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「……初めにこれだけ言っておきます。なるべく近寄らないで」
村の中に今から入るという状況になって、ジャスミンがフィヴィエルに冷たく言い捨てた。
馬車からは既に数歩ほど離れていて、それから更に二人の間にそれ以上の距離が開いている。露骨なまでに避けられているフィヴィエルは流石に不遇に唇を歪める。
幌馬車の中でもここまで距離を開けられていなかったのに、と、言いそうになったフィヴィエルの視線がジャスミンの指先を見て止まる。
「……私、男の人が、そして『騎士』が、怖いんです」
―――震えていた。
酒場を出発してからこれまで、殆どの時間ジャスミンの側にはユイルアルトがいた。完全な別行動は今が初めてだ。
それはフィヴィエルとしては、二人が仲が良いからだと単純に思っていた。女性は女性と群れるものだと、同隊の騎士が言っていたのを聞いた事もある。
男女の性差は、種族間の差と同じくらいにどうしようもない事だ。女性というだけで危険な目に遭う事も少なくないのだ、フィヴィエルは他の騎士の失礼な物言いに納得は行かずとも理解はできる。複数人でいるだけで保たれる安全もあると知っているから。
けれど、医者二人のそれはどうも違うようだ、と感じ取る。
「……僕は、女性に手荒な真似はしませんよ」
ジャスミンに向かって、苦笑を向けるフィヴィエル。
その時ジャスミンは、この年若い騎士の一人称が『僕』である事に初めて気づいた。
恐る恐るフィヴィエルに視線を向ける。彼は男性だが、どちらかというと中性的で、ヴァリンが居ない所では凛々しさよりも穏やかさを感じさせている。
「けれど貴女が危険な目に遭う時は、その限りではないと許していただけますか? ……一応、僕も護衛任務に就いているので」
ジャスミンに向ける言葉選びは紳士的で、初対面時のユイルアルトの口調に対する高圧的な姿は見えない。
それだけで、少しは恐怖に震える心が和らぐ。言えば分かってくれる種類の男なのだと分かったから。
「………いえ」
ジャスミンの口から最初に出てきたのが否定形で、フィヴィエルが目を丸くした。けれど、その表情はすぐに解れる。
「その時は。……こちらからも、お願いします」
「承知しました」
ジャスミンの男性に対する態度が酒場に来た当初より軟化したのは、これまで散々酒場でヴァリンからの仕打ちに耐えていたせいかもしれない。男性なのに男性特有の空気をあまり感じさせない、自分を拾ってくれた命の恩人であるマスター・ディルの存在もあるだろう。
そして何より、自分が男と言うだけで拒絶されていると分かっていても、事情を何も聞かないでいてくれるのが有難かった。
二人は距離を開きつつも、一緒に村に入る。点在する小屋のような民家と、広がる野菜畑。時折家畜の泣き声も聞こえて、人が生きている空間であることに安堵した。
やがて村人の姿が見えた。地面に置くと腰ほどまである大きな籠を手に持っているのは、頭に麦藁帽子を被っている中年の女性だ。フィヴィエルが声を掛けようと近寄る前に、村人が声を上げる。
「―――フィヴィエル様!!」
村人が彼の名前を知っていることに、ジャスミンが驚いた。駆け寄るその女性は麦藁帽子をその場に放り投げ、フィヴィエルの元へ一直線。女性の声に釣られたのか、民家から村人が次々と姿を現した。
村人達の口から上るのは、この青髪の騎士の名前だ。あっという間にフィヴィエルは囲まれてしまった。
「またお越しくださるなんて思わなかったです! 何もおもてなしの用意してないのに、来るなら連絡のひとつでも頂ければ……!」
「突発的な任務なので、ご連絡する時間もありませんでした。僕が来てもご迷惑になるだけかとも思いましたし」
「そんな! フィヴィエル様達をご迷惑だなんて思う訳がありませんよ!」
村人達の表情は笑顔と困惑が入り混じったものだ。少し離れているとはいえ、同行者であると見破られてしまったジャスミンは好奇の視線に晒されている。
