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「……お前に何が分かる?」
首の皮一枚を突き刺したレイピアが、それ以上奥へ進む事は無かった。
けれどヴァリンはユイルアルトが少しでも動いたら殺すつもりだったし、ユイルアルトは動く気は無かった。ヴァリンが怒りに駆られて自分を殺す時は、何も言わずに心臓を刺し貫くと思っていたからだ。
「あいつは俺に余計な事を教えた癖に、俺の全てを滅茶苦茶にして、俺に黙ってこの世から先にあっちへ逝った馬鹿女だ。奔放だったあいつは、灰になってしか俺の傍に来ることは無かった」
「……灰……。あの箱には、火葬した後の灰を詰めているのですか」
ジャスミンの考えは正しかった。あの中は貴金属などという重いものではない。灰になった体は、生前のそれよりも遥かに軽くなる事を知っていた。
中身よりも、きっと、そこに籠められた想いの方がきっと重い。
執着していたのはソルビットではない。
その遺灰さえ傍から離さないようにしていたヴァリンの方だった。
亡骸の灰などという荷物を、こんな護衛任務にさえも持ってくる理由がまだはっきりとしていない。こればかりは、『好き』を否定した本人の口から言わせたかった。
「部分部分は戦場で欠損したが、それ以外ならほぼ全てがあの中にある。俺のソルだ。俺だけの女だ。もう二度と黙って離れていかない。俺の知らない所で居なくなったりしない。もう何処にも行かない。望める最大限が今叶っている、それだけで俺は充分だ」
欠損、と言われて彼女の指を思い出した。確かに手から指は数本無くなっていたし、抉られて無くなった肉もある。『宝石』とまで呼ばれた彼女の生前の姿は知らないが、自分で今の姿を厭うくらいには美しい女だったのだろうというのも分かる。
「……やめてよ、イル。もう止めて。止めさせてよ。聞きたくない、ヴァリンの言う事なんて」
顔を覆ったままのソルビットに、視線を向けるだけで何も答えることが出来ない。
『あいつも好きだとか愛してるとか、そんな腑抜けた事をあたしに抜かした事は無い』
ソルビットの言葉を思い出す。その言葉は、今のヴァリンの表情を見て『あいつ』が示す当人とはどうしても思えなかった。
言葉の端々に見えるソルビットへの想いは、六年が経とうとしているのに彼の中で色褪せていないのだ。
「『好き』だなんて、そんな生温い感情な訳あるか。ソルもあのクソ女も、お前だって、俺達の気持ちも知らないで簡単に言いやがって。どんだけ見てたと思ってる。どんだけ欲しかったって思ってる。俺は」
「……聞きたくない」
「俺は、ソルの為に」
「聞きたくないっ!!」
ソルビットの叫びを聞けないヴァリンは、言葉を紡ぐのを止めない。
二人の声をちゃんと聞けているのは、ユイルアルトだけだ。
「王位継承権さえ捨てたってのに、あいつは俺を選ばず死んだんだ」
「―――え」
そこで漸く、ユイルアルトから声が漏れた。
アールヴァリンという存在は、ユイルアルトの耳にも次期国王として聞いていた。国王陛下の嫡男として、騎士としても活躍する王子。それが、彼の評価のはずだ。
ヴァリンはそんなユイルアルトの心の内さえ察して続ける。
「あいつは貴族の落胤で、立場が複雑だった。あいつを次期王妃として迎える事は出来ないと父である陛下からは言われたよ。……だから俺は、それだったら王位継承権なんていらないと思った。全部捨ててでも、あいつが欲しかった。王室を離れて一般の世に下ったとしても、俺は、あいつと……、なのに」
ヴァリンの口許に浮かぶのは、自嘲と自棄が入り混じった笑み。
「あいつが居なくなったら、俺には何にも残らなかったじゃないか。こんな馬鹿な話、他にあるかってんだよ。なぁ」
そうなって漸く、ユイルアルトの脳内で警鐘が鳴り響く。自棄になった者の理性は容易く崩壊する。今喉元に突き立てられているレイピアが、そのまま気道をひとつ増やしてもおかしくは無かった。寧ろ、その状態になってまで落ち着いていられた今の状態が不思議だったのだ。
危険。殺される。ユイルアルトの脳裏にはその言葉しか浮かばなくなって。でも。
ユイルアルトの視界の端に、生きていたら泣いていただろう程に表情を歪めているソルビットがいた。
顔を覆っている筈の手は解かれて、ヴァリンに寄り添う。赤黒い傷からは血が流れる事は無いけれど、その唇からは苦痛に満ちた声が漏れている。
「いわないで」
ソルビットの声が震えている。
「やめて、言わせないでよ。言わなかったらあたし達は一線を保ったままいられた。あたしは騎士で、ヴァリンは王子で、それだけで、あたしはヴァリンに忠誠だけを捧げられてたのに、もう、こんな」
幽霊は、涙を流さない。
「声が届かないようになった今更、聞きたくなかったよ」
此岸と彼岸に分かたれた、王子と騎士。
ユイルアルトはその中間に立っていても、二人の手を繋ぎ合わせてやる事が出来ない。
「……ソルビットさんの話を最初に私にしたのは、マスターでもミュゼさんでも、ありません」
