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「ソルと初めて二人だけで話したのは、城にある図書保管庫だった。そこには国の資料も数多くあってな、許可が無い者は持ち出し禁止ではあるが保管庫内での閲覧だけは出来たんだ。……意外かも知れんが、俺は昔から本が好きでな。寓話も空想小説も、自伝も何でも読む。一番好きなのは演劇の脚本だが、一時期騎士隊入団の時期と重なって、どうしても本を読めない時期があった」


 ヴァリンとユイルアルト、二人だけの夜の散歩は頼りない松明の灯りだけで実行される。

 空を見上げれば、城下で見たよりも多くの星が輝いている。天文学は専門外だが、その美しさに見惚れる程だ。

 前を歩くヴァリンは、村を突っ切って草原へ向かう。虫の声しか聞こえない時間帯、獣の姿は見えない。


「入団した後、図書保管庫に行くとそこで筆記具を使っているソルの姿を見た。重要書類が置いてある場所でそんな真似するなんて、情報書き写して他国に売る奴もいるにはいるから警戒してな……。でも、ソルの目的は書類の写しじゃなくて……字の練習だったんだ」

「字の練習?」

「アルセンで発行される本はその種別が何にしろ、保管庫に一冊は置かれる。市井に出回る本だが、最近は印刷技術も向上していてな。……それでなくとも、一冊一冊が手書きの本でも万人に読める字で出版される写本もあるんだ。ソルにとって童話でも醜聞にしろ機密事項にしろ内容は何でもよくて、それ全てが教本になったんだよ」

「確かに、綺麗な字を目指すなら教本が沢山ある場所がいいですもんね。……でもどうして、ソルビットさんは字の練習を? 騎士に達筆さは関係ないですよね?」

「ソルは元々『花』隊所属じゃなかった。『風』隊の諜報部隊所属だったんだ」


 ソルビットの事を語るヴァリンの声は、優しい。今でも想いを寄せる女性への心が聞いただけで分かるような音だった。

 松明の火が風で揺らぐ。それは彼の心を表しているかのようで。


「こいつに命じられた仕事は『篭絡』。他国の要人をその躰を使って誘惑して、アルセンの思惑通りに事を運ばせる事。その為には女従の振りでも娼婦の真似事でもなんでもやった。……そして、字面だけで男女構わず悦ばせられるように練習していたんだ。その努力量は、国王候補の俺でも敵わない程だった」

「……城仕え、だったのでしょう? 努力はして当然とも思いますが」

「その熱量が違う。『覚えろ』と言ったら俺の掌程の厚みがある本でも一週間で丸暗記してきた。その分厚さの物語を全て諳んじる事が、お前にも出来るか?」

「無理ですね。……分かりました。それ程ソルビットさんは努力の人だったのですね」

「努力だけじゃない。あれは才能だ。……貴族の戯れに付き合わされて放逐された女の子供。種が良かったのか畑が良かったのか、今になっては分からんが」


 彼が松明を握る逆の手には、別の荷物があった。


「綺麗だった。努力を欠かさず、名声に甘んじることなく、ソルはこの国で最高に綺麗な女だった。もうあれ程に綺麗で賢い女なんてこの国には生まれないだろう。その躰の質感を知る奴がどれほど居ようと、俺はソルの一番になりたかったし、どんなに時間が経ってもいいから俺を選んでほしかった」

「……でも、ソルビットさんは死んでしまった」

「そうだ。俺じゃなく、隊長を務めるあの馬鹿クソ女を選んだ。……ソルが、あいつに懸想に近い感情を抱いていたのは知っていた。それでもあいつはディルと結婚したんだ。いつか俺に振り向いてくれるかも知れないって油断があったのは俺の落ち度で」


 そして草原の端に辿り着いた頃。

 広がるのは崖だった。そこから見える景色は、暗がりでも分かる程に広く開けて、人の生きる村々が分かる場所。

 僅かな灯りで出来た夜景は、満点の星空ほどではないにしろ美しかった。


「……その落ち度で、俺はこいつに想いを告げる機会を永遠に失った」


 ヴァリンが松明とは別に持ってきたものは、ソルビットだった。

 彼女の遺灰が入った箱を、崖まで運んだのだ。重くないとはいえ、嵩張るそれを彼は腰を下ろして丁重に地に下ろす。

 まるで、眼前に広がる景色を彼女にも見せてやっているかのように。


「戦場から、城下一の病院まで運んで、まだ暫くは生きていた。自分の隊長が生きていると疑ってなくて、殆ど虫の息の状態でも生き続けた。でも……ディルがあいつの死を伝えると、そう時間の経たないうちに死んでしまったよ」

「……マスターの奥様、ですね」

「死に際まで綺麗だった。どれだけ傷ついても、顔の半分が潰れてても、足の一本や二本程度無くっても、ソルはやっぱり綺麗だったな。俺の人生狂わせて、なのにあいつと逝きやがって。お陰様で俺は未だに妻も選べない落ちぶれた元国王候補だってのに」


