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「たのしいなぁ! いまになってようやく、たのしいっておもうなんて!!」
箍が外れた声を聞きたくなくて、ミュゼが耳を塞いだ。
スカイの声は、施設内で子供達と遊んでいた時のそれより弾んでいる。種族としての本能か、それとも死への渇望がそうさせるのか。
姿を変えたアクエリアは苦虫を噛み潰したような表情になって、スカイに視線を投げている。
「やっぱり、ぼくはあなたじゃないとだめだ! アクエリアせんせい、ぼくをころしてくださいよ!!」
絶叫。咆哮。どちらとも言える声がする。
再び背中から新たな蔦を生やし走り出したスカイの瞳は、ただアクエリアだけを見ていた。
「ほんきだしてくれないと、ぼくはあなただけじゃない、ミュゼさんだって、……っ!?」
瞳は逸らされなかった。それはたった一瞬だった。
アクエリアがスカイの視界の中心で、右腕を横一線に振っただけだ。
その一瞬でスカイの周囲に炎が走った。さながら蛇のような尾を引く橙色の炎玉がふたつ、スカイの周囲を過っては回転する。
前に後ろにと俊敏に動く熱の塊がスカイの足を止めさせた。
炎はその場に留まるスカイに熱を伝える。じりじりと肌を焼いてしまうような温度に、スカイが思わず顔を腕で隠した。
「……ミュゼが、なんですって?」
アクエリアの表情は、それまで以上に険しい。
「ミュゼは、貴方が手を出していい相手では無いですよ。……俺の予約が入ってるんですから」
「あく、え、っあ」
あまりの熱気に酸素を奪われてしまったかのように、口を何度も開閉しているのはスカイだ。その間に、途切れがちに名を呼ぶ声が聞こえる。
炎が、スカイの視界で分裂した。小さくなりつつも熱はそのままに、数を増やす炎がスカイを取り囲み始める。
「っ、このっ!!」
囲まれまいと、スカイが蔦を振るった。
しかし炎に果敢に突っ込んだ蔦の先は、音もなく消し飛ぶように消失した。
炎に触れた部分が、まるで元から何も無かったかのように途切れている。それを見てスカイが熱い息を呑んだ。
「この俺に本気を出せ、と言いましたね。スカイ君」
炎はまだ数を増やしている。橙色が尚も分裂し、スカイの四方を埋め尽くし。
「本気を出すと、この施設が消し飛ぶので止めておきますよ」
スカイから見えなくなって、アクエリアが口許に笑みを浮かべた。
それは紛れもなく、ダークエルフの魔性の微笑みだった。
スカイを包囲した炎の柱が、徐々に細くなるように、渦を巻くように密集していく。
「う、うわ、ああああああああああああ!!」
聞こえたのはスカイの絶叫。彼を焼き尽くすような炎の動きに、その状態になってやっとミュゼが槍を手に駆け寄った。
「アクエリア、やり過ぎだ!! 包囲を解除しろ!」
「………」
アクエリアは尚も無言だった。
「アクエリア!!」
二度目の呼びかけに、アクエリアは溜息を吐く。
スカイがどうなっているのか、ミュゼには見えない。けれど何かが燃えるような臭いがして、顔の血の気が戻らない。
子供を手に掛けるような男ではないと信じている。
信じたい。
けれど、今のアクエリアはそんな絶対の信頼を置けるような行動を取っていない。
「アクエリア、頼むからっ! お願い、殺さないで!!」
「ああもう、煩いですねえ」
三度目の呼びかけで、漸くアクエリアが腕を振った。
現れた時と同じで、その動きで炎は全て一瞬で掻き消える。
炎の渦の中から現れたのは、両膝を付いているスカイだった。
背中の蔦は全て焼き切れている。体も、所々服が焦げて穴が開いている以外は外傷は少ない。
「スカイ君っ!! スカイ君、スカイ君! スカイ君!!」
ミュゼの絶叫が、部屋の中に響いて消える。膝を付くスカイに駆け寄ると、体を支えるように肩を抱いた。
スカイも意識はあるようで、絶叫に視線を横目で寄越すと疲労困憊という表情を隠さず顔を上げた。
「……どうして。アクエリアせんせい」
――僕を殺さなかったんですか。
言葉の続きが聞こえるような表情だ。
アクエリアは続きを待たずに顔を横に振る。そんな問いかけは、もう聞きたくなかった。
「貴方を」
貴方に。
スカイに。
この世界に産まれて、後悔だけで人生を終えてほしくなかった。
生きる理由なんて、なんでもいいのだ。
醜い所しか見て来られなかったのなら、今からでも美しいものを見ればいい。
今まで笑えなかったのなら、これから楽しいことをすればいい。
スカイが思うほど、この世界はそんな早くに絶望するべきものじゃない。
一度確かに彼に言って聞かせ、心から思っていたその言葉をしっかりと口に出せる程に、アクエリアはスカイに寄り添おうとはしていなかった。
「心配しているお人好しは、俺が貴方を殺したら恨むからですよ」
『保護が決まれば離れてしまう』
『これ以上面倒を被るのは御免だ』
そんな斜に構えた精神が招いた言葉は、本心では無かった。
綺麗事を並べて、それで自身の青臭さを自覚したくはなかった。直近で会った誰よりも年上であるという矜持が、スカイを突き放す。
「――……」
スカイはその言葉を聞いて、言葉を失った。