村総出で慕っている騎士が女を連れてきたのだ、興味が湧くのは当然の事だ。
けれどジャスミンはそれどころじゃない。不躾に見て来る視線の中には、勿論男のそれもある。青褪めた顔で震える事しか出来なくなってしまって、無意識に顔が俯く。
「すみません、女性の方は彼女を落ち着ける場所に案内していただけませんか?」
申し出はフィヴィエルの口から齎された救いの言葉だ。
「少し急ぎで馬車を走らせていたので、疲れてしまったようです。温かい飲み物などを頂けると助かります。あと、代金はお支払いしますので補給もさせて貰えると」
「まぁまぁ、そうだったんですね。お待ちください、足湯もご用意いたしましょうね。さ、こちらへどうぞ」
「え……はい」
老婆がフィヴィエルの言葉を聞き届け、ジャスミンの側に寄りにこやかに手を取る。僅かな震えは、きっと老婆にも伝わっていただろうが彼女は何も言わなかった。
それから女性数人とジャスミンが村の奥に入って行くのを、フィヴィエルは視線で見送った。
旅の補給くらいだったらフィヴィエル一人でも出来る。けれど、ひとまず集まって来た村人をいなすのが先立った。
「こんな辺鄙な村ですから、特に目を楽しませられるようなものも無くてすみませんねぇ」
「そんな事ありません。ずっと馬車の中に居ると気が滅入ってしまいそうでしたから、お邪魔した上にこんなに良くしてもらって……ありがとうございます」
老婆が用意し案内されるそのままに木桶に張られた湯に足を浸け、ジャスミンが白湯を口に含んだ。言っては悪いが、田舎特有の無駄なものが無い空間が心を落ち着かせている。車輪が回って床が揺れる馬車の感覚も無く、揺れない地面の有難さを噛みしめた。
足湯の温度は最適だった。その中に浮かぶ乾燥させた薬草の香りがとても安心できる。見た事ない薬草だな、とジャスミンが興味を引かれた。
「……フィヴィエルさんは、随分慕われているんですね」
薬草がまるで紅茶葉のように湯の動きに従って漂うのを見ながら、老婆に問いかけてみた。フィヴィエルに対する村人達の感情は、自分が彼に抱いているそれとは大きく掛け離れていて、不愉快ではないが違和感を覚えたから。
老婆は更に追加の湯を用意している所だった。鍋を手に持ちながら微笑みかける。
「それはもう。命の恩人ですから」
「恩人……?」
「昨年の秋でした。この辺を荒らしまわっていた山賊が、この村にも出たんですよ」
桶に追加される足湯は、今までのものより少しだけ熱い。けれどそれがまたジャスミンの疲れを癒していく。僅かに飛び散る雫が、ジャスミンの脹脛を濡らした。
「それはもう、酷い有様でした。戦える男は皆出払って、女達は家の中に。それで私の息子は死んでしまったけれど、騎士様達の到着は皆が殺される前に間に合ってくれて。……山賊二十人に対して、騎士様は三人」
「三人!?」
「少ない、と思いますか?」
老婆はジャスミンの瞳を見ながら微笑んだ。
「……僅か一時間でした。騎士様達は馬に乗り、駆け、剣を振るい。周囲は血で塗れていたのに、そこに山賊達の血を上塗りしていきました」
「二十人を……三人で、一時間で?」
「騎士様達のお力はそれほどのものだったのでしょうね。静かになった村で、騎士様達は……私共の身の心配をしてくださいました。傷を負ってらしたようには見えず、そのまま村の壊された柵や畑の修復を手伝っていただけて……一日もいらっしゃらなかったのですが、それでも、私達は騎士様達に救われたのです」
「……騎士様達って」
「フィヴィエル様、デイボス様、カイノン様のお三方です。『鳥』の騎兵第四部隊所属と伺っています。あの中ではフィヴィエル様が一番お若かったですね」
騎士が所属する部隊についてはフィヴィエルから聞いてるから理解は出来た。符号である『鳥』に関しても、彼が所属していると知っている。
なんとなく理解出来るようになっただけでも、深夜の話は聞いていて良かったと思った。
