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「スカイ!!」


 蒼白で死を口にする言葉に、ミュゼが悲痛な声で名を呼び続ける。その間も、動転しながらも震えているスカイ。

 大粒の涙が目に溜まって、流れ落ちる。それが絶え間なく続いて毛布を濡らした。


「僕は、ぼくは、ぼくは、あああああああああああああ、う、ぐ、あ、あああああああああ、げっ、ああああああああああああ、っあああああああああああああああああ」


 誰も声も耳に入っていない様子のスカイは、奇声を上げながら嘔吐した。胃に何もない状態での吐瀉物は胃液だけ。

 静寂が包んでいた医務室は、一瞬にして様変わりする。鼓膜を揺さぶる不安定な音が脳まで響いても、今は耳を塞いでいる余裕なんて無い。


「……チッ」


 ミュゼの耳に届いたのは、再びの舌打ち。スカイをなんとか宥めようとするミュゼを押しのけて、アクエリアがスカイの前に出た。

 遠慮も無い強い力で追いやられたミュゼは、何をしようとしているか問う事も出来ずに成り行きを見る事しか出来なくて。


 次の瞬間、乾いた音が響いた。


「…………っ、あ」

「落ち着きなさい、スカイ君」


 スカイの頬を張ったのは、アクエリアの左手。平手の形に赤い痕が残った。

 荒療治だが、スカイの奇声はそれで止まった。何が起きたか分からなく呆然とするスカイ。


「アクエリア!!」


 まるで体当たりでもするかのように、今度はミュゼがアクエリアを押しのけた。そしてスカイの肩に腕を回して、包むように抱き締める。栄養をまともに摂れていなかった体は、まるで枯れ枝のように細くて固い。

 噛みつかんばかりの視線を向けるミュゼに、アクエリアが肩を竦めた。


「落ち着くようにしてあげたというのに、そんな顔をされるなんて心外ですね」

「やり方が荒いんだよ! それで酒場の交渉担当だなんて笑わせないで欲しいモンだなぁ!」

「不本意ながら、『交渉』には実力行使も含まれているもので。……別に、俺にはどうでも良かったんですよ。他種族の子供が、それもプロフェス・ヒュムネがどうなろうと」


 ミュゼが目を剥く。

 口から放たれた言葉は傲慢で、不遜で、傷ついた子供を目の前にして聞くに堪えないもの。

 確かにアクエリアはスカイを殺そうとした。もし本当にあの時死んでいても、きっと彼は意にも介さなかっただろう。ミュゼだって、プロフェス・ヒュムネ自体は好きではない。育ての親もそうだった。けれど、これまで辛い目をしてきた傷だらけの子供にまでアクエリアが冷たい目を向ける姿は見たくない。


 アクエリアが、ダークエルフだと分かっていても。


「……酷すぎねぇ? 相手は虐げられて奴隷扱いされていた子供なんだぞ」

「俺は俺の身の安全が一番大事です。貴女の命は、まぁあの場では二番目でしたね。そもそも、俺に『殺して構わぬ』なーんて言ったのは、他の誰でもないマスターなんですから」


 今目の前で酷薄な笑みを浮かべるアクエリアの顔を、ミュゼは以前から知っている。

 ダークエルフという種族の特性だ。利己的で、身内以外の他者を何とも思わない。自分の益や悦楽の種になるなら、何だって利用してみせる。

 けれどミュゼの知っている目の前の人物は、それが子供でさえ死んだって構わないというような男ではなかった。


 『彼女』の死が、そうさせた。

 彼を変えたのではない。彼を『変えなかった』のだ。


「……最悪だな、お前」


 耐えきれなくなってミュゼが吐き捨てた言葉さえも、アクエリアは嘲笑を以て返す。


「ははっ。よく出来た誉め言葉ですねぇ? 人の事を勝手に判断して自分が創り出した俺の理想像を押し付ける輩と、どちらの方が最悪でしょうか」


 理想像なんかではない。

 幻想だったとしたら、素っ気なく扱われる状態に激昂せずにいられようか。

 脳内にしか存在していないというのなら、面と向かって愛せというものか。

 ミュゼにとって、アクエリアがどういう人物なのか、本人に直接教えてやりたくなる。


 でも出来ない。

 そうすればきっと、未来が変わってしまうから。


「……さっき言った事、『アイツ』が聞いても失望するだろうよ」


 言外に自分が失望したという意思を含ませて言い放った言葉に、アクエリアは嘲笑を消した。

 ああ、やっぱりだ。ミュゼが苦虫を噛み潰す。結局この男も、今は側に居ない女に囚われている。心を許した『ふたりめ』が、恋愛ではない意味で彼の胸に根を張っているのだ。今でも記憶の中で咲き誇る花が、ささくれた彼の弱点のひとつ。


