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【第二部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド夜想曲―  作者: 不二丸茅乃
Op.4 花鳥風月 上 蕾綻びし月の花
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 その日のディルの仕事は恙なく終わる。

 先に一件の施設の視察を終わらせていたフュンフと合流し、また別の視察を一件終わらせる。その後に城に戻って騎士四隊の合同会議だ。

 終わり次第書類仕事と休憩を挟み、また城下の施設視察に向かう。これでも『月』隊長の執務としては今日は少ない方だった。多忙な時期などはフュンフと手分けして一人一日に十以上の施設を巡る時もある。

 最後の施設は六番街。先代ではない昔の隊長が『月』管轄にした孤児院のひとつだ。王立ではないので待遇は並程度だが、交代で『月』の士官や神官騎士が派遣されるので 不手際が起こる事もまずない。

 視察が終われば、フュンフとは現地解散になる。彼は彼で副隊長としての仕事が残っているらしく、即座に城へと帰っていった。

 一人になったディルは、何処へ行こうかと考えていた。

 隊長格ともなれば、城下に家を持つことが殆どだった。しかしディルは孤児の独身で、育ての親だったダーリャの屋敷を継ぐことも無く王城敷地内にある隊舎に寝泊まりを続けている。寝て起きて着替えるだけの広さしかない空間だ。でも今日は直接其処に帰る気になれなくて、王城に戻る道へ背を向けた。

 このまま歩くと五番街。そう思い至ると、ディルの記憶から、『花』隊長が明日は非番であったことが思い出された。そして彼女の育ての親が構える、彼女にとっての実家ともいえる酒場が五番街にある事も。


 もしかすると、彼女は帰っているかもしれない。


 浮かんだものはまたしても『期待』だった。普通の者ならば『そうだったらいいな』と願う事。

 けれどディルは一度足を止める。

 彼女に疎まれている自分が、非番の彼女にまで近づくことは無いのではないか。

 ディルは嫌悪感だけははっきりと認識出来るので、そんな不快感を彼女に抱かせることに躊躇いを覚えた。自分は彼女にとって近付いてはいけない存在なのだと、何度も胸の中で自分に言い聞かせる。

 あらゆる欲を押し付けられ、また彼女に劣情を抱いてしまった穢れた自分が。

 男女関係も潔白で、信念を曲げることなく突き進む清廉な彼女に。

 これ以上近付いても、どちらにも得なことは無い。

 そうやって幾ら自分に言い聞かせても、ディルの足は勝手に酒場に向いてしまった。




 外に簡素な看板を出した、三階建ての建物。五番街の大通りから少し外れた場所に立つそれは少し遅めの時間であっても客の入りがある。この酒場としては今の時間は静かな方だったが、ディルにとってはそれでも騒がしい。

 疎らな客席と、酒を囲んで尚も話の尽きない酔っ払い。そしてカウンターには人影がふたつ。


「……おや」


 金髪、浅黒い肌。涼し気な白い衣服で立っているのは店主である男。


「君の仕事仲間だよ」


 そしてその男が声を掛けた、カウンターに突っ伏している姿こそ――『花』隊長。

 男は彼女の肩を揺するが起きる気配がない。

 彼女は基本的に友好的だから、起きている時にそんな言葉を掛けられて何の反応も示さない筈が無かった。だから深酒をして寝てしまったのか、それとも、来たのがディルだと分かっているから狸寝入りをしているのか。

 自虐的な思考になるくらいには、ディルに対する彼女の態度は他人行儀だった。


「……すまないね。ちょっと今この子、寝ちゃったみたいだ」


 店主が苦笑いでディルに声を掛けた。再び胸に鈍重な痛みが広がる前に、その言葉を信じる事にする。


「構わない」


 少しでも姿が見たかっただけだ。見れただけで良かった。自分に言い聞かせながら、席は彼女の隣に決める。

 本当に寝ているだけなのなら、彼女を不快にさせることは無い。もし起きていたとしても、狸寝入りに気付かなかったことにすれば丸く収まる。

 店主は笑顔を浮かべて、ディルの為に飲み物を用意し始めた。酒瓶を手にとるが、ディルは首を振る。あ、と小さく呟いた彼は奥から茶を持ってきた。ディルが酒を飲めない事を知っているのだ。


