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雨季が近付いていた。
アルセンには雨季がある。
他の地域と比べても温暖な気候で冒険者や旅行客からの人気も高いアルセン城下は、気温による夏の訪れを告げると同時、空には暗雲が立ち込め始めていた。
雨季と言っても短いものだ。湿っぽいのはどうにもならないが、雨季に限り咲く花もある。観光資源として七番街では花の植え替えがされているらしい。
季節も何もかも関係なく営業している店もある。
それが五番街にひっそりと店を構える酒場『J'A DORE』だ。
嘗て騎士であった男が店主を勤める酒場に郵便が届いた。まだ昼前の頃だ。
その郵便は蝋で封をされ、印に捺された家紋を見てマスターが眉間に皺を寄せる。
彼がカウンター奥で郵便を各部屋に振り分けようとしている所に居合わせたのは二人いた。一番の新参であるミュゼと、一番の古株であるアルカネットだ。
二人は先程起きてきたばかりだ。深夜まで続いた『仕事』のせいで、まともに睡眠時間を取れていなかった。やっと二人して起きてきて、折角だからと同じテーブルにミュゼが食事を運んで朝食兼昼食を取っていた時の事。
「……どの面を下げて」
マスターが憎々しげに言った声はとても低い。
怒りに任せて歯噛みした音まで聞こえる程、今のマスターは怒りに満ちていた。
アルカネットもミュゼも、一瞬にして食事の味が分からなくなる。普段無気力なこの男が怒りを露わにする時、尋常でない殺意が周囲を包むのだ。
無味になってしまった魚介パスタを口にしながら、アルカネットが目を泳がせる。叶うならこの皿を部屋まで持って逃げたいと思っている顔だ。
そんな『仕事』の先輩の姿を見て、ミュゼが溜息交じりにマスターへと声を掛ける。
「どーしたんだ、マスター?」
アルカネットは、この酒場の主であるマスター・ディルの事を嫌っている。
それは彼の立場だったり、決して常人と同じとは言えない厭世的な性格のせいなので、ミュゼとしてみれば二人の仲を取り持とうと思ってはいないのだが。
けれど何かを見て苛立ちを覚えているマスターの姿を見ていると、それを確認したくもなって。
「ゴミだ」
マスターがそう吐き捨てながら、手にしていた郵便物―――封筒を床に捨てる。
普通ならば少しはその場を揺らめきながら落ちて行きそうなものだが、捨てられた封筒は重さに従って迷わず床に落ちる。封筒らしからぬ音を立てて落ちたそれは、ミュゼの手によって拾われた。
「ゴミはゴミ箱に捨てた方がいいんじゃねえのか、マゼンタ辺りが怒りそうなもんだ、……が………」
ゴミ、と言ったマスターが捨てたその封筒。
宛名にはマスターの名前があった。それはいい。書きつけられていた送り主の名を見て、ミュゼが言葉を失った。
封をしている印には覚えがない。赤い蝋が象っているそれは、国教である三神教を表す形に更に図形が足されているものだ。
封筒の裏側、端にある名前を見るまでは、ミュゼだって通常通りの態度でいられた。
―――Funfu Zane
「……ミュゼ?」
新入りの様子が一瞬で変わったのを見て、訝しんだ兄貴分が声を掛ける。
ミュゼは、そんな彼の声が耳に入っているのかいないのか。
「……フュンフ……ツェーン………?」
それは、ミュゼが探している人物の名前そのものだった。
彼女の顔色が変わったのを見ながら、マスター・ディルが口を開く。
「中を見たいのならば汝が開け。我は内容に関わらぬ」
中身を見てもいいが、その中身にマスターは関わる気がない。その手紙が彼を名指ししていたとしても。
ミュゼとしては何でも良かった。探していたこの人物の事が知れるのなら、手段は問わない。今すぐ何が送られてきたのか確認したいのに、気持ちだけが逸って手が震える。もたついているミュゼの様子を窺って、その封筒の差出人を見たアルカネットがマスターと同じように眉間に皺を寄せた。
「……あの野郎、まだ諦めてないのか」
アルカネットさえこの名を持つ人物の事を知っている様子で、ミュゼが勢いよく振り返る。
『フュンフ』と名を持つ人物との交流の話は一切聞いた事がない。なのに、ミュゼがこの酒場に身を寄せてからも知り得なかった人物のことを何故知っているのかと。
「でもお前も、少しくらい応えてやったらどうだ。昔は右腕だったんだろ」
「戯け」
底冷えするような声をアルカネットに投げかけるマスターの瞳は、昏く沈んでいた、
「我とてあれがあのような裏切りをすると知っていれば、副隊長になど据えたものか」
二人の間で交わされる話の内容は、ミュゼにとっては初耳のものばかりだ。
右腕?
