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「僕は、いない方が良かったですか」
四人での話し合いに満たない集まりから一番最初に抜けたスカイが、廊下の途中でぽつりと漏らした。
外はまだ雨が止まない。雨音に紛れさせるような小さなスカイの声を、アクエリアは聞き逃さなかった。
「これからどうなるかはまだ分かりませんが、貴方が聞いていて悪い話でもなかったでしょう。それに、あの二人は貴方の事を拒みはしませんよ、スカイ君」
「そう、じゃ……なくて」
スカイの声は重く沈むように、言葉を選んで紡がれる。
「……僕が、いるから。僕がいると、アクエリア先生も、フュンフ先生も、ミュゼさんだって……僕の事で、たくさん……迷惑、かかってます」
「大人は子供の為に働くものですよ。特にここは孤児院ですし、ミュゼだって別の孤児院で働いていたシスターです。大人になって迷惑なんてかけてたら殴られるんですから、今の内にかけときなさい」
「でも、僕は……そんな、迷惑かけていい子供じゃないです……。僕より小さくても迷惑かけない子は……ここにいっぱいいます……」
「そうですか。ではこれから入って来る『迷惑をかける子』の前例になれますね。大人に危機管理意識を植え付けるなんて簡単なことじゃないですからいい機会でしょう」
「だからっ……そうじゃなくて!」
何を言いたいか分かっていながら、飄々と話を躱すアクエリアに焦れて大きな声が出る。スカイはアクエリアに顔を向け、あどけなさが残る顔を苦痛に歪めていた。
「僕がこの孤児院にいるから、迷惑が掛かっているんでしょう!? なのにどうして皆優しいんですか! こんな迷惑かけるしか出来ない僕なんていない方がいいのに! 誰も僕を責めないで、殴ったりもしなくて、優しい人たちなのにっ、僕は!!」
スカイは綺麗だった。
アクエリアが今まで見て来た者の中で、一番『綺麗』だった。
酷い目や辛い目に遭わされてきた時、簡単に誰かを信じようとは思わない。再び同じ目に遭う事を恐れるからだ。
けれどスカイは、自分の知る狭い世界の中で、今まで関わった事もないような立場の者に触れて、自分より遥かに幼い存在とも生活を共にして。
此処なら、自分を傷付けるものはいないと理解して。
同時に、自分がどれだけ異端かを痛感した。
彼自身に何の落ち度もない。ただ生まれが悪かっただけだ。それを彼は、自分の責任と感じ取っている。
「いやです……。僕が逃げたら逃げただけ、誰かが傷つくんですか……? それで誰かの手を借りて、僕は守られるだけで、それで僕は、誰かの後ろでずっと震えていなきゃいけないんですか……?」
時代に。欲望に。
巻き込まれた側の彼が、今でも心に傷を負う。
「……スカイ君」
アクエリアが拳を握りしめる。短期間で、人は強くなれない。これまでずっと心を蝕んで来た恐怖を拭ってやる事も。
寄り添ってやればいい。分かっている。どうしようも出来ない感情は、分かち合う事で軽くなるのを知っていた。スカイがここまで声を荒げるのは、行き場の無い感情を自分でどうにかしようとしている無意識の行動だ。
けれどアクエリアは。
「そんな風に泣き喚くことが自分の特権だと思っているなら、今すぐその唇を閉じなさい」
寄り添う事が出来るのは、自分じゃないと考えた。
「とっ、けん、って」
「自覚が無いんですか? じゃあ尚更質が悪い。泣き喚いて事態が良くなるのなら、どうぞ好きなだけ。でも今は俺の神経を逆撫でするだけなので、二度と同じことは言わないでください」
スカイの保護が決定すれば、彼の同族がいる筈だ。同じような目に遭ったものもいるかもしれない。そうすれば、きっと自分ではない誰かが彼に優しく接してくれる。アクエリアは種族も違う他人だ。そんな自分が慰めるより、接点の多い人物が側にいる方がいいに決まっている、そう思って。
それに、これから先二度と関わる事が無いものにこれ以上情を向けたくはなかった。必要以上に心を許した誰かと離れて苦しむなんて事を、もう繰り返したくない。
「泣き言は聞きたくありません。自分の存在が迷惑だなどと、そんな質の悪い悲愴に付き合ってるほど暇じゃないんですよ。貴方は何が出来ますか。何も出来ないからこうなっているのでしょう。自己満足を垂れ流して聞かせるくらいなら、最悪の場合に備えて準備していた方が余程有意義ってものですよ」
優しくしたら、スカイはきっと恩を感じるだろう。
疑いもしないで、ひな鳥のように親愛を向けるかもしれない。
アクエリアが勉強を見ている間、教わる姿は熱心だった。ひたむきで純粋な、傷だらけのスカイ。
そんなスカイに対して、自分には無いと思っていた父性が芽生え始めていたのに気付いている。
「さ、喚いて満足したなら行きましょうか。貴方は飲み込みが早いから褒められ―――」
これ以上、心を通わせるのは危険だ。それをスカイの為だと信じ、自己防衛の体の良い言い訳にした。
その言い訳の真の意味が、スカイに通じる訳は無くて。
次の自習の予定を急かしたアクエリアを無視して、スカイは廊下を駆け抜けた。全力で走り去る後ろ姿を目で追うしか出来ずに、アクエリアが立ち止まった。
体では追いかける事も出来た。けれど、頭でその資格が無いと理解する。
