55
馬車で酒場に帰還し、ジャスミンはそのまま部屋の寝台に沈み込んで寝息を立ててしまっていた。
ユイルアルトは風呂に入り体の汚れを落とし、着替えを済ませてマスター・ディルと顔を合わせる。
一階にいたのはマスターとヴァリンの二人。一本しかない蝋燭で、ヴァリンの報告を受けていた。
「ユイルアルト、御苦労だった」
マスター・ディルはそれだけ言うと、いつもの仏頂面をヴァリンに向ける。ヴァリンもまだ話し終えていないらしく、つらつらと報告を続けていた。
「それで、リエラが地位剥奪と城下追放になった。お前もリエラには昔世話になっただろう、会うか?」
「……。今更。会って交わす言葉は無い」
「お前、本当そういう言葉足りん所をだな……。まぁ、今に始まったことじゃないか」
受け答えの声は淡白だ。マスターはそれから幾つか報告を受けると、仕事は済んだとばかりに部屋に戻っていく。
その光景を最後まで見ていたユイルアルトに顔を向けたヴァリンは、疲労感を隠さないまま近くの椅子に座り込んだ。
「ヴァリンさん」
ユイルアルトが、酒場で彼に話しかけるのは珍しい事だ。
「……どーした」
「リエラさんは、これからどうなるのです」
「どうなるって……お前も聞いただろ、追放だ。あいつなら薬の知識があるから、何処へ行っても問題なく薬作って余生を過ごせるだろうよ。でもあれだけの医術の持ち主がいなくなるんだから、王家にとっても医療面は心配の種ではあるだろうがな」
「……それだけですか」
王子であるヴァリンにとっても、リエラは『その程度』なのだ。
たった一人の子と引き離され、これまで孤独を抱えながらも王家に仕えた彼女に、その仕打ちはあまりに冷酷ではないだろうか。
「お前もこの酒場の一員でいたいなら、いい加減慣れろよ。……国を保つのは組織だ。個としての感情なんて、求められていないんだから」
ユイルアルトの様子に、必要以上のリエラへの情を感じ取ったヴァリンが忠告のような言葉を寄越す。
しかしもう今更、そんな言葉なんて通用しない。偉そうな言葉選びばかりが、鼓膜を上滑りしている感覚。
「御高説、ありがとうございますアールヴァリン殿下」
彼の一切を拒絶するように、ユイルアルトが吐き捨てた。その名前はこれまで一度もユイルアルトが呼んだことのないもので。
言われたヴァリンも動揺した。目を見開いて、その拒絶を無言で受け入れる。
苛立ちのままに階段を上がるユイルアルトの背を見る事もしない。ヴァリンは、溜息と共に片手で顔を覆った。
「……あー。なぁ、ソル」
呟く名前は、既に亡い人のもの。
「言葉足りないのは、俺もだろって……お前、笑うかな」
ギシ、と軋んだ椅子の背凭れ。
呟いた言葉は、誰にも聞かれていない。もう、ヴァリンの側には誰もいない。
けれど。
「笑わないよ、呆れるだけで」
その声がヴァリンの鼓膜に届く頃には、既に彼は引き込まれるように短い眠りに誘われた後だった。
ユイルアルトは部屋に戻った。
ジャスミンはまだ寝ている。今日までの仕事で出た洗濯していない服を山と置いた部屋の隅と、水を遣られて雫を湛える植物達。それらは夜の闇の中に沈んでいて見え辛く、ユイルアルトの心をこの場所へ繋ぎ止める事が出来なかった。
ユイルアルトは自分の荷物を改めて纏めた。
仕事に持って行かなかった服。少し季節が早い半袖。滅多に着る事がないワンピース以外のものを持てるだけ抱えた。
持って帰って来たばかりの荷物入れの中身を全て出し、空になったそれに次々と服を詰め込んでいく。調合器具などは入れない。服と、筆記具と、それから少しの乾燥薬草。
リエラと共に城下を去る。
その決意が固まったのは、謁見の間を出てから去り行くリエラの背を見てからだ。
この地で命を繋ぎ止められたことは感謝している。けれど、それだけだ。
医者としての本分を、此の地で果たせるなんて思えない。薬を作り、人を助ける。失われる命を、もうただの『数』として受け入れたくない。