副隊長?
ミュゼが聞いても答えなかったマスターが、アルカネットの言葉でこんなに口を軽くする。それは、彼が『事情を知っている』からなのだろうけれど。
「開けるぞ」
ミュゼの口からは、許可されているというのにそんな問いかけばかりが出て来る。
知らないからだ。
この人物が、マスターに何をしたのか。
裏切りと切り捨てられるくらいの事をしておきながら、こんな風に手紙を送る程には人の心がない男なのか。
震える手が封を破り、中の手紙を引き出した。……封筒が重い筈だ、何事かを書きつけた紙束は、開いただけで十枚を超えていた。
折りたたまれたそれを広げて、ミュゼが悪寒を感じる。
隊長
本当に申し訳ありませんでした
私の考えが足りませんでした
あの日の私の過ちを忘れた事はありません
どうか顔を合わせて謝罪をさせてください
時候の挨拶も長いものだったが、それ以上に紙束の大半に書きつけられた謝罪の言葉は、一枚目にも、二枚目にも、その次にも書いてある。
後悔と執念が垣間見えるような手紙だ。あまりにあまりな内容に、視線は自然マスターへと向かった。
「……あの者は、時折このような紙屑を送って来る」
答えるマスターの顔色はいつもと変わらない。
今はもう怒りの色を露わにしてはいないが、それでも視線を手紙に向けようとはしていなかった。
紙屑、と言い放ったそれにマスターは何も感じていないらしい。ミュゼが手紙を捲るたびに、彼の『後悔』の鱗片が分かった。
彼は、マスターに取り返しのつかない失態を犯した。
同時に、マスターはそれを許そうとしていない事が分かる。
謝罪を書き連ねても取り付く島もないマスター・ディルの態度は、あまりに頑なで。
「今時紙を送られても煮炊きにすら使えない。本当に、あの者は愚かな男よ」
フュンフという名を持つ男を、そんな風に扱き下ろす者を見るのはミュゼにとって二人目だ。
一人は今、すぐ側で怨嗟に近い暴言を吐いているマスター・ディル。
もう一人は、此処暫く会っていないミュゼの育ての親。
ただ、二人の暴言の種類は違っている。どうしても気になるのは、手紙の主がマスターに謝罪をしたいと言っているその内容だった。
「こいつ、マスターに何したの」
ミュゼの疑問を受けて、アルカネットが視線を泳がせる。
マスターは、ミュゼに視線を向けると僅かに口を開いた。薄い唇が上下離れたのに、その奥からは何も声が出てこない。
「……聞きたいかえ?」
問いには頷くしかなくて、ミュゼの一つ結びにしている髪が揺れる。
するとディルは階段を指差した。
「アクエリアの義姪」
階段を上った先の部屋にいるであろうアクエリア。
「アルカネットの義姉」
次に指差されたのはアルカネット。
「我が妻」
マスターの長い指が、自分を差して。
「そして、汝の血縁」
最後に指を差されたミュゼは、既に誰の事を言っているのか分かっている。
「……ってことは、もしかして、『アイツ』の事?」
「別に、俺はあいつを姉だなんて思ったこと無いぞ……」
ディルの関係説明に多少不服があるようなアルカネットが、独りごちに口を開く。
それすら無視して、マスターは話を続けた。
「あの下郎は、『花』隊長であった我が妻を戦場で見殺したのだ」
戦争をしていたのだ。
幾万の命が奪われる行為で、その『奪われた命』が彼の妻であっただけの話。
しかしその責を、マスターはフュンフという男に背負わせた。
ミュゼの眉間が自然に寄った。ミュゼとしては、その『花』隊長の死を受け入れられない理由があるから。
