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街に下りた『月』隊長の手には、フュンフからひったくった書類がある。
供も連れずに肌寒い街を歩く。心なしか、その足取りはいつもより軽かった。
今はまだ名前も分からぬ感情を向ける先である、『花』隊長が居る場所へ向かっているから。
九番街の屯所は騎士団『花鳥風月』の四隊のうち、週交代で決められた騎士が番をしている。
王城以外の場所に何かしら事件や問題が起きた時にいち早く駆け付けられるように建てられた場所であるが、練兵場として使用されることも少なくない。王城の息苦しさを好まない『花』隊長は頻繁にこちらの施設を使う事をディルは知っていた。
食堂も仮眠室も設けてあり、王家の目も無い屯所では比較的自由に振舞う騎士の姿が見える。勿論、それで緩む警備の目ではないけれど。
ディルは『月』隊長だが、練兵の類は中隊長などの者に任せていた。なので、この屯所に来ること自体が久し振りだった。
姿を見せるだけでディルを通す屯所の門を潜ると、今週の警備を担当する『風』隊の騎士が目を見開いた。『花』隊長に加えて『月』隊長までもが姿を現すと思っていなかった顔だ。
施設の中には入らず、練兵場にだけ足を運ぶ。案の定、姿はまだ見えずとも声は聞こえて来る。
短剣と弓を握り、戦場を駆ける騎士隊長の座を戴く女の声だ。
「ほーーーーらぁ! まだまだ行けるだろ!!」
耳に届くのは、しおらしさとは縁遠いよく通る大声。フュンフが粗暴と嫌がる女の声だ。
けれどディルにとっては、それは叶う限り聞いていたい声でもある。
「た、いちょう! ちょ、むり、で、す!! しにます!!」
「ころすきかー!!」
「明日動けなかったら隊長のせいですからね!!」
部下に無理を強いているらしい『花』隊長は、隊長宛てらしからぬ非難を受けても平然と笑っていた。その笑い方も市井の女性であるならば決してしない笑い方だ。こんな笑い方をすることで従う者など、普通はいない。
「はっはっは、まだ元気だなぁお前ら! あと十周追加でいいか!?」
こんな所業が許されるのは、彼女だからだ。
横暴だ、職権濫用だ、女の癖に、と口さがない者の文句は聞こうとせずとも聞こえて来る。しかし彼女は性別の壁もものともせず乗り越えてこれまでやって来た。腕力で男に勝てないというのなら、勝てない者同士の女を味方に付けた。
城仕えで女といえば、女中以外は数は少ない。けれどその少なさを利用して女達を味方につける。『女』というだけで下に見る男を、誰かが何かされた時に徒党を組んで締め上げた。女性兵のひとりが行き過ぎた『抗議』をしてしまった時も、また自分が熱くなりすぎて乱闘になった際も、彼女はひとりで責任を負って何度も懲罰房へと送られたが、一度や二度で懲りる人柄でも無くて。
彼女が全力で立ち向かったのは、士官や騎士達に向けられる性差別だけではない。他にも数々の不平や不満に真っ向から立ち向かっていき、いつしか彼女は数多くの者から信頼を置かれるようになった。そして先代の『花』隊長に見出されて副隊長に抜擢された後は、紆余曲折あって隊長になった。
そんな彼女とディルが初めて出逢った日から、十年の歳月が流れた。
「………」
『花』隊長の姿が見えた。
背中まである鈍い銀の髪を後頭部で一纏めにして、騎士隊長とは思えぬ細い体を軽装で覆い、手には木刀を持っていた。浮かべている笑顔は楽しそうで、部下に対する彼女の嗜虐性を垣間見れる。
修練場の外周を本番さながらの姿である鎧と帯刀姿で走る彼女の部下の数は八人。中庭で何やら怒鳴られていた数よりも多い気がした。何だかんだで部下たちは文句を言いながらも彼女に大人しく従っているので、関係は不仲では無さそうだ。
ディルが姿を現すと、走らされている部下数人が最初に気付いた。何やら目を見開いて、『花』隊長に視線を送ったり手でディルを指差したりしているが彼女は気付かない。
いつまでも笑顔を浮かべる彼女の姿を見ていたかった。
けれど、ディルにだって自分の仕事がある。ずっとそうしている訳には行かない。
彼女の側に歩み寄って視界の外から名を呼んだ。
呼ぶと、彼女は一瞬にして笑顔を消す。そしてほんの少しだけ、いつも身を竦ませるのだ。
「っ、はいっ」
彼女が誰にでも見せる笑顔じゃなくなり、強張った表情になって振り向く。言葉選びさえも、普段の粗暴さを隠している。
その一瞬が、ディルにとっては堪らなく嫌だった。
「……書類を届けに来た」
彼女はいつもこうだ。
以前だったら、彼女とは少しぎこちないながらも話は出来ていた。それが明らかに変わってしまったのは、彼女が騎士隊長になってからだろうか。
気まずそうに逸らされる視線がしっかりとディルの瞳を見る事は無い。それまでの堂々としていた態度とはまるで違う挙動不審さ、あからさまな他人行儀。ディルにとってそれはまるで向こうから壁を作られたような、踏み込んではいけないと思ってしまう『拒絶』だ。
書類を差し出すと、彼女はそれを恐る恐る手にして胸に抱いた。自分と相手の間に物を位置付かせる、というのは無意識の拒否であるとディルはどこかの本で読んで知っている。
そんな二人の姿は見世物ではないというのに、外周を走っている彼女の部下も全員こちらを向いていた。
「訓練中か。……邪魔をしたか」
