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ディルが『花』隊長を担いで帰って来た翌日、城の中は噂話で沸き立っていた。
まるで誰にも興味がないという風に振舞っているディルもやはり男だったかと、好き勝手言う噂に振り回されたのは当人ではなくその副隊長だったが。
朝の伝達を済ませて執務室へ戻る頃になっても、書類を手に持ちすぐ後ろを付いて歩くフュンフの表情は真っ青のままだった。いつも通りに執務室で椅子に腰かけると、フュンフは視線をあちらこちらに彷徨わせながら重い口を開く。
「……隊長。……その、お伺いしたい事がございますが、宜しいですかな」
歯切れが悪いのは、ディルの不興を買うのを恐れているからだ。
ディルは憮然とした様子で鼻を鳴らして言葉の続きを待つ。敢えて了承の返事を出さなくとも、この男は勝手に続けると知っている。
案の定フュンフは続きを話す。
「……『花』隊長と、一晩を、共にされたと、噂が流れております、が」
「下らん」
「ですよね!!」
「深夜には隊舎へ送った」
ディルの不十分な説明に、フュンフが書類を落とした。戦慄している表情のまま固まって、息をしているのかすら危ういくらいに動かない。
石化した男の事は気にせずに、ディルは他の書類を机に広げ始める。書類仕事は面倒だが、今日は急ぎの用事もない。そもそも執務の管理をしている副隊長がこの有様なので、いっそこのまま元に戻らなければいい、などと薄情な事を思う。
やっと表情から先に動き出したフュンフは、苦々しい表情を隠さずに書類を拾い始めた。
「……隊長、今日の、執務ですが」
「ああ」
「始める前に、共有しておきたい情報がございます」
フュンフに視線を向けるが、彼の表情はディルの位置からは見えない。
どうせ大した内容ではないのだろうと高を括る。そして改めて書類に目を落とした時、フュンフが躊躇いがちに口を再び開いた。
「……アールヴァリン殿下の、誕生祝いについてですが」
「ふん」
「陛下は各国から、賓客を及びになるそうです。その時に、アールキリア姫の婚約者候補をお呼びになる、と」
「アールキリア姫……?」
アールキリア。本名をアールキリア・R・アルセンという。
それはアールヴァリンの妹にして第一王女の名前だ。ディルにとっては王家に連なる者だという以外の認識が無い。忠誠を誓ったのは形だけで、ディルには騎士としての立場に何の思い入れも無い。ダーリャが譲り渡してくれた隊長の席も、世話になった彼の名前を汚さないように努めているだけで。
国王陛下譲りの濃紺の髪をしている覚えはある。美醜で言うと美しいとされている顔立ちも、朧気だが思い出せる。ただ、それだけだ。他に何の印象も抱いてない。
「婚約、とはまた気の早い話だ。アールヴァリンは今の今まで婚約者の話も出ていないというのに」
「っ……、……その」
何の気なしに呟いた言葉に、フュンフが更に困惑した表情を浮かべた。奥歯に物が詰まったような言い方は彼らしくない。いつにも増して慇懃な口調は、言葉選びに躊躇している時のものだ。
続きを待った。見えなくとも突き刺さるディルの催促の視線に黙っていられなくなったフュンフが口を開くのは、それから暫くして。
「これは、まだ、未確定情報ではあるのですが……アールキリア姫の、国内での婚約者候補に、ディル隊長が選ばれたようです」
立ち上がりその報告をする時、体は正面に向けるが視線は逸らすフュンフ。
ディルは、その言葉を何の感慨も無く聞いた。
「そうか」
「御不満はないのですか」
「候補というだけであろ。我が選ばれる訳がない。我は神父でも貴族でもない、ただ騎士隊長というだけの孤児だ」
「……そう、ですか」
ディルは神官騎士を率いる『月』の隊長でありながら神父では無かった。神父という職業自体に悪い記憶しかないディルは、神に仕える事をしない。
式典の作法や聖書の内容を知っているのは、ダーリャの副隊長を務めていた時に身に付けさせられたものだ。心にもない祈りの言葉でも、執務の一環と思えばこなすことが出来たから。
候補に選ばれただけでは動揺はしない。だから、ディルは不思議に思った。
何故フュンフの顔色が、先程よりも蒼白になっている?
