52
もう一人の宮廷医師の骨を回収した後の時間は、それまでとは比べ物にならない程に早く過ぎ去っていった。
村人との別れの挨拶を一番長く交わしたのはリエラだ。他の四人は淡白に別れを済ませ、未だ煙り立ち上るままの村を後にした。
ユイルアルトも、ジャスミンも、言葉こそ交わさなかったが気持ちは同じだ。早く慣れ親しんだ酒場の部屋に戻りたい。
戻れば、そして時間が経てばきっと、前のように互いの顔を見ながら話せるようになると思ったから。
リエラは、ヴァリンの荷物が一つ減っているのにすぐ気づいていた。
ユイルアルトはただ頷くだけ。
城下迄の道中の食事は、これまで取って置いた保存食ばかりだ。帰る事に集中して煮炊きをしなくなったので、喉が渇いても飲むものは水しかない。
馬の休憩を挟みながらの強行軍は、行きの時間よりも数時間程早く済んだ。
その時の御者はヴァリン。
時間は深夜に程近い夜。
城下外の壁には灯りが焚かれ、門を守る兵が交代で立っている。
ユイルアルトは長いようで短い旅だったこの数日間の疲労に耐えきれず眠っていた。
しかし、馬車が止まる感覚で目を開ける。
御者席側から覗いた城下の外壁も門も、何者の侵入を拒んでいるようだった。
馬車の姿が見えたからか、門の両側に控える門番は長槍を交差させるようにして通行禁止の意思を示している。
「……今何時です?」
ユイルアルトがヴァリンに聞いた。彼は手持ちの懐中時計を出して中を見る。
「日付が変わった辺りだな」
「通れるんですか? どうやらあちらの方々は、通してくれそうな感じではありませんが」
「馬鹿かお前は」
呆れたようなヴァリンの声が聞こえる。
それを聞き流してやれるような機嫌ではなく、唇を曲げて抗議した。
「何の為に俺がいるって思ってんだ。いいか、権力ってのはこう使うんだよ」
門番の制止の素振りもお構いなしで、ヴァリンが再び馬車を進めた。急な発進では無いものの、幌馬車が揺れて他にまだ寝ていた者達も起こされてしまった。
特にリエラの疲労は著しかったが、彼女の細い体は魘されながら馬車の中をころころと転がり起床を余儀なくされる。
「ちょ、ヴァリンさん!?」
ユイルアルトが馬車の中から声を掛ける。
しかしその声掛けも虚しく響くだけで、王子殿下は聞く耳を持っていない。
しまいには門番がこちらへ向かって走り寄ってくる始末だ。それを見て、ヴァリンが口許を意地悪く歪めた。
「止まれ!!」
門番らしい男達の声が聞こえる。その怒声に昔の嫌な記憶を思い出したユイルアルトとジャスミンが肩を震わせた。
怒声は未だに慣れない。知らない男の声なら尚更に。震える女性二人を気遣うように、幌馬車の中ではフィヴィエルとリエラがそれぞれの側に寄って背中を支える。
そんな幌馬車の、外では。
「―――止まれ、だ?」
ゆっくりと馬を止めたヴァリンが御者席で、冷たい声を門番に浴びせていた。
「誰に向かって口を利いている? まさか、この俺の足に今土を踏ませたいって訳か、貴様らは」
門番達も、声が聞こえる範囲にまで近寄ればこの暗闇でも御者席に座っている者の顔が分かるだろう。
この国に仕えているのであれば、見間違えない。
見間違えてはいけない。
神の血を引く最高権力者、その子にして騎士隊『風』副隊長。
それが、アールヴァリン・R・アルセンなのだから。
「っ、し、失礼いたしました!! 殿下がお乗りの馬車とは思わず!!」
「情報体制どうなってる。俺達が外に出ているのは聞いてる筈だろう。所属と階級を言え、後で上司に苦情入れてやる」
一瞬で空気が変化した。
この国でなら、ヴァリンという存在は規格外の権力を持っている。王子で、騎士で、財力を持つ美貌の持ち主で。
誰も逆らえやしない。現に門番の二人は、馬車の側で片膝を付いて臣下の礼をしていた。
「……『月』所属、第十一短弓部隊、リケイロ・ネローにございます」
「同じく、モーデン・コルノックにございます」
「……『月』? 短弓部隊……、ああ。成程な」
所属を聞いたヴァリンが、合点がいったような声で嘲笑を浮かべる。