それでもディルは、ほんの少しだけでも彼女と関わりを持とうとした。こうも拒絶の意思を示されては彼女たちの部下に不仲という噂を立てられても不思議では無いからだ。
ディルの問いかけにも、彼女はただ首を横に振った。
「そっ、……そんな事、無い。大丈夫だから」
『だから』『あっちへいって』
続く言葉を邪推したディルは、胸に何か重い物でも乗せられたような苦しみを覚えた。
その苦痛が何から来るのかはよく知らない。けれど、拒絶されたことで引き起こしているのだろうというのは何となく分かる。
この痛みは厄介だった。傷を負っている訳でもない、命に関わるものでもない。けれどディルを不快感の渦に落とす。
彼女に見えない位置で、拳を強く握った。他に痛む場所が増えれば、胸の痛みも少しは軽くなるから。
「……では、失礼する」
これ以上話す内容は無い。時間を無駄に使う事も出来ない。
ディルは来た時とは段違いの気分の重さで、その場を後にする。
彼女と話す時は毎回だ。嫌な思いをし続けるだけなら止めればいいのに、それでも何故か時折無性に彼女の声が聞きたい日もある。声だけではない。顔も見たい。笑顔ならば尚良い。それだけで収まらない日も、『男』として成熟してしまったディルにはあるけれど。
この感情に、名前が他にあるのなら教えて欲しかった。
名を知ることが出来るのなら、この感情を消し去る方法を探す手掛かりになるかも知れなかったから。
ディルが去った後の練兵場は散々な有様だった。
それまでとあからさまに態度が違った『花』隊長を冷やかす部下がいれば鉄拳で黙らされ、後から来た『花』副隊長にまでからかわれた彼女は不機嫌な顔を隠さずに王城への帰途に就く。
その隣には意地悪い笑みを浮かべた、癖が強い茶色の髪を持つ副隊長――ソルビットがいて、帰りながらも冷やかしの憂き目に遭う『花』隊長の顔は疲れていた。
「ソルビット、お前さんうるさい。先帰れ。片付いてない書類あったろやっとけ」
「なんでっすか。書類仕事は大体たいちょーがする奴っしょ。本当はあたしに権限ないもーん」
「今更それ言う? よし、じゃあ隊長命令。先帰ってやっとけ」
「やーですー。折角今日は面白いもの見れるって思ったのに、たいちょーったら『月』隊長が来てもすぐ帰しちゃうし。リケイロも言ってたけど、本当あの鉄面皮にゃガーっと行かないと気付かれませんよぉ?」
「…………、……」
ソルビットがそこまで言うと、『花』隊長の頬が朱に染まる。そして大事そうに抱えていた書類で緩む口元を隠すと、大きな溜息を吐いて俯いてしまう。
「……本っ当……何で来てくれるの。書類渡すくらい、他の奴でも出来るよね? なんでディル、アタシにこれ渡すために九番街まで来てくれたの……?」
「来週の屯所担当が『月』だから確認の為じゃないっすかねぇー? 良かったじゃないっすかたいちょー。愛しの君の姿が見れたから、今日はこれで仕事が捗りますねぇ?」
エルフとヒューマンの混血である彼女の半端に長い耳までもが赤く染まった。
気の強さをそのまま表したような形の瞳が、夢見心地に潤んでいる。
「……今日もカッコよかったし、自分も忙しいだろうに書類持って来てくれた……やさしい……内容はどうでもいいけど」
「仕事っすよ。どうでもいいって何すか。よりにもよってその内容にどうでもいいなんて言ってると、不敬で懲罰房行きっすよ」
王城に仕える者の中では有名な話。
知らぬ者はきっと、ディルだけ。
『花』隊長は十年もの間、ディルに想いを寄せている。
「だって、アルセン王国第一王子の成人お披露目するって話だろ。祝い事なんてどうでもいいけどあのアールヴァリンもついに十八か……。こないだまで他の奴らに扱かれてヒーヒー言ってたペーペーがねぇ」
「昔どんだけペーペーだったろうが今はもう『風』の副隊長なんすから、そこら辺口に気を付けてやってくださいよ。あれでいてあいつだって悩んでんだから」
「へーい」
気の無い返事を送る彼女の瞳はその頃には、ディルが持ってきた書類の字面を追っていた。
今日の四隊会議で議題に上がる内容だ。どうせ騎士は警備に就くだけで、自分達はそんな華やかな場とは無縁。彼女はそう思っている。
ソルビットは、そんな彼女の横顔を複雑な感情入り混じる瞳で見ていた。焦がれる相手がいながら今の今まで想いを告げる事もなく生きて来た混じりの女。姿形だけは美麗なハーフエルフ。
そんな彼女が今までどんな苦労をして生きてきたのは、ソルビットは少しだけ知っていた。
「……ねー、たいちょ」
どれだけソルビットが彼女に軽口を叩こうと、ソルビットは彼女を慕っている。
隊長としても女としても、一個人としても。
だから、彼女の恋路が叶う事を祈る気持ちは嘘じゃないけれど。
「何だよ」
まだ顔の赤い彼女に、ソルビットは微笑みかける。
「その緩み切った顔どうにかして切り替えないと、会議の時間にゃまた『月』隊長と顔合わせるんだから大変なことになりますよ」
「うるさい!!」
書類を持った腕を振っても、ソルビットを殴る事ができなかった。軽く躱したソルビットはそのまま城に向かって笑いながら走り去る。
待てコラ、と叫びながら『花』隊長も走ろうとするが、流石にそれは隊の威厳に関わるので止めておいた。
城に着くまでの間、彼女はとにかく冷静になろうとして様々な事に思考を寄せる。必死で頭からディルの事を引き剥がそうとしても無理だったけれど。