もう時間がない。日の出までに準備を済ませてリエラを追わないと、二度と逢えなくなるかも知れない。自分と同等、或いはそれより薬草の知識を持っているであろう彼女を行かせたくなかった。
それに、彼女には負い目がある。
咎められる筈の罪を、自分の分まで背負ってくれたこと。
「………」
なるべく音を立てないようにしていたつもりではある。だからか、ジャスミンが起きる様子はない。
それでいい。別れの言葉を交わしている時間は無い。それに、彼女だって立派な医者だ。ユイルアルトがその腕を認め、たった一人に使用した呼称『友人』。
彼女は、ユイルアルトがいなくても生きていける。もう、この酒場に居れば一人ではないのだから。
「ジャス」
起こしたくない。それでも、口は勝手に彼女の名を呼んだ。
「私、本当に、貴女のことが大好きですよ」
寝ている彼女になら、聞かれていないのなら、何だって言える。
「私、貴女ほど臆病で、でも無駄に強気で、優しい人を知りません。私は、貴女と暮らしたこれまでをずっと忘れない。……いつか、また逢える日が来るまで」
荷を担いだ。服ばかりが入ったそれは、仕事に向かった時のそれより重い。
足取りも重い。
口も。
「……ご機嫌よう。私のたった一人の賢い親友、ジャスミン」
言うだけ言って、ユイルアルトが扉に向かう。ぽつり、何かが床に垂れた気がしたがそれに構ってはいられない。
静かに扉を開いて、また閉める。そうして階段を降りようとした時。
扉が、何かに叩かれて大きな音を出した。
ユイルアルトの足が止まる。
「……勝手よ!!」
先程出てきた扉から、叫び声が響く。
「何が『私の親友』よ!! イルはそうやって私を置いて行く! いつも大事な話もしてくれないで、私の大事な人はまたそうやっていなくなるんだ!!」
「―――ジャス」
「……親友って、思ってたのは、貴女だけじゃないんだからね……っ!」
「ジャス」
思わず荷を放り投げて扉まで駆け寄る。
取っ手には手を掛けない。もう、開ける気は無かった。代わりに、見慣れた扉に触れる。その先にジャスミンがいるのだと分かっているから。
涙が頬を伝い、床に流れ落ちる。堪えようとしても勝手に流れてしまうのだ。
あれだけ後悔は無かったはずの、自分で選択した離別なのに。
「ジャス、大好きです」
「私もよっ!! ずっと一緒にいたんだもの、私だってイルが好きよ!!」
「ありがとう、一緒に居てくれて。嬉しかった。楽しかった」
これが最後の別れになると知っていたから、二人とも顔は見られなかった。
だって、顔を見てしまえばユイルアルトの決心が揺らいでしまう。
二人とも分かっていた。この酒場は、二人にとって居心地のいい場所ではない。
けれどジャスミンは、まだ酒場の外で生きることが出来ない。
「ありがとう、ジャス。また逢いましょう。そしたら、今度こそ私は」
触れていた扉から手を離した。
「今まで隠していた全てを、貴女と笑いながら話せる気がします」
「ユイルアルトさん……!?」
一階にはマスター・ディルもヴァリンもいなくなっているのを良い事に、誰にも黙って酒場を抜け出したユイルアルト。
急いで城下外に繋がる門の所まで駆けた。恐らくは王城に近い門からリエラが出るだろうと踏んで、七番街まで走った。
荷を持ったリエラは案の定そこにいた。息を切らすユイルアルトの姿を見て、目を丸くして驚いていた。
まだ、太陽は姿を現していない。
日の出と共に開く門は、まだ固く閉ざされている。
「……き、ちゃい、まし、た」
「何故……!? それに、その荷物」
「わたし、も、つれていって、ほしいの、です」
目を赤くし、肩で息をしているユイルアルトの姿を見て、リエラは拒否を示さなかった。
代わりに、これから歩くであろう道の先を見ている。
「……これまでより、苦しい生活になりますよ」
「でしょう、ね。でも、ふたり、なら。くるしさは、はんぶんになるかも」
「二倍になったらどうします?」
「じゃあ、その増えたぶん、一緒に背負って『苦しい』って笑い合いませんか」
「………それも、いいかも知れませんね」
