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【第二部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド夜想曲―  作者: 不二丸茅乃
Op.4 花鳥風月 上 蕾綻びし月の花
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 フュンフがディルから気持ちを聞かされた日は、その時間以降の『月』の執務を全て放棄したほどだった。

 その日紅茶のカップはひとつ割れたし、執務室の絨毯は水浸しになった。

 執務の昼休憩時間だったように思う。季節感などまるで無い神父服の二人だが、フュンフはその日が酷く暑かった事を覚えていた。

 ディルは執務机の椅子に。フュンフはソファにそれぞれ腰掛けている時の事だ。


「……今、何と?」


 自分が耳にした言葉を信じ切れずに、フュンフが戸惑いながら人形を思わせる端正な美貌を持つ己の隊長へと聞き返した。

 実際のところ、この男は人形ではなくヒューマンである。何か別の種族が混じっている可能性が無い訳では無かったが、造られたような美しさを持つ戦闘狂であるのだけは間違いが無い。その武力にフュンフは命を助けられ、そして心酔した。彼の能力が遺憾なく発揮できるよう、側で支える事を望んだのもフュンフだ。だから隊長としての事務系統の執務は殆どフュンフが裏で手を回している。

 社交性無し、世辞も言えない、書類仕事は一人でしていると二分で投げる、言わないと食事も摂らない、食事を始めても数口で止める。浮いた話は無いわ酒も煙草も賭博もやらないわ趣味らしき趣味は戦闘以外に無いわでフュンフも本当に人形なのではないかと疑っている。赤い血を流すのでちゃんと生き物ではあるらしいが、それさえ疑ってしまうような性質をしている隊長なのだ。

 その隊長からの相談を聞いた時、フュンフは自分の耳を信じることが出来なかった。


「……我に二度も言わせるのか」

「申し訳ありません。聞き逃した訳では無いのです、しかし、御言葉の意味が分かりかねます」

「我とて分からぬ故に聞いているのだ」


 フュンフは自分が割ってしまった紅茶のカップを片付け始めた。

 ディルは眉間に皺を寄せ、躊躇いがちではあるが先程と同じことを言うために口を開く。

 曰く。


「……我は、何処かが壊れてしまったらしい」


 割れたカップに視線を向けながら『壊れる』と表現するのも隊長らしい、とフュンフが何処か遠い場所での出来事のように思う。

 ああ、やはり先程の言葉は聞き間違いでは無いのだな。


「特定の一人にのみ、劣情を抱いてしまう。触れたいとさえ思ってしまっている」


 二度目の言葉に、フュンフは一度目に聞いた時湧き上がった戸惑いも何もかもが凍り付く感覚を覚えた。動きも思考も停止したのだ。

 劣情、というフュンフのディル像に不似合いな言葉が大きな文字となって脳内を占める。この男は本当に劣情というものを理解しているのだろうか。理解していての言葉なら尚更性質が悪いが。


「……因みに、どなたに」


 名前も、フュンフは先程聞いていた。でもその名の持ち主の顔が脳裏に浮かんだところで受け入れたくなくてもう一度聞き直す。


「……『花』隊長――」

「もうお止めください!!」


 やはり聞き間違いではない。称号の後に出て来ることが確実である名前を再び聞く前に、自分で尋ねておきながらフュンフは絶叫のような声で止めさせた。聞いて来たのはそちらだろう、というディルの視線が投げかけられたが口に出される事はない。

 肩で荒く息をする、決して若くない茶髪の男は目に見えて狼狽している。手にしたカップの欠片を端に寄せ、ひとまず冷静になろうと努めた。


 フュンフは彼女を好いてはいない。

 決して嫌いという訳ではない。彼女は先代の『花』隊長の下でその能力が発揮されていた。持ち合わせた社交性と()()()()()()美人で通るその外見を気に入る者は男女問わず多い。仕事を()()()()()()()()()()、フュンフだってさほど文句はない。()()()()()()()()()

 雨季の川の濁流ほどに汚く煩くとめどない声さえ聞かせなければ。

 彼女とて外見だけは隊の符号と違わず咲き誇る華を思わせる程に美しい。人形と評される美貌の鉄面皮であるディルと並んでも遜色ないとフュンフだって思っている。しかし例の『花』隊長は小煩い口を閉じていられない性分だ。仕官する以前は酒場で暮らしていたというから、その時に客の口調でも移ってしまったのではないか。川の下、という言葉があるが彼女はまさにそれだった。出自が貴族であるフュンフには、平時の彼女の粗暴さは耐えられない。


 そんな彼女を、隊長が?


「……好意を、抱いているのですか。あの方を、好きだと?」


 改めてフュンフがソファに座る。

 何かの間違いであれと思った。ディルが相応の年齢だということはわかっている。異性に興味を持って当然な年齢をとっくに過ぎている。だから、これが一時の気の迷いであるかも知れないという僅かな望みに託す。

 けれど質問に返るディルの言葉は、フュンフの考えよりも複雑なものだった。


「違う」


 首を振ったのだ。


「好意でない!?」

「そもそも好意、が分からぬ。……フュンフ、汝は誰か特定の相手に好意を抱いたことはあるか」

「特定の相手………」

「我は、士官学校に入ってからは書物を読むようになった。学術書が多かったが、それらには『誰かへの好意』というものがなんであるかが書いていない。書いていないものは学ぶことが出来ぬ。どういった条件が重なれば、それを好意だと判断できる?」


