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「ひ、っ………!」


 ユイルアルトとリエラが森を抜けて馬車に辿り着き、その幌の中に入った瞬間。

 リエラの口から悲鳴のような引き攣った声が漏れた。馬車の中に入ろうと足を引っかけて、そのまま止まっている。


「リエラさん……?」


 ユイルアルトが訝しんで、白衣の彼女に問い掛けた。馬車の中には悲鳴を上げるような異形は入っていない筈だ。置いてきた、今は不要な荷物ばかり。

 しかしリエラの視点がとある一か所に向いている事を察して、合点がいった。

 リエラの瞳が見ているものは、ヴァリンの荷物である箱だ。


「リエラさんも、この中身をご存じなのですね」

「『も』、という事は……ユイルアルトさんも……?」


 僅かな動きで頷いた。実際中身を知ったのは、感心されないような方法でヴァリンから聞いたからなのだけど。

 リエラは理解者が居る事に少しだけ安堵したらしい。


「……私は、王家のお側におりますもので。その箱に関わる顛末も知っています」


 リエラは恐る恐る馬車の中に入ると、それに続いてユイルアルトも続く。箱とはなるべく距離を取ろうと端による動きがどことなく小動物めいていて、年齢に見合わぬ可愛らしさがあった。

 ユイルアルトは脱ぐのを躊躇った。女性であるリエラを気遣って連れてきたはいいが、自分はジャスミン以外の誰かの前で肌を晒したことがない。かといって自分だけ脱がないのも気が引ける。

 どうしようか迷って、リエラとは違う隅に移動した所で彼女が自分から話しかけてきた。


「ソルビット様は、とてもお美しい方でした。国で一番の美貌を誇ると言われたほどに」

「国で一番?」

「それはもう。その美貌で傾いた国もあるくらいなんですよ。私とは随分年齢が離れていましたが、私が医師ですから少しだけ良く接していただきました」

「騎士と医師が?」

「騎士の仕事は生傷が絶えませんから。……尤も、生傷が絶えなかったのはソルビット様ではなく」


 リエラが晒した肌は、日に当たらない白色をしていた。少々肌に張りが無いのは年齢のせいか。

 村の人間の心を掴むのに、目に見える筋肉は要らない。彼女は見た目だけなら普通の中年女性だった。

 そんなリエラが突然黙り込んで、ユイルアルトが続きを促す。


「……なく?」

「………いえ」


 その言葉の先には誰の名前が出て来るのだろうか。ユイルアルトは待ったけれど、続きが出る事は無かった。


「戦争が、悪かったのです。思えば私の人生は色々と振り回されてばかりでしたが、私と同じくらい、或いはそれ以上に辛い思いをした方はいらっしゃると思います」

「……また『戦争』ですか」

「冒険者を傭兵として雇い入れられるこの国は、無理な徴兵を行う事をしませんでした。経済負担は掛かったでしょうけれど、武器に慣れぬ者を戦場へ投入する危険性を知っていたのです」

