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【第二部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド夜想曲―  作者: 不二丸茅乃
Op.4 花鳥風月 上 蕾綻びし月の花

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 いざ王城のある十番街に辿り着いたという時に、ディルの心中は困惑一色だった。


 五番街の酒場で寝入ってしまっていた『花』隊長を担いで帰ってきた。それまではいい。

 しかし途中で起きるかと踏んでいた彼女は全く起きようとする気配がない。肩に担がれた苦しい体勢だろうに身動きも呻きもしない。訓練で使う木偶人形でも担いできたのかと思う程の動きの無さだ。運び易かったのでそれはそれで有難い話だが。

 ここまで距離が近い、否、密着しているのも滅多にない事だ。落ちないように手は腰近くの背中に添えている。厚手の服の下に感じる薄い体の触り心地は本意ではないにしろ堪能し放題。今までにない程に密着しているお陰で彼女から仄かに漂う香りで、ディルはろくに考え事も出来ずに歩き続けるしかなかった。時折鼻腔に届く甘い香りは女性特有のものだろうか、それとも彼女が酒場で飲んでいた酒の香りだろうか。ディルはそれを感じ取る度に思考も理性も軽々と乱されてしまうのが分かった。

 城までの耐久戦。

 誰か彼女を隊舎の部屋まで連れていける者がいるなら、その時引き渡して終わればいい。

 しかし悲しいかな、彼女の身を安全に運べそうな者とは十番街に着くまで擦れ違う事はなかった。


 隊舎は騎士団『花鳥風月』の四隊で分かれている。更にそれから男女別棟になっており、『花』隊長はそこに普段は寝泊まりしていた。ディルも『月』の男性棟の一室を所有している。

 住んでいるのは独身だけで、室内も寝泊まりして着替えが出来るくらいの広さしかない。所帯を持つ者は城下に家を持つのが慣例となっていた。騎士の叙勲を受けた者で、もとから城下に家があったり所有している者はそこから城へ通う事も可能だ。

 『風』の騎士隊長は独身であるが屋敷を持っている。ディル自身は、面倒だからという理由で屋敷を持たない。

 

 王城の門を潜ると深夜帯担当の門番が二人の姿に目を見開いていた。妙齢の男と女が二人並んで帰って来る、という話はよくあるが、それがこの二人、しかも『月』隊長に想いを寄せている『花』隊長が担がれている状況となれば色めき立つのは当然のことで。

 そんな門番の心境を知らないディルは黙ったまま隊舎がある方角へと向かう。

 隊舎が見えてくると、次第にディルの足取りが重くなった。


 もうすぐ、この女を帰さねばならない。


 そうすれば、こうして彼女の体温を直に感じられる時はもう来ないだろう。


 ディルの足が止まった。

 また明日から他人行儀な彼女しか見られなくなる。騎士隊長以前の時のように実の無い話を彼女が持ち掛けて来る事も最早無い今、また彼女の姿を視線だけで追う日々が続く。

 以前の関係に戻りたい、と僅かに思う。

 笑顔を向けて貰える仲に戻れたら、と思う。

 いつまでも手の届かない今のような仲が続くくらいなら。


 いっそ自分の痕跡を躰に刻み付けてやれたら、と確かに思う。

 それで向けられる感情が無関心から軽蔑や憎しみになったとしても、自分の事を彼女が少しでも長く考えてくれるなら。


 ディルの足が一歩を踏み出した。

 意識は『花』の隊舎ではなく自分の部屋に向かっている。

 私室で彼女の香りが漂えば、理性が決壊しないでいられる自信がない。もう、それで良かった。

 この女が一夜限りでも手に入るなら、後に付いてくる醜聞など気にも留めない。

 そのつもりだった。次の一歩を踏み出す前に、声が掛かるまで。


「ディル」


 聞こえた声に我に返った。名を呼ばれただけなのに、思わず全身が硬直してしまうくらいの衝撃が走る。

 それまで脳裏を占めていた思考の醜さに改めて気が付くと、冬だというのに冷や汗が流れている気さえした。

 あまりの罰の悪さに息を止めて声の方角を向くと、見知った顔がディルの姿を見ていた。


「……エンダ」


 その名を呼ぶ時さえ、後ろめたさで吐息が喉に詰まりそうになる。

 そこにいたのは騎士隊『風』の隊長。歳は自分達とさほど変わらない。夜闇に紛れる黒一色の衣服と撫でつけた黒髪で佇む姿は諜報部隊を率い、また自身も諜報部隊出身である故か。

