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鉄扉には鍵は掛かっておらず、取っ手を回すだけで開いた。
重い扉が音を立てて開く、それを早く開けと無理矢理押したアクエリア。
中を確認しようと視線を向けたアクエリアの視界に入ったのは、今まさに迫りくる、緑色をした何かだった。
「っ!!」
向かってくる敵意に、一瞬反応が遅れたアクエリア。
「どうした反応鈍ってんぞ!!」
その遅れを庇うように、前に躍り出たのはミュゼだった。
軽快な足音が地を蹴り、向かってくる何かを叩き落す。
それからアクエリアの手を引いて、鉄扉の向こう側まで入り込んだ。
中に広がっていたのはまるで孤児院の中とは思えない光景。
緑が溢れている。
その緑は、部屋の中央に伏した少年の背中から生えていた。部屋の四方を這いずる、意思を持った蔦。短かったり小さかったりと様々な頼りない葉をつけた異形だった。
幸い足元に蔦は無い。平らな地面で戦闘が出来るという事に、ミュゼがありがたみを感じた。
背中側で、扉の閉まる音がする。
「……俺は荒事担当じゃないんですが」
「目抉るだの舌切り取るだの言ってた口はどれだったかな。……気合い入れろ」
蔦の中心にいる上半身裸の少年は、起きる気配が無い。
これが『魔法』と並ぶほど強力な『プロフェス・ヒュムネ』の能力。種の力を以てすれば叶わぬ事の方が少ないと言われている滅びかけの種族。
能力が、この動く蔦『だけ』ならまだ助かる。
「来るぞ」
こんな時ばかり冷静な様子のミュゼの声は、荒事の中を掻い潜って来た分だけ落ち着いている。呼吸の音も、いつもとさして違いはない。
生きるか死ぬかの仕事を押し付けられて、不満を零しながら遂行してきた彼女の目的が、アクエリアには分からない。自分に言い寄っては、意味不明な言動をして去っていく。
そんな不可解なミュゼだが、アクエリアに対する信頼は本物だった。
先に床を蹴ったミュゼが、蔦を掻い潜って走り出す。
「ミュゼ!?」
「後衛よろしく!」
「後衛って!!」
今まで肩を並べて依頼を受けた事も、ましてや戦闘のような状況になったことも無い。勿論、事前の打ち合わせなど皆無。
それなのに、ミュゼは躊躇わずアクエリアを後衛に指名した。どんな戦闘方かも伝えてない、それどころかアクエリアは今でも武器らしいものを持っていないのに。
一方的に知っているのだ。ミュゼは、アクエリアがどんな戦い方をする、どんな男かという事を。
「私がくたばる前に、この蔦全部断ち切るぞ!!」
向かってくる蔦を躱すミュゼは、陰気で重苦しい聖職服を着たままだというのに軽やかな動きで部屋中を走り回っている。得物が槍という事もあり、蔦を刺して背中から切り離そうとしているが、一点集中だと上手く行かない。
「……くたばる? 冗談言わないでください」
アクエリアは服の中に手を差し入れる。借り物の服の中から出てきたのは、短刀よりももっと細い針のような投擲武器。それが片手の指の間に三本。
暗がりの中の僅かな光を反射するそれを、アクエリアは手にし蔦の宿主を見据えた。
「俺が居ながら、貴女を死なせる訳無いでしょう」
八つ当たりの意味も含まれている。けれど、それが扉の外に居るフュンフに伝わる事は無い。
「俺は仲間を見殺しにするような男じゃないんでね!!」
アクエリアの手から放たれた針は、宿主めがけて空を裂く。
そして三本は宿主の足、肩、それから背中の側に在る蔦の根本へと刺さった。
全発命中だ。アクエリアは足を僅かに開いて次の段階に入る。
「『雷の精霊』」
ぞわり、ミュゼの背に悪寒が走った。
「『迸る雷光の一喝 聳える塔も打ち砕く偉効に翳り無き神に申し奉る』」
アクエリアを取り巻く空気が、一節を口にしただけで変わってしまった。
彼を中心に渦巻くような魔力の波が襲う。風のような空気のうねりが、閉鎖空間に吹き荒れる。
アクエリアが口にしているものは詠唱だった。口頭で精霊に命令を告げるので時間は掛かるが、正確な詠唱だとその威力は凄まじいものになる。