「……確かに、私の村でも志願兵募集の立て札は見ましたが徴兵はありませんでしたね」

「それが良かったのか悪かったのか、宮廷医師の私では答えを出すことは出来ません。……けれど」


 リエラが服を着込む。が、髪にまで染み付いてしまった香りはどうしようもなく、自分の短い髪を覆いをずらした鼻先まで近づけ、嗅いでから苦い顔をする。


「もう少しでも、戦力を増強出来ていたらあんな結末は迎えなかったかも知れません」

「結末って……。皆さんそうやって歯切れの悪い事ばかり言いますが、何があったんです」

「いえ、結果的にはアルセンの勝利で終わりました。……多大な犠牲を払って」

「犠牲とは……? 聞いた話では、『花』隊の隊長と副隊長が戦死したと」

「それなのです」


 リエラの視線が、ヴァリンの箱に向いた。


「その二人は、何があっても死んではいけなかった」

「……え、?」

「特に隊長であった女性は、……もし、あの方が生きてさえいてくれれば、きっと……」


 戦争が遺した傷痕を、ユイルアルトは深く知らない。けれど、痛切なリエラの言葉に背中の傷が疼いた気がして自分の腕を掴んで耐えた。

 そんなに大事に思われていた女性を奪った戦争。他の誰も深く語ろうとしない一面を聞けば聞くほど、ユイルアルトの胸に不思議な感覚が過った。


「……そんなに愛された人達なら、私も出会っていたなら仲良くなれましたかね」


 話にしか聞くことが出来ない女性の事なのに、なぜかそう思ってしまって零れた言葉。

 リエラはそれを聞いて目を丸くしていたが、口の覆いの下で笑った。


「きっと、そうでしょうね」


 ソルビットは故人となってから、ユイルアルトに気さくに話しかけてきた。だから、そんな彼女の上司である隊長の女性とも関われば仲良くなれた気がして。

 名も知らぬその隊長の事を少しだけ考えてみたが、もとより出会う事の無かったひとの話だ。頭を振ってその考えを押しやる。


「……ユイルアルトさんは、着替えないのですか?」


 自分だけ先に着替えたのを気まずく思ったのか、リエラが問いかけてきた。その一瞬だけ、ユイルアルトの肩が小さく震える。

 人に肌を見られるのは、未だに抵抗がある。唯一晒せるのはジャスミンの前だけだ、それは変わらない。けれど、この状態で自分だけ着替えないのは不自然極まりない。

 躊躇う指が、服の釦に掛かる。そしてひとつずつ外される留め具の奥から、肌が晒される。


「―――……」


 リエラが言葉を失った。胸を覆う下着、それが隠さない部分の素肌には肩にも腕にも腹にも、既に古くなった傷痕があった。

 切り傷、裂き傷、その痕は日常を安穏と過ごしていた者には有り得ないもの。リエラに正面を向けているユイルアルトが、自嘲気味に笑った。


「背中は、もっと酷いです。ご覧になりますか」

「……いえ」

「笑いますよね、ヴァリンさん。私の事も処女って、からかうみたいに一括りにしたんですよ。悪趣味ですよね、悪趣味すぎて」


 脱ぎ捨てた黒のワンピース。その中に隠されていた体の傷の理由を、ユイルアルトはジャスミンにも黙っていた。

 何があったかなんて、話したって過去は変わらない。話した相手に似たような苦しみがあれば、傷を舐め合う事は出来るのだけれど。

 そんな事はユイルアルトもジャスミンも望んでいなかった。必要以上に自分を語る事を避けてきた。思い出したくない過去があるのなら、思い出さなくていいと言い訳のように繰り返して。


 互いの都合のいいように過ごして来たその結果が、二人の間に生まれた溝だ。


「……悪趣味に悪趣味を返すのは、私の趣味ではなかったので何も言いませんでしたが。リエラさんからも言ってやってください、女の身の上話を聞くにはもう少し思いやりを持ってください、って」

「ユイルアルトさん、……私は、何があったかを聞いて良いのでしょうか」

「お聞きになります? ……話したくないって言ったら、それで終わってくださいますか」

「それは」


 リエラは、ユイルアルトの事を知らない。最低限の話は聞いているのだろう、あの酒場の住人であり医師であり薬草に詳しいという事くらいは。

 だからかも知れない。

 ユイルアルトが、口を開く気になったのは。

 自分の人となりを知らない、もう関わらないであろう相手に言うのは、知人に過去を話すよりも楽だ。


「アルセンの騎士を名乗る一団につけられたのですよ」

「き、し?」

「育ててくれた祖父も、共に育った姉も、住んでいた場所も、育てていた植物も、全部全部奪われて、命からがら逃げだした私に残ったのはこの傷くらいなものです。……ううん、傷だけじゃありません。私は、こんな体になっても生き続けるしかない地獄を用意されて」


