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【第二部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド夜想曲―  作者: 不二丸茅乃
Op.3 風化する記憶 

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 スカイの外遊びを早めに切り上げたのもアクエリアの判断だ。外から施設内部に入るスカイに、一番最初にさせたのは手を洗う事。

 そうして手だけ清潔になってもスカイの服は泥だらけだった。有無を言わさず、次は風呂場に連行する。


「ミュゼはスカイ君の着替えを貰って来てください」


 そう言われて追い払われたミュゼは、アクエリアに言われた通りに服を取ってくる。スカイの着替えだけで大丈夫かな、と思いながらも男風呂の中にはミュゼは入れない。

 廊下とは間仕切りと段差のみで仕切られた脱衣所には入らず、着替えを持ったまま外で待つ時間は長く感じた。中の話し声なんて聞こえない。水音が時折耳に届くだけで、中の二人は無言なのだろうという事が感じ取れた。 

 ふとミュゼが気付くと、風呂場から聞こえる以外の水音が耳に届いていた。水音にしては長く、継続して外から聞こえる音だ。


「……雨か」


 重く垂れこめていた暗雲が、ついに雨を降らせていた。

 雨は好きではない。ギルドの面々全員に言える事だろうが、曇りや雨の時は決まって古い傷が痛む。傷を負った時の激痛ほどでは無いが、痛めた一点から広がる鈍痛だ。少し前までならギルドの医者二人に薬を頼んでいたのだが、それが一人減ってからは忙しいらしく私的な薬の用立ては憚られた。

 今回痛むのは胸元。けれど今まで一度も痛めた記憶がない場所なのに、何故か腕や足以上に痛みを持っている。これまでの無理が祟ったかと苦笑を浮かべずにはいられなかった。主張の少ない胸の間を、指先で撫でて痛みを和らげる。

 雨足が強くなった後で、風呂から音が止んだ。


「ミュゼ、着替えを」


 声が聞こえて脱衣所の中に着替えを差し入れる。中からそれがするすると引っ張られ、受け取りは完了した。廊下に先に出てきたのはスカイだった。風呂に入る前と同じ形の灰色の服を着ているが、こちらは洗濯した後のものなので汚れは無い。

 半袖なので露出した肌のあちこちから生々しい痣や傷痕が覗くが、それを見てもミュゼの表情が露骨に変わる事はなかった。


「スカイ君。どうでした、お風呂の湯加減は」

「は……はい。その、温かかったです。浸かっていないから、お湯は、汚してません」

「そんな事気にせず、浸かって良かったんですよ。……あ、傷があるからダメか」


 湯が汚れる汚れないなんて二の次で、体力消耗と傷の治りが遅くなるのを危惧してアクエリアは風呂に浸からせなかったのかも知れない。スカイの泥汚れは綺麗に落ちて、背も低く幼い顔立ちだけを見るとただの少年だ。

 時間を置いてアクエリアが姿を現した。彼は彼で髪まで濡れているのに服は先程まで着ていたもののまま。小脇に入浴で使用した着替えや石鹸などの荷物一式を抱えていた。


「先に湯を頂きましたよ。流石孤児院、子供が入る事を想定して俺の体に合わない」

「アクエリアで駄目ならマスターもアルカネットも駄目だね」

「身長を茶化すの止めてください腹が立ちます」


 借り物の聖職服が汚れる事もお構いなしに、アクエリアは髪の先から水を滴らせている。


「入浴の後に着替えを取りに戻ればいいか、とも思ったんですが……雨ですか」


 暗い海の色を湛えた瞳が、天の雲に向けられた。雨季の雲は簡単に空から退いてくれない。本格的な雨季だと何日も続けて雨が降る。

 ミュゼが濡れずに戻れたのは幸運だった。息も絶え絶えになる全力疾走のお陰でもあるのだが。


「着替えくらい用意してあんだろ。借りるくらい大丈夫だって」

「一日だけならいいですが、明日も雨だったらどうします」


 あー、と間の抜けたミュゼの声が出る。


「絶対この孤児院で預からなきゃいけないのかな? 城で保護どうのってんならそれまで酒場に連れてった方が効率よくない? そっちの方が私ら好きに動ける」

「プロフェス・ヒュムネをですか。マスターやヴァリンさんに見つかってごらんなさい」


 再び、あー……と声が漏れた。

 プロフェス・ヒュムネへの殺意が尋常でない二人の名を出されては納得してしまう。彼らはアルカネットの妹にさえも不穏な事ばかりを言っていた。実際殺す事は無かったが、あの発言はおおよそ本気だったろう。

 となると、適度に療養できて遊べて食事も出て、という場所はこの孤児院しか残っていない。ミュゼは子供の相手をするのは好きだが、場所が好きではない。どこか息苦しささえ感じているのは、王立の孤児院だからというだけだろうか? 勿論酒場の空気も辛気臭いし息苦しいのだが、自分の部屋があるだけマシだった。

 二人が何気ない会話をしている間にも、スカイは所在なげにその場に立っている。


「……スカイ君?」


 それも奴隷としての身の振りなのだろう。誰かが話しているときに口を挟んではいけないと、ずっと教育されていたに違いない。

 少しだけ頭を下げて、ミュゼの事もアクエリアの事も見ないようにしている。


「言いたい事があるのならはっきり言ったらどうですか」


 スカイに発言を促すアクエリアの声も高圧的だ。

 その声に一度肩を震わせたスカイだが、やがて恐る恐る口を開く。


「……ぼく、は。この先。新しいご主人様に、引き取られるのでしょうか」


 声が震えていた。

 ミュゼが言葉を失う。今までいた環境よりは、この孤児院の方が遥かに快適で安全な筈だ。身を害す存在はもういないと伝えられている筈だろう。新しい服も、温かい食事も、寒さに凍えないで済む寝床もあって、無体を働く者もいないのに。


