87
金の髪の『月』幹部騎士であるダーリャは、ディルの後見人となった。
養子という手段を取らなかったのはダーリャが未婚である事と、立場故の忙しさで邸宅を長期間空ける事が多いからだ。
ディルはダーリャの屋敷に住み、三交代制の世話役を置かれることになった。
世話役たちはディルの事を特別視する事はなかったが、一度として笑顔を浮かべぬ無気力な姿を「気味が悪い」と評した。
ひと月に一度か二度、数日の間だけ屋敷にダーリャが帰って来ても、ディルは特に反応を示さない。
不愛想で無感情な少年のままであるディルだったが、ダーリャはよく世話を焼いた。
ダーリャが最初にディルに与えたのは足だった。勿論、生身のものは二度と彼の元に戻ってこない。
せめてそれの代わりになるように、と、最近遠い異国の地から移り住んできたという高名な人形師の手を借りた。小さな宝石が埋め込まれた義足は魔力で足の負担を軽減させるものだという。
自分の足でないもので立ち上がるのは困難を極めた。歩くのもだ。しかしそれでも走れるまでになったのは、ダーリャが「立ちなさい」「歩きなさい」「走れるまでになりなさい」と言ったからだ。
命令、そうでなくとも具体的な指示だったらディルは取り組めた。自分で考える必要が殆どないからだ。自由意思など殆ど持たないディルは、ダーリャにとって庇護対象であると同時に不安の種だった。
ディルに、士官学校へ通えと言ったのもダーリャだった。
屋敷に住んでいるだけでも分かる程に協調性の欠片も無く、人との関わりの中でも一番の問題だったのが彼の言葉遣いだ。
一人称が「我」二人称が「汝」、言葉選びはダーリャでも口にしないような古めかしいものを利用することがある。理由を聞いたが、元々住んでいた村で強制させられたものだという。直すように言っても、本人にはそのつもりがないらしい。
この先の未来、ディルと関わるのがダーリャだけであったら士官学校へ通えとは言わなかった。しかし二人の年齢は親子ほど離れているのだ。それにダーリャの職業は命の危険が付きまとう。いつまでもディルばかりを支えていられる訳も無かった。
生きる術を身に付けて欲しい。
ディルに抱いた親心はそれが本心だった。
彼の未来へ繋がる選択肢が他に無かった訳ではない。
けれどもダーリャは、その他の選択肢をディルに選び取らせるのは不可能だと考えた。
彼はあまりにも危うい存在だった。
ディルが世間一般の市井の民のように生きていける事は無いと、ダーリャは判断したのだ。
アルセン国城下の十番街にある士官学校に通う事が決まったのは、ディルが十四歳になる年の春の事だ。
学校では宿舎で寝起きする生活が強制されていた。風呂に関しては大浴場で複数で入るのが通常だが、水源豊かなアルセンでは水さえ調達できるなら迷惑の掛からない範囲で自由にしていいという規則がある。
片足が義足である事を隠していたディルは、自由の為の不便を選んだ。義足で仕官するという不利を、彼は彼なりに感じ取っていたのだ。
士官学校での同級生からのディルの評価は、通っていた二年間通して「気味が悪い」だった。
男として類まれなる美貌を持ちながら男女問わず誰とも親しくならず、誰かから話しかけられても塩対応。ただし、一部の座学と戦闘実技全般は最優の評価だった。ダーリャが仕込んだ部分もあるが、持ち前の身体能力は過去に監禁や軟禁を受けていた筈のものとは思えない程高かった。
そんな事情を知る者は居なかったが故に、ある者はそれを才能と呼び、ある者は彼自身を天才と評した。
しかしその評価は少しだけ彼自身の真実と離れていた。
ディルは、生きる術を身に付けろといったダーリャの指示に従っているだけだ。
そして士官学校での生活はダーリャの言葉通りに、これまでディルが身を置いていた場所ほどの苦痛は感じなかったのだった。
ディルは首席ではなかったものの、高い評価を受けて国の士官となった。
学校を出て仕官した者は最初は任務を三つほど受けて、その評価が高い者から騎士の位を受勲する。
ディルが受けたのは討伐任務が二つと護衛依頼が一つ。
そのどれをも、涼やかな表情に返り血を浴びて達成したディルは早々に騎士となる。