 フュンフは発言者の目の前だというのに頭を抱えた。

 感情が無い、心が死んでいる、彼の目には獣も魚も男も女も急所しか見えていない、という散々な陰口を聞いて来た。その陰口に相当するような惨状だ。

 好意を理解していない。これまで誰かに大切に思われてきた経験が薄いのだ。フュンフはその時だけ、先代『月』隊長にしてディルの育ての親であるダーリャの教育不行き届きを呪った。


「フュンフ、汝には誰かに好意を寄せた経験はあるかえ?」


 真顔で聞いてくる隊長の瞳がフュンフを捉えて逃がさない。逃がして欲しい。逃げたい。

 というのも、フュンフだって生まれてこのかた三十余年以上恋人なんていないのだ。ディルの側で仕事に命を捧げると誓ったので、これから先も作ろうとは思わないだろう。


「……ない訳ではありませんが、参考にならないかと」

「構わぬ。我の現状と照らし合わせるだけだ」

「御勘弁ください……」


 現状って何だ。

 恋愛の体験談を誰かに聞かれるとか何の拷問だ。

 改めて口にするのも気恥ずかしいが、それが敬愛する隊長の指示だと思い直すと咳払いをして口を開いた。


「……近くにいると……心臓が高鳴ります」

「そうか」

「その人に、視線が自然と向きます」

「そうか」

「笑顔を、向けられると、嬉しくなります」

「そうか。……嬉しい、とはどういう感情だ」

「そこからですか!?」


 フュンフが声を荒げても、ディルは涼しい顔をするだけだ。


「フュンフ」

「はい」

「心臓が高鳴る、というのはどういう動作だ。皆が言う戦時中の高揚感と同じものか」

「違うと思います」

「『花』隊長は目を引く存在であろう。あの者が近くに居ると誰もが見ている。つまり、それは全員があの者に好意を抱いていると?」

「違うと思います」


 口でひとつひとつ疑問を解消していこうとするディルの表情は、いつもの鉄面皮と変わりがない。疑問に対するはっきりとした答えは出なかった。

 切れ長の灰色の瞳が窓の外に飛ぶ小鳥を追い、暫くの沈黙の後に唇が開かれる。


「……書物を、読んだ。しかし、我があの者に向ける感情の名前は、そのどれにも書いていない。ただひとつの項目と合致する以外は」

「項目?」

「我はあの者が笑う姿も、泣く姿も、怒る姿も美しいと思っている。しかし、此処最近のあの者は、そのどの姿も我に向かっては見せぬ。我は、それが泣き顔であれ何であれ見たいと思っている。……そして『好き』という感情は、相手の幸福を願い望むものだと学んだ。そしてそれだけを願えぬ感情などは『執着』と呼ばれると。あの者の意思を無視してでも、我は、あの者に……」


 ディルは空になった紅茶のカップをソーサーに置いて、机の端にずらした。

 フュンフが即座に立ち上がり、そのカップを回収する。

 その間もディルは、自分の中の違和感を口に出す。そうすることで自分で整理しているのだ。


「しかし願いとは、望みとは何だ。理解しがたい。叶わぬやも知れぬ期待を持つことが何になる? そもそも期待とは何故する。自分と他人が同じ考えでいる訳が無かろうに。……それが分かっていながら、我があの者に抱いたものは何だ。齎す不利益を理解していながら、何故我が思考にも入って来ようとする?」

「……そう考えてしまうのは致し方無い事かと。誰でも、何かに期待してしまう事は多かれ少なかれあります」

「となると、これまでそのようなものとは無縁であった我はいよいよ人形認定されるという事か」

「違います!」


 自分を卑下する隊長を見るのが嫌で、フュンフが再び声を荒げて否定する。

 ディルは一度も表情を変えなかった。


「……我のような人形に執着されても、あの者が困惑しよう。今後も、あの者に我が感情を告げる事は無い。今の話は我等だけのものとしろ」

「承知しております。……ですが隊長、それで宜しいのですか。あの方に聞かせる気はおありでない、と?」

「この感情をどう伝える? ……言語化できない、言語化しても醜いであろう感情をあの者に押し付ける気は無い。今でさえ、同じ隊長職を与っておきながらあの者との距離は開いている。もし伝えて拒否をされれば、我はともかくあの者の態度が変わるのは目に見えている」


 それは不確定な予感でも、期待でもなく、ただの事実。

 内心を留めておけずに顔に出してしまう彼女の分かりやすさは、ディルにとっては胸に苦いものを残す。彼女が何を考えているかなんて真実の意味では分からないが、少なくとも『ディルの事を苦手に思っている』ということだけは感じていたから。

 本当は彼女の心の中なんて、ディル以外には筒抜けなのだけれど。


「……フュンフ。重ねて言うが公言せぬように。特に……汝の、妹には」


 それは季節を幾つも巻き戻す、暑い日の事だった。

 暑い筈の季節にフュンフは、額から冷や汗が止まらない思いをしていた。

 フュンフにはその感情について思い当たる名前があった。

 けれどディルには答えとして伝えられなかった。

 『人形』と陰口を受けるディルに、その感情の名前を伝えたところで理解できるとは思っていなかったからだ。




 ディルが瞼を開くと、外の星空は夜明けの空に変わっていた。短い時間だったが星を数えていた間に眠れたらしい。僅かに残る睡魔の名残を振り払うと、重い体を無理矢理起こす。

 今日もまた、執務が待っている。『花』隊長は非番の筈なので、時間が過ぎるのを待つだけの退屈な日になる。


 その時は、そう思っていた。



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