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「何が、って」
ミュゼが話に口を挟む。
アクエリアだって今聞いたはずだ。スカイは命令されれば逆らう余地が無かった。そうやって生きてきた彼に、『何』が出来ると言わせたいのか。
スカイが俯いた。問われている意味を理解しかねて、また同じことを復唱しようと口を開く。
「僕は」
「言っておきますが」
答えようとする声を遮ったのも、アクエリアで。
「『何をしてきたか』は聞いていません。貴方が貴方の意志で『何が出来るか』を聞いています」
「………僕の……?」
「俺は、貴方の事に然程興味が無い。俺に優しさを期待しないでください、これでもプロフェス・ヒュムネには恨みがあるんですから」
個人ではなく、種自体に恨みがあると言い切ったアクエリア。その視線はスカイを睨んでいるように見える。
しかしあまりに遠回しな言い方に愕然としたのはミュゼだった。わざと分かりにくい言い方をする、その真の意味に今日会ったばかりのスカイが気付ける訳が無いのだ。
馬鹿じゃねえのかお前。そう口走りそうになったミュゼの耳にスカイの声が届いた。
「……ぼくは、……僕は、何も、出来ません」
自分の無力を伝える言葉は、己での思考を放棄させられた奴隷としてのものだ。
奴隷に何が出来るだろう。自由意思なんてなかった彼がそう口にするのだけでも精一杯の筈。
なのに。
「でしょうね」
そんな精一杯すら鼻で笑って、ヒトの姿を成した化け物が吐き捨てる。
「子供に何かを望んだりはしません。期待もしてません。子供になにかして欲しいと思う程、こっちは浅ましくも無い。……『どうすればいい』? ガキが俺達に何かをしようだなんて自惚れるな。大人しく、この施設でただ時間が過ぎるのを待っていればいい」
傲慢な発言に、スカイは怒るでも悲しむでもなく、ただ俯いた。その顔には感情が無い。
これまでどんな嘲りも不公平も受けて来ただろう。この程度の言葉は慣れているのだ。沈痛な面持ちなのはミュゼだけ。
「ミュゼ、世話というからには泊まりになるんですよね」
「え? ……あ、ああ、……そうだな」
「着替えが必要でしょう。交互に取って来るのが良いと考えますが、貴女が先に酒場に戻るといい」
「……」
そこに居たのは、ミュゼの知らない男だった。
酒場で関わっていたアクエリアは優しかった。それはミュゼだけに限った話では無いし、ぶっきらぼうながら礼節を弁えている。敬語が崩れることは滅多にないし、女性を丁重に扱う気配りも持ち合わせている。アルカネットの仕事を手伝う程度には面倒見も良く、酒場を拠点にしている面々からの信頼は厚い。
けれどスカイやフュンフ、あからさまに敵意を剥き出しにして来る輩にはそれが反転する。その反転した顔を、今まで知らなかった。
「分かった」
まるで邪魔者を追い払うように、酒場に一度戻れと言われれば従うしかない。
従わない選択肢が無かった訳ではない。けれどミュゼだって、一人になって現状を整理する必要があった。
今のアクエリアがスカイを手荒く扱う可能性を考えていない、という訳でもない。
でもどうしても、今はスカイの優先順位を下げざるを得ない状況になっている。
すぐ戻ってくるから、と言い残してミュゼが部屋を後にした。
スカイは部屋を出て行くミュゼをずっと見ていたが、その瞳は悲しみや寂しさなどは一切ない、無感情を貫いた虚ろな瞳だった。
姉であるウィスタリア・エステル。
妹であるコバルト・エステル。
ミュゼが聞いていた二人は双子だ。美しい銀の髪が目を引く、目鼻立ちも整った姉妹だという話。
父が没した後に産まれた子供だから、二人は自然母の姓を名乗った。その母が双子の幼い時分に死んだ後、エクリィに育てられた。
片方は死するまで独身でいたというが、もう片方は子を一人儲けたと聞いた。脈々と継がれるエステルの姓は、百年の時を過ぎても途切れはしなかった。
