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 夢を見た。


 夢に出て来る人物はいつも違っていて、けれど今まで一番出てきた回数が多いのは居なくなってしまった恋人だ。

 彼女は笑っていたり怒っていたり、今まで見て来た表情を浮かべて語り掛けてくる。

 今回の夢の中では、彼女は寂しそうに微笑んでいた。


 『ねえ、聞いた? 帝国の軍が、ファルビィティスを落城させたんだんだそうよ』


 何故そんな表情を浮かべたか、理由が分からなかったけれど。


 『帝国の攻勢、いつまで続くと思う? アルセンだって友好国が落ちたなら劣勢よ、そしたら次に帝国が目を向けるのは、この国かも』


 国同士の戦争なんて、関係ないと思っていたから、その憂い顔に返すのは安心させるための言葉だ。


 『もしそうなっても、貴女だけは俺が守りますよ』


 その時自分が返した言葉が、夢の中で鮮明に蘇る。

 掛けた言葉に嘘はない。何が起きても、彼女の側に居るし守り抜くつもりでいた。

 青臭い言葉だったと、今なら思う。恋情の熱に浮かされて、似合わない事を何でも言って、行動もした。

 好きだと、愛しているのだと何度も繰り返した。最初は拒否していた彼女も、いつしか同じ想いであると寄り添ってくれた。


 『守る』とあの時言った言葉に彼女がどんな表情を浮かべたかが、もう思い出せない。


 夢は突拍子もない場面転換をした。

 気づけば目の前に居るのは、深い青を湛えた黒髪の持ち主ではなくなっている。くすんだ銀色の髪の持ち主が、悪ガキを思わせる笑顔でアクエリアを見ている。


 『アタシはお前さんに出会えてよかったよ』


 彼女からそんな事を言われた覚えはない。だから、これは夢なのだと悟る。


 だって、貴女はもう死んだと言われたじゃないですか。戦場から持ち帰れた遺体と言われた一部をこの目で見た。

 貴女が居なくなって時間が経ちました。そんな人懐っこい笑顔を浮かべた貴女が居なくて、どれだけの人が悲しんでいるか知っていますか。

 なのに貴女は人の気も知らないで、そうやって人の夢にまでも出て来るんですね。


 『お前さんがいなかったら、アタシ―――』


 その言葉さえ最後まで言われることなく、鈍い銀色をした髪の主の姿は霧散する。

 淡い光のような粒になって散らばる彼女の欠片を、アクエリアは掴むことすらせずに見送った。


 彼女が。

 『彼女』が。

 もしどちらかだけでも、傍に残っていてくれたら、アクエリアはこんなに自分の無力を感じる事態に遭遇することは無かったのではないか。

 誰かと悲しみを分かち合おうと思う事も、苦しむ誰かの力になろうと考える事も最早ない。

 自分が奪われる側で、心を許した『誰か』から先にいなくなってしまうようなこの世界で、もうこれ以上心を引き裂かれる思いをしたくなかった。


 『どうか、戻ってきてください』


 夢から醒める直前に声に出した懇願。

 震える声で紡いだ言葉は、どちらに向けたものだっただろう。




 雨降る孤児院で過ごすようになって、一週間が経った。

 スカイと顔を合わせる事も殆ど無くなって、偶然施設内で擦れ違ってもスカイは顔を伏せて小走りでいなくなってしまう。

 ミュゼとは当たり障りなくやっているようだが、円滑な関係を築けているという訳でも無いようでミュゼも困っていた。それまでより一層暗い表情をしているスカイは、同じ孤児達と遊んでいても憂いた表情のままだという。

 やっと奴隷でなくなっても、これまで受けて来た傷はすぐに癒えない。

 心の傷の治りを遅くしたのは、他でもないアクエリア。

 次第にミュゼとも、顔を合わせる時間が短くなっていく。意識的に会うことが出来るのは、夕暮れ時の短時間のみ。

 彼女がスカイの入浴時に他の職員に交代して時間が空く際、煙草を吸いに外に出る時だけだ。


「……あー」


 今日の雨は風が無い分、軒先で過ごしやすい。アクエリアが喫煙所に行った時には、屋外の屋根の下で煙草をふかしているミュゼの姿があった。彼女の手の中にある木製の煙草入れの中に見える本数はあと二本といったところか。


「お疲れ様です」


 当たり前のように隣の場所を陣取り、アクエリアも煙草を出した。唇で挟んだその先を指でなぞると、当たり前のように火が付いた。

 それを見たミュゼが苦い顔をする。この男が魔法で火を点けられるのも知っていたが、この孤児院に来て一番最初にした煙草同士で火を点けたアレは何だったのかと問い質したくもなる。煙草の煙を吐き出す、その一瞬のアクエリアの顔は普段よりも間抜けに見えて、それを見る度どうでもいいやという気持ちも湧き上がるのだが。