 荷物の外側の手提げの中から、深緑色の布が貼られた箱が姿を現した。

 ヴァリンの服にあしらわれている色と同じだ。それを緩やかな手つきで撫でるヴァリン。

 箱に貼られた天鵞絨(ベルベット)のような質感の布以外は、他に飾り気の見られないそれからヴァリンは視線を逸らさない。


「………だから」


 両手で抱き上げて、箱を身を屈めた膝の上に乗せる。


「お前がこれに触ったって気付いた瞬間、ぶち殺してやろうかとも思った」


 そうして膝の上に位置付いた箱を、粗っぽさの欠片もない手付きでそっと開いた。


「……こんなもの入れやがって、お前はよ」


 中にあったものは、遺灰と、箱に入るよう砕かれた骨。

 それからユイルアルトが酒場出発前夜に即席で作り上げた、ソルビットが纏う香りを複製した果実酒の瓶。

 ヴァリンは灰の付いたそれを手にして蓋を開ける。ヴァリンの側で漂うのは濃い果物の香りだ。


「もう少し脇を締めるような香りが足りない。でもこれ、何で作った」

「桜桃の果実酒と、桜桃そのもの。あとは手持ちの薬草を幾つか」

「お前、ソルの事何も知らんだろうによく作れたものだな」

「………そこは、ご想像にお任せします」


 まさか当人の幽霊から感じ取れた香りに似せました、なんて言える訳もなく。

 ユイルアルトが言わずにおいた理由をどう感じ取ったのか、ヴァリンがそれを軽く掲げてみせた。


「誰にも言うなよ。……俺、酒が得意じゃないんだ」

「まぁ、意外。……確かに、酒場でお酒をお召しになる姿を見た事は無いですね」

「ディルよりかは飲めるが、それでも苦手だ。少し飲んだだけですぐ酔っ払ってしまう」


 まるで故人に捧げる酒のように、瓶を掲げたヴァリンは口許へ持って行く。


「今から俺の言う事は、酔っ払いの戯言だと思って聞き流せ。それで、お前のその平たい胸の内にだけ取って置け」

「平…………」


 憎まれ口だけ一人前のヴァリンは、瓶にそのまま口を付けて一口、また一口と飲み下していく。

 三口目を数えた所で、ヴァリンの口が離れた。吐息に酒の臭いが混じり、口端から僅かな酒の雫が流れていく。


「くっそまずい」

「お酒ですから」

「なんでこんなもん、だれもかれもすきこのんでのむんじゃ」

「万人が好むものでは無いでしょうけれど。……大丈夫ですか、少し語尾が危ういですよ」


 大事そうに抱えている箱に、そのまま瓶を突き刺した。僅かに遺灰が空気に舞う。


「ソルはなぁ」

「はい」

「この国で一番綺麗だった。美人で賢くて努力家で料理も上手くて、そこいらの適当な国の姫なんて足元にも及ばない女だった。もう本当に最高だったんだぞあいつ」

「もう似たような事聞きました」

「そーか」


 どこかふわふわとした口調で何度か聞いたソルビットへの賛辞を口にされ、ユイルアルトが塩対応で返した。

 ヴァリンはそんな対応に不快になった態度では無かった。頬は酒を飲んだことで紅くなっているが、こんな暗がりではユイルアルトに分かる訳も無く。


「あー、なんでもう居ないんだ。俺の妃になったら一生かけて大事にしたってのに。なー、ソルー。俺ほどお前の事だけ想って、お前の事考えて、俺ほど若くて外見も立場も将来性も良い男って他に居なかったぞー? 俺選んどけば苦労しなかったぞぉー?」


 箱を抱きかかえたまま僅かな酒量で酔いどれる王子殿下は、確かに他の誰にも見せられるものでは無いだろう。もしかしなくても、帰りはこの酔っ払いと一緒に来た道を戻らねばならないのか、と思うと寒気がした。

 あまりにあまりな姿を見かねたのか、ユイルアルトの視界に艶やかな茶髪を持つ人物の姿が入ってきた。その人物はヴァリンに寄り添って、ユイルアルトに向かって左右に首を振っている。

 潰れた顔半分。下半身の無い体。傷だらけの肌。

 ―――出てきた。

 口に出さずに思った。この馬鹿王子が先程から酔いに任せて口走っている言葉は、この幽霊にも届いているだろう。

 側に居ながら心が通い合う事がなかった二人。ユイルアルトの心に、僅かな悪戯心が沸いた。わざと煽るような言葉を並べてみる。


「……選びたくても選べなかったのではないですかね。ソルビットさんだって、立場を気にして……らしたんでしょう?」

「分かってるんだよ、そんな事。あいつは俺が王子だからって、自分の年齢と立場を気にして身を引こうとしたこともある。俺はそれを許せなくて、頻繁に寝所に呼んだ。何度だって俺の形を躰に刻み込んでやった」

