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 フュンフは座っていたソファの背凭れに体を預けた。革張りのそれが音を立て、固い表情が更に険しくなる。

 彼の前に置かれている紅茶は、その量を減らしていない。脱力した彼の喉は、水分を求めてはいない。何度も、口を開きかけては閉じる。遠く過ぎ去ってしまった時間、その記憶の断片を手繰り寄せながら言葉を選ぶ枯れかけた中年男性の渋い顔だ。


「……未だに詳細を口にしない君に、どれだけ情報を明かしていいものか考えあぐねている」

「そう正直に仰るのはフュンフ様の美徳ですね。……お気になさらず。どうせこの場所には私と貴方様しかおりませんので」

「だからと、私ばかりに情報を乞うのは不平等というものだろう」


 ミュゼは座った膝の上で手を重ねている。その姿だけで言うなら美しい淑女。纏った聖職服が神聖な雰囲気を醸し出していて、簡単に触れてはいけない穢れ無きもののように思わせた。例えその手が何度も血に塗れていても、今の彼女から血の香りは感じられない。

 咎めるフュンフの言葉に、口許を緩めたミュゼ。


「これ以上、何をお聞きになりたいですか? 私の男性遍歴でしたら綺麗な程に真っ白です」

「そんなものに興味はない」

「存じ上げています」


 この聖女はフュンフに、掴み処のない事しか言わない。

 話をはぐらかされて、誠意のない返答をされたことも多い。少しずつ降り積もる不満はフュンフの心の底面を埋め尽くす。


「そろそろ、私の求める答えを用意してくれてもいいのではないかね。……冗談も詭弁も、君の口からはこの短時間で聞き飽きてしまったのだよ」

「………」


 それまではミュゼが僅かながら優位に立っていた対話でも、ここでフュンフから話を打ち切る事だって出来るのだ。義理を不義理で返すのか、そう責めるような視線が向けられた。

 ミュゼの視線が部屋の中で泳いだ。部屋の隅、飾られた調度品、それから扉へ。


「潮時かねぇ」


 その唇は観念したように、言葉を漏らした。


「……そう、ですね。何処まで話して良いか分かりませんが。この場所で私から聞いた話を、一切外部へと漏らさないのでしたらお話します」

「ふん、漸く諦めがついたのか?」

「そうですね。私の命に関わる話なので」


 命に関わると言っておきながら、ミュゼの口調は淡々としていた。

 だから、フュンフはそれをも冗談の延長線上にあるのだろうと鼻を不愉快そうに鳴らしたが。


「私は、貴方の―――、っ!!?」


 やっと、何か口を開きかけたミュゼだった。

 喉から出た声は暗く沈んでいたが、それが途中で一気に驚愕へと変貌する。

 たった一言口にしただけだ。

 その一瞬で、ミュゼの身体に変化が現れる。


 白く透き通るような肌。

 それが実際に、透けた。


 フュンフの目の前で、ミュゼの体の向こう側が見えた。実体がある筈の彼女の形が朧気になる。顔も、手も、髪の毛さえも触ると在る筈のそれらが色を透過してソファやミュゼの向こう側の景色を晒した。着ている服はそのままで、不気味な半透明の姿へと変わった。


「な、―――」


 フュンフさえ、その姿に愕然としていた。前兆も何もなかった変貌に、体を沈ませていたソファから弾かれるように立ち上がる。


「な、ん、だよこれぇっ……!!」


 淑女の振りさえかなぐり捨てたミュゼは、自分の掌を見て震えていた。

 驚愕と恐怖が入り混じる瞳で、悲痛と苦痛が綯い交ぜになって声が絞り出される。広げた指の間どころか、その指からも床に敷いてある絨毯の毛並みが見て取れた。

 咄嗟にフュンフがミュゼの側に駆け出した。そして自分の胸元に手を突っ込んだかと思えば、白色に輝く小さな宝石を取り出す。


「何だ……、何なのだ、これは!?」


 白の宝石が放つのは浄化の光だ。『よくないもの』や『穢れ』を振り払う時に使用される、聖職者が持つ宝石のひとつ。もしこれがフュンフを謀る為の幻術だとしても、光が浄化する筈だった。

