それに不愉快さを覚えても、フュンフはともかくソルビットには強く言う事が出来なかった。
ソルビットにどれだけ『花』隊長が目を掛けているか知っていた。ソルビットを『風』隊から引き抜いてまで副隊長にしたのは彼女なのだから。
「……我は、あの者が好意を寄せる者に成り代わろうなどとは思っていない」
ディルの本心は、口にすればするほど複雑だった。
「あの者が、好ましく思う者。……どうすれば、あの者に好意を抱かれる。何をすれば、あの者は我を見る? あの瞳が、我を捉える? 我を気に掛ける? 今よりも少しだけでいい、それで構わない。……あの者が、我に無関心なのは、以前より知っている。その者と同じ行為を我がすれば、『花』隊長は我を少しでも気にするやも知れぬ」
「…………はぁ」
「我一人では、浮かぶ案に限界がある。『打開』とはどうすればいい。汝であれば、我が問いなど直ぐに答えが出せるのだろうな」
「答えってか……無礼を承知で言わせてもらいますと。こういった相談を、巷では何と言うか知っていますか?」
「何と言うか? ……『会議』……違うか。『招集』『対応策立案』」
「本気で言ってんですかねぇ!!!?」
「ソル、落ち着け! 落ち着いてくれ!!」
恋愛相談だこのウスラトンカチ、と叫びそうになる口をフュンフが塞いだ。
ディルが壊した扉のせいで、ソルビットの怒声が廊下向こうまで響き渡る。立ち上がろうとした妹を抑え込むフュンフの額には、季節柄寒いというのに冷や汗が流れていた。
こんなクソ鈍男に四隊長の一角を担わせて大丈夫かとソルビットが激昂する。他の一角である『花』隊長もどうしようもなく奥手なのだが。
「マジでどうかしてない!? とぼけるのも大概にして欲しいんですけどねぇ!? あたしがディル様だったなら、あんなたいちょーなんて隊舎に送らないでさくっと食ってるってのに!!」
「エンダも似たような事を言っていたが、汝ら『風』に所縁を持つ者は同族の肉を好むのかえ?」
「だあああああああああああああああああああああ面倒くせえええええ!!」
俗な話が全く通じない。
発狂しそうになっている妹を不憫に見つめながら、フュンフが眉根を下げる。
けれどソルビットは自分の機嫌を取る方法は熟知していた。ひとしきり呻いて喚いて、かと思えば途端に無表情になる。乱した髪を手櫛で整えて、ソファに座る体を整えた。足を組み直せば、先程の発狂が無かったかのような姿になる。
「他人から尋ね聞いた打開策で、あのひとの気持ちが自分に向くとお思いですか、ディル様?」
「……」
そして話は本筋に戻る。そうしているとまるで多重人格者のようだ。先程まで見せていた乱心を掻き消し、ソルビットの指は再びカップを手にした。
「誰かからの入れ知恵で拐かされる女なら、ずっと前に他の誰かのものになってたでしょうね。……あのひとが、何を求めているか……ディル様は本当に分からないと言うのですか」
失望を隠し切れないソルビットは、ほんの一口だけ紅茶を口にした。
甘さは無いが、馥郁たる香りに似合った茶葉の味が感じられる。恐らくは『花』隊で普段愛飲しているものよりも値の張るもの。どうせ、フュンフが選んでディルが味わいもせず許可したものだろう。
「……求めるもの」
言われて漸く考え出したらしいディルの様子を、冷ややかな目で見つめるソルビット。
『花』隊長は、ディルを人形と呼ばれることを嫌っている。彼女が想うこの男が生きて意志持つ存在だということを否定されたくないのだ。
けれどソルビットにとってこの男は人形そのものにしか思えない。考える頭があるというのに思考を放棄し続けるなど許される事ではない。ディルの生まれを知らないからこそ思う事だが、ソルビットはきっと知っていても同じ印象を抱いただろう。
想い人に想われておきながら、気付かずに四苦八苦する馬鹿なんて。