「……何ですか」


 まじまじと顔を見ていたのだ、アクエリアが怪訝な顔でミュゼを見る。

 ミュゼとしても、不躾な視線に彼が耐えられないだろうと思っての事だが。彼が口を開くのを待っていた。

 まるでアクエリアを焦らすかのように、ミュゼは暫く何も言わなかった。再び、アクエリアが煙を吸うまでは。


「アクエリアって、マスターと仲良いの?」

「……いきなり、本当に何ですか」


 げほ、と変な方向に煙を吸ったアクエリアが咳を挟みつつ嫌な顔をする。二人とも煙草を指で挟んで、似た動作で煙を吐き出す。


「前、アクエリアに奥さん……アイツからの惚気を聞いたって話をしてね。アイツからの惚気ってさ、やれワルツ踊っただの、騎士時代のマスターが戦場で滅茶苦茶カッコよかっただの、作った料理はなんでも残さず食べてくれただのって話くらいしか知らなくてさ」

「それだけ知っていれば充分じゃないですかね。俺があの子と関わった時間は短かったですが、馬鹿みたいに毎回同じ話を繰り返し聞かされましたよ」

「……そう、だよね。アクエリアは、アイツとそんな長い期間暮らしてないんだよね」


 ミュゼが呟きながら、再び煙草を咥えた。


「私ね、『ココ』に来るまでは、ずっとアイツはアクエリアと一緒に居るんだって思ってた。あの酒場を経営しながら、ギルドの運営もやっていて、マスターの事を想いながら、そんなアイツをアクエリアは支えてるって思ってた」

「支える……? もしあの子が生きていたら、マスターが一緒に居るでしょう。俺が支えることになる場面は無かったと思いますよ」

「そうかな。アクエリアは口は悪いけど優しいから、なんだかんだ支えてたと思うよ。……アイツがいないのにギルドに残ってるのも、その証拠っていうかさ」

「ギルドに残ってるのは……俺の目的のための路銀集めといいますか……」

「五年以上も?」


 年数まで知っているミュゼは、アクエリアのそれが本心から来る言葉なのかと問うような視線を投げてくる。

 わざわざ説明をするまでもなく、色々な事を知っているミュゼと話をするのは居心地が悪かった。

 アクエリアは居なくなった恋人を追うための資金を稼いでいる、……というのは表向きの話で。

 自由を謳うこの国で暮らすのは居心地が悪くなくて、マスターとは大切な人を失った同士として一方的に傷の舐め合いのような感覚で接している。


 もし本当に資金を溜めて、再び彼女を探しにこの地を離れ。

 そしていつしか見つけた恋人が、既に伴侶を得ていたり、もしくはもう既に命を落としていたりしたら。

 彼女を想い続けていたこの二十年を、無駄な努力だったと絶望してしまわないか。


 アクエリアが恐れているのはまさにそれだった。

 最初のうちはそんな事を考えてもいなくて、ただひたすらに彼女を追っていた。けれど時間が経ち、季節が過ぎ、年を重ね、ふと自分の生を振り返った時、そこにあるのが空白だったと気づいた時の恐ろしさ。

 縋るように恋人を追っている自分を自分で惨めと思ってしまう時の事を夢想して、アクエリアが思わず煙草を嚙んだ。葉の苦みが直に口内に広がる。


「……あんまり、その辺りは触れられたい話では無いのですが」

「んな事気にするなよ、私アクエリア本人から聞いたってのに」

「は!? 俺、貴女に話した記憶はありませんよ!? いつの話ですか!!」


 唐突に本人すら覚えのない行動に目を丸くするアクエリア。ミュゼは肩を揺らして笑って、吸いかけの煙草を足元に投げた。それを靴の爪先で踏んで、雑な消火を終わらせる。


「記憶が無いならそれでいいんじゃね? 大丈夫。これから私はお前にとって、忘れられない女になる予定だから」


 屈んで指先で吸殻を拾い上げたミュゼは、アクエリアに悪戯っぽく笑ってみせる。

 その笑顔が蠱惑的に見えて、アクエリアの中で長い事忘れていた何かが蠢いた。随分久し振りに覚えた、胸を何かが這いずるような感覚は不愉快だが嫌いじゃない。あ、と思った時にはもう遅かった。


「……大問題ですよ。俺は俺の知らない所で、他の女に現を抜かす余裕があるらしい。夢遊病ですかね」

「心配だってんなら寝る時体縛ってあげようか?」

「結構です」


 アクエリアはそっと屋根の外側に腕を伸ばすと、一瞬の風で僅かに振り込んで来た雨粒で煙草の火が消える。

 二人は当たり前のように、同じ携帯灰皿に吸殻を処分して、ミュゼの休憩時間はそれで終わり。 

 じゃあまた、なんて言葉を残して、ミュゼは雨粒を避けるように施設内に入って行った。


「……忘れられない女になるだなんて、本当……大胆な事を言いますね」


 アクエリアは急ぎの仕事も最早無く、まだ同じ場所からぼんやりと雨に煙る景色を見ていた。

 施設内からは仕事に戻ったミュゼを歓迎するような子供達の声が聞こえている。その声に高低はあれど、すべてが帰りを待ちかねていたような嬉しそうなものだ。


 壁を隔てただけで近くにあるその声が、どこか遠い世界の出来事のように思える。




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