 ジャスミンに言ったら、聞いてくれただろうか。


「私は、医者として、調合師として、そんな生き方しか知らなくて」


 彼女は聞いたらどう思っただろうか。


「この傷を忘れて生きるなんて出来なくて」


 何も言わずに聞いてくれて、それでもユイルアルトを受け入れてくれただろうか。


「……その後、村が疫病で滅んだって聞かされても。襲った騎士が騎士じゃなくて、ただの魔女狩りを模倣した狂信者だったなんて知っても。祖父の遺体は返ってこなくて、姉の所在さえ知れないで、私の心が癒されることも無くて、何を恨めば気が済むかなんて分からなくて、今でもこの傷が疼く度に、腸が煮えくり返るような思いを繰り返して」


 今、この話をしている相手がリエラであることに違和感を覚えているのはユイルアルトだけだ。

 心を許して、側に居たジャスミンは今はいなくて。

 彼女はこの話を一番に聞いてほしかった人の筈だった。


「生き残っただけで、私は、幸運だと思わなければいけないのでしょうか。生き続ける以上一生この傷が残るんです。死にたいなんて今更思わないけれど、この肌を誰かに晒すなんてきっとこの先も出来ない。何をされたか忘れることが出来ないんですもの。受けてから今の今までずっと続く苦しみを……ヴァリンさんも抱き続けている。そんな彼が未だに縋って手放せないものを、私は」


 ユイルアルトが述べる胸の内は、結局自分ひとりで抱えるのは難しいもので。

 誰でもいい、本当は聞いて欲しかった。

 一人で抱える重さを、分かち合いたかった人はいるけれど。


「……誰に何と言われても、捨ててやるなんてこと、出来なかった」


 ユイルアルトの視界の外に、ソルビットがいた。

 誰にも認識されないその姿は、俯いて自分の遺灰が入ったままの箱を見ている。


 ―――今しか無いんだ。お願い、捨てて。あたしの存在をあいつの未練ごと捨ててあげて


 ソルビットの懇願を、ユイルアルトは振り切った。


 ―――誰かから無理矢理手放されて、それで彼が救われるとは思わない

 ―――それでも! 今のヴァリンを見ていられない、もうあたしは死んだんだ。側に居ない女を思い続けてあいつに何の得があるの、前を見て生きていかなきゃいけないのはヴァリンなんだ

 ―――それを死人の貴女が強制しますか


 ユイルアルトがソルビットに向けたのは、怒りだった。


 ―――無責任にも程がありませんか。貴女の最期の形までもを、完全に喪ってからも前見て生き続けろというのですか。何の為に。自分を忘れて幸せになれというのですか。この先幸せになれるかも分からないのに。『生きてればいい事もある』なんて言いますけどね、それでいい事なんて何もなくて死んだ誰かだっているんですよ。死んでるからそんな話聞けないだけでね!!


 死者が生者の選択に口を出すのも許せない。

 死者が生者の気持ちを決めつけるのも許せない。

 ソルビットが見くびったヴァリンの想いは、彼にとってきっと、最後の心の支え。


 ―――……そう、分かったよ。ごめんね。イルに頼んだあたしが、馬鹿だった


 そう言ってユイルアルトの前から姿を消したソルビット。それからずっと姿を見せなくて、けれどユイルアルトは彼女がヴァリンの側から離れられないと知っていた。

 それはヴァリンの執着がそうさせているのか、それとも遺灰から離れられないのか分からなかったけれど。


 過去に縛り続けられることを、悪だと一方的に言われているようで許せなかった。


 忘れられたら忘れたいことだって自分にもある。それでも、忘れられないのは自分のせいじゃない。

 そしてそれを誰かに強制される謂れなんて無い。

 それがヴァリンに対して、彼にとっての痛みの元凶なら、尚更。


 ソルビットはユイルアルトに声を掛けることも無く、また姿を消した。



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