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ミュゼが使っていた部屋で少ない荷物を纏め肩に下げて廊下に出ると、その先でミュゼを待っていた影が二つあった。
濃度が違えど銀色を髪に宿した双子だ。この施設でエデンとオードという名を付けられた孤児。
ミュゼは二人の姿を見て目を細めた。暫くは、この姿を見られなくなる。
「エデン、オード。嬉しいな、見送りに来てくれたの?」
初めての出会いが強烈だったにも関わらず、こうして顔を見せてくれることが嬉しかった。
しゃがんで二人の顔を覗き込むと、ミュゼが無理に浮かべた笑みは消えていく。
「……すかいおにいちゃん、どこいったの……?」
二人とも、泣いていた。
「おにいちゃん、だいじょうぶだよね……? また、もどってきてくれるよね……?」
「どうしておにいちゃん、いないの……? いむしつ、いっても、だれもいなかったよ……?」
聡い二人は実物を見ていなくても、施設内に漂う重苦しい空気に何かしらを感じ取っているのだろう。
大きく見開かれた両親譲りの色をした瞳から、大粒の涙が溢れて落ちる。
「しすたーは、しってる、よね? おにいちゃん、どうして、いないの?」
肩を震わせてしゃくり上げながら、エデンが途切れ途切れに訊ねてくる。
その幼い問いかけに、真実を伝えられるほどミュゼは非情ではない。
「……大丈夫だよ、戻って来てくれるよ。ちょっと怪我をしちゃったから、すぐには無理だろうけれど」
――嘘つき。
「でもね、スカイ君の事を気にして二人が元気がないのはあの子だって悲しむよ。元気になったら、スカイ君だって戻ってくるから」
――嘘つき。
「だから、それまで二人は待っていようね」
何も分からないだろう幼子相手に嘘ばかり並べたてて、それで悲しみを先送りしたつもりか。
彼を刺し貫いた槍はこの手が握っていたんだ。
あまりの白々しさに吐き気がする。でも、この二人の前で表情を変えることがあってはならない。そう自分に言い聞かせて耐えた。けれど。
「うそつき」
自分の中で誰かが罵っていた言葉が、エデンの口からそのまま出てきた。
貼り付けた笑みが、凍り付く。
「……ほかのせんせいも、しすたーも……いつもいってるもん……。だいじょうぶだから、って。だいじょうぶって、なんかいも、いったもん。でも、すかいおにいちゃん、だいじょうじゃなかった」
「おとながいう『だいじょうぶ』なんて、しんじられない。だいじょうぶなら、なんでおにいちゃんいないの」
双子の無垢な瞳が、ミュゼを見つめた。
その眼差しから目が逸らせなくて、でも、何も言えなくて。
僅かに開いた唇が、純粋で迷いのない問い掛けに真実を答えようかと震える。
けれどミュゼは、その唇を閉ざして何も言わない事を選択した。
「……いこ、おねえちゃん」
「うん」
いつまでも口を割らないミュゼに焦れてオードが姉を急かすと、エデンは失望の視線をミュゼに送る。
「……まかせなさい、って、いったのに」
廊下の先をぱたぱたと音を立てて走るオードに付いて行こうと、エデンがミュゼに背を向けて。
「だいっきらい」
ミュゼに、スカイと同じように呪いの言葉を吹き掛けて行った。
「おや、馬車で帰るのではなかったんですか」
ミュゼが孤児院の外に出る時には、空は小雨になっていた。
何度も魂の抜けるような感覚に耐えられず、それでもぼんやり歩いていると八番街の店の軒先で煙草を吸うアクエリアと出くわした。
二人の服装は、初日に孤児院へ着て来た服だ。二人とも外套も無く八番街にあまり似つかわしくない格好だが、雨の街中でそれを気にしている人は少ない。似非エルフの側にミュゼが寄ると、力無い微笑みで答える。
「……断ったよ」
声は掠れて、アクエリアに届いたかどうかも分からない。
様子が不自然な姿に、アクエリアはミュゼの腕を引いて軒先の自分の側に寄らせる。それから、顔に流れる雨の雫を乱雑に拭ってから、自分の濡れていない煙草を強引に一本咥えさせた。
ミュゼはされるがまま、火を点けられたそれを吸う。唇で挟んだまま、紫煙をぷかぷか浮かばせて。
「帰り際にね。……エデンとオードから、だいきらいって、言われた」
「エデンとオード? ……居ましたっけそんな子」
「知らないの? ……見てないの? あの子達は、お前の」
途中まで言おうとして、ミュゼが不意に言葉を切った。
これはきっと、『当事者に知られてはいけない』話だ。それでなくとも今のアクエリアは子供にも優しさを持たない。
『彼女』が居ない世界の弊害を、孤児院で痛感した。
話そうとした内容を変える。アクエリアに気付かれないよう、不自然にならないように。
「……お前が、助けに反省部屋に来た時、私が背に庇ってた双子だよ」
「ああ……。あの時は、貴女とスカイ君しか見ていませんでしたからね」
二人が煙草を吸う瞬間が重なった。
萎れたミュゼは、手も動かさない程に疲れている。体ではなく、心が。
「つかれちゃった、なぁ」
ミュゼの囁きが、僅かにアクエリアの鼓膜を揺らす。
