57
ジャスミンだけのものになってしまったその部屋を見た時、ミュゼの胸に何とも言えない寂寥感が過ぎていった。
この部屋の持ち主はもう一人いた筈だ。金の髪を持つ、黒い服を纏った『魔女』。
彼女は遂に、魔女の烙印から逃れられず断罪されてしまった。
ジャスミンをゆっくりと寝台に座らせる。気付けば彼女の涙は止まっていた。
昨夜からずっと泣いていただろう彼女の涙はここに来て漸く止まったようだ。ミュゼにとって、それが唯一の救い。
見渡した部屋の中には、洗い物を残して慌ただしくこの地を去ろうとしたユイルアルトの痕跡が残っている。彼女が愛情込めて育てた植物も、ミュゼが二人の留守中に水を遣っていた時と変わらない。
「……何かあったら、呼んでくれていいから。私は、部屋に戻るよ」
今はそっとしておこう。
ミュゼはそう思って声を掛けたのだが。
「待って」
ジャスミンが、去ろうとするミュゼの服を引っ張った。
細い指が力無く行ったその行動でも、ミュゼの動きを止めるのに充分で。
「イル、死んでない」
涙を溜めた目で、ミュゼを見る瞳は澄んでいた。
「……え?」
「死んでない。アクエリアさんが途中で怒るの止めたの見て、不思議だったの。あんなに怒ってたみたいだったのに、何もせずに部屋に戻っていったのよ」
「……それは、まぁ。でも、ヴァリンの野郎がユイルアルトを殺してない保証なんて」
ミュゼだって、ユイルアルトが死んでないならそれ以上嬉しい事は無い。
けれどワンピースを切り取った黒い包みにあった髪は、恐らくユイルアルトのもので。あの髪をあんな風に見せるなんて、死亡通知以外の何物でもないのはミュゼだって分かっている。
「マスター、耳を触ってた」
「……ん? ああ、そうだね。でも、それに何の意味が」
「騎士ってね、戦場では武勲を上げた証が必要なんだって、前に本で読んだの。敵の首だったり、耳だったり、親指だったり体の一部を持ち帰るらしいんだけど」
ジャスミンは、彼女の死を信じてはいない。
「あのヴァリンさんが、誰かが死んだって伝える時、証拠を髪だけで済ませるかしら」
「………それは、……ううん、嫌な説得力があるね。確かにアイツなら殺したって証拠に首でも耳でも眼球でも持ってきそう」
「ギルドから離れるのが裏切りだからって死に値するのは分かる。王家が設立した組織って話だから、王家に処罰したって形を見せなきゃいけないのも分かる。だから、もしかしたらだけど」
ユイルアルトが生きている可能性があるのなら、ジャスミンは迷わない。
大切な一人の親友だから。
「ヴァリンさん、あれで誤魔化してイルを逃がしてくれたんじゃないかな、って」
「……何の為に?」
「分からない。でも」
『また逢いましょう』
その約束を、違える事がないのなら。
「私は、髪だけじゃイルが死んだなんて認められない」
「……ジャスミン」
「生かしてくれた意味なんて何でもいい。私は信じる。イルがどこかで生きてるって」
そういったジャスミンの瞳には、もう迷いはない。
ミュゼも頷くしかない。縋れる希望があるのだから、その瞳に光が戻ったのを素直に喜ぶ他無かった。
「あとどのくらいかかりそうですか、先生?」
城下から離れた街道の分岐地点で、女性二人が広げた地図を並んで見ている。
一人は肩に届く程度の色素の薄い水色の髪。
一人は耳が見える程に短く切った金色の髪。
荷物は多い。けれど、二人の表情は旅による苦痛ばかりでは無かった。
「そうですね、歩いて二日くらいでしょうか。そうしたら次の村が見える筈です」
「村に行くにも二日なんですね……。これだけ歩くの久し振りなので、行き倒れないようにしないと」
「ですね。私ももう年なので、体力には自信がありません」
『ユイルアルトは此処で死ね』
ヴァリンにレイピアを向けられた瞬間、それまでの全てが走馬灯のように蘇った。
何も言えずに、何も出来ずに此処で果てる事になるなんて。
一番に浮かんだのは親友の顔だ。交わした約束を違えることが、何よりの後悔。
過去に魔女の烙印を捺された時の火刑の炎が、自分の足首を掴んできた錯覚さえ覚えた。
強く目を瞑った。
けれど、覚悟していた死の痛みはいつまで経っても襲っては来なかった。
代わりに、突然頭が少し軽くなった気がした。
『そして名を変え生まれ変わって、魔女ではなく医者としてだけ生きろ』
ヴァリンの声は、とても優しいもののように聞こえた。
ざんばらに斬られたユイルアルトの髪が、地に散らばる。これまで手入れしていて愛着もあったけれど、そんな事は命がある事に比べたらどうでも良くなった。
『ころさ、ないんです、か』
『今殺したよ。ユイルアルトは今死んだ。此処に居るのは、名前を持たない医者の女だ』
『どうして』
『お前、魔女だって言われた名前のままで生きたいか? 親がくれたのは名前だけじゃないだろ、命があるだけ有難いと思え』