「……。………分からぬ。だが、……もしあの者が、何かを欲しているとしたら。それは高価なものなのだろうか? 我の俸給で賄えるものだとしたら、糸目はつけぬつもりだ」
「……は……」
「ソルビット、汝はあの者が求めるものを知っているのか。それは幾らだ。何処で手に入る」
「…………」
「それとも、あの者に直接そう問うた方がいいのか」
ソルビットがその質問を投げかけられた瞬間。
彼女の心の中の天秤が今まで以上に、失望に大きく傾いた。
「……はー。この紅茶美味しいですね。ねぇ兄貴、これ国内産? 違うよね、高かったよね?」
「は……? ソル、急に何を」
「あたしらってさ、来客用と自分達が飲む用の紅茶って別なんだよ。でも兄貴ってば、多分これ自分達でも飲んでるよね。たいちょーってばさ、そこそこ良い俸給貰ってる筈なのにあんまりお金使わないんだよね。あの人貯金が趣味だから、必要以上に使いたがらなくて。贅沢しようと思えばできるのに、私生活は質素なんだよ。お酒飲む時は別だけど、服も装飾品も欲しがらない。あの人の心を動かすのはね、お金じゃないんだよねぇ」
実体の無い天秤が傾くままに、ソルビットの手指さえもが下を向く。
水平を保てなくなったカップから、紅茶が床に残らず流れ落ちた。絨毯が紅茶を吸い込んで濡れる。
「あたしの隊長を、これ以上侮辱するな」
ソルビットは静かに怒りを湛えながら、ディルを見据えた。
「金であのひとの心が動くと思ってるのか。あたしのあのひとが、金なんかで想い人から目が逸れると本気で考えてるのか。あのひとにそんなクソみたいな質問投げてみてくださいよ、勝てなくても、あたしが逆に殺されたとしても、絶対に貴方を殺してやる」
『花』隊長は、ディルから貰えるものならば何でも嬉しいだろう。それこそ、わざわざ手ずから書類を運んだだけで頬が朱に染まるくらいなのだ。何が欲しい、と彼女に聞いてもその返答は『物』ではない。ディルからの『心』が欲しいのだ。
だから彼女を金銭で釣ろうとしたら、その笑顔が曇るのが目に見えている。
徐々に怒りに歪むソルビットの表情は、凄絶な程に美しい。その美しさはディルの心を揺るがすものではなかったけれど。
「……なんであの人は、……貴方なんですか」
呟かれたのはディルにはまだ理解出来ない言葉だった。ソルビットはそれを失言だと思って首を振る。
『なんであの人が想いを寄せている相手が貴方なんですか』。
ソルビットの口が伝えるべき想いではない。『花』隊長が今まで温めていた片恋を、こんな形で暴露する訳には行かなかった。例えそれが不本意なことでも。
化粧で薄く色づいた唇が自嘲の笑みを象る。続けて口にするのは、『花』副隊長としてではなくソルビット一個人としての言葉だ。
「あのひとが好意を寄せる者に成り代わる気は無い? けれど少しだけでも好かれたい? あまりにも消極的過ぎて笑えてきますよ、溶けてなくなる寸前の蝋燭だって最後には一際大きく燃え盛るってのに。貴方は教会の蝋燭以下ですか」
嘲りの言葉を投げられても、ディルは怒らなかった。無表情で、無言を貫く。
フュンフにも、今口を出す権利は無かった。
「もう、あたしから言うべきことは無いけれど。……やっかみのお節介だと思って胸に刻んでおいてください」
そしてソルビットは最後に呪いを吐いて退室する。
「『今よりも少しだけでいい』だなんて。それ、絶対後から後悔します。絶対に足りなくなるんです。貴方が人形じゃなく、心を持った生き物だっていうんなら。少しだけ、ちょっとだけ、がこの先もずっと続きます。最終的にどうなりたいかしっかり考えとかないと、吐くほど後悔しますよ」
面と向かって言われた言葉が、何故かディルの胸の奥に沈んで動かない。
重しのように圧し掛かる言葉に、ディルはソルビットを視線でしか見送れなかった。