「来てくれるのは久し振りだね。忙しいだろうに有難い話だ」


 店主は笑顔のまま、用意していたグラスをカウンターに置いた。そこに注ぐのは冷えた茶だ。作り置きのものは季節柄自然と冷たくなる。

 ディルはその所作のひとつひとつを観察していた。顔見知りで時折会話を交わす程度の仲だが、他に邪魔が入らない今のような状態で話をするのは初めてだったから。


「視察が有った故に、近くを通ったので寄ったまで。『花』も来ているとは思わなかったが」


 ひとつ、嘘を吐いた。全部が嘘ではないにしろ白々しい話だ。

 彼女が居ないこの酒場に来ようだなんて今まで一回も思ったことが無い。

 偶然を装って足を運んで、彼女が居れば己の運の良さを感じるだけ。居なければ、一杯飲み物を飲んで帰るだけ。

 どちらに転んでも、無駄足という訳ではない。……そう自分に言い聞かせる。


「そう。そうなんだ、久し振りに帰ってきてくれたんだよ。……でも、愚痴だけ言ってこの有様だ」

「愚痴。……愚痴、とは……、そこまでこの者に悩みでもあるのかえ?」


 ディルの胸が再び不快感を覚える。今回は焦燥感に近いものだった。

 今日は屯所と会議室で二回顔を合わせている。けれど自分の前では彼女はいつもと同じ調子だった筈だ。家で酔いつぶれる程に、嫌だと思う事があったのか。

 それが自分の事でなければいい、と、ディルが僅かに考える。


「悩みっていうか……、仕事で失敗した、みたいな?」


 それを聞いて、ディルの焦燥感が消えた。

 執務の事で思い悩むなんて、根が真面目な彼女らしい。周囲がなんと言っていようと、彼女はやはり隊長のひとりとして相応しい心構えでいるらしいことに感心する。

 言いながら店主はグラスの縁に掌を乗せた。まるで手品のように、茶の中に氷が浮かぶ。それは手品ではなく、彼自身の魔法行使で出来た氷なのだが。


「失敗、と。我の記憶違いで無ければ、このように落ち込むような失態は犯していない筈だが」

「貴方にはそう見えるんだね。……そう言ってくれるなら、妹も心が晴れるだろう」


 ディルの目の前にグラスが置かれる。そのグラスを手に取った所で、聞こえた『妹』という言葉に反応した。


「妹、といったか」


 ディルは、この男が彼女の育ての親であるという事しか知らない。疑問が声になって出ると、店主は当然といった風に頷いて肯定する。


「血は繋がっていないけどね」


 肩を窄ませながら注釈のように言われたのは、そんな言葉。


「……この者は自らの話をせぬ。何故ハーフエルフがダークエルフを『兄』と呼ぶか、我は事情を知らぬ」

「あー……。貴方には照れてしまって話が出来ないとか?」

「そういうものか」


 ディルだってダーリャの庇護下に入っていたが、多忙で各地を忙しく飛び回る彼を親だと思ったことは無い。血族から親愛を向けられたことが無いディルにとって親というものがどういうものであるか、よく分かっていない。

 本には確かに理屈が書いてあって、知識としては知っている。けれど経験が無いのだ。ダーリャがアルセン王国を後にした今、その機会を失った今となっては永遠に分からないのだろう。


「そういうものだよ。……それで、聞きたい? 私達の話」

「……そうだな、この者が起きるまで、時間はまだありそうだ」

「それだったら帰る時、ついでに隊舎まで連れてってくれないかい?」

「構わぬ」


 『花』隊長も隊舎に個人の部屋があるから、連れて帰る事自体には了承を返した。

 それから始まった店主の話は、そこまで短い話でもなかった。

 戦争で故郷ごと親を失った子供が逃げて来た先がこの城下。孤児院で暮らす事になっていたはずが、入院孤児人数超過の煽りを受けて追い出される話だ。

 僅か十二歳の少女が、頼る当てもなく街に放り出される姿を店主が見てしまう。二人の関係は、そこから始まったという。

 店主の昔語りが始まると、店内に居た客は空気の居心地の悪さにひとり、またひとりと金を払って帰っていく。この時間まで残っているのは近所の常連達ばかりで、その時の『花』隊長の様子を知っていたからなのだがディルはそれを知らない。

 やがて客がディル以外全員帰った所で、店主は酒場の閉店を決めた。看板を店内に仕舞いこんで閂を掛ける。密室になった後は、表では聞かせられない話も出来た。

 この酒場が裏でやっている血生臭い仕事。そして、隠してきたそれを彼女に知られてしまった。外部に公言してはいけない事情を知ってしまった彼女は、兵として城に登用されることになる。

 王家の監視下でその口を塞ぐため。二度と外へ漏れないよう、店主にとっても彼女にとっても、互いが互いの命を守る為に口を封じられる。

 彼女が『花』隊長になったのは店主の裏ギルド長としての力が働いたからだとは言わなかったけれど、もしかするとその地位を巡る外部の圧力はあったのかも知れないと彼は語る。


「どれだけ出世しても、どんな地位にいても、私の可愛い妹だ。貴方には面倒な同僚かも知れないけれどね」


 浮かべた笑みは、ダークエルフであることを感じさせない柔和なものだ。面倒な同僚、との言葉にディルが鼻を鳴らす。

 確かに面倒だ。けれどそれは同僚としての彼女が齎すものではない。一個人としての彼女を見る自分が一番面倒臭かった。だから、店主の言葉には素っ気ない返事だけを送る。


「――ふん。特に気にしてはいない」

「またまた。……ところで、騎士団にも色恋沙汰は無いのかい?」


 突然切り替わった話に、ディルが僅かに目を見開いた。同時、眠っている筈の隣の席からぶひゃん、とくしゃみのような音がした。

 二人が視線を彼女に送るが、当の本人は再び狸寝入りを開始したようで身動ぎすらしない。くしゃみをしたのに身動ぎもないというのも妙な話で、彼女が起きていることがほぼ確定した。


