59 ―――……行かなくて、良かったの?
ミュゼから依頼に付いてくるよう言われたアクエリアの顔は、嫌悪感丸出しの酷い表情だった。
「誰が行きますか」「道順書いてあげますから一人で行ってください」「絶対嫌です」「しつこいですね怒りますよ」と、それはもう完全拒否であったのだが。
「頼むよ……。私一人じゃ難しいかも知れないんだ。プロフェス・ヒュムネの子供が関わってるって話だから」
「プロフェス・ヒュムネ?」
「子供だっていっても、その戦闘力は半端ない……って、聞いてる。でも、アクエリアならきっと大丈夫だし、道知ってるし、一緒に来て欲しい」
幾度も頼まれては、アクエリアだって折れ時を知らない子供のように振る舞えはしなかった。
けれど、それでも口を噤んでしまうアクエリアに、言いたくなかった言葉を最後の切り札として伝える。
「マスターも言ってた。『殺しても、我が許可する』って。……いや私としちゃ人死にが出て欲しい訳じゃないんだけどさ」
「許可、する? 彼が言ったのですか」
「う、うん」
「………はっ」
やや捨て鉢感を滲ませる笑みが、アクエリアの口から漏れた。
「『どちらを』なんでしょうね?」
今度はその言葉を理解出来たミュゼが口を噤む番になった。
殺してもいいのは『フュンフ』なのか『プロフェス・ヒュムネ』なのか。
気まずそうに視線を逸らすミュゼに、アクエリアは肩を竦ませながら。
「……許可した所で責任までは負うつもり無いんでしょうあの男。分かりましたよ、マスターも一枚噛んでいるというのなら、この話お受けしましょう。安くしませんよ」
「有難い! 助かる!! これから食事に肉料理が出てきたら私の分全部持ってっていいから!!」
「いつもの事でしょうそれ。自分の嫌いな物押し付けて報酬にしようとするの止めてください」
呆れたような様子のアクエリアとは対照的に、子供のように喜ぶミュゼ。
でもミュゼは知っていた。
アクエリアは粘れば、危険ではない大体のことは承諾してくれるのだと。
ミュゼにとっての二人は長い付き合いがあったが、そんな所は変わってないんだなとミュゼが苦笑を浮かべているのを、アクエリアは知らない。
一人は意気揚々と、一人は恨めし気に視線を送りながら酒場を出て行くのを一階でマスター・ディルが見送った。
上階で二人が何やら言い争うような声も彼の耳に届いていたが、知った事かとばかりに無視していたら丸く収まったらしい。
騒がしい空気が入れ替わるように、扉は二人の姿を外に押し出した。静寂の中で、今やる仕事も終えたマスターが部屋に戻っていく。
一階に部屋を持つのはマスターだけだ。
嘗ては初代店主であった人物が使い、そしてその初代店主の死した後は彼に引き取られた養い子が短い期間使い、そして養い子が死した今は彼女の夫になっていたマスターのものとなっている。
所有者が変わった今、この部屋の内装をどうしようとマスターの勝手ではあるのだが。
部屋の扉を開くと、一番に目に入るのが大きな寝台。
二人で寝るからと、マスター・ディルの妻が奮発して買ったものだ。
「―――……」
それ以外は殺風景な部屋だ。男寡が一人で時間を過ごすには問題ないが、背の低いテーブルとソファがあるだけの部屋。服や仕事の書類などは、部屋備え付けの収納室に入れ込んである。
一人でいる事にも、孤独にも慣れている。
けれど未だ慣れない胸を突き刺すような痛みの感覚は、妻を知ってから覚えたものだった。
あの男の事を思い出したからだろう。永遠を誓った筈の女が傍に居ない事への胸の痛みが、過去を思い出すと襲い来る。
妻を喪う事になった原因は、フュンフにあると未だに責めているから。
―――……行かなくて、良かったの?
