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【第二部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド夜想曲―  作者: 不二丸茅乃
Op.4 花鳥風月 上 蕾綻びし月の花
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 その少年には、名前が無かった。




 少年は自分が生まれた場所は何処かも知らない。親の顔すら分からない。

 物心ついた時には、高い所から村人を見下ろしている光景が常だった。

 室内でも室外でも、少年はただ黙って其処にいるだけでよかった。

 少年は、人の前で喋る事をしなかった。

 少年が意思表示することを誰も望んではいなかったし、喋った所で誰も聞かなかった。

 その少年が望まれていたのは、ただひとつだけ。

 村人達の前で、無感情に、冷徹に、無垢で美しい『神』のように振る舞う事。

 銀の髪と灰色の瞳。切れ長の双眸と花弁のような薄い唇。

 少年は幼いながらも、幻想の世界の住人のような美しさを持っていた。


 村は帝国との国境すぐ側にある。国境とはいっても、切り立った山の崖に隠れるように存在する小さな村だ。

 貴族の領地とされていたが、その貴族はどんな男であるかも少年は知らない。

 村での少年の扱いは、物言わぬ偶像だった。

 黙っている事、意思を持たない事、言われた通りに動く事。

 村の暮らしではそれ以外に求められることも無かった。そして少年も、何かを求める事は無かった。

 幼い時から、少年はどこか壊れたように無感情だったから。




 少年の年齢が十を数える少し前、戦争の火の手が村を襲った。

 村の立地は隠れ住むには良かったが、見つかってしまえば逃げ場がない。

 戦火は易々と村を呑み込んで、村人の殆どを殺戮して燻ぶった。


 少年はその時に、住んでいた家が燃え盛り崩れ、瓦礫に右足を潰されてしまった。

 怪我が右足の切断だけで済んだのは、不幸中の幸いだった。


 少年の命が助かったのは、帝国兵が撤収しようとするその時に少年が住まう国の騎士達が駆け付けてくれたからだ。

 少年は助けが来た時も、特別に何かしらの感情を抱く事は無かった。

 足は痛かった。

 煙に巻かれて苦しかった。

 もしかすると、助けの手が差し伸べられた事で安堵は浮かんだかもしれない。

 けれど少年にとっては、その感情の名前さえ分からないものだった。




 少年を助けたのは騎士だった。

 騎士は少年が、まるで他人事のように、そしてたどたどしく身の上を語ると気の毒そうな表情を浮かべていた。

 しかし彼にはその表情の理由さえ分からないものだ。

 騎士は金色の髪をしていた。

 その時、騎士の名を聞いたような気がしたが少年はすぐ忘れた。

 騎士は、少年に名が無い事を聞くと仮の名を付けてその名前で呼んだ。


 騎士の伝手で、少年はとある孤児院に身を寄せる事になる。

 少年は、およその外見年齢よりも遥かに大人びた精神をしていた。

 そして、その大人びた精神にそぐわないほどに『なにも出来なかった』。

 足が片方無いせいではない。

 日常生活のほぼ全てに手を借りないと、彼は食事すらままならない。

 既に『育児』というよりは『介護』だ。そんな少年の世話を四六時中出来るようなものなど殆ど居ない。

 ただ、金の髪と騎士と知らぬ仲ではなかった孤児院の神父だけが、少年の世話に名乗りを上げた。

 その時も、少年の心には何の感情も無かった。


 孤児院で暮らしていく筈だった。

 最初の数か月は確かに孤児院に居た。

 その間に、自分で匙を持って食事をするという行為は覚えた。

 服を脱ぐ、着る、という行為も覚えた。

 少年を取り巻く環境が変わったのは、その辺りを過ぎてからだ。


 少年はとある小さな屋敷に住居を移る事になった。

 その時の名目がなんだったかも覚えていない。


 屋敷の持ち主は、少年の世話をしていた神父だった。

 その神父はずっと、この時を待ち望んでいた。

 何も知らない彼を掌中に収め、その無垢さを汚す事。

 その美しい外貌が、助けられた不幸中の幸いから再び不幸を招いた。


 拒絶の仕方が分からない。

 感情の出し方が分からない。

 『生き物』として生きる事を許されず、彼は再び生の意味を強いられる。


 暮らしていた村では『神』だった。

 屋敷で少年を囲う神父はこう言った。


「お痛はいけないよ、僕の可愛い『人形』さん」


 彼はまた、自分の意思を持つことを許されなかった。




 外出など出来る筈も無い。

 自分の意思を持つことも許されない。

 毎日同じように、屋敷の二階の部屋で過ごしていた。

 部屋には窓がひとつある。しかし木の扉で覆われたそれはいつも閉じられていて明り取りにもなりはしない。

 神父は少年が無気力に過ごしている事を知っていたが、万が一の事を考えてその扉を開けないようにいつも言っていた。見つかる事が不都合なのだと少年だって分かっている。

 廊下に続く扉はいつも鍵が掛かっていて、少年には逃げ場は何処にも無い。

 この屋敷を出ても、外の世界で暮らす方法が分からない。もとより、片方しかない足では遠くへ行ける筈も無い。

 清潔を保っていても汚らわしい寝台に腰を下ろしたまま、少年は時間が過ぎ去るのを待っていた。


 一年が過ぎた。


 二年が過ぎた。


 三年が過ぎようとした、ある日のことだ。


 少年は三年では大人になれない。

 背は伸び体は徐々に大人になる為に成長する。しかし、その外見は美しいままだった。

 いつしか、神父は服も与えてくれなくなった。少年の体の成長を認められないのか、それともそんな慈悲すら与えることが嫌なのか。寒さを感じれば毛布を被ればいい。しかし少年は気温の変化にさえ鈍感だった。