 それをフュンフはミュゼに翳したが、何かが変わる気配はない。呪いやその類ではないらしく、宝石は光るだけ光って終わった。

 ミュゼが元に戻ったのは、体の震えが消える頃。透けていた体が徐々に、元の見た目に戻っていく。


「……嘘だろ、言おうとしただけでコレかよ……」


 元に戻った筈なのに、青ざめて独り言を呟くミュゼ。その姿を見て漸く、フュンフも彼女が頑なに言おうとしない理由を悟る。


「呪い、か……?」

「いや、そんなんじゃない。……そんなんじゃ」


 『消えてしまう』。

 核心に近付けば近付くだけ、知られれば知られるだけ、ミュゼの存在が消失する。


「……私は、フュンフ様の」


 再び何かを言おうとしたミュゼ。故意に言葉を切ったためか、体に異常が起こる事はなかった。

 舌打ちが聞こえる。それは自分の身によからぬことが降り掛かったミュゼのもの。


「……気付かれたらおしまいって訳か。だよなぁ、意識させたら絶対ダメになるよなぁ……」

「この状況で、君は何を言っている?」


 フュンフは既に冷静を取り繕った声を取り戻しているが、瞳は動揺に未だ揺れている。少しは老成しているはずのこの男が動揺したことに、ミュゼもまた戸惑っている。

 少しは人の事を思いやれる感情くらいは、残っているのか。

 どこぞで酒場の店主をしている、あの男とは違って。


「書く物、ありません?」


 ミュゼは次の手を考えた。口頭が駄目ならば文章ではどうだ。

 紙と鉄筆は室内にあった。渡されたインクは藍色。筆をインクに浸し、文字を書き綴る。


 『ミョゾティスはフュンフ様の』


 そこまで書いて、再びの違和感。

 鉄筆を持っていた手が、また透けた。


「あー」


 二度目の透過現象にはもう驚かない。それはフュンフも同じだった。

 筆を置き少しの時間が経てば、透けた体も元に戻る。その間部屋に漂う無言の空気さえ、今は気にならなかった。


「君は」


 無言の空間を低い声で切り裂いたのは、フュンフが先。


「何を知っているというのだ。そのような身になるような何かを、背負っているというのかね」

「………一部は貴方のせいなんですがね」


 今は詳細を伝える事さえ出来ない咎めるような言葉を、フュンフはどう受け止めたのだろうか。

 彼はもしかしたら、これが『花』隊長の死と関係していると捉えたかも知れない。

 実際はそうではないのだが。


「フュンフ様、少し背を向けて貰えますか。こっち見ないでください」


 語気の強いお願いに、渋々背を向けたフュンフ。

 視線がこちらに無いのを確認して、再び筆を持つ。


 『ミョゾティスはフュンフの』


 そこまで書きつけて、体に異変は起こらなかった。

 だから、その続きを書く。筆先が紙の上で走る音だけが、室内に聞こえた。


「……はっ」


 鼻で笑うミュゼ。

 フュンフに伝えたかった事を彼の視線の外で全部書いたが、体が再び透ける事は無かった。筆を置いて掌を見るが、向こう側の景色は見えない。


「成程ね」


 書きつけた紙を手に取る。折りたたんで、服の中に仕舞いこんだ。

 この紙は後から燃やすつもりだ。誰かに見られてしまえば、ミュゼの消滅に繋がってしまうから。


「フュンフ様、申し訳ありません。私が知っている事は、貴方には伝えられないようです」


 一連の行動で確定した。

 『独り言は大丈夫』

 『見られなければ書きつけても構わない』

 『だが、決して本人に知られてはいけない』

 フュンフはまだ背を向けたままだ。


「……仕方ないだろう。その姿を見てしまった。私も、これ以上を追求するほどに鬼畜ではない」

「ありがとうございます。……私も、私が消えない話であればお伝えすることが出来るようです」


 ミュゼは仕舞いこんだ紙片を、服の上からそっと押さえた。

 この中に書かれている事は、誰にも伝えてはいけない。


「厳密に言えば、私の目的は『アイツ』の奪還とか救出とか、そんな事ではありません」

「……では何故、あの方の生存の可能性を伝えに来た?」

「私の願いはただひとつ。『全てがあるべき道に進むように』です。……って、こんな事言うと胡散臭い新興宗教の教祖みたいで嫌なんですけれど」


 様子を窺うように、フュンフがゆっくりと振り向いた。ミュゼはその姿に、否を出さない。

 もう振り向かれても構わない。ミュゼとしても、この男の顔を今の内に見ていたかった。


「あるべき道ってのが、最善の道ではないような気もしました。でも、そうしないと私は消えてしまうから悩ましい所なんですがね」

「あるべき道……? 待て、君はその『あるべき道』とやらの先まで知っているような口振りではないかね」

「まー、知ってるって言えば知ってますし、知らないって言えば知りません」


 そこまで言って再びミュゼが自分の掌を見た。

 異常は起きていない。


「私が知っているのは、『アイツ』が生きていた世界の話だけなんで」


 まだ、異常は起きない。

 フュンフに聞かれていても、体は変わらない。


「本当に、他言無用でお願いしますよ。……私が知っているのは、過去の戦争でマスター・ディルが死んだ場合の世界の話です」


 ミュゼの知る話と齟齬がある世界。

 マスター・ディルが死んだ世界の話は、育ての親から聞かされて育った。


「ファルミアでの戦争で死んでいたのは、マスターの筈なのです。……生き残った『アイツ』は、マスターの忘れ形見の双子を産んで、あの酒場で暮らした。けれど国の騒動に巻き込まれて、そのうちアイツも死ぬ。私が聞いたのはそんな話です」

「馬鹿な! 現に、ファルミアでディル様は生き残った。……生き残らせたのだ、私が」

「だから知りたい。私の知る話と食い違いがありすぎます。この話を私にしてくれた育ての親は、エクリィはそこまでボケてはいない筈」

「何故だ。何故そのような話を? そのエクリィとやらは、何故齟齬がある話を君に聞かせたのだ」

「………」


 ミュゼの体は、まだ透けていない。


「私は真実しか話していません。そして今からもこの口が語るのは、真実のみです」


 まだ、話せる。


「エクリィは、私の育ての親。彼はヒューマンでは有り得ない長い時を生きました。私が聞いてきたのは、二百を越える時の流れ。そして主に聞かせてくれたのは、彼がとある一族に寄り添った直近百年の話です」

「百年、だと?」

「その直近百年を頭から聞くと、必ず一人の女性の話が出てきます。アルセン国に仕えた『花』隊長。愛に狂い、時の王妃から処刑される筈だった女の名前が」


 フュンフが息を呑む。それまでの話の流れで、彼にだって理解は出来る筈。


「私は百年の時の先から今に来た。私が知り得る情報は、この時代から百を生きるエクリィから聞く話」


 ミュゼが未来の先から来た混ざり子なのだと。


「未来が変われば、私は生まれない。……私が消えてしまいそうになるのは、具体的な話を当事者達に知られることで未来が変わってしまうからでしょう」


 ミュゼにの存在に関わる事は、そこまで話した。

 この事を伝えただけでは、もう透けたりしなかった。



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