不意に、昔に聞いた妻の言葉が蘇る。幻聴か、とも思ったが、その声は胸の奥深くに刻まれたものだ。年数が経って、少しずつ思い出せなくなってきた、彼を置いて居なくなった人の声。
「……行く訳が無かろう?」
それだけ鮮明に思い出したのは久し振りという程、耳に蘇る声。
その言葉が掛けられた時の事も覚えている。『その日』の為だけに新調したという青と薄青の装いで王城のテラスにいた彼女はマスターが息を呑んだほどに儚く美しく、だからこそ苦痛が増した日の話だ。
顔色を窺うような声は、昔と今とでは状況が違うというのに、今でさえマスターの心を苛む。
「汝を奪う者、奪った者は、誰もが仇敵だ」
マスターはこれまで無気力であった。
けれど妻の遺した酒場の為に、芋虫のように地を這いずるような思いで生きていた。
フュンフの事だって、いつもだったなら封にある印を見ただけで無言で屑籠に突っ込んでいただろう。
そうせず、ミュゼの目の前で手紙を落とし、拾わせ中身を見せたのは。
『貴方の奥様は、まだ生きているかもしれない』
そう言った彼女が、永遠に続く孤独の痛みから救ってくれるかも知れないと感じたからで。
また妻と逢えるなら、あの声が名を呼んでくれるなら。それだけで、マスターにはこの世界に生きる価値が見出せる。
妻に、まだ伝えられていない事があった。
馬鹿らしい理由で秘め続けていた、彼の本心。
孤児院と聞けば、ミュゼは自分がついこの前までシスターとして勤めていた孤児院を連想した。
街の外れにひっそり佇むような、それでいて素朴で、温かみがあって、貧しくとも力を合わせて皆で生きていく、踏まれても育つ雑草のような力強さを感じる命たちが暮らす場所。
ミュゼもアクエリアも普段着だ。しかし、酒場を出発して十分経つ頃にはミュゼの表情が不安に染まる。
進む先は橋を渡った先の六番街。まぁそこまでは良しとしよう、先日マスターの付き添いで墓参りにも行った場所だ。
更に進んでもうひとつ橋を渡り七番街。観光の要所となっているその辺りは、国民も冒険者も身なりの良い者も溢れかえり一瞬だけアクエリアを見失った。
アクエリアはそこで止まらない。またもや橋を越えて八番街まで来た頃には流石のミュゼも服装が場違いという事に気づき始めた。辛うじて『一般市民』が暮らせる最後の街だ。実際の所、位を持たない豪商などの成り上がりが居を構えている。道を行く者達の装いは華やかで、異分子であるミュゼとアクエリアの姿を横目で見ては眉を顰めていた。
「目的地、こんな所通るって聞いてねぇぞ」
「言ってませんからね」
素知らぬ顔で言うアクエリアは、そんな視線に慣れている顔だ。
貧乏人が寄り付いてはいけない場所、とでも言われているかのような街の雰囲気にミュゼは既に気圧されている。
「この辺はまだ序の口ですよ」
「……は?」
「例の孤児院があるの、十番街ですから」
「はぁ?」
一瞬足を止めかける。
アルセン城下十番街、といえば王城のある区域だ。それだけではないが、騎士がこれでもかという程に湧いていると聞く。
ミュゼは今の代の騎士ではヴァリンしか知らないので、印象は悪い。元騎士としてマスター・ディルを知っているから印象最悪と言ったところか。
そんな所、男女の連れ合いにしか見えない二人が言ったらどんな視線を喰らうか分からない。
「……回り道とか無いの」
「ありませんね。だから俺は言ったんですよ、絶対嫌だって」
「そん時に理由くらい教えてくれよ……」
けれど、もう引き返す事なんて出来ない。
二人は九番街に入った。橋ももう四つ目だ。
それまでの通りの道も整備されていたが、ここからは更に別世界になる。
「……うわぁ」
広い道。
石畳は全て白の石で統一されていて、民家というものが一切なく高い塀がずっと続いている。
その塀を見張り守るように、点々と距離を置き兵らしい者が警備していた。
「この辺りは貴族の城下用邸宅や、騎士を始めとした地位が高い城仕えの家系の屋敷があるそうです」
「住む世界が違うって奴だね」
「そんな方々でも、引き裂けば他者と同じような臓腑が入ってるんですよ。神の血を引くとかなんとか言いますが、そうやって持て囃されてるヒューマンが勝手に決めた地位にどんな価値があるのか俺にはわかりません」
物言いがいちいちなんとも物騒だ。悲しいかな、ミュゼはそんな彼の方が馴染み深い。
未だお行儀のいい敬語を彼の口から聞くというのもミュゼとしては居心地悪いものなのだが、それを止めろと言えるような仲ではまだ無くて。
「んでも、あのギルドだって王家直属なんだろ? そこで働いてるアクエリアがそんな事言って良いの」
