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長く続いた雨は、僅かな小休止を挟んで夜に雷雨へと変わった。
風も強く、時折響く雷鳴は幼い子供達を震え上がらせる。その都度施設職員が何度も宥めるが、怯える子供達の心を慰める事はできない。
もう就寝時刻だというのに続いた雷雨は、施設内にいる大人たちの表情を暗く変えた。
「アクエリア」
夜にアクエリアの部屋の扉を叩いたのもミュゼだった。扉の外から名を呼ぶ音は、既に寝ている者へ向ける声量でなくて。
ミュゼの思惑通りに起きていたアクエリアは、就寝時刻だというのに寝間着ではなく動きにくいとぼやいていた聖職服を纏っている。しっかりと一番上まで釦を詰め、まるで呼ばれるのを待っていたかのようだ。
「起きていますよ」
淀みなく返される声を聞いて、ミュゼが扉を開いた。
暗い部屋に、蝋燭一本だけの灯りの中で寝台に腰掛けているアクエリアの姿を見て、ミュゼが安堵の溜息を漏らす。直ぐに動ける格好をして貰えているだけでも、彼の頼り甲斐を感じさせてくれるから。
「良かった。急いで、ついて来てくれない?」
部屋の中に一歩入った瞬間、また雷鳴。稲光が、一瞬だけ互いの姿をはっきりと浮かび上がらせた。
「それで、どう緊急事態何です」
「……話が早くて助かるよ」
アクエリアの顔は落ち着いていた。
ミュゼの顔は、蒼白だった。
「囲まれた」
アクエリアとミュゼが並んで廊下を進んでいると、子供達の避難が開始されていた。
年齢の高い子供は自分達で動けているが、眠いとぐずる子供や寝たまま運ばれている子供もちらほらいる。まだ眠たそうにしている子供の一人が、自分の手を引く職員に話しかける声がアクエリアの耳に届いた。
「ねー……せんせぇ、ほんとうにおみずがくるの?」
「そうよ。だからお水に連れていかれないように、あっちに行きましょうね」
ぺたぺたと薄い底の靴で歩く幼児の足音が遠くなり、アクエリアが疑問を漏らした。
「水?」
それに答えるのもミュゼだ。
「雨量が多くて施設が浸水するって事になってんだ。今はその体で頼むぜ」
「ああ」
避難の理由について、今の状況ではこれほど納得できるものはあるまい。恐怖心を必要以上に煽ることもない。大人しく先導に従い歩く子供達は施設職員に任せるとして、ミュゼは道の先にある一室の扉を開いた。
「来たか」
その一室に居たのはこの施設職員の中でも、交代で勤務している王国騎士だった。
服装の大本はアクエリアが来ているものと変わらない。しかし騎士である者は帯剣と鋼の防具が付いてくる。
室内に騎士が二人。それぞれカンザネスとジナードと順に名乗った。
「……『月』隊長はどうしたんです」
一番司令に相応しい人物がこの場に居ない事に疑問を覚えたアクエリアが口を開いた。
「フュンフ隊長であれば、我々と交代で城に戻っている。執務をいつまでも副隊長に任せていられないと仰っていた」
「……こんな時に戻るとは、なんて間の悪い人だ。呼び戻せないんですか」
「この雨だと鳩も出せなくてな。しかし賊ごときに劣る我々ではない。隊長が居らずとも、我等で対処してみせよう」
強気な発言をしたのがカンザネスと名乗った、赤茶けた髪の持ち主で、見た目はフュンフよりも若い。
ジナードは未だ黙ったまま、三人のやり取りを聞いていた。
「それで、カンザネス様、ジナード様。現在状況をアクエリアにも教えたいのですが説明していただいてよろしいでしょうか?」
事態は急を要する。ミュゼが伝えるより騎士に伝えて貰った方がいいと思い、急かすように話を持ち掛けた。
「じゃあ、僕が」
頷いたのは二人とも。そしてそれまで黙っていたジナードが口を開いた。苔のような濃い緑色をした髪を持つ若者。見た目の年齢としてはミュゼが近いだろう。
「当施設の正門、裏門、同時に未確認勢力が集合している。裏門、人数六。正門、見えるだけで二十」
「……それ以上の人数がいると理解してよろしいでしょうか?」
「そう。視界が悪くて正確な人数が分からない。最初確認した時より増えている様子もある」
「増え……。こんな時に他の騎士は何しているんですか。見回りしてるんじゃないんですか」
「巡回の時間は決まっている……。相手はそれを把握してきた可能性もある。今度の会議で、時間を不規則にするよう提言する」
悪条件が重なりすぎた。アクエリアが現状を聞いて、脳内の考えを纏める。
「……先に奪還するなら、表と裏どっちを取るべきだと思います?」
「表」
「裏」
「裏」
意見が割れた。カンザネスは表を推したが、ミュゼとジナードは裏を取ると意見が一致した。
「表の方が数が多い。一気に決めるなら表だ」
「表は新手が来る可能性がある。万が一子供達を逃がすなら裏からの方が安全」
「私も同じ意見です。新手が来るとしたら、いつそれが途切れるかも分からない。子供の安全を考えたら裏かと」
話し合いは荒れることなく、ものの一分で片が付く。
カンザネスが軽く手を挙げ、了承の合図を出した。
