35
ジャスミンが外に出た時、外はすっかり夕闇の世界になっていた。じきに夜の帳に閉ざされるだろう村は、早いうちから中心に火が焚かれ始めている。
そこに村人たちは集まって、煮炊きの為の火を取って自宅へと運んだ。木片の先に布を巻いて、松明にして自宅へと運ぶのだ。
火の側にはフィヴィエルが居た。相変わらず村人に囲まれていて、両脇には荷物を抱えている。多分あれが補給品で、中身は保存食だろう。代金と引き換えとはいえ保存食を四人分譲れるほど裕福そうな村には見えないが、折しも春という季節が幸いしたのかも知れない。今からの季節は天候さえ崩れなければ野菜が良く育つ。
遠目から、ジャスミンはフィヴィエルを見ていた。
特別優れている訳ではない外見。
しかし騎士として確実な強さを持っている。
同時に、ジャスミンに対して一定の距離を保とうとする優しさを持っている。
……ヴァリンから呼び方を注意されても、すぐに殿下と口走ってしまうのは悪い面だろうが。
ジャスミンの視線に気付いたらしいフィヴィエルが視線を返してきた。
二人の視線が一瞬交じり合うが、反射的にジャスミンが顔を逸らしてしまう。
まだ打ち解けた訳じゃない。男性も騎士も嫌いだと彼に言い放ったジャスミンが、今更自分から彼と距離を縮めようとは思わなかった。
「戻りましょうか」
「……まだ、私はもう少しだけ用事があります」
フィヴィエルがゆっくりとした動作で、ジャスミンに帰還を促し少しだけ距離を縮める。まるで警戒した猫が逃げ出さないように、敵意は無いと知らせるような焦らない動きだった。
「用事? ……用事とは?」
「……補給品の中身って、なんですか」
そんな動きに絆された訳ではないけれど、ジャスミンは逃げない。
それどころか、自分から話を振った。
「中身? ……ああ、保存食と医療用品です。包帯に使える布も好意で譲ってもらえました」
「包帯?」
「こちらです」
そう言って彼が見せてきたのは、生成り色をした何重にも折られた広い布だ。織られた糸が均一に揃っていて、布目も細かい。火の灯りに照らされたそれを見ただけで、そこそこ値の張る物だと分かる。
あ、とジャスミンの口から声が漏れる。そして、ジャスミンが自らフィヴィエルに近付いた。
ユイルアルトと話し合ったものだ。調達出来たらしたいと思っていた物品。
「すみません、この布ってまだありますか」
ジャスミンが咄嗟に周囲の村人に向かって声を掛けた。最初に反応したのはイフソーよりも若い婦人だった。
「どうされました?」
「申し訳ないのですが、この布があるならもう少し分けていただきたいのです。出来たら、紐があれば一緒に」
「はぁ……。あるにはありますが、紐もとは……何に使うんですか?」
「ジャスミンさん、もしかして足りませんか? あちらで怪我人が出たという話は聞いていませんが……」
婦人とフィヴィエルが同時に質問を投げてくる。それに答える言葉は一つで充分だった。
「私は医者です。今から向かう地に、この布が必要になるんです」
「医者……お医者様でいらしたのですか?」
婦人の声は驚いたようなものだ。
それもそうだろう。イフソーが二人の仲を勘ぐったのだ、他の者だって邪推していてもおかしくない。
けれど今侮られるのは不快でしかない。ジャスミンはジャスミンとして、自分がしなければいけない事をするだけだ。
「見たところ、大変質のいい生地と見受けました。これほどのものであるなら、城下でも高値がつくでしょうね?」
「ありがとうございます、確かに城下では高値で売買をさせていただいてますが……ですが、それほど量が必要になるのでしたら、安価な布もございますよ? 何しろ」
婦人が自信ありげに胸を張る。
「この布の産地はこの村でございますから!」
「……ここが、産地?」
「この村の一番の自慢は綿花と紡績、織物です。国王陛下にも献上したことがあるんですよ!」