「俺は別に王家に傅いている訳では無いですから。傅くのはマスターと副マスターの仕事です、俺にそんなの要求しようだなんて百年早い」
「不敬って言われるぞ」
ヒューマンよりも長い時を生きてきたアクエリアにとって、権力というものは頓着するべきものではない。
けれどヒューマンの世界で生きていると、それは不都合を生じさせる考えであり。
「―――おい」
そしてその不都合というものは、都合が良くない時に悪い形でやって来る。
ミュゼが掛けられた声の方角を向くと、警備している兵の一人が兜を指で押し上げながらこちらを向いている。げ、と内心で呟いた声は口から出る事はなかった。
「……何でしょう?」
アクエリアが声の主に、面倒臭そうに返事する。
「お前達、さっきから話し声聞こえていたぞ。この九番街でよくそんな事を言えたな、ココが何処か分かってんのか」
「……アルセン城下、九番街だと思っていますが?」
「陛下の膝元で、不敬な事をよく言えたなって話だよ。そんな不敬な輩が、この九番街に何の用だ」
「安心してください、九番街には用なんてありません。そちらこそ、くだらない話なんか不敬な輩にして来ないでしっかりお仕事なさったらどうですかね」
話す事なんて無い、とでも言いたげにアクエリアが手をひらひら振った。流石にその態度は駄目だぞ、とミュゼが思うが時既に遅し。
苛立った男が自分の首元を探る。すぐに取り出した何かを口に咥え、それを全力で吹いた。
耳障りな程の高音が、空に響き渡る。
アクエリアはその音に不愉快そうに眉を顰めるが、それだけだ。
「仲間でも呼びましたか」
その音は通報用の笛だ。警備任務中に異常があった時や不審者が現れた時に増援を呼ぶための物。
今から更に面倒事になる、と思ったミュゼが慌て始めた。ここまでの道のりも遠かったというのに、今日中に酒場に戻れない事態になったらどうしようと考えた。が。
「不遜で身の程知らずのエルフなんざ、この城下にゃ要らねぇからな。そこの混じりの女と一緒に追い出されろ」
「貴方が城下に住む者の選別をなさってるとは驚きました。……後悔するなよ、下等種族」
「せいぜい吠えてろ」
アクエリアは手を出そうとしているようには見えない。でも、逃げようともせずその場を動かない。
もう何でこの男はこんな面倒な性格してるんだよ、とミュゼが頭を抱える。売られた喧嘩を買ってどうするんだ、とそんな文句ばかりが頭を過る。怖いので口には出さない。
やがて足音うるさく、二名の男がその場に走り寄ってきた。どうやら巡回していた騎士らしく、格好は白と深緑の二色からなる上下揃いの服だ。あー、とアクエリアが間の抜けた声を出す。
「来てくれたのが騎士様とはな、今日はツイてるぜ」
警備兵は下卑た笑みを浮かべた。しかしアクエリアは余裕の表情を隠さない。
「どう、し……っ!?」
笛の音を聞きつけた男二人が、まず警備兵に声を掛ける。一拍遅れてアクエリアを見遣り、靴底が派手に音を立てながら地を滑るように停止する。
「はっ! この人物が、陛下に対して不遜な発言をしていた為に―――」
「何故こちらにいらっしゃるのです、アクエリア様!?」
兵の報告なんて、騎士達は聞いていなかった。警備兵が呆気に取られた顔をする。
アクエリアはわざとらしく、首を回しながら嘯いた。
「お疲れ様です、お二人とも。あの我儘王子は今日も城ですか?」
騎士である二人の顔は知っている。騎士隊『風』に所属していて、ヴァリンが時折裏ギルドの仕事の尻拭いに奔走させる貧乏籤体質の苦労人だ。
口は堅いから使っても良いが、殺すなよ―――などと、勝手に仕事へ駆り出すことを許可されていて、二人はその夜酒場の隅でひっそり泣きながら飲んでいた。
「ア、アクエリア様……殿下をそう呼ぶのは……。一応私共にも立場というものが」
「いいでしょう、別に。それより俺、行って良いですかね。この人に引き留められましたが、俺に向かって失礼な無駄話ばかりしてましたよ」
アクエリアの指先が、警備兵を差した。
途端に騎士の二人は表情を険しくさせて、男に詰め寄る。
「……貴様、アクエリア様に何を言った?」
「答えろ。さもなくば」
「ひぃっ!? し、知りません、俺は何も!!」
「笛の音は貴様が鳴らしたのだろう。何も事件がなくて鳴らしたというのならば、そちらも相応の罰があると知っている筈だ」
アクエリアは男を小馬鹿にするような笑みを浮かべて、目的地に向かって歩き始めた。
詰められる男を可哀相な目で見ていたミュゼも、暫くしてから一人先に行ってしまったアクエリアの背中を追う。