地に落ちた髪を拾い集めたのは、ヴァリンが連れてきた部下。そして彼らはユイルアルトとリエラの荷を預かる。
ヴァリンは指先の動きだけでユイルアルトに『背を向け』と指示した。その通りに背を向けると、彼は無造作に残りの長い髪を掴んで切り離す。
『この先の分岐まで、こいつらが送る。口の堅さは信用していい、拷問を受けても俺以外に口を開かない奴らだからな』
『殿下、何故そこまでしてくださるのです?』
『しつこいぞ、リエラ。……いや、もうお前も名前変えた方がいい。義母上は国外追放とまでは言わなかったがな、国内にいるなら何時でも何処でも殺せるからそっちの方が都合がいいんだ』
馬上に荷を乗せたヴァリンの部下が、「失礼」とだけ言ってユイルアルトのワンピースの裾を引き裂いた。膝丈までになったワンピースから切り離された部分で、拾ったものとヴァリンから受け取ったユイルアルトの髪を包む。
そして。
『っ………』
仕上げとばかりに、ヴァリンが袖を捲った。そしてそこに、レイピアの刃を滑らせる。腕に一本の赤い線が出来上がり、そこから真紅が流れ始める。
部下はその血を黒の包みに受け止めた。これで、簡易的な死亡証明が完成する。あまりに粗雑なものだが、一時の目暗ましには丁度いい。
『おい』
名を失くしたユイルアルトに、ヴァリンの声が掛かる。痛みを堪えた声だが、ユイルアルトに対する敵意は無い。
次は何だ、と思っていた彼女の目の前で、ヴァリンが自分の服の首元を広げた。そこにあった物を乱暴に引きちぎって、差し出す。
『俺のしたことに恩義を感じろ。俺はお前の為に血を流した、お前は俺の一番大事な物を死んでも持ってろ。それで契約としよう』
『契約?』
『どれだけ時間が経っても構わん。俺の求める薬物を作れ。金に糸目は付けん、命に代えても作り上げろ』
『……何を。何の為に』
『決まってるだろ。―――復讐だよ。俺の世界をこんなつまらんものに作り変えやがったすべてに、俺は命と引き換えにしてでも痛い目を見せてやる』
ヴァリンが差し出したのはペンダントだった。
それをユイルアルトが受け取った事で契約は成される。
『忘れるな、かつて魔女だった女よ』
烈火のような激情を瞳に宿した男が、魔女だった女に繰り返す。
『契約は成された。俺が殺すはずだった命、これから俺の為に生きろ』
炎は魔女を逃がさない。
「……でも、これ」
ヴァリンの部下たちによって送り届けられた分岐で道の先を見ながら、かつてユイルアルトと名乗っていた女がヴァリンから受け取ったペンダントを触っていた。
普通の飾りより大きなそれは、中に何か小物が入れられそうだ。契約の証として死んでも持っていろと言われたのだ、中身を確かめるのは権利でもあるだろう。
「出発前に見て良いでしょうか。中身が気になります」
「良いと思いますが……もし紛失するような事になったら一大事じゃないでしょうか? やはり、宿を取って屋内で確認した方が安心では?」
「ですかねぇ……」
首から下げたそれは、大きさ通りの重みを感じる。外側が重いのか、それとも中身が重いのかも現時点では分からない。
指先で軽くペンダントを弾いたユイルアルトの耳に、何処からか声が届く。
「中身気になる? それねぇ、あたしの喉の骨」
「!!!?」
二人どどちらかが発したのものではない、聞き慣れた気がする声。同時、寒気。
青褪めて地面から少し飛び跳ねたような奇妙な反応をする金の髪の女に、先生と呼ばれていた女が驚いて一歩後ずさった。
「ど、どうしました?」
「こ、っ、こえ、ちが、む、むむむしが」
「虫……?」
金の髪の女はその場で手をばたばたさせた。虫を追い払う仕草だが、当の虫扱いされた声の主が何処かへ行くことも無い。
声だけ聞こえるその異様な事態に、短くなってしまった金の髪を振り乱しながら姿を探す。声の主は姿を現していないらしく、どれだけ辺りを見渡しても声の持ち主らしい人物の姿を見つける事はできなかった。
でもこれは間違いない。ソルビットの声。
「虫扱いは流石に酷くない……? あたしとイルの仲じゃんよ」
「なんで!! 確かにあの時貴女を埋めたのに!!」
何やら物騒な事を半狂乱で叫ぶ女に、もう声を掛けられない。
「ヴァリンのそのペンダントね、あたしの燃え残った喉の骨が入ってるんだよ。それだけは今の今までずっと手放さなかったんだけど、へー、ヴァリンそれさえイルに託したんだー」
「ひゃああああああああ!!!」
「案外長い付き合いになりそうだね! あたし楽しみだなぁ!!」
聞こえる者には揶揄うように弾むソルビットの声。
未だ新しい名を決めていない金の髪の女は、なんて物を寄越したんだと憎々し気にペンダントを見た。
同じく名前を捨てさせられた水色の髪の女は、急変した弟子の様子に狼狽えるばかり。
二人(と一人?)の当てのない旅は、今から始まる。