「皆、私のせいじゃないって言ってくれるけど、はいそうですかって忘れられる事じゃないじゃん。悪人なら、って思って今まで何とかやってこれたけど、……今回は、スカイ君だよ」
煙草さえ持てない。持ったら、手の震えが煙草を落としてしまう。
煙草の煙が目に染みる。瞳に溜まる涙は、そのせいだと誤魔化して両の掌を見た。
酒場に身を寄せる前と何も変わっていない筈の手だ。なのに、見えない血で汚れすぎてしまった。
「私、何の為にこんな思いしてるんだろう。私の目的って、あの子の命まで踏み台にしてでも叶えるべきものなのかな。フュンフ様にも言ったけどさ、何が最善なのか分からなくなってきた。また私が不用意にした事や言った事で、誰かが傷つくの、もうやだよ」
スカイの死も。
双子の涙も。
まだ酒場の空気に染まり切っていないミュゼには、心を刻むような出来事で。
「……なら、酒場を離れればいい」
アクエリアが、ミュゼの泣き言に苦々しく口を開いた。
「え、……でも」
「無断でなければ、誓約を交わして離れられるでしょう。それさえ無理なら、見つからないよう他国へ逃げればいい。騎士の『月』隊長である例の彼は貴女を気に入っているようなので、言ったら角が立たぬよう受け入れてくれるかも知れない。この世界はね、案外逃げ道なんて沢山あるんですよ」
「……言われたよ。フュンフ様から、孤児院で働かないかって」
「丁度いいじゃないですか」
アクエリアの言葉は、突き放すような冷たさを持っている。
「そうしたら、貴女の苦悩はそれ以上強くなることはない」
最初に出会った時の、誰かが離れていく時に別れの痛みが小さくなるようにするような。
必要以上の感情を持たないよう、自分に言い聞かせているような顔だった。
「……やだ」
震えるミュゼの指が、アクエリアの服を摘まむ。
「私にはやる事がある。最善なんて分からない。でも、この状況で全部ほっぽり出して引っ込んで安穏と暮らすなんて私には出来ない。今酒場を抜けたら、遠くない未来に絶対後悔するんだ」
「それが、他の誰かを傷付ける選択でも?」
「自分勝手だけど。誰かを傷つけて、その度に後悔して、けどその後悔は多分、『やらなかった後悔』の方が何倍も強い。投げ出して逃げたら、そっちのが絶対に死ぬ程後悔する」
「だったら」
アクエリアが自分の吸いかけの煙草を地面に落とした。
そしてミュゼの煙草を指で攫う。摘ままれたそれが、手ごと二人の頭の上の空間に位置付いて。
「――え」
アクエリアの空いている片腕が、ミュゼを胸へと抱き寄せた。
「全部、俺のせいにすればいい」
「……あ、く」
「今回の事も。これからの事も。全部俺のせいにして、俺を責めて泣き喚いて、それでもずっと、俺の側に居ればいい」
ミュゼには、アクエリアが悲痛な顔をしているのが見えていない。
自分を抱き寄せた男の肩の上から見える景色は、自分達を雨から庇う軒先だけ。
二人とも、同じ傷が心に付いた。泣けるミュゼとは違い、アクエリアは心の外に出さないけれど。
確かに、スカイの形に傷ついていた。
「俺のせいにしてください。全部、ぜんぶ、俺が悪かった。一番辛い貴女が俺を責めないのは、それはそれで辛いんです」
「……って、だって、あれはアクエリアのせいじゃ」
「俺のせいです。俺のせいだって言ってください。じゃないと俺は、俺さえも許せないくらい最低な男になってしまう。貴女がこんなに傷ついて、それで俺には何も出来ないのは嫌だ」
雨が止むのを待たずに、あの孤児院を離れる程に。
馬車を出して貰わずに、雨の中を濡れて帰る程に。
自分に何かしらの罰が与えられないと、自分を許せない。
二人とも思う事は同じだ。けれど、痛みを分かち合える誰かが側に居て良かったとも思う。
「責めない、よ。責められる訳ないじゃん。でも、アクエリア」
アクエリアの頬に、ミュゼの長い指が触れた。抱き寄せられた胸の中で、両手で頬を挟む。
「それなら、私の為に、私と一緒に、もっと最低になってよ」
縮まった二人の距離。背伸びしたミュゼが、唇でアクエリアの唇に触れた。
触れるだけだったが、およそ二秒そのまま。振り払おうと思えば出来たのに、アクエリアは動かない。
唇が離れて、ミュゼの踵が地について、二人は意識的に見つめ合う。
二人が交わした口付けは、二人の意思が招いた行為だ。
「……今以上の地獄を見ますよ」
「きっと、楽には死ねないね」
「後悔しませんか」
「するのは、きっとアクエリアの方だよ」
最低だ。
思いながら、アクエリアが指に挟んでいたミュゼの煙草を地に捨てた。
最低だ。
思いながら、ミュゼがそっと、アクエリアの胸に寄り添った。
――最低だ。
アクエリアがミュゼの背に手を回し、髪の中に鼻を埋めた。
絶望で繋がれた二人が、その繋がりで関係を作る。
スカイに何もしてやれなかった悲しみも、自分への失望も、全て覆い隠すように互いを求める。
二人の関係は、歪で目を覆いたくなるほど醜いものかもしれない。
それでも、二人は何かに縋らないと立っていられなかった。
小雨が止み、雲の切れ目から空が見えた。
けれどこの空も、続く雨季のせいでまたすぐに降り始めるだろう。