「『時の流れに置き去り喝采を忘却した賤陋なる者に今一度制裁を』」
反射的に、ミュゼが叫んだ。
「それ駄目だ!!!」
絹を裂くような高音がミュゼの口から放たれ、一瞬アクエリアが顔を顰める。
何をしようとしているか、彼女には筒抜けなのだと悟ったからだ。
「殺さないでくれ、アクエリア!!」
『殺そうとした』のを知られている。この女がいると、やりにくい事この上ない。
仕方なしに詠唱を中断するしかなかったアクエリアが歯噛みする。中断した魔力の反動が、アクエリアを襲わないうちにその手を蔦の宿主に向かって伸ばした。
「伏せなさい、ミュゼ!」
―――巻き込まれても知りません。
アクエリアはその一言だけを叫ぶと、充分すぎる程に溜め込んでいた魔力を放出した。
医務室で二人はベッド脇でプロフェス・ヒュムネの身上書を見ていた。
ミュゼが『廓』で見たものと同じだった。エスプラスで、男で、子供。名をスカイという。
アクエリアもミュゼも、互いに目を合わせようとしない。
ミュゼはこの男の事を知っていて、その冷酷な部分も分かっているがそれを受け入れられるかは別の話だ。
アクエリアは、自分のした事に後ろ暗さを感じている。魔法を発動させて後から確認したプロフェス・ヒュムネの姿は、確かに子供だったからだ。
気まずい空気が立ち込める中、フュンフはその場に居心地の悪さを感じていた。
「……空気が悪いな」
それは雰囲気の話半分、実際の空気の話半分だ。
アクエリアの詠唱は正確だった。持ち前の魔力の大きさも関係し、その場にあった蔦は全て焼けこげてしまったのだ。辛うじて、宿主であった子供は救い出せた。しかし彼も感電してしまった上、肌には真新しい火傷が出来ている。
フュンフは部屋の窓を開ける。入れ替わって入って来る新鮮な筈の空気は、生暖かく湿っていた。雨の予兆だ。地を潤すその気配に、もう使い物にならないフュンフの眼帯の下にある右目が鈍く疼いた。
「……起きぬな」
隻眼の男の呟きに、ミュゼとアクエリアが同時に寝台を見た。
医務室の寝台には、そのスカイが眠っている。
息はある。心臓も動いている。着替えさせた服の下には、プロフェス・ヒュムネと他種族の間に生まれた子である証の葉緑斑が確認できた。あとは彼が目覚めたら、然るべき機関――この場合は王城だ――に連絡を取り、保護の申請をすればいい。そして申請が通った後は、彼を何処で預かって誰が世話をするのか。その会議の場が設けられるだろう。
「……俺達の仕事は、これで終わりですか」
「まだだ。この後、王城による裁定の後、保護の認可が下れば依頼終了とする」
「………は? 聞いてませんよ」
「依頼状には書いていた筈だ。確認したか」
ミュゼの瞳が逸らされる。ミュゼは確かにそれを見て確認していた。口にも出した。
しかしそれを、アクエリアには伝えていない。
アクエリアが怒りの籠った視線でミュゼを睨みつけるが、ミュゼの翠色の瞳は逸らされたままだ。あろうことか口笛まで吹き始めた。
「貴女ねぇ!!!」
アクエリアの怒声が医務室に谺する。しかし。
「静かにして頂こうか、怪我人がいるのだ」
フュンフの静かな声による叱責に口を噤まざるを得なくなる。
「……認可が下るまでの間、何してればいいんですか」
「そうだな。今からの仕事内容は『世話』になる。プロフェス・ヒュムネは奴隷市場で今でも高騰しているのだ。その『商品』を取り返そうとする輩が来ないとも限らないのでな、護衛も兼ねて貰おうか」
「世話と護衛……? 俺達の手を借りずとも、どうぞそちらで騎士の手でも融通していただいたらいいのではないですかね、『月』隊長様」
「出来るならしている。……奴隷商人から守りながら、あるかも知れぬプロフェス・ヒュムネの暴走から身を守り、且つ手の空いた暇な者などこちらの配下にいないのでね」
いちいち気に障る言い方をされて、アクエリアが憤怒の表情を浮かべた。
