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 アクエリアとミュゼが酒場に戻って来て数日経った。

 ギルドメンバーの全員が、二人の様子の変化に気付かない訳も無く。


「ミュゼ、俺の部屋に忘れ物したでしょう」

「あー? 本当? ごめん、あとで回収する」


 ミュゼと一番仲良くしているジャスミンは、酒場が閉まった後に部屋から一階へ下りて来て酒盛りを始める二人の会話に、それとなく男女の関係らしいものを漂わせていたのに気付いているし、漸く今日の仕事から帰って来たアルカネットも穏やかな表情をミュゼにだけ見せるアクエリアの変化を薄々感じ取っている。

 マスター・ディルはそんな二人を見ても無関心を貫いているが、時折二人にどこか遠い景色でも眺めるような視線を向けていた。

 その日はこのギルドの唯一の医者となってしまったジャスミンがマスターに依頼の薬を納品する日で、カウンターの椅子に腰かける彼の目の前に薬を提出している時に副マスターであるヴァリンが外から音もさせず入ってきた。


「……こんな時間でも揃っているとはな。ご苦労な事だ」


 いつもの、前髪を顔に垂らした陰気な姿だ。

 これまでヴァリンからされてきた様々な仕打ちを思い出して、ジャスミンが身を固くする。しかし当のヴァリンは一瞬彼女に視線を向けただけで。


「お疲れ、ディル。早速だが人払いを頼みたい」


 副マスターの一言で、マスターから何かを言われる前にアクエリアとミュゼは階段を上っていった。役割分担が出来ているらしくアクエリアは酒瓶を、ミュゼはグラスを二人分手にしている。この後どちらかの部屋で飲み直すのだろう。

 アルカネットは店員姉妹から遅い夕食として出されていた食事の皿を手に、二人の後を追うように二階に上がっていった。

 姉妹店員のオルキデとマゼンタは既に一階にいない。

 ジャスミンは、マスターにより無言で薬と引き換えに硬貨の入った革袋をカウンターに置かれたのでそれを手に部屋へ戻る。

 そうして他に人が居なくなった酒場店内で、ヴァリンがカウンター席のひとつに腰掛けた。


「お前の飼い犬たちは賢くて有難いな」


 嘲笑の意味しか入っていない誉め言葉だが、マスターはそんな言葉に耳を傾けない。


「暫く、此方に顔を出さなかったな」

「こっちも色々と忙しいんだ。何だ、俺が居なくて寂しかったか」

「其のような寝言を宣う程に睡眠不足だとするのならば、自身の生活態度を改めるべきではないか」


 素っ気ないマスターの言葉にヴァリンが一瞬真顔になった。いつもカウンターで寝ているような男からそんな事を言われるとは思っていなかったからだ。

 真顔なのは本当に一瞬だけで、その後の表情は少し和らぐ。


「……そんな冗談はまぁいいんだ。少し、お前の耳に入れておきたい話があってな」

「ふん」

「お前の嫁。……生きてるかもしれないって話は聞いたか」


 ヴァリンは僅かな緊張を以て語り掛けた。もしかしたら、この男は動揺するかもしれない。何を馬鹿な事を、と逆上されたら堪ったものでは無い。

 しかしヴァリンの不安を余所に、彼の表情は変わらなかった。


「……聞いている」


 返答は予想のうちのひとつだった。ヴァリンの肩から力が抜ける。

 安心半分、期待外れ半分。


「聞いてたのか。……誰からだ、フュンフか?」

「あの者の名は二度と出すなと言ってあるだろう」

「おお怖い。……って事は違うな。いや、本題はそれじゃない。俺にこの話を持ってきたのは……名前だけ伏せとくか、とある貴族の関係者って事で」


 その貴族の関係者とやらが、先程出した名前の持ち主であることは想像に難くない。彼も彼で貴族の一員だから。

 口を挟む様子がないマスターに、ヴァリンは言葉を続ける。 


「そいつ、どうやらあいつが生きてるっていう証拠を掴んだらしい。それが何かは聞いても教えなかったんだが、最低でもファルミアで死んでないって事が確定するような事柄らしい」


 ファルミア、というのはこれまでマスター・ディルの妻である騎士隊『花』隊長が命を落としたとされる場所だ。

 彼女の左肩から先と大量の血痕が見つかった、死を予想させるには充分な惨状。

 マスターの記憶が蘇る。あの時感じた絶望は、それまで彼が生きて来て経験した何よりも深かった。


「で、だ。フュ――そいつは、もしあいつが生きているってんなら、今何処にいるかっていう思考段階になってるらしくてな。俺としちゃあいつが生きてようが死んでようがどうでもいい、ってかなんで生きてるのがソルじゃなくてあの馬鹿女なんだよって逆恨みもしそうになってるくらいで、ずっと話聞きながら苛々してた訳なんだが」