スカイを傷付けたのは自分だ。体ではない。これまで充分すぎる程傷ついてきた心に、アクエリアは真新しい血を流させた。
自分から手放した関係。
アクエリアは暫くその場から動くことなく、これで良かったんだと自分を正当化するのに必死だった。
「スカイはもうこちらへ戻らぬそうだ」
食事や風呂といった夜の日課が終わり、自分とスカイが使っている部屋に戻った時、そこで待っていたのは施設長であるフュンフだった。
忙しいと言っていたのに、こんなところで油を売る暇はあるんだな―――そうアクエリアが思ったのも束の間、異様に広くなった部屋の間取りに目を見開いた。
スカイが寝ていた寝台が無い。彼が使用していた道具の類も、綺麗に部屋から消え失せていた。
「部屋を移りたいとの申し出があってな。今日から別室で生活することになる。同時に、君が今まで面倒を見てくれた自習やその他の時間は、ミュゼや当方職員で行う」
「……お役御免ってことですか」
「有事の際の護衛任務は変わらずやって貰う。こちらとしても、君は任務不適当として即刻この施設を出て行って欲しい所ではあるが、人手が足りぬのは本当なのでな」
「人手が足りないって言葉は便利ですね。スカイの事を後回しにしてでもしなければならない仕事なんて、そう多くは無いでしょうに」
「……雨のせいだ」
アクエリアの嫌味に呆れたような溜息を零しながら、渋々フュンフが答える。
室内で立ったままのフュンフを横目に、アクエリアは自分の寝台に座った。
「雨季になると、どこかしらの川や水路が氾濫する。この時期は修復に駆り出されるが、毎回同じ場所が氾濫する訳でなくてな。待機と物資輸送と修復に時間を費やす。現に今、六番街の水路が溢れ五番街にまで影響が出ているそうだ。……知りたい情報が知れて満足かね?」
「へぇ。騎士の方々でも民草の暮らしの心配をする心構えも持ち合わせているんですね」
「……痴れ者が」
心底軽蔑したような声色で、フュンフが吐き捨てる。
「我等の矜持を侮辱して優位に立っているつもりかも知れぬが、この孤児院で貴様が働いた狼藉は許されぬものと覚えておけ。……吐き気がする」
「は? 狼藉って、俺は何もしていませんが」
「貴様は、スカイを傷付けた」
隻眼の視線に刃物のような鋭さを持たせたフュンフは、怒りを顔に滲ませていた。
「この孤児院に於いて、最優先されるべきは『子供の心身の安全』である。その理念を、貴様は捻じ曲げたのだ」
「……子供って……スカイは、もう十四歳で」
「貴様の年齢など知らんが、もし貴様がヒューマンであるならとうに墓に入っていてもおかしくないのではないか。歳を重ねるだけが『大人』であるなら、貴様のような『大人』など何の役にも立たぬ。……よもやこの孤児院が、孤児を引き取って安穏と暮らさせる事だけを目的とした場所であると考えてはおらぬだろうな」
フュンフの怒りは騎士として、孤児院施設長として。そして、一人の『大人』として。
失くした方の目、その瞼に押し付けるようにして手を添えて、溢れる怒りを散らそうとしていた。そうでもしないと、彼はきっとアクエリアを殴り飛ばそうとしただろうから。
「子は、親を選べぬ。しかし、信頼する者は自ら選ぶことが出来る。これまで傷ついてきた者からの信頼を得るために、そしてその信頼を裏切らぬために、我々がどれほどの努力をしていると思っている? 一度も笑みを浮かべる事がなかった子供が笑った時の、その一瞬の至福の為に、我々は日々研鑽を重ね、そしてその理想は貴様によって踏み躙られたのだ」
「……俺みたいな部外者を易々と招き入れておきながら、その言い草は―――」
「そのような反論をするようでは、貴様はスカイ以下だ。……あの時の言葉は訂正しよう、最初から、貴様はスカイの足許にも及んでいない」
失望と激昂が、フュンフの声に滲んで出て来る。
「交渉役か何か知らぬし今更知りたくも無いが、貴様が生きていた長き時間ほど無駄なものがあると私は学んだ。その学びさえ無駄だ。……これだけは言わないでおこうと思ったが……、自分の気分次第で子への当たり方を変える貴様は、これまでスカイを所有していた下衆共と大差がないな」
その怒りが、アクエリアの胸を突き刺した。
放たれた言葉は、ただ侮辱の意味を持つだけではない。叱責と落胆と侮蔑と、そのどれもがアクエリアの行動を否定した。
これまでスカイに使った時間は短い。けれどその短い時間で、スカイに与えた優しさよりも傷付けた苦痛の方が多かったのだ。
決定的な言葉がなんであったか分かっている。しかしそれ以外でも、彼の心に小さな傷をつけていた。
「貴様には、もう何も期待はせぬ。せいぜい来るかも分からぬ襲撃に備えて待機していろ」
言うだけ言って、フュンフは部屋を後にした。扉は音も小さく彼を廊下に送り届けて、静かに閉まる。
自分で自分を正当化しておきながら、頭では悪手だったと分かっていた。
だからと、地に流した水が再び器に戻らないように、口から出た言葉は二度と喉の奥に引っ込んだりはしない。
この施設に来てからというもの、アクエリアは不快な思いばかりをするようになった。舌打ちをして、寝台に拳を叩きこむ。
苛々が収まらなくて、毛布を頭から被った。不快な感情は、寝れば落ち着くと信じて目を閉じた。
今以上の失態は、自分で自分を許せなくなる。
アクエリアは息だけでも整えようとして、深呼吸の後に眠りに落ちて行った。




