56
その日は朝から静かだった。食事の時間にしても早いから、一階には誰かが朝食を摂っている姿が無い。
店内を掃除する姉妹の姿はいつも通りだが、マスター・ディルは部屋に入ったまま出てこない。
外からの来客を告げる鐘も、その時は鳴らなかった筈だ。
「あれ」
店内で拭き掃除をしていたマゼンタが、その人物が酒場の中に居るのに気付いた。
彼がいつも鐘を鳴らさないようにして入ってくるのを知っていた。気配を殺すいつも通りの彼の姿を認めて、笑顔で迎える。
「お疲れ様です、ヴァリンさん」
笑顔に笑顔を返す、彼の顔はまだ疲れていた。
いつも通りだ。王子としての姿ではなく、前髪を下ろして目を隠し、服も上下共に辛気臭い暗色。今はもう『ヴァリン』としての仮の姿。
「そちらこそ。朝から大変だな、義叔母上」
「やだ、その呼び方は止めて欲しいです。護衛任務も終わったばかりというのに、忙しそうですね?」
義叔母、と呼ばれたマゼンタ。
彼女は現王妃にしてプロフェス・ヒュムネであるミリアルテアの実妹だ。
血の繋がらない縁者がこうして下々の者と同じように仕事に精を出している姿を横目に、ヴァリンは店内を見渡した。
「ディルはまだ部屋か」
「そうですね、まだ出てらっしゃいません。ヴァリンさんならお部屋に行っても怒られないのではないですか?」
「冗談。あいつが部屋に誰も入れたがらないの、マゼンタだって知ってるだろ」
それは彼の妻が遺した酒場の、彼女の私室だった場所だから。
思い出に縛られ続けているのはマスターもヴァリンも同じだから、彼の部屋に無理に押し入ろうとせずに大人しく椅子に座って待つことにする。
案の定、話し声を聞きつけたのかマスターはすぐに部屋から出てきた。それを見てマゼンタは仕事の振りをして退散する。
「よう、お疲れディル」
「……我が疲れているように見えるかえ?」
「見える見える。……お前さ、ユイルアルトが酒場出て行ったの気付いてただろ」
「……何の事か、話が見えぬな」
「しらばっくれるな」
マスターは定位置であるカウンター内部の自分の椅子に座らず、ヴァリンの側に寄る。
背の高い彼が見下げて来る位置に来て、相変わらずのその不遜な態度に肩を揺らして笑った。
「これやるよ」
ヴァリンがテーブルに出したのは、黒い布で包まれた何かだ。
それから漂う、嗅ぎ慣れたような血の臭いにマスターが無言で顔を顰める。
「お土産だ」
マスターがそれを手に取り、中を開く。
「……そうか」
中身を見た彼の言葉はそれでも淡白で、置かれた時と同じようにテーブルに戻す。
「部屋に居る全員を呼べ。不在の者は放って置いて構わぬ」
「ジャスミンもか?」
「そうだ」
マスターの言葉が号令のように、厨房に控えていたオルキデとマゼンタが動いた。
階段を上がり、それぞれ入居中の部屋に声を掛けに行く。
集まったのは昨晩から帰っていないアルカネット以外の全員だ。ミュゼもアクエリアも、眠そうな顔をしているが服は寝間着ではなく普段着だった。
泣き腫らしたような瞼をしているジャスミンは、一番最後に下りてきた。
それぞれが自分の定位置にしている席に着き、マスターによる召集の理由を語られるのを待つ。
「……揃ったな」
アルカネットではない『一人』が足りない疑問を、誰も口に出さなかった。
ミュゼもアクエリアも聞こえていた。耳が良い種族の血を引き、かつ夜中にあんな大声で話されていては嫌でも耳に入ったから。
そんな中、ジャスミンが視線をヴァリンに送る。……彼は謹慎を言い渡されてはいなかったか。
「好ましい報告では無いが……、見て、察せ」
マスターの言葉はそれだけだ。見ろ、と言われれば視界に入るのはひとつ。これまで酒場にはなかった筈の、黒い包み。
一番最初に動いたのはアクエリアだった。席を立ってそれに触れた瞬間、顔を顰める。
「……これ……」
その呟きも、アクエリアの声だ。彼は包みをそっと解くと、中にあるものに言葉を失う。
髪だった。
癖の無い、手入れされた真っ直ぐな金髪。それに既に変色した血が付いている。
誰のものか、問わずとも分かった。ユイルアルトの髪だ。
「……え…………?」
遠目からでも見れば分かる。ずっと見慣れた金髪だ。ミュゼの髪よりもはっきりした鮮やかな金色。
ミュゼも、ジャスミンも、息を吞む。見ているものが信じられないのに目を逸らせない。
「なにが、あったんですか」
アクエリアの声が、平静を保ちながらも震えながら問い掛ける。
手にしている黒い包みは、ユイルアルトの着ていた服だ。いつも見慣れたワンピースの生地。それが包みの形に刻まれて、手元にある。
「無断でギルドを離れようとした。身柄を確保しようとしたが抵抗が見られてな、残念だが『こう』なった」
「ざん、ねん、って。なんで、イル、どうして、イルを」
切れ切れの声で問うのはジャスミンの声。けれどその言葉は問い掛けの体を成していない。
ヴァリンは面倒臭そうに、自分の手の爪を見ながら答える。