胸を張るだけの価値が、その布にはあった。
「お願いです、譲ってください。お幾ら支払えばいいでしょうか?」
「ちょ、ちょっとお待ちくださいね。……あんた! ちょっとあんた!!」
婦人が大声で誰かを呼ぶ。その声に小走りで駆け寄ってきたのは一人の中年男性だった。二人は何事かこそこそと少し話したあと、改めてジャスミンに向き直る。
「質次第になりますが、一番高いのはそちらと同じ大きさで金貨二十になりますが―――」
「二十……」
「頂きます」
フィヴィエルが気後れしたように復唱した、次の瞬間にはジャスミンの回答が出ていた。かなりの大金だが、ジャスミンは既に荷物の中を漁っている。
そして出されたジャスミンの手の中に、二十五枚の金貨が入っていた。それをまるまる婦人に渡したジャスミン。目の前で大きい金額が動いているのを見て、フィヴィエルが驚きの視線を向けている。
「あと紐もあればお願いします。出来れば急いで」
「……お代が多いようですが」
「紐代と心付けです。質のいいものを譲って貰うんですから、対価として受け取ってください」
「そんな、こんなには頂けませ―――」
「人の命が掛かってるかも知れないんです」
余剰分を返そうとした婦人の手を押し返す。
「この金額で、人の命を救う手助けをしてください」
「………ひとの、いのち?」
「もしかしたら、この先この布がもっと必要になるかも知れません。こんなに均一で粗の少ない布は珍しいです。質の良いものには相応しい対価が払われるべきなんです」
ジャスミンの言葉は、近くにいた村人達の耳に届いている。その意図は伝わっただろうか。
もしかしたら若い女であるジャスミンの事を、生意気に思った者がいるかもしれない。けれど何かを感じ取ってくれる者がいたら、それでいいと信じて。
「急いで頂きたいんです。これから少し、手を加えないといけないので」
「は……、はいっ」
婦人が駆け出す。手に持った金貨が零れ落ちないようにしながら走って小屋に入って行った。
そんなジャスミンに心配そうに視線を向けたのはフィヴィエルだった。ほんの少しだけ距離を縮めたが、五歩ほど離れた場所で足を止める。
「良かったのですか? 一番高い布という話でしたが、何に使うか分からないですけれど、そんな高価なものを購入など」
「……貴方は、戦場に行くとき、普段着と一流の防具屋が用意した甲冑とどちらを着て行きますか」
「………それは、……やはり、甲冑ですが」
「同じことです」
フィヴィエルにとっての戦場は、他人と争う場所だ。
けれどジャスミンにとってのそれは違う。怪我や病で苦しむ者に、医術で救いの手を差し伸べる事。
「自分の身を守る防具は、その強度があればあるほどいい。ただの布と思われるかも知れませんが、その布で何が防げるか……こればかりは、知らない方がいいんでしょうけれど」
ジャスミンの言葉は頓知のようだった。畑違いのフィヴィエルには、それが何を表しているかを理解出来ていない。自分の手元にある布とジャスミンを交互に眺めて、何も思いつかなくてその布を荷物入れの中に仕舞う。
それまで二人は関りが極端に少なかった。馬車で移動している四人の中では一番接点が無い。
フィヴィエルの目から見たジャスミンは、ただの一般女性にしか見えなかった。けれど、『ひとのいのち』を語る時の彼女の眼はそれまでの姿とは大きく掛け離れていて。
「フィヴィエルさんにも、手伝って貰いますから」
強気の口調で言い切ったその茶髪の女性の姿が、ほんの一瞬だけ彼女でなくなった気がした。
はい、と、掠れた声で返事をする頃、婦人がジャスミンの元へと布と紐を持って来る。
それらを吟味したジャスミンが、礼を言うと同時に頭を下げた。その後周囲を見渡して、改めて礼を言ってから踵を返す。
「今夜はちょっと忙しくなりますよ」