ヴァリンのレイピアを握る手に、迷いはなさそうだった。ユイルアルトが下手な事を言おうものなら、その切っ先は喉を刺し貫いてしまう。
殺される、と思った。
けれど、彼はユイルアルトの言葉を待っていて。
その躊躇いに、金色の睫毛が伏せられた。
「落胤だから、何だと言うのです。もし彼女が貴族の正式な娘だったとして、立場が複雑じゃなかったとして。貴方は彼女を側に置きましたか。彼女が落胤だから目を掛けた訳ではないでしょう」
「……何が言いたい」
「ソルビットさんが違う名を与えられ、違う生を謳歌して、もしかしたら別の生き方をしていたとしても。それで出逢って、正妃にと望んでも」
自分の死さえ怖くないと思える程に、ヴァリンに苛立ちが募っている。
王子でも副マスターでも、ここまで心中を吐露するヴァリンは『普通の男』だ。
「……無理ですね。好きだと、一回でも、惚れた女の生きている間に言う事が出来なかった貴方は何が変わろうと永遠にそのままです」
強がりの殻を、種子のように剥いてしまったヴァリンの中身は弱くて脆くて、ユイルアルトよりも女々しい。
そうやって生まれについての不平不満を垂れ流しているうちは、筋力で勝っても心は負けない自信があった。
「っ……貴様!」
「イル!!!」
レイピアの切っ先が持ち上がる。光るその先端が、狙い定める先を下に移動した。
あ、とユイルアルトの口から声が漏れる。
その先は、心臓だ。
叫ぶソルビットの声が聞こえた。けれど。
「………そんな事、分かってるんだよ」
いつまでも、その切っ先が心臓を貫く事はない。
「俺が、一度でも、言えてたら、変わったか。あいつはあの馬鹿女より、俺を選んだか。今でも、生きて、側にいて、俺だけを、……っ」
心臓の代わりとばかりに、音を立ててレイピアがユイルアルトの顔の真横を刺し貫いた。穿たれた木張りの床は、レイピアの切っ先を受け入れて穴を開ける。強い力が掛けられている筈のレイピアの剣先には、僅かな歪みも見られない。
「……何回も言わせるな。『好き』なんて言葉、あいつには言う気は無かった。今もしこの場に生きて居たとしても、絶対言ってやらん!」
その姿は駄々をこねた幼児のようだ。荒々しく立ち上がりレイピアを引き抜くと、苛立ちのままに足音を立てて馬車を下りていく。
ユイルアルトは、立てなかった。剣が引き抜かれて、ヴァリンさえもういないというのに今更恐怖が全身に押し寄せて、腰も膝も手の先も震えている。自分の生を確かめたくて、切っ先を突き付けられていた首元に触れると皮膚が切れているような僅かな痛みがあった。指先を見て確認したが、血さえついていないようなほんの僅かな傷。
は、と、吐息が漏れた。それは生者の口から零れた音だ。
「……『好き』じゃなかったんなら、何だったんだよ」
声が聞こえて、頭が正気を取り戻す。ここ数日聞き慣れた死者の声だ。
その声は喉奥から絞り出されたような苦痛を帯びて、でも親愛を感じさせる声で、ユイルアルトにしか聞こえない言葉を紡ぐ。
その方角を向くと、ソルビットはもう顔を隠すこともせず視線を受け止めた。ユイルアルトにも、もう恐怖は無い。
「言わないなら、聞きたくなかった。知ってたけど、聞かなかった。あたしの事どう思ってたかなんて、分かり易すぎて逆に聞けなかった。……聞けるわけないじゃん、仮にもあいつは王子だよ」
「………そうして怖気づいてたから、彼の心が頑なになったのではないですか」
「仕方ないじゃん、あたしはっ……」
「分かっていた癖に」
ヴァリンが、ソルビットをどう想っているか。
蚊帳の外であるユイルアルトだって分かる感情だ。馬鹿みたいに取り繕った言葉は、穴だらけで向こう側が透けて見える。そうして見えたヴァリンは、傷を抱えて震えている弱い男だ。
何のせい。誰のせい。その問いかけはもう無駄な事で。
「貴女が、選択を間違えたんですよ。ソルビットさん」
突き放すような、見下げるような、ユイルアルトの声が冷たく幌馬車の中に溶けて消えた。ソルビットの傷だらけの唇は、噛みしめられて開かれない。
震えが徐々に消えてきて、ゆっくり上半身だけを起き上がらせたその瞳に、馬車の中の荷物が映った。
―――ヴァリンの荷物。中身は、ソルビットの遺灰。
「………その尻拭いを、私にさせようとする貴女は本当に」
『好き』じゃない、と。
そんな言葉では生温いと言った彼の執着先。
彼女を未だに想い続けて、今でも側に居たいと願い続ける彼が、唯一手に入れる事が出来たそれを。
捨てろ、と。
彼女は言った。
「大馬鹿者ですね」
ユイルアルトは緩慢な動作で立ち上がり、その荷物に一歩ずつ、ゆっくりと歩み寄る。
今なら簡単に捨てられる。その後の事を気にしなければ、こんなに都合のいい機会は無い。
ソルビットは、何も言わなかった。捨ててくれと言ったのは彼女の口から、今は何も出てこない。金色の髪が歩く度に揺れるのを見ながら、顔を逸らさない。
馬車の中の重苦しい空間で言葉もなく、その手が伸ばされた。