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 幸いにも夜明けまでにスカイは目を覚ました。

 目覚めからのアクエリアとスカイのやり取りは、感動的なものではない。スカイはアクエリアの姿を視認したと同時体を震わせ、またアクエリアもその様子に唇を引き結ぶ。

 スカイは起き上がろうとした。アクエリアの心象をこれ以上悪くしたらどうなるか分からない、という恐怖があるのだろう。だが環境が変わり弱っている体は、簡単に起き上がってくれない。

 そんなスカイの額に、アクエリアが手を置いた。


「……まだ、寝ていなさい」


 起きようとする体は、その一言で収まる。

 誰かからの『命令』に慣れているスカイは、どこまでも従順だった。


「命令じゃありません。ただの、指示です。寝ていなさい、まだ貴方の体は本調子じゃない」


 その従順さが、こんなにも痛々しいなんて思わなかった。


「無理をさせすぎました。俺は別に、貴方にこうなって欲しかった訳ではありません」


 でも、とスカイの唇が動く。声は発せられることはなかった。口答えさえ、自分の喉奥で押し殺してしまうのだ。

 それはスカイが奴隷だったからだろうか。それとも、アクエリアに恐怖を抱いているからだろうか。

 もしアクエリアが柔和に対応していたら、彼の心は恐怖で怯える事もなかっただろうか。


「スカイ君。俺にはね、兄がいたんですよ」

「あに……?」

「同じ親から生まれたきょうだいがいて。その兄は俺より年上だから、早くに国を出た。それで長く会ってなくて、知らないうちに死んでいた。俺は種族がヒューマンとも違うから、死に別れるなんて体験をしたことが無いんです。そんな兄は生前、子供を引き取って育てていた。その片方は女の子でした」


 アクエリアが溢す昔語りを、スカイは黙って聞いていた。


「彼女は女の子って年齢では無かったけれど。兄を育ての親として慕って、毎日を懸命に生きていて、俺に何の警戒心も無く接してくれた。……そんな彼女は騎士だったから、戦場で、帝国軍が率いていたプロフェス・ヒュムネの軍に殺された」

「え、……」

「分かっているんです。彼女だって騎士だから、数えきれないほどの人を手に掛けた。俺のしていることはただの逆恨み。彼女だって、戦場で死ぬ事は覚悟していたと思うんです。でも俺は彼女に死んでいてほしくなくて、出来たら、今だっていつものアホ面晒して笑いながら帰ってきて欲しい。そしたら今まで何処で何してたって詰め寄って、怒鳴って、必要があれば殴って、それで、俺は」


 不自然に言葉が切れて、沈黙が周囲を包んだ。

 それを破ったのはスカイ。


「……そのひと、あなたの、だいじなひとですか」


 空色の澄んだ瞳が、アクエリアを真っ直ぐに見つめている。

 幼い問いかけには首を横に振った。


「彼女には夫がいた。俺だって大切な人が他にいる。大事だなんて考えたことも」

「だいじなひとが、なんにんも、いちゃ、だめなんですか?」


 問いかけは、どこまでも純粋で。


「あなたのことばは、だいじなひとが、いなくなって、つらいって、きこえます」


 アクエリアの生きた年月に遠く及ばない程しか生きていないスカイが、言葉の裏を暴き出す。

 同時に、その純心さで心に刃を突き付ける。


「ぼくが、しんだら、あなたは、くるしまないですか?」


 その返答が何であれ、本心でなければアクエリアは見える筈も無い傷を負う。


「何を」

「ぼく、は。どれい、です。ひとりで、いきていけません。ぼくが、しぬのは、かんたんです。でも、あなたは、ぼくを、たすけてくれた」


 本心から、死を願っても。

 偽って、生を願っても。

 今までにないくらい、スカイという存在に精神を揺さぶられていた。


「ぼくは、なにもできなくて、なにももっていないけれど。いきてるだけで、くるしくて、つらくて、だれかからうらまれるだけなら」


 目の前のプロフェス・ヒュムネの少年は、弱り切った笑顔で。

 瞳に涙を浮かべて。


「もう、いきなくていいかな、って」


 声が絶望を物語る。


「そんな訳、無いでしょう」


 思わず、アクエリアはスカイの手を取っていた。

 突然触れられた体温に、スカイが目を剥く。


「貴方が死んだら、ミュゼの気持ちはどうなります。これまで見ず知らずだった筈の貴方を心の底から心配するお人好しがいるんですよ」

「……でも」

「ミュゼだけじゃない。この施設に暮らす子供達は、貴方を遊びに誘いました。新しい仲間として貴方を歓迎していたんです。プロフェス・ヒュムネを憎む心は俺にもある。けれど、それは貴方個人に向けた感情ではない。スカイ君は、生きていていいんです。生きなければならない」