「どうしてですか?」
もう、ジャスミンは馬車に戻る事しか考えていない。
これから待つものがなんであれ、自分に出来る事の中でも最善を尽くす為に。
最善を尽くそうとした騎士が近くに居る。人を救おうとした騎士が、こんなに側に居る。
そんな彼を怖がっているだけではいられなかった。彼を肩書と性別だけで拒否する自分は、彼より秀でた人間とは言えない。
「これで作りたいものがあるんです。……命に関わりますから、気合を入れてくださいね」
人を信じてみようと思ったのは、ユイルアルトに出逢って以来の事だった。
今はまだ、少し怖い。
その心中を見透かしてか、フィヴィエルが必要以上に側に寄る事はしない。
けれどジャスミンは、その距離が何故か心地良いと感じていた。
「……あれ?」
馬車に戻ったジャスミンとフィヴィエルは、後方の目隠しを避けた時に違和感を覚えた。
中にはユイルアルトが座り込んでいる。幌に背を預けて、微睡むように目を閉じていた。
「……おかえりなさい」
目を開けたユイルアルトは、灯りも無い馬車の中で二人を迎える挨拶を口にする。
荷物を中に入れるため上がり込んだジャスミンは、一人足りない事に気づく。
「ヴァリンさんは?」
「彼なら少し前に出て行って、戻って来ていませんよ」
「そう、なの」
ジャスミンの声には僅か安堵が見えるようだった。彼を苦手にしているから仕方のない事だが、ユイルアルトはそれに少し不快感を覚える。ちり、と胸に過る痛みの出所が分からずに動揺したのもユイルアルトだ。
「探しに行ってみます。何をするにしても、あの方が居ない事には何も出来ませんから」
「お願いします」
フィヴィエルの言葉に返答したのもジャスミンだった。あれ、と、また不快感が過った。これまでそんな風に言葉を交わしている二人を、これまで見た事が無かったから。
フィヴィエルは荷物を下ろしてそのまま行ってしまう。ジャスミンは馬車前方に調達してきた荷物を広げながら、ユイルアルトに振り向いた。
「話した布、良いのが調達できたわよ」
「……そう」
「フィヴィエルさんにも手伝いをお願いしたけど、ヴァリンさんも出来るなら手伝って貰いましょうね」
明らかに、ジャスミンの様子が違う。
ここまで気軽に男の名前を出すようなジャスミンでは無かった筈だ。その事自体に文句は無かったけれど、村で何かあったのかと思わずにはいられなくて。
「……ジャス、機嫌いいですね」
「そう?」
「フィヴィエルさんと何かありましたか」
「は!?」
『ちょっと待って』
『なんでそんな事』
『そんな訳無いでしょ』
恐らくは声に出ていたとしたならそう聞こえていただろう吐息が漏れる。唇も震えて、ユイルアルトの発言があながち間違いではないのだろうな、というのが分かる。
「……はいはい、すみませんすみません。さて作業でも始めましょうか?」
「………もう、イルってば」
ヴァリンが戻るまで、作業は続けられそうだった。近くにあったカンテラに火を点して、ユイルアルトも布を見る。
確かに上質だ。だが、ユイルアルトの感想はそれで終わりだ。ジャスミンが先に用意してくれた鋏を手に取ると、それで一気に切り裂いていく。
「あー!!?」
「さー、作りましょうねー。何個あればいいですかね、何枚重ねにします?」
「イル、ちょっとイル! こんな綺麗な生地、城下の店でも滅多にないわよ!? もうちょっと目で楽しむとか」
「無いです。早く作らないと今日は眠れませんよ?」
布生地も、紐も、十人程度は軽く作れそうだ。それで足りる訳も無いだろうが、ジャスミンはフィヴィエルの持ってきた荷物の中に追加分があると知っている。
暫く鋏が布を裂く音ばかりが聞こえ、時折二人が話しながら笑い合う声が辺りに届いた。
傍目から見ていれば、仲のいい友人同士だ。
ユイルアルトの心の中の違和感は、夜の闇に覆われて見えなくなっているが。