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ユイルアルトには、リシューという名前に聞き覚えがあった。
ユイルアルトが故郷から逃げて、逃げて、何日も何日も彷徨って。
逃げる途中、幾つか村を見かけたこともあった。けれど、何処から追手に足がつくか分からなくて、其処が本当に逃げ込んで良い場所なのか分からなくて行けなかった。
逃げて、足掻いて、誰を信用していいか分からなくて。
故郷の外など殆ど出たことが無い。逃げて助かる場所なんて分からなかったのに、ユイルアルトは逃げ続けた。
どれだけ逃げただろう。何日走っただろう。履いていた靴はいつしか脱げて無くなって、着ていた服には穴が開いた。
伸ばしていた髪は、騎士を名乗る男達に刻まれて無残な短髪になっていた。
体の傷は痛みに疼いて、でも動かずにいる訳にはいかなくて。
そうして力を失って前のめりに倒れて、此処で死ぬのかとぼんやり思った時。
「大丈夫?」
掛けられた声を、死にざまに迎えに来る死神のものかと思った。
けれどそれは年を取った女性の声。視線を向ける力も残っていないけれど、声の主は声を出さないユイルアルトの側から動かない。相手が気付くかは分からないけれど、瞬きで答える。
生きている事だけそれで分かったらしい女性は、少し離れて水を汲んで持ってきた。清涼な水を口に含まされ、一気に飲み干したかったユイルアルトだがそうする事で気管にながしこんでしまう危険性も分かっているので少しずつ飲み下す。
「酷い……。酷いわ、傷が深い。起きられる? ここだとまだ危ないわ、道だけ案内は出来ますよ」
ユイルアルトの姿を見た女性はそれだけ呟いて。
既に凄まじい疲労感で今にも眠りそうになっていたユイルアルトだが、女性の言葉に必死の思いで体を起こす。
既にこの場所で死んでいた筈の身。
最期の最期に僅かに掴めた希望を、まだ諦めたくはなかった。
城壁に囲まれた街に辿り着いた時、その中にどうやって入ったのかは覚えていない。
中に入ると、道行く者達が皆乞食を見るかのような視線を向けてきたのを忘れられない。
体を引きずるように歩くユイルアルトに、僅かな歩幅で、傍にいて肩を抱いてくれる女性の事は今でも覚えている。
もう何も分からない。
けれど心は、生きたいと強く願っていた。
「ここよ」
女性がユイルアルトを連れてきたのは、三階建ての木造の建物だ。
見上げる体力も残っていない。ユイルアルトはその建物の側で、気を失うように倒れた。
目は開いている。呼吸は出来る。でももう一歩も動けそうにない。
「……ここは酒場なの。困った時、この店主さんに私の名前を告げて」
薄れ行く意識の中で、何故かその声だけは鮮明に聞こえた。
「リシュー。貴方が保管している『記録』に残っている筈だから、と」
女性の顔は、もう思い出せない。顔をしっかり正面から見ることが出来なかった。
その女性と接したのはその一回だけだった。
それから数日経って、酒場の外に倒れていた自分を拾ってくれたディルにその名を出した時。
「―――其の者は、既に鬼籍に入っていると在る」
酒場に遺された資料に目を通した彼にそう言われるまで、この酒場の関係者なのだと思っていた。
関係者であったのは間違いではない。
けれど、その人物は死してから十を遥かに超える年月経っていると言われて。
それがユイルアルトが幽霊を見た最初の出来事だ。
それから少しだけ間を置いて、二人目の幽霊であるソルビットを見る事になる。
ユイルアルトが生きていられる場所に連れてきてくれた、リシューという名を持つ人物について知れる事は少なかった。生きた彼女と親密に接していた者は、もう酒場にはいないそうで。
けれどユイルアルトは今でも恩義を感じている。どん底だったユイルアルトに、生への望みを与えてくれたのはリシューなのだ。