戦闘力もさることながら、彼には容赦や躊躇が一切無かった。
騎士として受勲した彼は、『心が死んでいる』と陰口を叩かれることになった。
騎士となり後方支援部隊である騎士隊『月』に配属されて一年経たないうちに、元よりアルセン国と関係の悪かった帝国との戦争が再び始まる。
とはいっても一定の周期で続くような惰性の戦争だ。どちらかの国が滅ぶまで、といった意図が無いのはディルだって分かっている。それに、七年前の争いでディルの住んでいた村は消滅した。そこから救い、今も気を遣ってくれるダーリャと出会えたのは悪い出来事では無かったと思っている。
その時には『月』隊長になっていたダーリャの顔色は、戦の日が近付くにつれ悪くなっていた。
初陣を飾るディルの事を心配して、というだけではないようだ。
ディルはダーリャの変化にも気付いていて、敢えて何も聞かずにいた。
ディルは戦場で、後方支援担当でありながら初陣とは思えない戦果を最初の一週間で挙げた。
彼が使っていたのは初陣の者に送られる、可もなく不可もない一般的な片手剣だ。戦場を初めて経験する者が実戦に耐えられる訳が無いと、多数の者を相手にすればすぐに刃毀れしてしまうような代物だ。
しかしディルはそれを手に戦場を駆けた。
『月』隊の色である青色の布を腕に巻き、『月』隊に支給されている制服である神父服を纏って。切る事を面倒がって伸びた白銀色の長い髪は纏められることも無く、しかしそれさえも刃であるかのように閃く。
多対戦にそぐわない剣はすぐに刃毀れしてしまったが、ディルは倒した敵の武器を手に取って戦い続けた。刃がついているなら、槍でも斧でも構いはしない。彼が去った後の陣地には生きた敵は残っていなかった。
躊躇を知らない『天才』は、上官たちを差し置いて敵陣を血の海に沈めた。
ディルは基本的な命令に於いては従順であった。
しかし戦闘の号令がひとたび掛かると、戦闘狂を思わせる判断で一人先に進んでいく。
そのうち、上官の一人が怒り狂った。
それだけ個人で人殺しがやりたいなら、お望みどおりにしてやると。
戦場での移動手段の馬を取り上げられ、ディルの配属が変えられたのはその時だ。
『魔剣部隊』。隊長、ディル。隊員、ディル。以上。外聞だけは良い、体の良い厄介払いだ。
隊長であるダーリャさえも止めることが出来ない程に、足並みを乱して狂わすディルには『月』所属の大多数が怒っていたのだ。これでダーリャが恩情を見せれば、更なる顰蹙を買ってしまう。
他隊とのやり取りも、食料調達も、何もかもを自分で行わないとならなくなったディルだが、彼は特に意に介さなかった。流石にその時点でダーリャも叱ったが、彼は戦争が始まる前と同じく特に反応は示さなかった。後見人としてはディルにこれ以上危険な目に遭って欲しくなくて、せめてもという気持ちで新しい剣を渡した。魔宝石を嵌め込んだ長剣だ。元はダーリャが予備の武器として扱っていたものだが、それからはディルの愛用の剣となる。
幸か不幸か、司令が自分になり簡単に刃毀れしない武器を手に入れたことでディルの能力は最大限に発揮される。
戦場での任務は遊撃だ。これといった攻撃対象を予め定めることなく、敵の影を見つければ奇襲を行い戦況を有利に導いていく。
学校は出ていたので、対峙しようとする部隊が単身で戦闘して勝てるかどうかの目算は立てられていたので、死ぬような事は無かった。
そんな無茶な戦闘を繰り返していた最中、ディルの人生を変えるふたつの出会いがあった。
ひとつは、戦闘中思わぬ伏兵に襲撃され半壊しそうになっていた『月』のとある魔法部隊を見かけた時だ。
隠れていない伏兵など、ディルにとってはただの頭数。撤退しようとする『月』の隊に紛れ込んで、何食わぬ顔で敵の隊へと突っ込んでいった。
追撃戦の体に入っていた敵陣は、平然と向かってくるディルに混乱し、逆に壊走する始末。
その時ディルが助けた魔法部隊、その小隊長を務めていたのはとある貴族の男だったという。
ふたつめは、ディルそのものを変える出会いだった。
ディルは遊撃隊として、いつも一人で動いていた。