フュンフは気付いただろうか。時を渡って今此処に居るミュゼが言った『彼女とは血縁なのです』の言葉の意味に。
ミュゼが『彼女』、そして双子の内の片方の血を引く子孫だという事に。
大通りを渡れば孤児院に行けるし帰れると分かったミュゼは、迷うことなく酒場へ帰りつくことが出来た。
着替えるのが面倒だったし肌に馴染んだ聖職服のまま酒場の扉を開こうとする。でも扉は大きな音を立てはしたが、ミュゼの帰還を拒むように開かない。中で閂が閉まっている感覚ではなく、鍵自体が閉まっているのだと理解した。
鍵が閉まっている、という事は中に誰も居ないのだ。しまった、とミュゼが顔を顰めた。今日は何日だ。『彼女』の月命日では無かったかと思い至り、マスターさえも居ない状況に焦る。
鍵を持っている者は何時に帰って来る。自分ひとりの用事だったなら幾らでも待ってていいのだが、スカイをアクエリアと待たせたままという状況はあまり望ましくない。
いつ、アクエリアがスカイを殺そうとするか分からないのだ。
「参ったな……、手持ちもそんな無ぇぞ……」
どこかの衣料品店で着替えを買って戻るという選択も出来ない訳ではない。しかし不必要に金を使う気にはなれなかった。ミュゼが居た時代ならまだしも、百年昔の服というのは趣味に合ったものが少ないからだ。
その点聖職服は都合が良かった。形が大きく変わっている訳でもなく、色も地味で作業着としても愛着がある。夜に外に出れば色のお陰で目立たなく、日中活動する時は神の使徒としての偽装も出来る。祈りの言葉も聖歌も口にできるミュゼにとって、これ以上ない程の衣装。
このまま戻るんじゃ、折角戻って来た意味が無い。考えあぐねたミュゼに声が掛かるのは、丁度その時だ。
「……どうした」
低い声が聞こえた方へと視線を向ける。
そこに居たのは、眼鏡を掛けた神経質そうな中年男だった。
「あ」
「鍵、掛かってる筈だが。どうした、忘れ物か」
「忘れ物、ってか」
男の顔は知っている。近所の本屋の店主だ。彼は小脇に買い物した荷物が入っているらしい紙袋を抱えていて、腕まくりした黒のシャツと青のズボンを穿いている。いつも着けているエプロンは無い。
くすんだ緑灰の髪を持つ彼は、いつも店先で自店の商品であるはずの本を読み耽っているのだ。本の虫、というのがミュゼの第一印象。
「急遽荷物纏めなきゃいけなくなったんだけど、開いて無くて困ってた所」
「夜逃げか?」
「んな訳ないじゃん」
神経質そうな顔の割には案外話が出来る。顔つきの種類というだけならフュンフが近いのだが、あそこまで嫌味を言う男ではない事も知っている。ミュゼは本が嫌いではなく、たまに店に顔を出しては一冊ずつ買っていく。そんな短いやり取りで知り合ってしまった男だ。
しかしミュゼは一瞬疑問を抱く。何故この男が鍵が掛かっている事を知っているのだろう?
「うちに来るか」
「……え?」
「少し時間潰れるくらい大丈夫だろう。あの男も、そろそろ終わるくらいだからな」
「終わる? え、何の話?」
ミュゼの疑問に答える前に、男は先に歩いて行ってしまう。体に肉のついていない、ひょろ長い男だ。なんでそうなるんだよ、と呟くミュゼの言葉も彼の耳には入っていまい。
酒場からほど近く、本以外は特に何もない店なのはミュゼも知っている。独身だが奥さんに先立たれたかで、一人で経営している筈だ。
店は軒先を大きく出し、店舗自体は少し奥に引っ込ませている形の構えだ。軒先は少し細工がしてあり、閉店時間や雨になるとそれを引っ張り出せば店舗を守る壁になる。……しかし今日は様子が違う。店主が外に出ているというのに、店が開いていたのだ。
「どうだ、ディル。今日は発見があったか?」
え、とミュゼの口から声が漏れた。
店舗前、いつも店主が陣取っている筈の椅子に銀髪の男の姿があった。髪をひとつに結び、余所行きの濃灰色の正装に身を包んだマスター・ディルだ。
前、妻の月命日と言ってミュゼを連れだした時と同じ格好をしている。その脇に本が四冊ほど積まれていて更に驚いた。
「……ミュゼ」