「お前ら、『花』から異動になった奴らだな。元上司があの馬鹿女ってんなら理解できる。上司が上司なら部下も部下って訳だ」
「……っ!!」
「分かった、もういい。苦情も後から入れとくから、沙汰を待ってろ。んで早く門を開けろよ」
ユイルアルトもジャスミンも、フィヴィエルから聞いていたから話が少しだけ見えた。
戦場で死んだという酒場のマスター・ディルの妻にして、騎士隊『花』元騎士隊長。
彼女とソルビットの死後解体された『花』から異動したらしい門番。
騎士の世界も複雑だな、と思いながらユイルアルトが成り行きを見守っていたが、問題はすぐに解決したらしい。
馬車の五人の目の前で、重い扉がゆっくりと開いた。
「それじゃ、行くか」
扉が開いたのが自分の手柄だとばかりに、悠々と馬車を進めるヴァリン。
幌馬車の中ではフィヴィエルが苦笑していた。
「僕じゃ、あんな短時間で通してくれる事はないでしょうから……殿下が御者で助かりました」
「同じ騎士でも通れないんですか?」
問うたのはジャスミンだ。
「城仕えの者であれば、時間を問わず通れることになっています。ですが僕はただの騎士ですので、所属の上長に確認を取られるんですよ。僕でしたら『鳥』の中隊長です」
「面倒ですね。……でも、門番の彼らは職務を全うしているだけじゃないんですか。それで処罰だなんて」
「言っとくが」
ジャスミンの声が聞こえたらしいヴァリンが、やや不機嫌な声を隠さないで肩越しに振り向いた。
その瞳が自分の方を向いていると知ったジャスミンが横暴な王子に肩を強張らせる。
「苦情は入れるが処罰は考えてないぞ。職務全うは推奨されるべき行為だ。あの馬鹿女の元部下ってだけで充分酌量の余地はあるからな」
「……馬鹿女って」
門を抜け、城下に入った。広がる景色は、ここ数年で見慣れた五番街。
はぁ、とユイルアルトの口から安堵の溜息が漏れる。やっと帰ってこれた、という実感が湧き上がってきた。
「『花』くらいだからな。王家専用の馬車さえも止めた事があるのは」
ふーん、と話を聞き流しながら流れる景色を見ていたユイルアルト。
その時違和感を覚えた。
絶対間違える筈のないヴァリンが、酒場に向かうには曲がらなければいけない通りを真っ直ぐに進んだのだ。
「あれ、ヴァリンさん道間違えてません?」
「………」
「……ヴァリンさん?」
尋ねたユイルアルトの言葉を聞こえない振りで、ヴァリンがそのまま馬を操る。
その姿に嫌な予感を感じて、フィヴィエルの方を振り返った。
彼も、視線を逸らしていた。リエラさえも。
「……ヴァリンさん、下ろしてください」
「そうだ、折角だからディルがした嫁に関する奇行を教えてやろうか。あいつ昔もあんな感じで何に関してもほぼ無関心だったが、一度この俺の部屋まで押し入って来たことがあってな」
「ヴァリンさん!」
「俺の成人祝いであの馬鹿女が王妃候補として舞踏会に招待されたの聞きつけて、それ取り消せって俺に噛みつく勢いで直談判しに来てな。俺こいつに殺されるのかってその時本気で」
「下ろしてください!!」
ユイルアルトの叫ぶような声に、とぼけた事を口にしながら逆に速度を上げるヴァリン。
地を走る車輪の音が大きくなり、馬車の揺れも酷くなる。
やがて隣の区域に移動したのか、走る地が石畳になった。
「……騙し、ましたね」
憎々し気にユイルアルトが吐き捨てる。
「俺達は『仕事』に向かったんだ。その報告をするまでが仕事だろう? ……俺は言った筈だ」
ここまで来れば、ユイルアルトは疎かジャスミンだって何処へ向かうか理解してしまった。
「柔軟な対応力を身に付けろ。この先、俺以上の権力者に謁見するんだ。機嫌損ねたら首が飛ぶから、そうならないように注意を払えよ」
警告を世間話のように告げられて、二人の背中に冷たい何かが這うような感覚を覚える。
これまでずっと遠くに見慣れていただけの白い建物が、どんどん近くなってきた。
ジャスミンが、近くにいるフィヴィエルを睨みつける。しかしフィヴィエルも苦笑を浮かべるしか出来なくて。
リエラは逆に落ち着いていた。覚悟はとうに決まった顔をしている。
白い建物―――王族の住まう国の象徴、アルセン国王城に到着するのにさして時間は掛からなかった。