そのリシューの子が、今近くにいるリエラだと知って。
漸く小屋に戻ってきて一息ついた時、ユイルアルトの心の中にあるものは複雑な感情だった。
小屋に戻る為に森を進むにも、ヴァリンの体躯では苦労ばかりがあって、やっと小屋の中の壁に背をつけたヴァリンはそのまま秒で寝入ってしまった。髪や肩にも葉が取り払われないままでいて、彼の苦労が偲ばれる。
中には村人もフィヴィエルも、ジャスミンも揃っていた。そろそろ夕食にしようとの事で、ジャスミンは森で食用に値する植物を取って来ていたようだった。
外には煮炊き用の火が焚かれている。小屋の中に用意されている大鍋の中には根菜と思わしきぶつ切りにされた野菜が入っていた。
今の村の状態では、これが食事として用意できる精一杯なのだろう。フィヴィエルやヴァリンといった肉体派の体力がそれで回復するかは分からないが。
「……もう夕方なんですね」
今までが考え事をしたり必死だったりしていて気付いていなかったが、木々の間から見える空の色は紅く変わっていた。
もうすぐ深い夜闇が森を包む。それまでに小屋に戻ってこれたのは僥倖、といった所か。
食事の用意に、ユイルアルトは手を貸さない。村の女とリエラが鍋を運んで、残りの者は小屋の中だ。
「……なぁ、騎士様」
人数の少なくなった小屋の中で、村の人間である男の一人がフィヴィエルに声を掛けた。
「何でしょう?」
穏やかな声で聞き返すフィヴィエルに、男は心配そうな顔で問い掛ける。
「リエラ様は、このまま城に行ったらどうなるんだ」
「……それは」
問い掛けられた側も判断に困っている。彼のような一騎士が、宮廷医師の処分について詳しく知っている訳では無いだろう。
答えるのはヴァリンが適任だが、そんな彼は寝入ってしまっている。
ジャスミンとユイルアルトの査定の結果、リエラは黒だ。処分が下されるのは明白だが、その内容までは。
「……裁定は、王城に戻って下されると思います。それでも命を救った結果を考慮される筈ですので、身を害するような事にはならないと……」
「身を害するような、って……も、もしかして、死刑も処罰の範囲に入ってるってのか!?」
「不確定事項を、僕が話す訳には行きません」
狼狽える男を宥めるように付け加える言葉も、今の時点では慰めにしかならない。
仕える者に軽い処罰を与えるのか。それとも仕えているからこそ重い処罰を下すのか。
それによって国の方針が見えるような気がして、ユイルアルトが二人に視線を送ったまま黙り込む。
外で煮炊きに参加しているリエラは、中でこう話されている事に気付いているのだろうか。
「……お二人とも、もう少し声を落とさないと聞こえてしまいますよ」
ユイルアルトが忠告すると、二人は顔を見合わせて黙ってしまった。
リエラが聞いていたら、気分のいい思いはしないだろう。自分の話が自分のいない所でされているのだ。
忠告の意味が分かったらしい村の男は、それきりフィヴィエルから離れていく。
沈黙ばかりが包む室内の空気は、リエラ達が料理を済ませて戻ってくるまで変わらなかった。
食べ終わる頃には、外はすっかり暗くなっている。
皆が食事をしている間、ヴァリンは眠ったままだった。
川の水を火で温めた湯で、風呂には入れずとも清拭が出来た。
一応の清潔を保ったユイルアルトは、その後やっと起きたヴァリンの先導で馬車に戻る。
未だ大多数の側で眠ることが出来ないユイルアルトは馬車に戻って眠る事を選んだが、ジャスミンは小屋に残ると言った。
ジャスミンだって大勢と眠るなんて本来はしたくない筈だ。けれど、ユイルアルトと二人きりになるのが嫌なのかもしれない。
彼女の選択を尊重したユイルアルトは、それ以上説得するのを諦めて馬車に戻る。
夜の番は、ヴァリンがすると言ってくれた。