マスターもマスターで、ミュゼが何故今この場所に居るか分かっていない顔だ。
「今日こそは買って行ってくれるのだろうなディル。銀貨四枚が三冊、銅貨八枚が一冊だ」
「買わぬ」
「冷やかしはご遠慮願おうか」
店主は買った荷物を店の奥に運んでいく。その間にミュゼが、マスターの脇に置かれている本の背表紙に視線を向けた。
『神聖歴の崩壊の理由』
『神が与えし試練』
『独裁国家ファルビィティス』
『愛とはなんなのか』―――。
重々しい装丁の本に押しつぶされるように、一番下にある本の名前を見た途端ミュゼが目を丸くした。なんなんだこの本。
「ディル、お嬢さんが酒場に帰れず困っている。買わないのならとっとと帰れ」
「……そうか」
「本を開くな。買え。帰って読め」
ただの本屋の店主であろう彼が、マスターの名前を呼び捨てにしているという光景も不思議なものだ。
マスターは店主の文句もどこ吹く風で本の頁を開いている。見た目だけは抜群に良いこの男が本に目を通す姿もまた眼福ものではあるのだが。
「マスター。私、アクエリアと暫く孤児院で寝泊まりするから用が出来たら声掛けて。んで着替え要るから酒場の鍵開けて」
いつまでもこの本屋で時間を使っていられない。急かすように声を掛けると、ミュゼの居る場所に何かが飛んできた。それは放物線を描き、ミュゼの足元に音を立てて着地する。
鍵だ。酒場の出入り口の鍵だと見ただけで分かる。
「用が済めば持って来い」
「……鍵までこんな乱雑に使うなんて本当どうかしてないかマスター……」
ディルの視線はもうミュゼに向かない。ミュゼは文句を言いながら鍵を拾うと、そのまま背を向けて酒場の方角へ向かった。
ミュゼの背を見えなくなるまで見守っていたのは店主のみ。
「鍵ぶん投げた所をお前の嫁が見たら、怒り狂ってたかも知れないな」
「……あの者は、我に対して怒りはせぬ。我を愛していたからな」
「…………お前、毎度毎度惚気る為にこちらに来るのは止めてくれないか」
「事実だ」
昔は騎士隊長として剣を持ち前線に立っていた男の指が、本の頁を静かに捲る。
まだ帰ろうとしない酒場店主に、本屋店主が大きな溜息を吐いて眼鏡の位置を戻した。
「その『愛』が自らを滅ぼした。……『愛』などというものは、持つべき感情ではない」
「それは違う」
まだ年若くして連れ合いを失ってしまった男に、本屋店主が否定を投げた。
愛という感情が尊いとか、そんな言葉を投げるつもりは無いけれど。
「家族を失って絶望した彼女を支えたのは、お前だろう。命を捧げられるほどに想いを寄せたお前から否定されることほど、彼女にとって苦しい事は無い筈だ」
「……残された我は、どうなる」
マスターがそれまで読んでいた本を閉じ、一番下にしていた本をそっと両手で引き抜いた。
『愛とはなんなのか』。それはマスターの疑問そのものだ。
「もし今、この瞬間、我が妻を喪ったあの戦場へ戻れるのなら。……我が身に代えても、妻を酒場へ連れ帰る」
「………ディル」
「我が生き残った世界には、何の価値も無かったのだから」
愛が呼んだ結末は、誰にとっても幸福な世界ではない。
彼女がそれを最善だと思っていたのなら、マスターは彼女に伝え損ねた言葉のせいだと、今でも自分を責めている。
マスターが本を手にしたまま椅子から立ち上がる。それから抱えたのは置いていた三冊とも。服の中から金貨を二枚取り出し、本を置いていた場所にそのまま置いた。
「まいど。……釣り持って来るから待っていろ」
「構わん。次の本の代金として持って置け」
「また逆ツケか、管理が手間だから止めて欲しいのだが」
「手間だと言うならこの本屋ごと買い占めて構わぬが」
「俺が読む本が無くなるから絶対止めろ」
本屋店主が頭を抱える。
「全く、彼女は守銭奴だったというのに。本当にお前達夫婦は正反対だったな」
「………」
マスターが背を向けた。
「だからこそ、であろうな」
その呟きが聞き取れた店主は、もう何も言わなかった。
マスターも別れの挨拶は言わなかった。ただ無言で店を後にする。