「いき……なければ、ならない?」

「生きなさい。そして、育ちなさい。成長しなさい。生きて行くための力をつけなさい。そして、復讐するんです。復讐する権利のある者は、傷を負わされた者だけです。貴方を傷付けた者に復讐すべきは貴方なんですよ。生きるんです。生きて、命を繋いで、そして」


 血生臭い理由を引き合いに出して、アクエリアはスカイの手を握り続ける。


「……生きていたら、いつか。『死ななくてよかった』と思える日が、来るかも知れませんから」


 アクエリアだって、自身の心の整理がついていない。

 長い事生きていた気がするが、それは無駄な時間の消費だった。勿論無駄だと一言で片付けられないような経験もしたし、生きていれば生活に起伏だってあった。けれどそれを振り返って見ると、大海にひと匙の蜂蜜を垂れ流したようなもの。下等種族だと侮って来た者達の生き方の方が、遥かに『濃い』のだ。

 スカイの手は冷たかった。震える手を、何度も握り直す。


「いきてて、いいんですか。ぼくは」

「当たり前でしょう」

「ぼくは、なにも、できない」

「出来るようになりますよ。ここの施設長曰く、貴方は俺を追い越すらしいです」

「おい、こす?」

「追い越してください。それで、生きてください。これから、きっと貴方は幸せになれます。今までが辛い事しかなかったのなら、それを覆すほどの幸福に出会える筈です」


 ここまでの心境の変化を、アクエリアは知らない。

 何故この数日で、種族と個人を切り離して考えられるようになったのかも分からない。

 でも、この混じりのプロフェス・ヒュムネが死んで悲しむものがいると思ったら、自身の死を口にする言葉を否定してやりたくなった。


「生きて、復讐でも人生を謳歌するのでもなんでもいい。貴方が一番やりたい事の為に、その命を使ってください」

「……むずかしいです。ぼくは、そんなことかんがえたこと、ありませんでした」

「これから考えるんですよ。貴方には時間があるんですから」


 スカイの表情から、もう怯えは消えている。くしゃりと顔を笑みに歪めると、その拍子に目の端から涙が零れ落ちた。

 指先でそれを掬ったアクエリアが、そのまま瞼を下ろさせてやる。


「まだ、寝ていなさい」


 スカイも、逆らわなかった。


「もう、命令じゃないですよ」


 スカイから寝息が聞こえるまで時間は掛かったが、寝台端に寄ることも無く睡魔に体を委ねていた。

 アクエリアも疲労を感じていたから、寝台に上半身を預ける形でスカイから離れることなく眠りに落ちる。

 朝日が昇ってから様子を見に来た職員は、二人の邪魔をしないよう静かにその場を後にした。




 プロフェス・ヒュムネの血を引いているせいか、スカイは頑丈だった。多少の傷や疲労であればものともしない。幸いスカイはよく食べよく眠れる性質をしているお陰で、肌に残る傷痕以外の後遺症は見られなかった。

 ミュゼが途中離脱して、戻ってくるまでに要した時間は三日。


 昼過ぎに戻って来たミュゼが見たものは、それまでの関係性が一新したスカイとアクエリアの姿だった。




「え、なに。何があったの」


 孤児院に戻るまで、ミュゼは浮かない顔をしていた。自分で受けた孤児院の仕事を途中で抜けなければならない状況に陥って、その上であまり芳しくない報告をギルドマスターに行ったからだ。そしてその報告は、アクエリアやスカイ、そして孤児院施設長であるフュンフにも今から伝えなければならないものだ。

 その報告を後回しにして、ミュゼは気がかりだったスカイの所に向かった。アクエリアがスカイに対する態度が軟化しているとは分かっていたが、自分の居ない間スカイが冷遇されていないかと気が気でなかったのもある。