その日も既に数隊の敵勢力を戦線より追い返していたが、気が付けば『月』隊が対応する戦場から離れていた。戦線が入り乱れれば良くあることなので、ディルも特段気にすることなく周囲を哨戒していた時の事だ。
他隊の戦況は楽なものではなかったらしく、死屍が積み上がる場所に辿り着く。
地に落ちている布を見れば、橙も赤も青も落ちている。
この布はアルセン王国の騎士隊『花鳥風月』のどの隊所属かを一目で分かるようにするものだった。色別になっていて、『花』は赤、『鳥』は橙、『風』は緑、『月』は青だ。前線担当が『鳥』『風』、後方支援担当が『花』『月』。
この場所よりアルセン側に死体が無い事から、戦線は三隊により押し戻していると判断できる。しかし敵の生き残りが隠れて残っていても厄介なので、ディルはその場を見回り始めた。
「……」
その心配は杞憂に終わったようだった。
死体だらけの地で、一人呆然と座り込んでいた女の姿が見えた。
髪の色は鈍い銀色。ディルが初めて貰った鈍らの剣のような色をした髪をひとつに縛っている後頭部が見えた。
腕に巻いているのは赤色の布だ。短弓を持っているが背にある矢筒の中を見るに使われた様子が少ない。
草も殆ど生えぬ地面に転がる死体の中で、身動き一つしない姿は不思議なものだった。
ディルも、普段なら気にも留めない光景の筈だった。
なのに彼の足は、自然その女の方へと向かう。
ディルの足音を聞いて、女が突然振り返った。敵が戻って来たと思われたかも知れない。女の顔は蒼白だった。
「――生きていたか。……死体かと思っていた」
その蒼白の顔をした女の言葉を待たず、ディルが口を開いたのには自分で驚いた。他人がどうなろうと興味はないし、ましてや初対面なら尚更に。
女を無視して先に進むことだって出来たのに、その時のディルには出来なかった。
「……こちら側なら、用は無い」
女がそのまま呆然としているだけなら、遅かれ早かれこの女も死んでいただろう。
或いは、死を望む程の苦痛を味わうことになるか。
ディルは女の瞳に生気が戻ったのを見ると背を向ける。しかし。
「まっ……待って!!」
女が立ち上がり、走って来てディルの腕を取った。
「……待て? 何故」
「待って。怪我してる。血が出てるよ」
女は強情で、ディルが傷を負っている方の腕を掴んだまま服を肘まで引き上げた。
ディルは女の白く細い腕くらいなら難無く振り払える筈だった。しかし、それさえせずに口だけで拒否をする。
女の手が温かく感じられて、ディルは言い知れぬ感覚を覚えた。
それは、ディルが初めて感じた『動揺』だった。
「ちょっと深いじゃん、止血するから待ってて」
「必要ない」
「必要なくない。……馬に乗ってないってことは、士官? 私と一緒だね」
女は、その時はまだ一人称が『私』だった事をディルは覚えている。
「私は『花』所属なんだけど、無理矢理ココに駆り出されたクチでさ。……ずっと怖かったけど、声……かけて貰えて、安心した……」
「………」
「ごめん、引き留めて。それから、ありがと。まだ味方は生きてるんだって思っただけで落ち着いた」
ディルは既に騎士で、その士官の女よりも立場は上だ。
けれど女が浮かべた頼りなさげな笑顔を見ると、何も言えなくなった。
何処かで見覚えがあるような髪の色と笑顔を見ていると、何かを思い出しそうになった。
もう遠くなってしまった、過去の記憶が。
今の今まで忘れていて、けれど忘れきることが出来なかった何かが胸で騒めいて。
「圧迫するけど、我慢して。……、……はい、終わり。これでもう、大丈夫だよ」
「――ふん」
ディルは女の名も聞かず、礼さえ言わずにその場を去る。
どうせ戦場での出会いなど、味方同士でもその場限りだ。もしこの戦地で女が死んだら、此処で名を聞く意味が無い。
ディルは女の事を忘れようとした。覚えていても無駄な事だと考えた。既にそう考える時点で、女の事が印象に残ってしまっている事には気付かない。
お互いの名前を、その時は知らなかった。
けれどその女は此処で死ぬ運命では無かった。
彼女は戦地でも王城内でもよく働いた。働いて、地位を手に入れ、所属隊を問わず親しい仲間を増やした。
そして。
未来のディルの妻となる。