 彼はディルの側まで寄ると、その肩に担がれている『花』隊長を見て笑った。


「……こりゃ、面白い土産だな。夜食か? これから食っちまうのか?」

「我には混じりとはいえ同族の肉を()む嗜好は無い」

「いや……そうじゃなくてな……」


 エンダが口にした下世話な言葉の意味を知らないディルはなんとか冷静さを取り繕い、素っ気ない返事をする。

 その間にエンダは寝ているらしい『花』隊長の頭がある方向、ディルの背中側に回り込んだ。そして笑う。

 ディルには見えていないが、『花』隊長の瞼は全開だった。想い人の肩に担がれている事で緊張感が凄まじいらしい。顔も真っ赤だ。面白いのでエンダがその頬をつつき始める。


「お前、もうちょっと優しく運んできてやれよ。横抱きにしてやった方が苦しくないらしいぜ」

「ネリッタなら横抱きにしたであろうが、我はこの者を横抱きのまま五番街から運ぶのは難しい」


 ネリッタというのは先代『花』隊長の名だ。一時期は騎士隊長の同僚として肩を並べていたこともある。彼は過保護で癖のありすぎる人物だったが、人物を見極めるのは上手かった。それで見出されたのが、現『花』隊長である彼女だ。


「五番街? あー、あそこで飲んでたのかコイツ。遠いところからよく担いで来たモンだ。明日に響かなきゃいいなぁー? んー?」


 笑いながら揶揄(からか)っているようなエンダの声。背中側でどんな攻防戦が起きているかなんてディルには分かる筈も無く。

 ディルに見えないのを良い事に、『花』隊長は見るに堪えないほどに憎悪を剥き出しにした顔でエンダに向かって親指を下げていた。尚も彼女を馬鹿にするように、頬をつつき回すエンダ。その表情は愉悦に緩み切っている。


「このままお前の部屋に連れてった方が良いんじゃないか。お前んところで一泊したってなったら城中が楽しい噂で持ち切――いてっ!!」

「どうした」

「畜生、噛まれた。もっとお上品に寝とけって」


 何をやってる、と呆れを溜息に乗せたディル。気を取り直し、エンダを無視して歩き出す。

 話す時間は短かったが、その間になんとか思考が落ち着いた。

 彼女を彼女の部屋まで送り、自分は自室で一人で眠る。元からそうあるべき世界を、時間を、手を加えず元のままに流れるように。

 それまで彼女と共にいられる事だけが、自分に許されたことだとディルは自分に言い聞かせて。


「ディル、そいつどうすんだ」

「知れた事。隊舎まで送る」

「はぁ? なんだよ面白くないな」


 理不尽な不満を漏らされても、この時ばかりはディルはエンダに感謝した。声を掛けて貰えなければ、取り返しのつかない事をしただろう。

 そうなればディルはもう騎士隊長ではいられないかも知れない。自分の行動のせいで流れる醜聞には耐えられても、彼女がディルを見る視線が今より悪いものに変わればきっと平気ではいられない。

 甘美で穢れた衝動に耐えた代償が、彼女と共に居られる時間の終焉。

 冷やかすように笑うエンダとその場で別れ『花』隊舎まで行って、宿直員の女性騎士に事情を説明したら彼女の部屋の鍵を開けて貰えることになった。

 部屋には入らず、彼女の身柄はそのまま宿直員に任せてディルは自分の隊舎まで歩みを止めない。

 彼女の部屋に入ってしまえば、また間違いを起こしそうにならないとは言えなかった。

 自分の私室が近付くにつれ、歩みが早くなる。


 私室に入ると同時、それまで着ていた神官服の上着を脱ぎ捨てるなり寝台に倒れ込んだ。

 上着はソファに放り投げているのに、下の衣服に移ってしまったのかまだ肩から彼女の香りが漂っている。

 今日も王城内外の執務で疲労はしている。頭も体も使った。夜も遅い。いつもならば瞼を閉じると浅い眠りに誘われるから、今日もそうしてみる。胸の騒めきを落ち着かせるために溜息を吐いてなるべく何も考えないように、瞼を閉じる。

 視界が暗闇になると同時に、強く彼女の香りを思い出す。それから体温、そして服の上から触れた彼女の体さえ鮮明に蘇った。


 こんな状態で眠れる訳が無い。


 ディルだって自分の気持ちを一人で抱え込んでいたい訳ではない。しかし名前の分からぬ感情など人に説明しようがなかった。

 一度だけフュンフになら打ち明けたことはある。言葉にしづらい胸の内を聞かせたところで、フュンフをも困惑させてしまう相談になってしまったけれど。

 寝台の上でごろりと体勢を変える。天井を向いた額に手を当て、熱でもあるのかと確かめてみるが平熱だ。ただ、頬に手を滑らせると通常時より熱くなっていた。

 ひとりきりになってしまった後に残るのは、彼女の事を考えると重くなるばかりの胸の内。

 諦めて瞼を開いた。横になったまま、窓の外で輝く星を見上げる。


 今日の夜は長く起きていそうだ。

 彼女に向けた感情の事をフュンフに話した時の事を思い出しつつ、星の数を数えながら睡魔が迎えに来るのを待つことにした。



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