リエラの半分ほどしか年齢を重ねていないだろう若い医師の言葉を聞いて、微笑む。
本当は年配の知恵者としては戻れと追い返すのが正解なのかもしれない。けれど、彼女だってこの先の苦痛を覚悟してきたのだろうという事が分かっている。
ならばもう、二人で茨が敷き詰められた道を歩もう、と、リエラの思考もすぐにそれに至る。
この国の医学にはまるで未来が見えないと、二人とも同じことを思っているのだから。
息を整えるユイルアルトの頭上は、夜明けの色をしている空だった。
重い音を立てて、外に繋がる門が開く。
城下を出て十五分経っただろうか。
希望も不安も全てひっくるめた感情渦巻く旅立ちの筈だった。
既に太陽は地平線から離れようとしている。
その朝日の光を浴びて立っている者の姿を見るまでは、ユイルアルトもリエラも笑顔だったのだが。
「……何故、此処に」
リエラの口から零れた言葉を聞いて、男が嗤う。
「それは、まぁ、お前らが一番分かってんじゃないかな」
この数日間、聞き慣れてしまった声だった。
何処とも知れぬ目的地を目指して歩いていた二人だったが、背後から駆ける馬の足音を聞いた。
最初は何だろうと思っていただけだったが、それがどんどん近付いて、あっという間に二人を追い越してすぐに止まった。
それと同時に馬から飛び降りる人影。
道の先に、アールヴァリンが立ち塞がった。
「あの王妃殿下が追放を言ったまではいいんだがな。あのギルドの副マスターの俺としては、一般人ともなったリエラにギルドの事を知っておきながら『それだけ』で許されては欲しくないんだよな」
「……どういう、事でしょうか」
「色々問題があるのは分かるだろ。『宮廷医師』ならその地位が口封じの楔にもなろうもんだが、一般人になったお前の口は誰が封じる? ……って思ってたら、ユイルアルトもいるじゃないか」
その姿はユイルアルトの良く知る酒場に居たヴァリンの姿ではない。
この数日間、護衛で仕事に付いてきた王子騎士としての姿だ。
そしてその王子騎士が、二人の目の前でレイピアを引き抜く。
逃げる道を探して振り返ったユイルアルトだが、背後には馬に乗ったままの騎士達の姿があって体が硬直する。
もう逃げられない。
「ギルドに対する背反は『死』なんだって、ディルから聞かされてなかったか?」
アールヴァリンの足音が、死神のそれのように聞こえる。
易々と死を齎す王子騎士の酷薄な笑みから、目を逸らしたいのに逸らせない。
「ユイルアルト」
王子騎士が、名を呼ぶ。
「今更言うのも何なんだが、お前と少し交流したこの数日でな、俺に心境の変化ってのもあったんだ」
「……王子殿下の心を何かしら変化させることが出来たのなら、光栄に思います」
「そうだな。そう思ってくれるなら俺としても嬉しい」
ユイルアルトは、今の今まで少しでもヴァリンに心を許しかけていた事を後悔していた。
悪い男ではないと思っていた。もしかすると、ソルビットが言っていたように優しくて大馬鹿で、思っていたよりも憎からず思える人物なのではないかと考えてしまっていた。
酒も飲めなくて。
二日酔いで悶えていて。
女性には軽口を言えど優しくて。
思っていたより、普通の男で。
そんな風に考えていた事を今後悔する。
ヴァリンは何処までいっても冷酷な男だった。
「俺はな、これまで茶髪の女ばかり引っかけて遊んでたが、金髪の女も面白そうだなって思うようになったんだ。お前だったら、茶髪じゃなくても構わないかも、って。俺とお前、案外相性悪くなさそうだな、とかな」
レイピアの先がユイルアルトの鼻先を捉えた。
リエラの声にならない悲鳴が、風に流れて溶けていった。
「……そう、思っていただけるのは光栄の極みですが。……そんな女に、剣を向けるのですか?」
「ん。俺だって考えたさ。考えて、考えて、考えて。でも結局いつだって、俺はひとつの結論にしか行き着かない」
その言葉は、とても残念そうで。
「……お前は、ソルじゃないもんなぁ」
僅かな悲しみを湛えた声が、ユイルアルトの耳に届いて。
リエラの目の前でレイピアが翻った。