「ぼくが、エスプラスだから。プロフェス・ヒュムネだから。ぼくを売れば、お金が入って来て、それで、ぼくは、次のご主人様が、少しでもやさしいひとだったら、いいなって、いつも思って」

「スカイ君、もう貴方は奴隷では無いのですよ。だから、もう今の生活だけを考えましょう?」

「でも、ぼくは、プロフェス・ヒュムネで。他の誰かを傷付けようとして。ぼくは、あたまもわるくて、なにも出来ないで。出来るのは、言われた事だけで」

「……ほう?」


 アクエリアの目付きが険しくなる。苛立った様子の視線に、スカイが再び身を竦めた。


「言われたことは出来るんですね、スカイ君。本当ですか。例えば、この場で俺が何か命令したら、それを実行できると言うんですね?」

「……は、い」

「大口を叩いたと後悔しませんね」


 雨音がどんどん強くなる。

 時刻は夕刻頃だ。空は雲のせいもありどんどん暗くなる。

 スカイの瞳には怯えが見て取れた。これからどんな非情な命令をされるか、不安でいっぱいの少年の顔だった。

 ミュゼも成り行きを見ていた。瞳には、元奴隷の少年になんてことを言うのだと呆れの色が見て取れる。


「では―――。スカイ君」


 アクエリアの口が、勿体ぶって開かれる。


「夕食が終わり次第、早く寝なさい」


 一瞬何を言われたか分かっていない顔のスカイと、ミュゼが頭を抱えて蹲る姿が同時にアクエリアの視界に入る。


「……え?」

「本調子でない体で何をしようと言うんです? 体を先に万全に戻すんですよ。まさか、それさえ出来ないとでも言うのですか」


 ミュゼは頭痛さえ覚えた。―――分かってはいたけど、この男は本当に回りくどい。

 アクエリアはアクエリアなりに、スカイを心配しているのだ。高圧的な態度が崩れる訳ではないけれど、不器用すぎる気配りが余計にスカイを困惑させている始末。


「もうじき食事の時間でしょう、食堂に行けば食事が頂けるのですよね。まずはそこまで案内しなさい」

「は、はいっ」


 スカイはアクエリアを先導するように、道の先を進んだ。それから少し離れてアクエリアがわざとらしいまでに悠然と歩く。

 態度に我慢ならなくなったミュゼがその背を追いかけて、背後から服を引っ張るようにアクエリアを引き留めた。


「アクエリア、お前そういう所本当どうにかしろよ」

「どうにか、とは?」

「誤解されるだろ。お前、なんだかんだで面倒見はいいんだからさ。冷たい態度ばっかり取ってたら、スカイがお前を誤解したまま離れる事になるかも知れないんだぞ」

「俺は別に構いません。これから先、彼が保護されれば関わる事もないでしょう」


 体を軽く揺すって、ミュゼの手を離させる。

 答える声も素っ気ないものだ。


「俺はこの先、外部の者と情を交わす事は無い。優しくしても俺に得は無い。万が一彼が俺の周りをちょろちょろするような面倒臭い事になるくらいなら、俺はただの護衛で良い」


 今のアクエリアは他者と交流することを、意識的に避けている。

 本当はプロフェス・ヒュムネが嫌いでも、スカイ個人に悪い感情は抱いていないらしい。でなければ彼と一緒に風呂に入って、中でまで面倒を見たりはしなかっただろう。自分の髪を拭く時間さえ省くような、伝わりにくい不器用な優しさを見せたりはしない。

 ミュゼの振りほどかれた手が、再びアクエリアの服を摘まむ。二回目は、アクエリアもすぐに退けようとはしない。


「そんなん、悲しいよ。優しくしたら、例え離れても互いに良い記憶に残る筈だよ。そんな、自分ばかり悪者になろうとして冷たく当たって、アクエリアは悲しくならないの」

「なりませんね。……離してください、俺は腹ごしらえしなきゃいけないんですから」

「本当、ひどいやつ」


 ミュゼは自分から手を離した。その際に、指の先に髪から垂れた水滴が落ちる。

 アクエリアはそのまま道の先に歩いていった。置いて行かれたミュゼは、アクエリアの背中が見えなくなってもその場に立ち尽くした。

 指の先の水滴を払い落し、俯いて雨音に耳を傾ける。この雨は暫く止まないだろう。


「エクリィ、私、分かんないよ。なんで男って自分が悪者になりたがるの。罪だなんだって背負いたがるのに、誰かの好意は受け取らないの」


 問い掛ける為に呼んだ名を持つ男は、その場にいない。

 ミュゼは二人の後を追わなければならない。でも、今はアクエリアの側に行ける自信も気力も無くて、踵を返した。

 二人はぎこちない空気のまま食事をするのだろうか。

 二人が交わす会話は無いか、アクエリアの高圧的な言葉にスカイが口を噤むのだろう。


 ミュゼにはアクエリアが他者を拒む理由に見当が付いていた。義姪である『彼女』の喪失だ。

 あらゆる方面から惜しまれた彼女の不在が、ミュゼの心さえも苛んでいく。



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