「躰を重ねても、口で言わなかったんでしょう。……今は私しか聞いていません。ヴァリンさんは、彼女の事をどう思っていたんですか?」


 ヴァリンの視線は、遺灰に向けられて。 


「五年経ったんだぞ。もうすぐ六年になるんだぞ。これだけ長くあいつがいなくて、顔さえ見られず、声さえ聞けず、肌に触れることさえもうない。それでも」


 その言葉も、遺灰に語り掛けるように。


 隣にソルビットが居るというのに、彼はそれに気づけないままで。


「俺はまだ、こんなにも、ソルを愛している」


 今になって、漸く口に出された愛の言葉。それを聞いているのは、ユイルアルトと、もう一人。

 ヴァリンに縋るように、しな垂れかかって腕を彼に回しているソルビットがそこに居る。


「言わないでよ」


 震える声が、夜闇に溶けた。


「聞きたくなかったよ」


 聞こえる言葉はユイルアルトにしか届かない。

 ソルビットからの言葉は、二度と彼に伝わらない。

 ユイルアルトはソルビットの言葉を伝えてやる気は無い。それが二人に対する罰だと思っているからだ。

 側に居ても臆して伝えられずにいた二人への。


「……俺の此処に来た目的、もう一つあるって言ったろ」


 ヴァリンがユイルアルトに、視線を向けずに声を掛けた。

 先程聞いた言葉なので、伝わらないと分かっていて小さく頷いた。ヴァリンは間を置いて再び口を開く。


「俺だってなぁ。……ソルをずっと傍に置くのには限度があると思っている。ましてや、俺が無理を言って全てこの中に詰め込ませたんだ。骨も灰も、いつまでも俺の傍にいて欲しいが……こいつがそれを望んでるとは流石に思ってない。でも城下の墓地に葬るのは嫌だった。多分、俺は墓守かって位に毎日ソルの墓に行くだろうからな」

「……それで? ヴァリンさんはどうしたいんですか」

「俺の手の届かない所で、眠っていて欲しい」


 それを聞いたソルビットが、雷に打たれたかのように顔を上げる。


「これまで出先で都合のいい場所を探していたが、丁度いい所が見つからなかった。……リエラが言ってたろ、あの禁忌植物の生育地は嵐の影響も少ないって。あそこなら、ソルは綺麗なものに囲まれて眠れるだろう?」

「……綺麗に咲き誇るものが、毒草でも?」

「ぴったりじゃないか。あいつは綺麗でも毒があるような女だったから」


 ヴァリンはもう一度、瓶を手にした。


「あいつは死んだが、俺はまだ生きる。この先もソルを忘れる事は出来ないだろう。けれどこれ以上遺灰に縋ってるだけでいたら、死んだあいつに愛想を尽かされかねない。それは嫌だ」

「よく決心出来ましたね」

「別に。……前から考えていたことだ。昨日今日思いついた事じゃない」


 再び口を付けて、一口だけ飲み下す。

 不味いと評価した酒なのに、喉に流し込んだそれから口を離すと瓶を箱の上で傾ける。遺灰に染み込む酒は、最後の一滴さえも残さず飲み込まれた。

 瓶の中から、果実の破片が躍り出る。遺灰の上に転がった果実は灰色になった。


「俺はこの先もソルを忘れない。忘れられない。例え遺灰が何処に在ろうと、想い続けて何も返らずとも、それだけは変わらない」

「……一途ですね」

「さてな? ……案外、ソル程と言わずとも誰か良い女が見つかれば想いを寄せるかも知れん。……その時は」


 ヴァリンの瞳が、ユイルアルトを見た。


「……今度こそ、生きているうちに目を見て『愛してる』って言う事が出来たらいいなって思ってる」


 まるでそれが自分に寄せられた想いの言葉のように聞こえて、ユイルアルトの思考が白く弾け飛んだ。

 咄嗟に首を振って冷静になろうとする。もうこの男の戯れに、一方的に心を揺り動かされたくなかった。


「そうなればいいですねぇ!?」

「どーした、ユイルアルト。顔が赤いぞ」

「赤くありません! 馬鹿な事言わないで戻りますよ!! 私も疲れてますしいい加減寝なきゃいけないんですからねぇ!!」


 上ずった声で、ヴァリンを置いて元来た道を戻ろうとするユイルアルト。

 声を上げて笑いながら荷物を纏め、ユイルアルトの背を追うヴァリン。


 ソルビットは。


「………ばかヴァリン」


 ヴァリンの後ろを追わず、その場から見える僅かな人里の灯りを見ていた。


「なるべく考えないようにしていた。でも」


 灯りは次第に消えていく。人々の就寝時間が訪れたのだ。灯りを浪費しないために消されるその後は、寝静まる夜が訪れる。


「……多分、あたしも」


 今度こそ誰に聞かれるでもないソルビットの呟きはそれ以上漏れない。

 やがてソルビットは姿を消す。ヴァリンの元に戻る為に。



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