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 途端ユイルアルトに水が掛かる。


 ジャスミンがその場で洗濯中の川の水を引っかけてきたのだ。跳ね上がる飛沫は冷たく、二人の間を飛んでいった。

 わ、と反射的に顔を庇う。しかし庇った所で、髪から服までしっかりと濡れてしまった。頬を滑る冷たい雫は頭頂から頬に流れ、胸元に幾筋も垂れた。

 ジャスミンの表情は真っ赤に染まっていた。怒りからか、それとも羞恥からか。見返すユイルアルトの視線は、川の水と同じくらいに冷えきっている。


「……馬鹿にしないでよ、私がそんな子供みたいな事言う訳ないじゃない」

「そうですか」

「イルの事信じた私が悪かったわ。そうよね、どうせ他人だもん、意見が全部一致するなんて思ってなかった筈なのに」

「そうですか」

「でも、私がそんな考えでこんなこと言うなんて思われたくなかった」

「そうですか」

「そればっかり!!」


 激昂したジャスミンが声を荒げた。呆れるユイルアルトが、指先で流れる雫を掬って飛ばす。

 こんな事で簡単に動揺するような単純な女だとは思わなかった。鼻に違和感を覚えてくしゅん、とくしゃみをするが、ジャスミンの苛立ちはまだ収まらない。

 二人が喧嘩をする事なんて、今の今まで無かった。

 それは、ただ単に仲が良かったというだけではない。


 仲違いの原因になるような衝突を、互いに避けていたのだ。


「では何と言えば良いのですか? どう言えば満足しますか? 足元に跪いて許しを乞えばいいですか? ああ私が愚かでした、ご立派な意見をお持ちの先見の明に輝く偉大なジャスミン様! ……とでも」

「私を馬鹿にしてるの!?」

「それはすみません。ですがその言葉を使うのは大抵馬鹿ばかりなんですから、貴方が口にするのは控えた方がいいですよ? ……でないと」


 わざとらしく言葉を切ったユイルアルト。大きく息を吸い込んで、口許に下品なまでの嘲笑を浮かべて。


「私まで、馬鹿に見られてしまいますから」

「っ……!!?」


 一緒の部屋に暮らしていて、今まで互いのやる事が気に障ることなんて幾らでもあった。

 薬の調合を依頼されたら、早めに納品しておきたくて深夜まで仕事を続けるユイルアルト。

 口では嫌だと拒否していつつも、相棒が追い払うまでヴァリンに強く言わないジャスミン。

 先に起きたのなら起床準備して朝食を摂っていればいいのにと思うユイルアルト。

 先に起きても少しくらい起床を待ってくれてもいいのにと思っていたジャスミン。

 他にも不満は山ほどあった。けれど話し合う事を放棄して、互いに我慢ばかりした。


 ジャスミンの言ったように、二人は赤の他人だ。親兄弟でもなく血の繋がりなんてある訳なくて。たったここ三年程度の間に、同じ部屋で寝泊まりしている仕事仲間。それでも共依存のようになっていたのは、二人とも立場が似ていたから。


 二人とも、薬を扱う仕事をしていたが故に『魔女』と呼ばれて故郷を追われているのだ。 

 互いの肌を見せられるのは互いだけだった。触れられて嫌ではないのもそうだ。

 服の下に隠れた古い傷が、他人に触れられるだけで故郷から追われた時の記憶を呼び覚ましてしまうから。

 だから、頼れるのは互いだけ。もしどちらかがあの酒場の暮らしから脱落してしまえば、遺された方も同じように崩れ去ってしまうと感じていた。


 再びユイルアルトの頭と体に水が掛けられる。今度は腕で庇う事もせず、冷水の洗礼を涼しい顔で受けた。


「……イルって、いつもそう。私が慌てても涼しい顔して、いつも冷静で。そうやって私の事も馬鹿にしてたんでしょ」

「自主的に馬鹿になどしていませんよ。貴女が馬鹿に見られる態度を取っているだけです」

「ほら! そういう所よ!? 見られるって、誰によ! 見てるのイルだけじゃない!! イルが私を馬鹿にするんだ!!」

「そうですね、私しか見ていません。ですがこんなみっともない姿、他の誰かに見られたいってのなら話は変わりますね?」


 ユイルアルトには、ジャスミンが言われたくない事が手に取るように分かっていた。馬鹿にされる事や侮られる事を嫌う。以前外部から診察を頼まれた時には、ジャスミンの年齢と外見に小馬鹿にしたような患者がいて、それを手荒い治療と一番苦い薬で追い払っていた。

 彼女だって自分なりの矜持がある。その矜持は、仕事の腕を更に磨き上げる心強いものだ。その時にジャスミンの腕を疑うような事を言うのはは止めようと思っていた。

 その思いを、ユイルアルト自身が今裏切る。


「慌てるのは貴女が未熟で、自己肯定が出来ないからですよ。自信もない未熟な医者に、診て貰いたいと思う患者が何処に居ましょう? 自分に自信が無いからと、それを私がさも傲慢に振舞っているかのように言うのは止めて下さいませ。私がこれまで努力で培ってきたものを、そのように簡単に切り捨てられると流石の私でも怒ります」