 図書室に居る筈ですよ、との職員の言葉で行った、そこでミュゼが見たものは。


「『本の頁が閉じられて、外から鳥が羽ばたく音が聞こえました。おしまい』……おや、ミュゼ」


 既視感を覚える光景だった。似たような心配と、それを裏切る光景を数日前にも見たような。

 心配などはどこ吹く風、今は二人肩を並べて本を読んでいた。

 勿論、スカイは元奴隷で今まで学というものを身に着けて来れなかった。だからこそ低年齢と同じ教室で字の読み書きから勉強をしているのだ。

 それが今、アクエリアはスカイの隣で、文字を指で追いながらの読み聞かせをしていた。読んでいる本は子供向けの、文字が大きい童話。


「私の居ない間に、随分距離が縮まったもんだねぇ?」

「縮めざるを得ない状況でしたからね。どこかの誰かさんが抜け出すものだから」

「ああ耳が痛い。私を適任として仕事回した別の奴に言ってくれねぇ?」


 おしまい、の文字まで読み終わった本は、アクエリアの手によって閉じられる。

 脇には既に四冊の本が積み上げられていて、その本も同じように上に乗せられた。出来上がった五冊の既読本の山を、アクエリアは両手で抱えてスカイの前に置く。スカイは手を伸ばして、その中の一冊だけ手に取って声に出して読み始める。


「『とおいとおいうみのむこうに、ちいさなしまがありました』」


 つっかえながらの読み上げだが、スカイの表情は真剣そのものだ。

 たった三日しか離れていないというのに、ある程度の文字なら読めるようになったらしい。本自体はスカイより遥かに幼い子供が好むようなものだが、文字数も多すぎる訳ではなく勉強には適していた。

 ミュゼは立ったまま、アクエリアは頬杖をついて音読に耳を澄ませる。

 特に注意するべき読み間違いも無く、やがて時間をかけて一冊を読み終わった頃、満面の笑みを浮かべているミュゼがスカイに近寄った。


「凄いじゃないですかスカイ君!! もう読めるようになったんですね!」

「は、はい。その、アクエリア先生が、僕に沢山教えてくれたので」

「せんせい」


 聞き慣れないアクエリアへの呼称に、不自然な笑みを張り付けたミュゼがぎこちない首の動きでアクエリアを見た。

 彼は自信に満ち溢れた笑顔を浮かべて目を伏せる。


「俺の教え方が上手いからですね」

「やだアクエリア幼気(いたいけ)な少年に何教えてるの自警団に通報するよ」

「俺の認識が貴女の中でどうなってるか、少し話し合いが必要ですね」


 話し合い、の言葉にミュゼが急に真顔になる。その表情の変化に少しだけ動揺したアクエリアが言葉を無くした。


「……そうだ、少し話し合いの時間が要るんだった。アクエリア、施設長は何処?」

「彼ですか? 今の時間でしたら王城の方かと。今日来るのは夕方頃になると聞きましたが」

「夕方か……。まぁそれでもいいや。急ぎだけどこればっかりは仕方ない」


 表情を曇らせるミュゼの百面相についていけなかったのはスカイだけ。

 アクエリアは、その表情だけで良からぬことが起きたのだと理解する。

 図書室の中、他にも子供の利用者はいる。他に聞かれないように声を落としたミュゼ。


「先に言っとくよ。スカイを買い付けた、次の『主人』になる筈だった奴隷商が逃走した。総勢四十人中、逃げたのは七人。自警団は血眼になってそいつを探してる」

「……は!?」

「抵抗なく捕縛できたからって安心していたらしい。他に仲間がいて、そいつらが脱柵の手引きをした。私はそれの尻拭いに駆り出されて、逃げた七人の内五人はもう『大丈夫』だけど、主犯は今も見つかってない」


 『大丈夫』といったミュゼの声が低い。つまりそれは、ミュゼが直接手を下した事に他ならなくて。

 アクエリアはそれ以上声を出せなかった。追求しようとすると、勝手に荒くなる語気を抑えられない。


「続きは、施設長がこっちに来てからするよ。その時はスカイ君も一緒じゃないと今後の話が出来ないから、同席をお願いしたい」

「何故、スカイ君も? 聞かせるにはあまりに酷な話では」

「スカイ君のこれからを勝手に私達が決めて良い訳ないだろ」


 ミュゼの視線は、俯いて震えるスカイに注がれる。


「これから先、生きてりゃ辛い事も苦しい事も山ほどあるんだ。その度に誰かが守ってやれる訳はない。……別に、プロフェス・ヒュムネとして戦えって言ってる訳じゃないんだ。奴らに甚大な犠牲を被った一個人として話し合いに参加しろってだけだよ」


 言葉自体はアクエリアに言ったものだが、その重さをスカイは受け止めようとしていた。

 これまで搾取される一方だった自分。それに関して恨みが無い訳がない。

 座った椅子、その膝の上で拳を握るスカイ。

 彼の中で決心はついた。


「参加、させてください」


 自らが選択した返答に、アクエリアはただ見守る事しか出来なくて。




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