「……そっか」
でも、今この時点ではそう返して納得するしかない。
彼女が生きている、とも、死んでいる、とも、はっきりとした答えが出ていない以上ここで反論するのは得策ではない。
「でも、今こんな風に手紙を送り付けてきたのは何でだろうな? ってか謝罪そんなにしたいなら直接酒場にくればいいものを」
「前一応来るには来たが、こいつが剣振り回して追い払ったんだよ」
「うわぁ……」
害を成す者には容赦しない人物であることは知ってはいたが、彼の事を本当に敵のように認識しているらしい。
それ以上何を言う事も出来ず、手紙を更に読み進めて行く。
「……ん? おい、これ」
ミュゼが読み進めて行くうちに、謝罪以外の文章が入っていくのが見えた。
『孤児院』『黒髪の子供』『入院を認めたひとり』。
最後の頁に辿り着くと、そこにあったのは酒場―――否、ギルドへの依頼のようだ。
アルカネットが面倒そうにその内文を読む。ミュゼが差し出した手紙に目を通すと、その表情も大きく変わる。
「おい、オーナー」
依頼が関わって来ると、アルカネットだってマスターと話をせずにはいられない。
その依頼文には、ミュゼもアルカネットも覚えのある子供の事が書いてあったから。
「どうした」
「こないだ、俺達が『廓』を襲撃しただろう。あの時の子供の一人が、様子がおかしいらしい」
「様子?」
マスターは手紙を見ようとしない。だからミュゼが要点だけを話す。
「救出した子供の一人がプロフェス・ヒュムネらしいんだと。暴走状態に入っているらしくシスター達では手が付けられない。王家への保護申請を出して認可されるまでの間、手を貸して欲しいんだそうだ」
「―――本当に、奴は」
マスターの舌打ちが、酒場内に静かに響いた。
「我が口を出さねば何処まで厚顔に成る心算だ。面の皮の一枚や二枚、引き剥がしても問題ないであろう」
「……ごっそさん」
怒りを露わにしている様子のマスターを余所に、アルカネットが一足先に食事を終えて立ち上がる。自分の使った食器を持って厨房に入ろうとしている背に、ミュゼが声を掛けた。
「アルカネット、もう行くの? あの子がどうなったのか気にならないの?」
「気にはなるさ。でもな、俺だって騎士は嫌いだし、何よりあいつの思惑通りに依頼受けて孤児院に足を運ぶのも嫌だ」
「騎士……。そっか、副隊長だったんだもんな、フュンフも騎士なのか」
「今はそいつ、『月』の隊長らしいぜ。……全く、騎士同士で蹴落とし合って地位ぶん盗るとか、城に仕える奴らは頭どうかしてるよな」
嫌味を交えた視線をマスターに送りながら、アルカネットが厨房に姿を消した。
残ったミュゼは、まだ手紙を持ったままだ。
この筆跡の主が、ミュゼの探していたうちの一人。
マスターも、それを知っているから渋々といった様子で口を開いた。
「行くか」
「……行って良いの?」
「汝があれに何を求めて居るか知らぬ。知りたくも無い。だが、我は汝が我等に害を成さぬ限り、其の行動を阻む理由が無い」
「……ありがと」
快諾という訳では無いが、許可は下りた。あと立ちはだかる問題と言えば。
「私、これに書いてある孤児院の位置が分からないんだけど……誰に聞けばいい?」
「道順か……」
マスターが行けば話は早いのだろうが、彼は自分が行くなんて事は一切言わなかった。
代わりに名を挙げられた哀れな生贄がいる。
「アクエリアを連れて行け。其れから伝言を。『殺しても、我が許可する』と」