「……私、騎士の詳しい話はつい最近まで知らなかったんです。戦争の話も……聞いた事あるけれど、住んでいた村ではそんなこと殆ど関係なくて」
「そうですか……。……ええと、」
「ジャスミンと言います」
そこで漸く、ジャスミンは名乗った。老婆は「あらまぁ」とほほ笑む。花の名前ですね、と付け加えたその笑顔は穏やかだ。
鍋を片付けた老婆はジャスミンの側に腰を下ろすと、足を湯から引き上げてから布巾で丁寧に拭いていく。触れる時に何も言われずにいたから、ジャスミンはその光景に目を剥いた。
「そ、そんなことまでしなくても!」
「いいんですよぉ、お気になさらず。長旅でお疲れでしょう、今日はお泊りですか?」
「……いえ、その、馬車の中にまだ……同行者がいるので。多分、補給を済ませたら戻ると思います……」
「あらあら」
拭き上げる手付きは優しい。まるで風呂上がりの孫の体を拭く祖母のように。
そんな老婆は微笑みを讃えた表情で、ジャスミンの足先からに顔を向けた。
「そうですか、同行者の方がいらっしゃったんですね。私はてっきり、フィヴィエル様とジャスミン様の二人きりでのお忍びの旅かと……」
「へ」
「そうですか、そうですか。……いえ、こう言っては何ですが、少し残念ですねぇ」
「なっ……にを!!」
ジャスミンの顔は僅かだが朱が差している。ころころと笑う老婆が足を拭き上げ、靴を側に揃えて置かれた。それに大人しく足を差し入れて立ち上がると、茶色の髪が激しく左右に振り乱れる程首を横に振る。
「お忍びだなんて! そんな事、私はっ」
「いいのですいいのです、違うと仰られるのならそうなのでしょう。見た目通りの老婆心が働いてしまいまして、すみませんねぇ」
口先だけの謝罪は聞こえるが、老婆はまだ笑っている。なんとなく気分が落ち着かない。フィヴィエルと距離を空けて歩いていたというのに、そんな風に勘繰られる事にくすぐったささえ覚えた。
老婆はそれまでジャスミンが手にしていた白湯が入っていた器を受け取り、炊事場まで持って行く。その背中がとても小さく見えて、なんとも言えぬ郷愁を覚えた。祖母という存在の記憶が無いジャスミンだったが、家族の記憶はあったから。
ジャスミンがここまで献身を受けるのは、酒場に身を寄せてからは初めてだ。
だからかも知れない。先程この老婆から聞いた、息子は死んでしまった、という一文が気になってしまった。
「……失礼ですが、……ええと」
「イフソーと言います、ジャスミンさん」
「……イフソー、さん。その、ご家族の方は、他には」
家族と死別する苦しみも、ジャスミンは知っている。
「……死んだ息子の奥さんと、孫が二人います。まぁまぁ、こんな老いぼれの事を案じて下さったのですか?」
「死に別れた私の家族の事を……思い出してしまったので」
「………それは……」
イフソーと名乗った老婆は、ジャスミンの短い言葉にその苦痛を感じ取ってしまったらしい。イフソーから見れば、目の前の医者はただ若いだけの女だ。その身に命じられた任務など知らない老婆は、やはりそれ以上聞かない。
代わりに労わるような微笑みを見せて、再びジャスミンの側に寄る。
「……本当にお疲れのようですね。すみません、私の事情など話す必要はありませんでした」
「そんな、こと」
「さ、そろそろフィヴィエル様も御用事が終わられたでしょう。あまり遅くなると心配をかけてしまいます」
イフソーが無理矢理にでも話を変えた理由は、幾ら人と関わる事を放棄していたジャスミンでも分かる。同時に、イフソーに気を遣わせてしまった事に自己嫌悪し始める。
違うのだ。そんな風に気を遣わせたかった訳ではない。
ただ、家族と死に別れる経験があるジャスミンだから、その苦痛が深いものであると知っていて。
だから、今でもイフソーが苦しんでいないのか、気になっただけで。
ジャスミンは医者だ。
少々の怪我をすれば治療が出来る。
体調を崩せば薬を出せる。
けれど、誰かの心の傷に寄り添う方法までは知らなかった。