「……もうひとつ、お聞きいただきたい事があります。こちらも、確定事項ではありません」
ディルが僅かに抱いた疑問の答えが、すぐに聞かされる。
「アールヴァリン殿下の国内での婚約者候補に、『花』隊長が選ばれるそうです」
それを聞いた瞬間に、ディルが椅子から立ち上がった。椅子を跳ね飛ばすほどの速さで。
足が勝手に動く。そして、フュンフの前に辿り着いた時左の手が自然と彼の胸倉を掴んだ。
「――今、何と?」
声と頭だけが冷静だった。考えるよりも早く、体が勝手に動いている。
首元の衣服を捻り上げられたフュンフは、蒼白の表情のままにディルの手を握った。
隊長からこれまで向けられることがなかった筈の、明確な殺意を一身に感じていたから。
喉が潰されそうだ。下手に身動きすれば右の拳がフュンフに降りかかるかも知れない。恐怖心で声が上擦った。
「私が決めたことではございません!! 手を、手をっ、お離しください!」
「あの者が、アールヴァリンの婚約者候補? 次期王妃になると?」
「まだ決まった事でもありません! もとより、あのような蓮っ葉が選ばれるわけないでしょう!!」
絶叫に似た声が耳障りだ。『花』隊長の事を喧しいと責める癖に、懇願には大声を出すのか。
離して欲しかったようなので、床に叩きつけるかのような形でフュンフから手を離す。体勢が崩れたフュンフは咳き込みながらも、息を整えつつ立ち上がった。
「……っ、は、……く、げほ、……それに、っ。『花』隊長と、殿下とでは、年齢差が、あります。『花』隊長は、言っては悪いですが、薹が立って、久しいでしょう」
「……だが、見目は王妃に相応しい程に美しい」
「内面が最悪です。……王妃に相応しい程の教養も、あるとは思えない」
「教養など、後からどうにでもなる。我が先代より仕込まれたように」
「何事にも向き不向きがあります」
荒い息が元に戻り始めたフュンフの言葉は、嫌に明瞭に耳へと届く。
向き不向きというのなら、彼女は王妃の器として向いていないというのか。
多少難はあれど誰かの心を掴むのに長け、人の話をよく聞いて、殆ど実力で騎士隊長にまで上り詰めたような女だ。
嫡男である王子の婚約者候補に選ぼうとするくらいだ、王家も彼女に一目置いているに違いない。
フュンフが言うように欠点だけを論うなら、そもそも彼女が候補に選ばれることすらない筈なのだから。
フュンフの目の前で、ディルが片手で顔を覆う。
「っ……て、は……ぬ」
「隊長……?」
「そのようなこと、あってはならぬ」
フュンフに見られないようにしたが、それも目の前にいれば土台無理な話で。
憎悪で顔が歪む。食いしばった歯が音を立てた。騒めく胸が軋む痛みと耐えられぬほどの嫌悪感を訴える。痛みには鈍い筈だった。だから、戦場でも無理を押して立てていられたのに。
アールヴァリンを伴侶とするならば、この国ではこれ以上を望めない程の相手だ。王子であるが故に権力も地位も財産も持ち、性格は穏やかで真面目。外見も悪くなく若い。諜報部隊を統率する『風』隊の副隊長という立場に就き、女性の扱いも心得ていると知っている。
もし彼女が王子と結婚するとなれば、彼女はこの国で一番の果報者になるだろう。そして王となる王子の隣で、王妃となって並ぶ彼女の姿を見ていなければいけない。
嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
思考が塗りつぶされるほどの嫌悪感に吐きそうになる。
彼女が幸せになることを願っているのは嘘ではない。
ただ、彼女の幸せな未来に自分が蚊帳の外であることがこの上なく嫌だった。
叶うなら、笑顔を自分に向けていて欲しいと願う心も嘘ではない。
けれど、穢れた自分が近くに居て良い相手ではないとディルは知っていた。
ディルは、他の男達と違うのだから。
立っているのがあまりに苦しくて、ディルは自分の椅子に向かった。腰掛けて漸く、詰まりそうだった呼吸を整えるのに専念できる。
「……隊長は、そうお考えであるのに、何故それをそのまま『花』に伝えないのです」
「………伝えてどうなる」
「『どうにか』なりたくないのですか。このまま『花』隊長が、他の男と並んで歩く姿を見たいのですか?」
「そんなもの」
見たい訳があるか。柄にもなく声を荒げて吐き捨てそうになった。
胸の中を這い回るどす黒い感情は、綺麗なものと言い難い。
こんな思いを伝えてどうすればいい。ディルを不快にさせるだけの感情は、彼女を不快にさせないと何故言い切れよう。
もし彼女に王妃を望む野心があった時、その足を引っ張るような事を言うのは彼女の幸せを願わないことにならないか。
どうすればいい。
何をすればいい。
この苦しみを、苦痛を、どうすれば取り払える。
「……あの者が、幸せで在るなら……それで………いいと」
絞り出す声を震わせないようにするので精一杯だ。
「……思って……いた………」
本当にそう思っているのなら、何故胸が締め付けられるような痛みを覚える。
この痛みから抜け出すには何が必要なのか分からない。
傷が無い胸の痛みを無くす方法を誰か知らないか。知っているのなら取り払って欲しい。それが叶うなら誰でもいい。
そう思った時だった。
「――はぁ!!?」
「あなたが――! とか――っぽい事言って――よ」
「――って思われ――馬鹿!!」
突然扉の外が騒がしくなる。扉向こうの廊下から姦しい声が二つ聞こえ、直後執務室の扉が激しい打音を響かせた。
そして入室許可の合図をする前に、扉が来訪客によって勝手に開かれる。
開け放たれた扉の先に立っていたのは、『花』の隊長と副隊長だった。