「……不思議な事を聞くものだ」


 今の時点で尋ねられたくない内容だった。そんなものとは全くもって無縁なディルなのだ、誰が誰と恋仲で誰とどうなった、という話に一切の興味が無い。ディル自身も恋愛が何なのかよく分かっていないし、経験が無い故に恋愛の理想論さえ述べられないのだ。


「知っての通り、妹には好い人がいない訳だ。兄としては正直心配なところがあってね」

「それで、だからと我に聞くのか?」


 ちり、と、ディルの胸が焼け焦げるような感覚を覚えた。

 育ての親にして兄と呼ばせている、彼女にとっての近しい身内すら彼女の純潔を語る。それ程までに清い彼女に、邪な感情を抱いている自分の穢らわしさを改めて認識させられているようだ。

 胸の不快感はそのまま声と視線で現れる。自分の声の棘に気付いたディルが、無意識のそれに自分で驚いた。


「あまり、……我が好む話題では無い。誰が誰を想っていようと、我には関係ない」


 一番動揺しているのはディル自身だ。


「……。……、………。分かったよ。すまないね、こんな話題を振って」


 その動揺が何処から来ているのか勘付いた様子の店主は、暫くの間を置いて謝罪を述べる。酒場を経営しているからか、それとも種族故の長命からか、『そういったもの』には聡いようだ。

 彼の聡さ自体にディルが気付くことはないけれど。


「けれど、一つだけいいかな」


 店主は引き下がらなかった。


「……なんだ」

「もし、この先この子が好い人を見つけて幸せになった時。貴方は妹を祝ってくれるかい?」

「…………」


 ディルは、すぐに答えを返せなかった。

 無論――そう言いかけた彼の喉が、一瞬押し潰されたような感覚に襲われたから。

 誰かと結ばれる、という未来が彼女にあって当然だろう。彼女だって一人の女だ、伴侶を見つける幸福を選んでも不思議ではない。彼女ほど美しく有能な隊長であれば、政治的婚姻の話が出た所で不満を漏らす者はそう多くないだろう。人と関わる事が好きな彼女との縁談であれば、喜ぶ男の方が多いかも知れない。

 縁談だけでなくとも、もし本当に『花』隊長が誰かと想い合って結ばれることが現実になったら。


 その『誰か』の首が宙に舞う姿を見れば、ディルの胸の内を苛む重苦しい気分は晴れるだろうか。


 ディルは一瞬にして殺意が湧いたのを抑えきれなかった。店主しか見ていない表情を顰めて、苦すぎて吐き気がする吐息に声を乗せるので精一杯だ。


「……それが、この者――が」


 喉が苦さで腐りそうだった。


「望んだ幸せならば、な」


 心にもない事を口にするのは、ディルが王に仕えるようになって学んだ処世術のひとつ。

 彼女が起きているのなら、不穏当な事を言って聞かれていたなら明日からの執務に支障が出るかもしれない。何があっても、それだけは避けなければならない。一介の下働きならいざ知らず、自分達は隊長なのだから。

 胸に圧し掛かる重しを他の重さで誤魔化すように、まだ眠っている振りをする『花』隊長の軽く細い体を抱き上げた。かつて先代の『花』隊長が居た頃は彼が酔いつぶれたこの女を抱き上げて隊舎まで帰ったという話を時折聞いていたものだが、彼がしていた役割をそっくり引き継ぐつもりはなかった。

 もし彼女が途中で寝たふりを止めた時、少しでも二心無いように思われる抱き上げ方――と、ディルが考えたら答えは一つしかなかった。

 肩まで大きく担ぎ上げて、戦場での怪我人を運ぶ時の体勢にする。落ちないよう、腰だけは手で抑えてなるべく腹部を圧迫しないように位置を調整する。

 まるで荷物だ。それからディルは財布から無造作に金貨を出し、カウンターに置いた。店主に背中を向けた所で声が掛かる。


「じゃあ、妹を宜しく頼む」


 それが念押しのように聞こえて、ディルは無言で店を出た。


 店主は『花』隊長にとって無害であるかのように扱う。

 その胸の内にどんな醜い衝動が暴れているのかも知らずに。


「……汝の兄は、軽口が多いのだな」


 その声は肩の『花』隊長に向けたものだ。しかし、彼女は返事を口にすることもなく黙ったまま動かない。

 肩の上の体温に、ディルの仄暗い感情が再び湧き上がる。


「……まだ、起きるな」


 彼女が起きないままだったら、それまでこうしていられる。

 狸寝入りをしているのは彼女なのだから、このくらいの役得は許されたかった。



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