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扉がソルビットによって滅茶苦茶に殴打される直前。
「今から告って来ると良いっす、たいちょ」
「……はぁ!!?」
「あなたがすきなのーめろめろきゅん! とか適当にそれっぽい事言ってれば通じるっすよ」
「頭の病気だって思われるだけだって馬鹿!!」
そんな会話が『花』隊長と副隊長の間で交わされていたのを、ディルとフュンフは知らない。
「……ソル、お前はどうしてこうも騒がしいのだ」
それまで『月』執務室内でどんな空気が流れていたかも知らない『花』の二人に声を掛けたのはフュンフだった。国随一と言われる美貌を呆れで満たした『花』副隊長のソルビットを愛称で呼ぶのは、二人が半分だけ血の繋がった兄妹だから。
波打つような癖毛の髪は二人共通の父親譲り。訳ありの兄妹は、視線を合わせて短く言葉を交わし合う。
「よう兄貴。ちょっと面貸せ」
ディルは、ソルビットに手首を掴まれて引っ張られている『花』隊長の来訪に戸惑っている。それは顔に出ることも無く、無表情と無言に隠された。
フュンフがディルの側を離れて歩を進める。するとソルビットは、フュンフが側まで来ると『花』隊長を掴んでいる方の腕を乱雑に室内に振る。つんのめるようにしながら室内に放りこまれた『花』隊長は不快そうな声を出した。
「痛っ……! おい、ソルビット!! 何のつもりで」
「ちょっと今からここ密室にするんで!!」
「は!!?」
恨み言はソルビットの宣言に掻き消され、直後驚愕の声が上がるが、時既に遅し。
ソルビットはフュンフの腕を引いて廊下に出てしまった。放り込まれた彼女が追おうとしても、目の前で無慈悲に閉まる扉。
「ソルビット!! 冗談にしても限度があるぞ!」
出せ、と扉を殴り始めた『花』隊長の声は焦りと怒りが滲んでいる。
それもそうだろう、次期王妃候補として選ばれた女性が、他の男――それもあまり好んでいない者と同じ部屋に二人きりである状況などあっていい訳がない。それを彼女がもう耳に入れたかは分からないが。
手に入るかも知れない国内最高の栄誉を、副隊長の悪戯で棒に振られては堪ったものでは無い。
けれどディルは、この状況に僅かながら仄暗い高揚感を覚えていた。
この話が噂になり、王家の耳に届いてアールヴァリンの婚約者候補を降ろされてしまえばいい。そうすれば、この女が誰かのものになる機会が遠ざかる。
響く打音。殴って、殴って、それでも開かなくて。やがて拳が痛んだのか、彼女は扉を殴る手を休めて振り返ってきた。
「――……」
拳の痛みで潤んだ灰茶の瞳が、ディルを見た。
まるで怯えているようだった。昏い高揚に歪むディルの心中を見透かしているような視線に、ディルが無意識に生唾を飲む。
笑顔を見たい願う女に、こんな顔しかさせてやれない自分に憤りを感じるのはこれで何度目だろうか。
これ以上、彼女にそんな顔をして欲しくなかった。自分と二人きりでいる間は、きっと叶わない。
だからディルは立ち上がり、開かない扉に向かう。扉の向こうは騒がしくなっており、音を聞きつけた野次馬が集まってきているだろうことは容易に想像できた。
扉に触れる。
叶うなら、二度と開くなと願いながら。
「―――汝等、何か要望でもあるのかえ」
願いは叶わない。ディルも彼女も隊長だ。二隊の隊長の不在がどんな不利益を齎すか知っているから。
苦しみの袋小路の中では彼女と共に生きられないと分かっているから、外に居るソルビットに目的を尋ねた。何が理由でこんなことをしているのか分からない。もし彼女を貶めるだけが目的なら、それなりの懲罰を受けて貰おうと思って。
「ちょっとうちの意気地無しなたいちょーの話を聞いてやってくださいよ、『月』隊長」
話、と言われてそちらに意識が向いた。理由が無く彼女を部屋に閉じ込めた訳ではないらしい。ディルの中の彼女像では、誰かに言われる程意気地が無いとは考えづらいが。
いつでも思った事を口に出す、竹を割ったような性格。ある者は粗雑と、ある者は闊達と評す彼女。
そんな彼女が自分に話があると聞けば、ディルは首を傾げそうになった。ディルの疑問を余所に、言葉が次いで投げられる。
「それか、ウチのたいちょーと一発ヤってくれたらココ開けますよ!!」
「ソルビットゴルァあああ!!!」
途端『花』隊長が先程の勢いにも増して扉を殴り始めた。激しく鳴る扉はそれでも開かない。
地の底を這うような低い声を上げながらガンガンゴンゴン、何度も何度も振りかざす拳には皮下出血が見られるようになった。彼女はそれさえ構わず扉を殴り続けていて、薄い皮膚を破って皮膚から滲み出した血を見て流石のディルでも戸惑った。
先程のソルビットの言葉の意味が分からない。一発やる、とは何を指すのか。それを分かっている様子の彼女の狼狽え方を見るに、何やら彼女にとって望ましくないものなのだろうというのは理解した。