 少年はそんな生活の中でも、自分で生を終わりにする事さえ考えていない。ただ、ひたすらに無気力だった。


 村にいた間も、この屋敷で神父に飼われている間も、皆同じことを言っていた。

 「外の世界は汚れているから、見てしまったらきっとその美しい瞳が潰れてしまう」と。

 少年はそれを本気にしている訳では無かった。短期間だが孤児院にも居て、自分の知らない世界の一部分を積極的にでは無いが見た。

 それをふと思い出したたった一度だけ、少年の心の天秤が傾いた。

 無気力で中立を保っていた天秤は、外の世界への興味で揺れた。


 無気力ではあったが、退屈だった。

 一度だけ。

 神父(かいぬし)に知られなければいい。

 たった一度だけでいい、いつもと違う『何か』を感じたい。


 少年の中に願望が生まれたのは、それが初めての事だ。


 少年の体は寝台を下り、足を引きずり、床から壁へと辿り着く。

 壁に手を掛け、這い上がるように立ち上がる。

 窓の扉に手を掛けたら、鍵は掛かっていなかった。


 そうして開いた扉の向こうは、硝子張りで行けなかったけれど。


 緑に色付く木々の葉。

 青々と茂る芝生。

 木の幹の茶色さえも、壁や柱のそれとは違って見えた。

 屋敷の敷地の向こうは石畳になっている。


 石畳の灰色の上を、二人連れが歩いていた。


 一人は金の髪を持つ男のようで、もう一人は石畳と同じくらいの色の深さの銀髪の子供だ。

 二人は親子、もしくは兄妹のように見える。

 男は顔を子供の方に向けているせいで少年からは見えない。

 だが、子供の顔は見えていた。

 屈託のない笑顔を男に向けていた。

 子供だ。しかし、自分よりも少し年上だろう。同時に、性別が女であるということははっきりと分かる。

 少年はその少女に視線を奪われていた。


 道を行く少女は笑顔を浮かべている。

 汚い外の世界で目が潰れるなら、綺麗とされるこの狭い部屋で笑顔も浮かべられない自分はなんなのだ?

 少女の笑顔ひとつで、心が騒めく自分に気が付いた少年は、次に廊下に続く扉から入って来た人影に気付いた。

 神父が食事を持ってきたのだ。


「っ……! その扉は開けるなと言ってあっただろう!」


 怒声が響く。


「何故分からない! お前の為を思って言ってるんだよ!」


 慈愛で隠し切れない主我が、少年の鼓膜を汚して消える。

 これまで無気力で過ごして来た少年の心に、初めて嫌悪感が波のように押し寄せてきた。

 これまで受けて来た仕打ちに対しても、今見せる紛い物の気遣いに対しても。

 少年は体を突き動かす程の衝動を感じるのも初めてで。


 ほんの三十秒後には、再び静寂が訪れていた。




 騒がしくなったのはそれから三日後の事だ。

 少年の存在を隠そうとしたのか、屋敷には住み込みや通いの下働きが居なかった。

 少年も久し振りの人の気配に気づいていたが、部屋を動くことは無かった。

 煩い足音が複数名ぶん聞こえる。神父の名を呼ぶ声もする。

 そして足音の主である一人は、少年の閉じ込められていた部屋の中にまで入って来た。


「……これ、は」


 少年も見覚えのある、金の髪の騎士だった。


「あなたが、やったのですか」


 騎士が視線を寄越す少年は、床に横たわったまま動かない。

 三日、何も食べていないからだ。

 食事を運ぶ神父は少年のすぐ側で、首を貫かれて既に息絶えている。

 少年のすぐ側には、食事に使うフォークが血に塗れて転がっていた。


「……すみません。すみませんでした」


 何故か騎士が謝罪した。少年でも、自分の行った行為が人の世では罪になることを知っていた。

 罪悪感なんてこれっぽっちもない。同時に、恨みを晴らしたという爽快感もない。

 神父を殺したと同時、窓を開ける前と同じように感情が平坦になった。

 少年には、もう、何もない。


「貴方がこのような目に遭うと知っていたなら、私は貴方をこの男に任せはしなかった。私の責任です、すみません。申し訳ありません」


 そんな謝罪が今更何の役に立つというのだ。

 帰る場所も無く、自分の生命線であった男も自分の手で屠った。

 あとはこのまま飢えて死ぬだけ。

 少年はそう無感情に思っていた。


「……私と一緒に来なさい」


 騎士の手が差し出される。


「貴方を此処で死なせない。私を呪ってもいいからどうか生きてください。私が貴方に差し上げた名前が、どうか誰かに呼ばれるように。生きる事を諦めるには、貴方はまだ若すぎる。私は死地から二度も貴方を見つけた。三度目は起こさせない」


 後に、その騎士はアルセン王国の騎士隊所属だと知った。


「ディル。貴方が生きて来た世界は、この先待ち受ける世界よりきっと厳しかった。……耐えてくれると、信じていますよ」


 彼――ダーリャが付けた少年の名は、この時初めて意味を持つ。

 名を持たなかった少年は『神』でもなく『人形』でもなく、以後再びその名で呼ばれる事になった。



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