「アクエリアも疲れたろ、少し休憩してこい」


 追い払うように、彼に退室を促した。無言で出て行く彼は扉をわざと大きな音をさせて閉め、その音に再び体を震わせるスカイ。

 アクエリアが出て行ったのを見計らって、吐瀉物が付いてしまった毛布を剥いだ。洗濯に回すか捨てるかは、この孤児院の者に判断を任せる。


「……改めて。ご無沙汰しています、スカイ君」


 今は何よりも、スカイの事を優先したい。

 抱きしめていた腕を離して、正面から顔を見据えて挨拶をする。瞳にミュゼが映って、瞬きの回数が増えた。


「…………あなた、は?」

「覚えていませんか。捕まっていた貴方を救出した場にいたのですけれど」

「あ、……」


 ミュゼがそこまで言うと、朧気ながらなにかを思い出した様子のスカイ。

 関わったのはほんの短時間だ。少しだけ様子を見て、囚われていた檻を壊すようアルカネットに頼んで、それから後始末係が来るまで彼が様子を見ていた。

 だからスカイが覚えてなくても良かったのだが、誰かに救出された記憶は残っているらしい。


「あの時、少しの間貴方と一緒に居た男の人も貴方を心配していましたよ」

「そう……なんですね……」

「痛い所はありますか。起きた事を、ここの人達にも報告しないといけませんね」


 顔色は悪い。しかし、いつぞやに『廓』で見た時よりはマシな姿になっている。

 髪も痛み痩せ細った体で爪の形すら悪いが、新しく生えてきているらしい部分の爪は少し綺麗だ。

 この施設に来ての栄養状態は悪くないのだろう。酷い目にあってはいないらしく、それは素直に嬉しい。


「もう少し寝ていてください。……貴方が起きた事を、報告しに行ってきます」


 他の寝台から毛布を拝借しスカイの体に掛け、、床に放り捨てた方の毛布を手にして扉へ向かう。

 スカイはミュゼが戻ってくるまで、ミュゼが横にさせた時と変わらぬ姿勢で寝台の上に居た。




 スカイ。

 姓も分からず、本名さえ不明。ただ昔から、『スカイ』としか呼ばれてこなかった。

 名の由来はきっと瞳の色。傷だらけの体で幾ら手酷く扱われようと、その瞳の色が褪せる事は無かった。

 自称する年齢は十四歳。子供と大人の中間の年齢だ。彼の記憶では、その年月を全て奴隷として生きていた、と。

 たどたどしい口調ではあるものの、会話に特段の支障はない。年齢の割に受け答えの発言が幼いのは、必要な教育を受けて来なかったせいだろう。その割には、時々話を聞いている側が驚くぐらいの大人びた表情を見せる事もある。


 これまで何をされて生きていたのか。

 そう聞いたミュゼは、答えに質問したことを後悔する。

 命じられれば何でもやった。逃げ出そうとして捕まった奴隷仲間に刃物を突き立てた事。食事も睡眠も無しで寒空の下で三日間過ごした事。珍しく破れもほつれも無い服を着せられたと思ったら、主人の客にその服を破り捨てられて押し倒された事。命令だからとその主人の目の前で、年齢が三十と離れた他の奴隷と(まぐわ)った事もあったという。食事は人並みの暮らしの者が食べるような者は出なかった。生の根菜だろうが木の根だろうが、虫だろうが口に入れられるものは何でも食べた。そして一番酷い時には。

 その続きを淀みなく語ろうとするスカイに、ミュゼが首を振って止めさせる。


「ごめん、ごめんなさい。聞いた私が、悪かった」


 スカイの瞳に生気は無い。しかしミュゼが謝罪をしたことに驚いている。自分は謝罪を受ける立場にないと思っている顔だ。そして今まで話した内容が常であったからこそ、スカイには自分の居た世界が異常極まる場所だと知覚する能力が欠如していた。

 聞いた話の内容を理解すればするほどに辛くなって、ミュゼより細い少年の指を握った。今のスカイの顔色より、ミュゼの顔色の方がよほどひどい。既にアクエリアは戻って来ていて、スカイの事情を壁に背を預けて聞いている。フュンフは不在だ。スカイが目覚めたから話を聞こうと言うと「もう、聞いた」とだけ返ってきて、それきり口を開かなかった。


「……奴隷の半生なんて、聞いていて気持ちがいいものじゃないって考えたら分かるでしょう」


 アクエリアは小馬鹿にするような口を利いたが、その表情は部屋を出て行った時ほどの不機嫌さはない。彼は彼なりに、自分の感情を抑え込む術を身に着けていたようだ。

 考える事も無かったし分からないから聞いたんだ。気付いてたなら最初から言えよこの馬鹿、とミュゼの喉からは今にも罵声が出そうになるが、スカイの前なので必死に抑え込む。

 ミュゼのいた世界にも奴隷は居るには居た。しかしそういう存在と関わる前に、育ての親であるエクリィという男が遠ざけていたのだ。知らない方がいい世界もある、とだけ言われて。

 その意味をこんな所で知る事になる。


「じゃあアクエリアが教えてくれるってのか。無知な私に世界の悪意を余すことなく全部」

「知りたいなら教える事も出来るでしょうね。想像を絶する体験が出来ますよ」


 今にも口論に移りそうな剣呑なやり取りに、スカイが二人の顔を交互に見る。

 二人の姿は、その空色の瞳にどう映っただろう。護衛対象の事を横に置いて、自分達の歪な世界を作り出している。除け者にされるのは慣れていても、ミュゼが握ってくれた手は温かかった。


「……ぼく、は」


 たどたどしい口が、自分の意志で口を開く。


「どう、すればいいでしょうか」


 命令を乞う奴隷の言葉だ。根から教育されているこの少年に、再びミュゼが言葉を失う。

 どう、と。

 じゃあミュゼが何かをこの場で命令したら、この少年はそれを忠実に遂行しようというのか。そうやって生きて来たから、それをまだ続けようというのか。

 ミュゼの表情が更に曇る。なんと声を掛けて良いか分からない。孤児というだけだったら返す言葉もあるが、奴隷経験しかない少年相手では。


「……逆に聞きますが、何が出来るんです」


 スカイの問いに声を返すことが出来たのは、この場ではアクエリアだけだった。



 

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