何を望まれている。一発、というからには決闘か。
そう予想したディルは、出来得るならそれを回避したいとも思った。戦闘狂と言われたディルが、だ。
――この女を、傷つけたくはない。傷ついているところも、見たくない。
「もう、止めておけ」
皮膚の下の赤色だけで手が染まった所を見て、思わずディルが『花』隊長の手を取った。固められ振り下ろされる拳を横からいなすように握ると、途端に彼女の動きが止まる。
拳が熱い。骨に異常が無ければいいが、と労わるように手を包み込んだ。
すると彼女の頬までもが、次第に真っ赤に染まり上がる。
「……このような巫山戯た真似、後から軍法会議に掛けねばならぬであろうな」
冷静に努める事こそが、今のディルに許された行為。今回の騒ぎが懲罰対称になり得る事を示唆すると、彼女は力が抜けたように座り込んでしまった。
『花』隊長の肌に再び触れる機会がこんなに早くに来るとは思っていなかった。すぐに振りほどかれると思った手は、彼女の腰が床に落ちても其処にあるのを許される。まだ、離したくない。
「……ご、ごめん……アタシの、部下が」
「何故謝る? この騒ぎは汝のせいであるのか?」
「違う、……けど……こんな、迷惑掛けて」
途切れ途切れの言葉は、自分の部下の悪戯を阻めなかったことに恥じ入っているようだった。
企てたのが悪名高いソルビットだからこそ、彼女でも阻みようがなかっただろう。悔いるような声とともに、ディルの指先からそっと手が逃げていく。
あ、と、声が出そうになった。
彼女の体温が、彼女の意思で離れていく。
指先が急激に冷えていく感覚がする。叶うならもう少し、甘やかな温度を感じていたかった。……そんな時間が続けばきっと、そう思うだけでは済まなくなるだろうけれど。
「……我は執務中にして。フュンフが戻らぬと執務が進まん」
無理に思考を執務に向ける。今更書類仕事に戻る気は無かったが、不埒な事を考え続けるよりはいい。
すると口にした名を持つ人物の声が、即座に扉向こうから聞こえて来た。
「私ならこちらに控えております。我が愚妹が申し訳ありません」
野次馬達の声に混じっていながら、聞き取れる程の玲瓏な声。隊内伝達の時にするような、その場に居る者に余さず聞こえるように張った声。この状況にありながらソルビットを止めていない様子を感じるに、彼もまたこの事態をやや楽しんでいる。
今度は胸倉を締め上げて王城内を引きずり回してやろうか。そう考えながらディルが片手で指の骨を鳴らした時、フュンフの言葉の続きが聞こえた。
「――ただ、隊長。貴方にも暫し付き合って頂きたい」
その言葉で、ディルの指先がぴくりと反応した。
「何故だ?」
「貴方とて分かっておられるでしょう。『貴方の気持ち』を」
肩越しに振り返る彼女と目が合う。
『花』隊長は、何の話がされているか分かっていない顔だ。
「………」
ディルが理解している自分の気持ちというのは、ほんの少しだ。それは喜怒哀楽のうち、やや理解が及ぶ『怒』の感情。喜びも悲しみも楽しさも、自分とは無縁だと思ってきた。
『花』隊長に向ける感情は、その理解出来ないうちのどれかだとは思っている。或いは、四つの名で分かたれたそれらとは別のものか。
彼女に対して怒りはあまり感じない。あからさまに避けられていると思った時は少しだけ湧くが、怒りに任せて彼女を害したいという思いは殆どと言っていいほど無い。
喜、か。二人きりにされて感じる仄暗い高揚感が喜びだというのなら、あまりに趣味が悪い。
哀、か。彼女が次期王妃候補に選ばれた焦燥を哀しみというのなら、これも言わない方がいい。
楽、か。何かを楽しいと思った事は無い。一番縁遠い言葉だ。
改めて考えると、怒りと嫌悪感、不快感やそれら以外の感情は自分は持ち合わせてなさそうだと思い至りディルが瞬きをする。
けれどそれでも、『花』隊長が自分に見せる表情が、怯えでなくなればいいと思う。
ディル自身ではない癖に、ディル以上にディルの感情を知っている素振りのフュンフに苛立ちが募る。
今まで手本となるような人物を知らない。だからディルは、自分が出来る範囲で彼女に伝えようとした。それはこれまで騎士として生きてきて、『月』隊の者として接してきた孤児にするように。
『花』隊長の目の前で、目線を合わせるように床に片膝を付いた。そして宥めるように、扉を叩きすぎて振り乱された髪を撫でつける。
「……怯えるな」
淑女と呼べる年齢の女にするには、些か子供じみたやり方かも知れない。けれど泣いた子供はディルが頭を撫でると涙を止めていた。
頭を撫でる、という行為が心を落ち着かせるのを知っている。だから、彼女にも落ち着いてほしくてそうしただけだけれど。
震える朱色の唇が、ディルを目の前にして開かれる。
「……怯えてなんか、……ない」
返って来た言葉も、子供の強がりのようだった。怯えていないのなら、何故震えている。