「俺はちょっと身支度して謁見申請入れてくるから、お前達は少し休憩してろ」
ヴァリンは馬車を王城の入口に付けて全員を下ろすと、荷物を載せたままの馬車を何処かに引いていく。
荷物……と呟く心細そうなジャスミンの声がしたが、ユイルアルトとしてはこれ以上疲労が増えるような事をしたくなかったので手ぶらな方が助かる。
「では、行きましょうか」
行きましょうか、と言われてフィヴィエル先導で進む王城の中。
深夜という事もあり、中は異様なほどの静けさに包まれている。
清廉な白と青で統一された壁と、飾り気のあまりない廊下。灯りの為に点々と灯る壁掛けの蝋燭が進むべき道を浮かばせているが、初めて入る場所でもあるそこは何処か不気味だ。
先導のまま到着した客室らしい場所には、五人の到着を知らされたらしく、一人の女従が控えていた。四人を見て頭を下げた彼女は紺色のメイド服を着ていて、その背後には茶の用意もしてある。部屋の中心にある背の低いテーブルとソファに全員が腰掛けると、女従は紅茶を淹れて再び頭を下げ、音も静かに退室していった。
「……本当だったら今頃、お風呂にでも入って寝てる筈なのに」
ジャスミンが独り言のように不満を口にした。
一人掛けソファが一つと、二人掛けソファが二つ。一人掛けに一番に座ったのはジャスミンだった。
リエラとユイルアルトが二人掛けに座り、もう一つの方にはフィヴィエルが一人で腰を下ろす。
「謁見申請から謁見までって、どのくらい掛かります?」
フィヴィエルに問い掛けたのはユイルアルトだ。フィヴィエルは暫く考え込んでいるので、その間に紅茶に手を伸ばす。
折角出された紅茶を飲まないのも勿体無い。ユイルアルトはソーサーごと持ち上げてからカップを手にした。紅茶の香りは、上質なものと一嗅ぎで分かる程には高級品。
テーブルの中央にはマフィンらしき焼き菓子もあった。少しの空腹感を覚えて、ジャスミンがそれに手を伸ばす。
「……そうですね、恐らく今回謁見を受けてくださるのは王妃殿下と思われますが、お休みになられているのであれば暫く時間は掛かるかと。どのくらい掛かるかまでは、僕では分かりませんね」
「そうですか」
温かい紅茶を口に含み、柔らかいソファに腰掛ければ眠気が再び押し寄せる。全員が疲れていて、微睡むような空気が漂った。
まだ時間が掛かるというのなら、少しだけ寝てしまおうか。誰が何を言わずとも、その気持ちは共通している気がした。
一番最初に瞳を閉じたのはユイルアルトだった。それからほどなくしてジャスミン。フィヴィエルは耐えていたが、今からどんな処罰が下るか不安で眠れそうになく目を開けていたのはリエラ。
すぅ、と小さな寝息がユイルアルトから聞こえた、その瞬間。
「行くぞ」
客室の扉が合図も無く開き、その向こうから声が掛かる。
飛び起きたのはユイルアルトだ。ジャスミンは鈍い反応ながら顔を上げた。
扉の側に居たのはヴァリンだった。簡素ではあるが、それまでとは違う質のいい服を着ている。深い緑色をしたスラックスに、裾から覗く黒の靴。白のシャツに同じ色の巻き布。それまで少し乱れていた髪もきっちりと後頭部に撫でつけられている。腰にはいつものレイピアが下がっていた。
ヴァリンも疲れている。見ただけで分かる。それでも凛と立つ姿は、王子騎士の称号に相応しい品格を漂わせていて。
「……もう、そういう格好をしてるの見ても驚かなくなってきた自分に驚いています」
寝ていたと気づかれたくなくて、一番最初にヴァリンの側に寄ったのはユイルアルト。
「なんだ、惚れたか?」
「殿下はもう寝てらしてるんですか。寝るなら立ったままじゃなくて寝台の方がいいと思いますよ」
「ユイルアルトさん、もうこの場所は城なので、殿下への軽口は謹んで頂けると……」
「まぁ構わんさ。幾らユイルアルトでも、あの義母上―――王妃殿下の前では口を噤むだろう。なにより」
ヴァリンが不自然に言葉を切った。
その違和感にユイルアルトが視線を向けるが、彼はただ笑って。
「……そっちの方が、都合がいいんだよ。色々とな」
そう言うだけだった。