「簡単に言えば、見せしめ……かな? 規則にそぐわない行動をするとその末路がどうなるかっていう、これ以上ないほど良い見本だろ。これでまたひとつ、お前達は賢くなったって訳だ。……あいつ俺を好き勝手扱き下ろしてたし、そろそろ俺がどんな役職に就いてるかってのを分からせてやるにもいい犠牲だったしな」
「……ヴァリン、テメェいい加減にっ……!!」
嫌味を交えたヴァリンの軽口に、ジャスミンが無言で顔を覆った。
ミュゼの顔面は蒼白で、短い付き合いがあった友人の末路をそんな風に言われることが耐えられずに口を開いた。が。
「調子に乗るな、劣等種族」
ミュゼの喉が、凍り付いたかのように動かなくなった。
指に包みを摘まんだままのアクエリア。その瞳が、見開かれてヴァリンの方を向いていた。
彼の姿が、揺らぐ。藍色の瞳が、くすんだ金色に変化する。短い紫色の髪が、明滅するように灰色に変わろうとしていた。
アクエリアはエルフに化けたダークエルフだ。それを知っているミュゼは事態を即座に理解したが、それを知らないジャスミンは何が起こっているのか分からなくて。
「脆弱な貴様等が俺達の知らん所で好きに生きようが構わん。だが同胞同士で殺し合い、挙句に戯れに歯牙に掛けるか。彼女がこの場所から離れただけで、何か甚大な不利益を被る訳ではないだろう」
アクエリアの声が低く、地の底から聞こえるような音だ。
けれどヴァリンの表情は変わらない。あまつさえ、笑っていた。
「不利益ならあるさ。無駄に長命で自堕落に生きてるお前には分からんだろうがな」
「一人の女性の生で揺らぐような国家なら滅んでしまえばいい。……俺を怒らせて、生きて城に戻れると思うなよ」
アクエリアは本気で怒っている。ミュゼが震えた。
この男を怒らせるとどんな事態になるか、彼女はよく知っていた。
ヤバイ、この場にいる全員死ぬ。滅ぶ。止めなきゃいけないと分かっているのに、ミュゼは恐怖で声が出ない。
「―――待て」
事態を把握したのか、マスター・ディルが声を掛けた。
苛立ちに色を揺らがせるアクエリアの瞳が、彼の方を向いた。
「……止めるな、ディル」
「止めもしよう。此の酒場は我が妻の形見だ、血を流す事は許せても、破壊する事だけは許さぬ」
言いながら、彼は自分の耳に触れた。ヒューマンとさして変わらぬ形の耳に、そっと二本の指を摺り寄せる。
たったそれだけの行為で、アクエリアの表情が変わる。怒り一色に染まっていた表情が、みるみるうちに懐疑的な無表情になっていった。
「……俺にとっては、兄と義姪の形見です。他の何を壊したって、ここだけは壊してなるものですか」
「そうか」
マスター・ディルが、アクエリアの怒りを解いた。
その光景が信じられずに、ミュゼが何も言えずに男達の姿を見ている。
「伝わって何よりだ、アクエリア」
「……ふん」
アクエリアは不愉快そうに鼻を鳴らすと、唇を曲げた顔でマスターに背を向ける。
足音大きく階段を上って行ったアクエリアは、そのまま部屋に戻った。
「……死ぬかと思ったのは、これで何度目だろうな」
アクエリアの姿が消えて、ヴァリンはそれまで余裕ぶった笑みを崩して引き攣り笑いをし始めた。よく見るとその頬に冷や汗が流れている。
「あの者の怒りを無駄に煽るな。我が加勢したとしても汝の命は危うかったぞ」
「そんなつもりは毛頭ない癖によく言うよ。……真っ先に殺されただろうな、俺。あいつがあそこまで鈍いとは思わなかった」
ヴァリンにとっても、アクエリアの存在は脅威なのだ。
あのまま殺されてしまえば良かったのに。
ミュゼが内心でそう思った。もうヴァリンには用は無い。今一番心配なのは。
「……大丈夫? ジャスミン」
声も出せず、ひたすら無言で、涙を流し続けるジャスミンだ。
「…………」
幾筋も、耐えることなく頬に雫を伝わせている。瞳は、深淵を覗いているかのように虚ろだった。
そんな彼女の背を支えながら、椅子から立ち上がらせる。
ヴァリンと同じ空気を吸わせてやりたくない。だから、部屋まで送ろうとした。ジャスミンも眩暈を覚えているようでふらつく足取りでありながら、ミュゼの誘導に従って階段へ向かう。
「……時に。ヴァリンよ」
背中の向こうから、二人が話す声が聞こえた。
もうヴァリンの声は聴きたくないが、耳は勝手に声を認識してしまう。
「傷は塞がったか?」
「……おいおい、何の話だ」
ミュゼが舌打ちする。ユイルアルトがあんな事になったというのに、何を呑気にそんな話をしているんだと、怒りで声を荒げそうになった。
アクエリアもアクエリアだ。ヴァリンに見せていた怒りをあんなに早く解くなんて。ヴァリンだけでも殺してしまえばよかったのに―――。
「医者に見せるか」
マスターの口はまだ閉ざされない。
「……はっ。馬鹿かディル」
ヴァリンの声は、笑っているようだった。
「見せられる訳、ないだろ?」
その笑いが何を意味しているのか分からないミュゼが、ジャスミンを連れて階段を上る。
ジャスミンの重い足取りも、声を出さずに泣いている様子も変わらない。
けれど、ジャスミンは何かに気が付いたようで。
その瞳には、光が戻っていた。