「……私だって、私を軽んじられると許せなくなるのよ!」

「その原因が貴女にあると何度も申し上げているではありませんか。その耳は飾りですか? ゴミでも詰まっているなら掃除した方がいいですよ」

「原因って何! 私が悪いって言いたいの!? どうしてここまで言われなきゃならないの、私のことそんなに嫌いだったならもっと前に言ってよ!」


 その姿は本当に子供のようだった。

 自分の思い通りに行かないからと駄々を捏ねる、小さな子供。

 ジャスミンの喚く姿を、ユイルアルトは悲哀入り混じる視線で見ている。それがまたジャスミンの不興を買うのだけど。


 ジャスミンは悪くない。


 ユイルアルトはこのもどかしさを言葉に出来ない。


 知りすぎてしまった自分が、一番悪い。

 知っただけで、それを伝えることが出来ないユイルアルトが。


「話を好き嫌いにすり替えるのですか? ……本当、知識に見合わずお子様のようですね」


 言いたいのはこんな言葉じゃない。


「そういうイルは何処まで大人のつもりなの。私とそんなに年変わらないのに、それだけで私をどれだけ下に見れば気が済むの! 私が子供だったとしても、貴女の庇護下に入るなんてごめんだわ!!」

「そうですね。そして私もこんな大きな子供を庇護するなんてまっぴらごめんです」


 ユイルアルトは誰よりもジャスミンを尊重していた。だからこそ、自分の見て来たものだけを信じて喚き散らすジャスミンの姿を見たくなかった。

 願いは叶わない。


 二人の間に燻ぶっていた火種に、怒りの風が舞い込んだ。


「私だって貴女に庇護されるなんて死んでも嫌よっ!!」


 堪え切れなかった怒りをぶちまけて、ジャスミンが森の奥へと走って行ってしまった。

 森といっても多少は見通しが利く。無言で佇むユイルアルトの背後から、僅かに足音が聞こえた。音自体は一人分だが、声は二人分。


「フィヴィエル、お前が行け」


 それはヴァリンの声だった。返事も無く、足音が遠ざかる。

 ユイルアルトは息の音さえ立てないようにしていたが、やはりヴァリンは足音をさせないで近寄ってきた。

 姿は背後にあるまま。本当にヴァリンはそこにいるのか不安になってきた頃、その不安が杞憂だったと知る。 


「女同士の喧嘩って、鼓膜突いてきて不快だな。お前らさ、喧嘩か敵襲か分からなくなるから離れたところで言い合いするの止めないか」

「あらすみません、聞こえていらっしゃいました? まさか最初から覗いてらしたんではないでしょうね」

「覗きたくなるような肉付きになってから出直してこい」


 ヴァリンの憐れむような視線は主にユイルアルトの胸部に纏わりついた。あまりに酷い侮辱に握り拳を作る。

 それで本当に殴ってやろうか、とも思った。しかし、ヴァリンがここに残った事にふと不思議な感覚を覚える。


「……貴方がジャスを追わなくて良かったのですか」


 何故、此処に居る。

 ユイルアルトの瞳はそう語っていた。あれだけしつこく迫って、その度に邪険にされ、何度繰り返しても懲りなかった男なのに。

 視線が含む言葉に気付いた様子のヴァリンは、それまでユイルアルトに向けていた視線を僅かに逸らした。


「……俺は流石に空気を読むぞ。あんな状態のジャスミンに声掛けたら、あいつは激昂して何しでかすか分からんからな」

「その気遣い、普段からして頂けたらジャスミンがあそこまで貴方に拒否反応示すことも無かったように思うのですが」

「嫌がる反応が面白かったのは確かだ」

「下衆」


 再びユイルアルトの口から隠し切れない本音がポロリと出てしまう。

 苦笑を浮かべるヴァリンには、もう夕方の事でぎこちなくなっている気配は無かった。軽口も、普段通りとはいかないが聞こえている。


「……下衆でも構わんさ。俺の心は随分前に擦り切れてしまったからな。誰から何と言われても、何を思われても、もう昔のように胸が痛むことも無い」

「昔は痛んでいたのですか」

「そうだな、少しはな。……本当に少しだけだったかも知れん、俺の昔を語る奴はもう居ない」


 ヴァリンが肩から掛けていたマントを外す。それをユイルアルトの頭から掛けてやった。

 全身を覆われて、ユイルアルトが今の状況を思い出した。頭から体まで濡れている。急に寒気を感じてくしゃみを二回した。


「着替え、あるのか」

「……馬車に戻れば。それまでこのマント、お借りしていても良いですか」

「構わん、濡れたままでもいいから後で返せ。……明日からがお前たちの依頼の本番だってのに、風邪引かれたら敵わんからな」


 ヴァリンの声は優しかった。酒場にいた時でも滅多に聞かない、誰かを思いやる声だった。

 ユイルアルトはぶっきらぼうな口調に垣間見える心遣いに感謝しながら、瞼を伏せる。


 酒場にいる時からこれまでの間で、時折聞こえていた女の声は今は無い。


 この場にソルビットの姿は無かった。

 それに言い得ぬ罪悪感を覚えたユイルアルトは、黙ったまま馬車に向かう。




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