そんな中ミュゼはスカイの眠る寝台の足元に腰掛け、自身の髪の後れ毛を弄びながら退屈そうに口を開いた。
「私は構わないよ。提示された報酬はそこそこの金額だ、昨日の仕事が最後で私の予定は空いてるし」
「ミュゼ……、貴女が良くても俺は困るんですよ。第一、俺は子供の世話なんてした事ありませんし」
「………あー、そっか。そうだよね、うん。……そっか」
何かを考えたらしいミュゼは微妙な生返事をする。まるで、今までのアクエリアに『子供の世話をした経験がある』と勝手に思っていた顔だ。
自分の子はいない上、他人の子にさえ縁が無いアクエリアだ。どう接していいかすらも知らない。アクエリアの殆どを見透かしていた筈のミュゼの動揺で、何故かアクエリアまで動揺してしまう。
「ミュゼ、貴女一体」
「でもなぁ、それでいいやって言えないんだよ」
立ち上がったミュゼ。戦闘後というのに軽快な動きは変わらない。
「ちょっと私、この施設長と用事があるからさ。スカイの事見ててよ」
「は!?」
「少ししたら帰って来るから。それじゃ」
ミュゼは一足先に医務室の外まで行ってしまった。アクエリアが引き留める間もなく。
アクエリアが『どういうことだ』といった視線をフュンフに投げるが、彼も困った表情を浮かべるだけ。
「女史の考えている事は、私には分からん」
「でしょうね、俺だって分からないってのに」
「用があるのは真実だ。……疚しい事ではないから安心したまえ」
「俺には関係ないですよ」
ミュゼが誰かと懇意にしようと、アクエリアは与り知らぬ事。それが友人関係でも、恋愛関係でも。ただ、その相手が『彼女』をむざむざ死地にやったフュンフだという、ただそれだけが気に食わないが。
でも、その認識と真実に差異がもしあるのなら。胸に込み上げた不快感を吐き出すように、言葉が勝手にアクエリアの口から漏れた。
「あの子は、マスターの前に今まで一度として姿を見せていない」
「……ああ。もしあの方が生きているのならば、ディル様の前に現れないなど有り得ない」
アクエリアとフュンフ、二人の意見が一致する。
『彼女』はマスター・ディルに並々ならぬ恋情を抱いていた。それは交際前から、結婚した後に至るまで。幼い訳でもあるまいし長く続いた片想いはとあるきっかけで花開くことになり、とある事件で結婚という形で身を結ぶことになる。
その美しい実は、地に落ちるのも早かったけれど。
「ミュゼは、まさか俺達を欺こうとしている?」
「何の為に」
「……国を混乱に陥れる為? かつての騎士隊長の一人が生存しているという誤情報を流せば、食いつく輩も出て来るかも」
「食いついた所でどうなる。……もうあれから何年も経っている。騎士団の体系はあの方無しでも成り立っているし、そもそもあの方の生存は最早誰も信じておらぬ。ディル様とてとうの昔に諦めたのだ」
「ミュゼは、あの子の生存を触れ回って何の得があるのでしょう?」
最初にミュゼに酒を提供した時の事をぼんやりと思い出す。
あの時の彼女はなんと言っていたか。『消えちゃう』と言っていなかったか。
心細そうな声で、彼女が漏らした言葉に思い当たる節が無い。『爺さん』『婆さん』、それは誰の事だ。そんな呼称が相応しい者の事をアクエリアは知らなかった。
ミュゼが当然のように知っている事を、アクエリアは知らない。
二人は最近知り合った他人なのだから当たり前だ。
けれどただそれだけなのに何故か、胸の奥を焼くような焦燥に駆られる。
「本当に、生きていると思いますか」
問いかけはフュンフに向けてされたもの。
短い問いに、彼は躊躇わず頷いた。
「女史が嘘を吐いているようには見えぬ。だが、もし我々を謀ろうとしていた時は、私が出ずともディル様直々に剣の錆にしてくださるだろう」
「単純明快な答えを出せて羨ましいですよ」
ミュゼが何を考えているか分からない。
けれど確実なのはひとつ。彼女は廊下でフュンフを待っている。これからしなければならない『用事』の為に。
フュンフは一度鼻を鳴らしただけで、医務室を後にする。