「……ジャスミン、本当にお前と一緒に居るのに抵抗感じてるんだな」
松明を手に森を抜けながら、ヴァリンが言った言葉にユイルアルトが目を伏せる。
「仕方のない事です。私達は意思疎通だってこれまで上手く行っていた訳ではありませんから……。互いの不満が今噴出しただけです、やっぱり他人は何処まで行っても他人なんですよ」
「でも、ジャスミンはお前の事気にしてるぞ。小屋出る前、お前の事心配そうに見ていた」
「あら、それは良い事聞きました。私は今でもジャスミンの事大好きですよ」
「………そうか」
ヴァリンの口振りは二人の仲を心配しているようだった。
他人を蔑んでばかりの王子殿下がそんな様子を見せる事に、ユイルアルトが笑う。
森を抜けてから、馬車の側に戻ると馬がその側で寝ていた。落ち着いた様子で眠る姿は、流石騎士が扱う馬だ。
「水……もう無いな、注いでおくか」
「周辺の草、大分食べられてますね。明日には帰れるでしょうか?」
「帰れる……。そう、だな。もう用事は済んだ、リエラを連れて……帰れるとは思うが」
ヴァリンが最初に幌馬車の中を確認する。何かに荒らされた様子は見られない。
誰かが隠れている様子もないのを確認すると、ヴァリンが一先ずユイルアルトに松明を持たせる。
それから馬車の中に置いてあった枯れ枝や薪の残りを引っ張り出し、少し離れた場所で組んで火を点ける体裁をとる。その中に松明を突っ込んで、焚き火を作った。
「……お前も、疲れてるだろ。もう眠るか」
「疲れました。……疲れましたが」
ヴァリンは焚き火の側に腰を下ろした。ユイルアルトは馬車の中に入らず、対面する場所に腰を下ろす。
「この状態で、眠れる気がしなくて」
「なんだ、もっと疲れるような事でもしたいのか」
「ふざけないでくださいね」
何処までも下世話な話ばかり持ち掛けて来るヴァリンに、棘のある言葉を返すのはこれで何回目だろうか。ヴァリンは喉奥で笑うような音を出しながら肩を震わせた。
「案外冗談でもないかも知れんぞ? ほら、この場所にはもう俺とお前しかいない」
「例え世界が崩壊して生存しているのが私とヴァリンさんだけになったとしてもご遠慮いたします」
「なんだ、つまらんな」
この男が本気で言っている訳でない事は、もう知っている。
向こうだって本気で言っていないのに、ともすれば誤解されるような事を口にする。
その軽薄さが、最初は嫌いだった。
今は別に、好きではないが嫌いではない。
「……疲れるような事を、と言ったのは本気だぞ」
本気ではない、と思っていた。
ユイルアルトの表情が、ヴァリンの一言で真顔に変わる。
「その意味合い、お前がどう想像したのかは知らんがな。どうした? 顔が赤いぞ」
「………こんなに暗くて顔が見えますか」
「見える見える、お前が無言になる時は大体表情が変わった時だからな」
「残念、赤くなんてありません。あまりな物言いに呆れただけですから」
手の上で遊ばれている感覚が面白くなくて、ユイルアルトが顔を背けた。
そんな姿を見ながら、ヴァリンが立ち上がる。疲労で固まってしまった体をほぐすように、その場で伸びをしながら。
「……少し散歩でもするか、ユイルアルト」
ヴァリンからのお誘いが掛けられたのは、これが初めてだ。
「……私はジャスじゃありませんよ。ましてや、ソルビットさんでも」
「知ってるよ。お前金髪だもんなぁ」
それはユイルアルトに掛けられる常の言葉。
何を言い出すのだと訝しむ姿を放って、ヴァリンが歩みを進める。
そして位置付いたのは、幌馬車の後方。
「俺がこんな村に、何しに来たと思う?」
「……私達の護衛じゃないんですか」
「半分は正解だ。でもな、俺には俺の目的があるんだ」
その中を覗きながら、ヴァリンが言った。
「付いて来い。散歩が終わって話が済めば、お前にも睡魔が訪れるかも知れんぞ」