その時、震えが止まるまで宥めていようと何度も頭の形をなぞっていた手が彼女に握られた。
「――」
動けなくなったのは、ディルの方だ。
彼女から手を握られる時が来るなんて思わなかった。ディルのそれとは違う小さな手が、形を確かめるように肌を擦る。包み込んでくる柔らかい手の感触と温度に、ディルの思考が一瞬白く染まった。
「――……ディル。あの、」
まるで蚊の鳴くような小さな声が、確かにディルを呼んだ。
「……昨日……どうも、ありがとう」
咄嗟の事では彼女と同じ声量で「ああ」と返すのが精いっぱいだ。彼女が名前を呼んだ甘美な音に、一度唇を引き結ぶ。そうしないと、彼女が呼ぶ自分の名前にいつまでも陶酔してしまいそうだった。
「汝の兄に『連れて帰れ』と言われた故にそうしたまで。汝が気にする事では無い」
「……そうだけど」
「……やはり起きていたのだな」
「うぐっ……!? あ、で、でも、そうだけどっ! お、起きてたってか! 声は聞こえてたっていうか!!」
自滅した所をつつくと、必死になって否定し始める。真っ赤になって首を振る姿は悪戯が露見した子供のようだ。
こういう姿を、可愛らしいというのだろうか。けれどそれはやはり子供に対して言う事が許されるもので、大人になった女性に向ける言葉ではないと知っている。
「構わぬ。汝も疲れていたのであろ。……我に出来るのは其れだけな故に」
年齢に似合わぬ誉め言葉が勝手に口から飛び出ないうちに、彼女が気にしているらしい失態に気にするなと告げる。それよりも、気になっているのは先程から繋がれている手だ。
意識がどうしてもそちらに向いてしまって、気分が落ち着かない。離さないでいていい方法を模索しそうになって、気を逸らそうとしても『花』隊長の体温を感じ取りまた引き戻される。
手だけを許された状態でも、この状況が続けば『更に』を望んでしまいかねない。彼女の体温を感じる時間をもっと長く、感じる範囲をもっと広く。
どうにかしてその思考を逸らそうとしているのに、彼女はそれに気付かずに握る指に力を込めた。
「アタシは……嬉しかった」
「――……っ」
「貴方が、アタシを運んで帰ってくれた事。……置いて帰ってくれても良かったのに、一緒に帰ってくれた」
違う。
声が漏れそうになるのを必死で飲み込んだ。
知らないだろう。どんな思いで踏み留まって隊舎まで送ったのか。あの時エンダに声を掛けられなければ、何処に連れて行き何をしようとしていたのか。
起きているなら起きていると、そう言ってくれれば良かったのだ。……起きるなと願ったのは自分の癖に。
けれどそうすればきっと、自分の部屋に連れて行こうなどと邪な感情は抱かなかった。
感謝されるようなことなどしていない。
危なかったのは自分の身だということを、この女は知らない。
後ろめたさに耐えきれなくなり、今度はディルから繋いだ手を離した。この純真さと清らかさが、今は辛くて仕方がない。
「暫し、待て」
今感じているのは自分に対する怒りだ。身勝手と分かっていながら湧き上がる感情を持て余した。
もう彼女の顔を見ていられない。自分の感情があまりに穢れたものだと再認識してしまうから。
立ち上がり、怒りに任せて腰に佩いた剣を抜く。
八つ当たりの苛立ちのまま、扉に向かった。一歩強く踏み込んだ爪先に力を込める。
「『閃』」
それは命令形の魔法行使。同時、手に持つ剣の柄、そこに嵌められている宝石が眩く光る。
ダーリャから譲り渡された剣とは相性が良く、ディルの思いのままに力を振るう。
扉に向かって横に一閃。その直後、次は縦に一閃。『月』執務室の焦げ茶色の扉は、一瞬で四つに斬り分けられて崩れ去った。修理費は全額フュンフに負担させるつもりだ。
「「「は――――!!?」」」
野次馬達の姿が現れる。やっと密室ではなくなった空間で、馬鹿者共が雁首揃えて盗み聞きをしていた。その中にはしっかりフュンフもソルビットも入っている。
剣を鞘に仕舞いこみ、苛立つを包み隠さぬまま『花』隊長の顔が赤いから誰か医務室に連れていけと言い捨てる。彼女の身を心配するつもりで、今だけは遠ざけておきたかった。
「それとフュンフ」
「はっ」
普段通りを装っているが、下を向いた顔が青いのを知っている。
ただでは済まさない。このような状況を作る手助けをしておいて無事で済むと思うな。
「貴様と少し話さねばなるまい。顔を貸せ」
「……手加減願いたいものですな」
そして仕置きが決定したフュンフを引き連れ、ディルは修練場に向かう。
もう振り返りはしない。『花』隊長の顔が見られなかった。
あまりに純粋な感謝を伝えて来る彼女に、また後ろめたい事柄が増えてしまった。
ソルビットはディルとフュンフが去った後にその場で『花』隊長により殴られた後に頭を踏まれて折檻される。
情け容赦ないお仕置きを止める者は、その後暫くの間現れなかった。