「生きろ、と言ったのは俺ですからね。そんな俺が、貴方を殺す訳がない」
どんな種族であれ、スカイはアクエリアにとって『綺麗』だったのだ。
悪趣味な嗜虐心に翻弄され続けた、ただの子供。
自分の知らない所で、自分の事もいつか忘れて、いつか生きている事に喜びを見出して欲しい。
これからを考えればいい。だから、『これまで』なんて、もう必要ないだろう。
それだけが、本心だった。
「……なぁんだ」
言葉を受けて力なく笑ったスカイからは焦げたような香りがする。肌には目に見える外傷は見られなくても火傷をしているかも知れない。
立っているのも耐えられなくなったようで、スカイがその場に腰を下ろした。
「ミュゼ! アクエリア!!」
その時、扉向こうの廊下から声が聞こえた。声の主たちはまだ室内の状況を把握していないらしい。
足音が複数人分聞こえる。アクエリアは視線を扉の方へ向けた。
「大丈夫、生きてますよ」
廊下向こうまで聞こえるように声を張り上げたのはアクエリア。その頃にはもう、全身に魔力を付与していつものエルフの姿に擬態している。
その視界の外で、ミュゼはスカイに寄り添っていた。
「良かった、スカイ君。すぐに医者に診てもらいましょうね。もう大丈夫、これで貴方を傷付ける人は――」
「いない、って、いいたいんですか」
ミュゼの安堵した声に被せるように、スカイの冷たい声が放たれた。
「そうですよね。ぼくのおねがいなんて、だれも、かなえてくれないんだから」
その冷たさにミュゼが言葉を失っている間に、スカイが目を伏せる。
そしてほんの僅かな時間で背から新たに生えて来た細い一本の蔦は、ミュゼの手を絡め取った。
「っえ」
絡め取られた側は、何が起こったか分からない顔だ。
その手はまだ、ミュゼの槍が握られたままだ。
蔦は無理矢理槍を握りこませて、肘の先まで固定する。意思とは違う動きをするのを、ミュゼは止められなかった。
アクエリアが異変を感じて振り向いたのは、その槍が腕ごと振り上げられた時。
「――!!」
ミュゼの槍がスカイの胸部を貫き、背中まで切っ先を出す瞬間を、アクエリアはしっかりと見てしまった。
「っ、い、やああああああああああああああああ!!!!!!」
ミュゼの悲鳴が響いた。
自由が利く方の手で、必死になって蔦を剥がそうとしているが既に遅い。
深々と柄の部分まで貫いた槍から、ミュゼは手を離せない。
「ミュゼっ!?」
アクエリアがその瞬間を見ただけでは、ミュゼ自身がスカイを貫いたかに見えた。
しかしその腕に絡みついている蔦を見て、理解したくない事を理解する。
スカイが、自分の意志で命を絶とうとした。
「……っは、あ、あははは……。やっぱ、り、……いたい、や」
今尚、ミュゼの腕から蔦を離さないスカイ。ミュゼは錯乱しているかのように腕の蔦を引きはがそうと爪を立てている。細く見えても頑丈なそれは、決して離れないという意思を見せているかのようだった。
引っ掻いて、掴んで、掻き毟って。
それで最初に駄目になるのは、ミュゼの爪の方だった。
「スカイ君、スカイ君っ!! どうして、なんでぇっ!!」
指の爪が一枚剥がれかけても、ミュゼの手の動きは止まらない。
スカイは一仕事やり終えたかのように、笑顔でその場に仰向けに倒れた。
アクエリアは動けない。何故この状況になっているのか、理解出来ないから。
「……ぼくは、もうこんな、せかい、いやです。それでも、あくえりあせんせいが、いきろって、いってくれた。いちばんやりたいこと、さがせって」
こぷ、こぷ、と、スカイが喋るたびに口から血が垂れた。息も荒く粘質の水の音が混じっている。
ミュゼの顔は涙でぐちゃぐちゃだ。目の前の状況を否定したくて、でも出来なくて、自分の手は彼の血を滴らせている槍を握っているまま。悲鳴も嗚咽も、自分の意志とは関係なく口から出るのを止められないようだ。
蔦はまだ外れないが、スカイは槍を片手で握りこんだ。絶対に離さないと、アクエリアを睨む目が語っている。
「……そんなこと……もう……したくない……!」
死への渇望がもう戻れない所まで来ている事に気づかず、死を語る言葉を甘く見ていた罰だった。
「くるしいことをおもいだしながら、いきていたくない……!! それなら、ぼくは、……ぼくを、らくにしてくれる、ひとにっ。……でも、せんせいは、ぼくをころせる、のに、ころして、くれなかったから」
スカイとアクエリアの視線が絡んだ。
体中に、視界から入り込んだ敵意が走り抜けるような感覚を受けるアクエリア。
呪詛のように唱える言葉が、アクエリアの鼓膜を支配する。
「――そんなふうに、あまい、から。あなたは、だいじなひとが、いなくなるんですよ」
スカイが最期に浮かべたのは嘲笑だった。
どれだけ掻き毟っていてもミュゼの腕の蔦はまだ剥がれない。
「こんな、せかい」
振り絞るように紡がれる言葉の全てが呪いだった。
「だいっきらい、です」
その呪いの言葉を、二人ははっきりと聞いてしまった。
ミュゼの喉が涸れる程の慟哭と、スカイの最期の言葉と、爆発音の報告を受けて城から戻って来たフュンフ達が部屋に入る足音と。
その全てを聞いていたアクエリアは、まだ瞳を大きく開いたままだった。