「じゃあこうしよう。二手に分かれて、最初は裏門の奪還と正門の見張り。奪還後、合流できたら正門の奪還に移る」
話し合いの主導を握ったのはカンザネスだった。内容に異論はないので、他の三人とも口を挟まない。どう分かれるか、という時になってもすんなり決まった。
裏門はジナードが指示を出し、ミュゼとアクエリアが一緒に向かう。カンザネスは正門の見張りにつくと言った。
一応の方針が決まり、ミュゼが雨具を配った所でアクエリアの疑問が浮かぶ。
「そういえば、避難って皆さんどちらにいるんですか?」
「………」
なんとはなしの疑問だったのだが、三人が三人とも口を閉じてしまった。騎士二人に至っては目配せをしている。
「……『反省部屋』だよ」
目配せの結果、ジナードが口を開いた。反省部屋、と聞き慣れない言葉に疑問符が浮かんだアクエリアだったが、三人の顔色でなんとなく察してしまった。
アクエリアだって見た。この施設にそぐわない鉄扉の部屋を。最初にスカイと対峙した時に彼が収容されていた場所。
三人が言いたがらない理由が分かって、アクエリアが鼻息だけで返事する。その姿に苛立ちを覚えたカンザネスが舌打ちを一回。
「スカイが自分から反省部屋に戻りたがった理由も分かるな。こんな男と一緒に居たら息苦しさで窒息しそうだ」
「カンザネス!」
「……え?」
ジナードが窘めた声も既に遅く、アクエリアの耳にはもう届いていた。
フュンフは、スカイを別室に移したと言っていた。まさかそれが反省部屋と称されるあの冷たい鉄扉の部屋だとは思っていなかった。あんな場所に戻った方がマシだと思われる程の事をしてしまったのだと今更知る。
アクエリアはそれ以上を問い質すことが出来なかった。カンザネスの言葉は侮辱だ。しかし、その侮辱にも反論さえ出来ずに口を閉ざすしかない。
「……あの場所なら、非戦闘員でも暫くは……持ちこたえられる、筈。鉄扉を壊すなんて、普通は無理だから」
ジナードは見た目にそぐわぬ幼さを感じさせる口調で、アクエリアから目を逸らしながら言った。
扱いはまるで腫れ物だ。でももう、自分の扱いなんてどうでもいい。
今更何を言った所で、何も変わりはしないのだ。
「……頭に来ますね」
ただ一言、今の心情を漏らしたアクエリアにミュゼが眉を下げる。
その言葉は何について。問う前に、アクエリアは扉に視線を向けた。
「三十人程度で俺をどうにかできると思ってる頭の悪い集団なんて、俺一人で締め上げてもいいんですけれど。折角騎士様のお手並みを拝見できるいい機会です、せいぜい頑張っていただきましょうか」
「忠を尽くし信念を捧げる先があるでもなしに、その大口がどこまで耐えきれるか見ものだな」
アクエリアの挑戦的な言葉には、カンザネスが余裕の表情で返す。
一番最初に扉から廊下に出たのはカンザネス。それから、アクエリアとミュゼの顔を見てジナードが出て行った。
残った二人は、急ぐでもなく足並みを揃えて廊下に出る。ミュゼは横目で不機嫌なアクエリアの様子を窺っているが、その逆は無い。
「……ねぇ、アクエリア」
名を呼ばれても、ミュゼの方を見なかった。
「無理にあいつらと口を利かなくていいよ。私が代わりにあいつらと話するからさ、だから、アクエリアが少しでも不快にならないようにする」
「……貴女は、いつから俺の相談役になったつもりなんです」
彼女なりに気を遣ったのかも知れないが、不必要な気遣いは苛立ちのもとだ。
案の定というべきかアクエリアが返した言葉に、え、と言葉を詰まらせるミュゼの姿。
横目で盗み見たミュゼはわかりやすく戸惑っていて思わず苦笑が浮かび、失言をしたかもしれないと自分を責めている様子に手を頭に置いてやった。
「今は俺の事なんて、気にしてる場合じゃないでしょう?」
柔らかい金糸の髪を、頭の形に沿って髪型が崩れないように撫でる。え、あ、と断続的に聞こえる意味を成さない声はミュゼのものだ。
みるみるうちにその頬が朱に染まり、顔もどんどん下に下がっていく。
「……ちょ、……いま、それ、はんそく……」
「行きましょう。……遅れて行ったら、また嫌味を言われかねない。俺はね、今更嫌味なんてどうでもいいですが、貴女が悪く言われるかもと思うと……それは嫌なんですよ」
「え、それ、どういう」
ぱっと顔を上げるミュゼ。それと同時にアクエリアも頭から手を離し、歩を進める先だけを見た。
「王家から仕事を受注している我々が、王家に仕える騎士であるあの人達の心象をこれ以上悪くすると不都合が起きるかもしれないでしょう」
「……あ、そう。そういう……なぁんだ……」
「それと。俺がここで功績を上げたら、貴女の隠し事を色々吐いて貰うつもりです」
アクエリアの言葉に、ミュゼが息を呑んで歩を止めた。それさえ分かっているのに、アクエリアは歩く足を止めない。
「間違っても、此処でくたばらないでくださいね」
声だけを置いて、アクエリアはそのまま進んだ。
「……上等じゃん。私が何を言っても怖気づくんじゃねぇぞ、この狸」
ミュゼは見られてもいないのに笑みを返し、小走りでその背に近付く。