「……貴様の義兄候補だった男であろう、貴様くらいは話を聞いてやれ」

「そうだよソルさえ生きてたらソルと結婚して義兄さんとでもなんとでも呼んでやったが。……だから! 本題はそっちじゃないって言ってるだろ!」


 過去に死んだ想い人の愛称を呼びながら私怨を交えて話すヴァリンの口は軽い。

 こほん、と一回咳払いをして誤魔化したヴァリンの視線は、マスターの灰色の瞳を捉えている。


「……ディル、お前はどう思ってる」

「どう、とは?」

「あんだけお前に好き好き言ってたような脳内お花畑のあいつが、なんでお前の所に帰って来ない。生きてるってんなら何があったってお前の側に戻るだろ、あの馬鹿がお前に何年片想いしてたかこっちは知ってるんだぞ」


 本当に生きていたら、彼女は必ずマスターの元へ帰ってきている筈だ。

 それはヴァリン認識でも、他の者の認識でも変わらない。それだけ、彼女はマスター・ディルを愛していた。


「貴様に話を持ち掛けた(なにがし)とやらも……薄々であるが気付いているのでは無いか」

「………。やっぱり、お前も同じ事を考えるか?」

「某とやらの思考まで我は知らん。……しかし我が行動を起こし、心当たりに問うた所で、我の納得する返答を奴が出すとも思えぬ」


 マスター・ディルも。

 ヴァリンも。

 そしてフュンフも。


 三人は、同じ男の顔を思い浮かべている。


「あいつが城に構えている部屋は誰であろうと立ち入り禁止だ。ただ一人、王妃である義母上だけが入室を許されて……『いた』」

「『いた』?」

「数年前から完全に、義母上だとてあの部屋には入れない。あの狐野郎は『魔宝石の暴走を防ぐため』とか言ってたらしい。これは、フュ――その某から話を聞いて義母上に直接聞いて来た話だから、間違いない」

「……王妃殿下が偽りを語った可能性は」

「ある、かも知れん。だが、ない、とも言える。その『もしも』の話はまだ分からない。でもひとつ分かってるのは、どう推察しても狐野郎が怪しすぎるってことだけだ」


 ヴァリンの表情が、いつもの軽薄さを消している。

 かつて直向きに民の事を考えていた、若かりし頃の騎士王子ヴァリンの顔だった。

 その顔を見てマスターの瞳が懐かしさに細まる。ヴァリンが愛したソルビットが居なくなってからは殆ど見なくなった表情だった。


「全く、あんな胡散臭い野郎に不相応な地位と権力を持たせたんだから、父上にも義母上にも人を見る目が無いと言うか……まぁ、あの馬鹿女を重用した時点でお察しと言うべきか」

「……人の妻を馬鹿女馬鹿女と、何度不名誉に呼べば気が済むのだ」

「お前だって前『愚かな妻』とか言ってたじゃないか。どの口が今更良夫ぶってんだ? あ?」


 人払いしているせいか、ここ最近では珍しい程にマスターが饒舌だ。

 睨み合う剣呑さも程々に、ヴァリンが前髪の奥で眉を下げて唇を緩めた。


「……お前が、落ち着いて聞いてくれるお陰で話が早くて助かるよ」

「そうか」

「暫くは俺の腹心たちも使って奴を見張らせる。怪しい動きがあれば俺かお前に報告が行くようにしとくから、絶対に聞き逃すな」

「……承知」


 二人は今の今まで名前を出さなかったが、思い浮かんでいる顔は同じだ。狐野郎というヴァリンの言葉からそれも分かっている。


 ――階石 暁。


 『彼女』について何か良からぬ事を起こすなら、その名を持つ宮廷仕えの男しかいないと。


「しかし、久し振りにフュ――あいつと話して少し懐かしくなったな。ソルが生きていた頃は色々と込み入った話もしたものだが」

「……そうか」

「なぁ、ディル。お前はあの馬鹿女が生きてたら、どうしたい? 俺は、ソルを死なせた事に関して償わせたいって……ずっと、ずっと思ってる」

「………我が、したい事?」


 ヴァリンからの問いかけに、それまで堅苦しい口調を貫いていたマスターの口調が和らぐ。

 考えてもいなかった事を聞かれたような顔に、瞬きの数が多くなった瞼。

 少し考えるように視線を彷徨わせて、マスターが口を開いた。


「……我が願いは、ただひとつ」


 もう一度逢えるのなら。

 今でも心を占める、たった一人の妻が生きているなら。

 再び、名を呼んでくれるのなら。


「……もう、何処へも……行かせない」


 彼女が二度と離れずに側に居てくれるのなら。

 何度も覗いて来た絶望の淵から、今度こそ離れることが出来ると信じている。


 願望を述べると同時、記憶が鮮やかに蘇る。


 いつでも、いつだって、『彼女』は明るく、凛として、輝いていた。


 誰も穢すことを許さない、最愛の妻との記憶。




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