32
それから夕暮れになるまでに、村へ辿り着くことが出来た。沈み始めた太陽は、早い時間から村に光を届ける仕事を放棄する。
村の外れに止めた馬車。ヴァリンはまだ無言で俯いていて、眠っているらしい。
馬車を下りる準備をしたジャスミンだが、なかなか立ち上がらないユイルアルトの方を気にして顔を向ける。すると。
「私が馬車見てますから、行って来ていいですよ」
彼女が放った言葉に、ジャスミンが固まってしまった。
なんで、どうして、一緒に、と言いかけたジャスミンの耳に、無慈悲な言葉が掛かる。
「じゃあジャスミンがヴァリンさんとこの馬車で留守番します?」
そう言われてしまえば、ジャスミンはフィヴィエルと行動するしかなかった。ヴァリンと二人きりで馬車の中に居るなんて、胃への負担が洒落にならない。
村に行くにしても初めて訪れる村に一人ですんなり村人と交流できるような社交術は持っていない。それでなくともここ三年ほどは酒場に殆ど引き籠っていたのだ。ユイルアルトの方が人との接し方に長けているが、どんぐりの背比べといった所だ。それに、何故かユイルアルトは留守番をする気満々なのだ。
そうなると、ジャスミンはフィヴィエルと村に行くしかなくなる。
「ご安心ください、僕は少しならこの村の事を知っていますから」
「………よろしくお願いします」
同行するフィヴィエルの言葉に返事をする声も、少し棘が残っている。それでも無視したりしないのは、ヴァリンの傲慢ともいえる仕打ちを受けた彼を見てしまったからだろう。
ユイルアルトはその二人が村の中に向かうのを、御者席側から手を振って見送った。馬車先頭の馬も、ぶるると声を出して尻尾を振る。
「……俺を随分と体良く人払いに使うんだな」
ユイルアルトの後方から声が聞こえてきたのは、その時だ。
「やっぱり、起きていたんですね」
振り返れば、ヴァリンの瞼は開いている。深い夜の闇を思わせる瞳の色は、相変わらず気怠げだ。
ふ、と口元に笑みを浮かべたユイルアルトは腰を下ろして彼の方を向く。腕も足も組んで、寝起きの不機嫌を隠さないヴァリンは簡単に目を逸らした。けれど身動きはしない。
「どうした、俺に抱かれるために残った訳じゃないんだろ」
「下半身で喋るお戯れは止してください、貴方だって考える頭が付いてるんでしょう」
「医者なのに知らんのか。下半身は喋らんぞ」
鼻で笑われた上に小馬鹿にするような口調で言われて、ユイルアルトが額に青筋が浮かんだような錯覚を覚える。しかし、ここで怒る訳にはいかなかった。
この男は本当に人を効率的に不愉快にさせるような言葉選びばかりをするものだ。口端が怒りで歪んで笑うのを止められない。
「その言葉選びはどちらで習ったものなのでしょうね? 噂では七番街の娼婦街に懇意にされている方がいると聞きましたが」
「どうせアルカネット辺りが言ってたんだろ。あいつそっちにちょくちょく顔を出してるみたいだし、俺の姿でも見たんだろうな」
「随分『本業』のお店で遊び慣れていらっしゃるアールヴァリン殿下に、素人の私がお相手するなんて畏れ多いです」
「本業だろうが素人だろうが共通しているものがある。分かるか? 穴があるって事だよ」
「気持ち悪っ」
「おいおい、それは無いだろう。自分がどこから生まれたか医者なら知ってるんだろ」
「性知識欲が旺盛なようで結構でございます。願わくばそれをご披露なさるのは私やジャス以外でお願いしたいところですけれど」
「俺が抱く女は俺が決める。そこをとやかく言われる筋合いは、例え俺の親兄妹でも無いな」
ヴァリンとの言葉遊びは、ユイルアルトには刺激の強いものだ。少し顔色を窺いながら下品な言葉を選ぶと、ヴァリンは剛速球で下品を返して来る。これで王子だというのだから、全く世界は度し難い。
でもユイルアルトがしたいのは、こんな不毛な会話じゃない。呆れたような顔を向けて来るヴァリンの瞳と視線が合った時、意を決したように唇を開いた。
「ソルビットさんなら口出す筋合いはあったのですか」
その名前を聞いた瞬間、ヴァリンの呼吸の音が一瞬止まった。
「……そうか、お前あの時フィヴィエルから聞いてたな。あの軽口野郎」
「そっちこそ、聞こえてたんですね。気に障ったのなら邪魔しに口を挟むかと思ってたのですが」
「別に、聞かれたって今更どうしようもない話だからな。もう六年経つような、埃被った昔の事だ。少し過去が暗い方が、男の株が上がるってもんだろう?」
笑っているヴァリンの声だが、顔は笑っていない。強張った表情は、それを本気で言っているようには見えなかった。
「……さっきの質問だが」
その表情は疲労感と動揺を隠そうとしない。いつものヴァリンの表情ではない。彼の余裕が、過去に亡くしたという女の話で簡単に揺らぐ。
「無い。あいつにも、俺の行動に口を出させない。俺は俺が決めた女と寝る、それだけだ」
「……『他の女抱けない癖に』?」
「っ………!?」
ユイルアルトの口から出たのは、ソルビットが言っていた言葉だ。呆れと親愛を同時に感じさせた声色で、まるで彼の全てを見て来たかのような言葉を、彼の事を知ろうとしなかった女の口が辿る。そのたった一言で、ヴァリンの表情が今まで見た事ないほどの驚愕に満ちた。
その時まで、ユイルアルトにもソルビットの言葉の意味が分からなかった。娼館に入るヴァリンの姿を見たと聞いていたし、実際商売女の香水の匂いをさせて酒場に戻って来たヴァリンを知っている。話が拗れて酒場に押し入って来た商売女もいるし、その度に女遊びを控えて欲しいと本気で思っていた。
しかし、その反応を見た瞬間分かってしまった。
「私、ソルビットさんがヴァリンさんの事好きなんだって思ってましたが、違うんですね」
その驚愕に怯むヴァリンが、彼の素顔だと言うのなら。
これまでのすべては、彼の仮面だ。誰も知らなかった純粋な彼の姿が、殻を剥くように露わになっていく。
「ヴァリンさんがソルビットさんの事、好きだったんですね」
いつもの皮肉気な笑いも、小馬鹿にした顔も、全てかなぐり捨てたヴァリンの顔は俯いて苦虫を噛み潰したような苦々しい表情。
ユイルアルトは答えを待った。しかし。
「……笑わせるなよ」
ヴァリンの舌打ちの音が、嫌に大きく聞こえた。
「『好き』だ? ……どっかの馬鹿も言ってたが、よくそんな言葉で片付けられるなんて思うよなぁ……。こっちの気持ち勝手に押し測ったような事言いやがって、俺がただの『ヴァリン』として過ごした時間に胡坐掻いて調子に乗ってるのか」
「………」
ユイルアルトは何も言わない。ただ、ヴァリンの顔を見ながら平然とした顔を見せている。
だって、その言葉ひとつひとつが答えだと言っているようなものだった。嘲笑も呆れも返す余裕を失くした彼には、これまで感じていた胡散臭さも気持ち悪さも無い。ただの一人の男として、ユイルアルトに真っ向から殺意を抱いている。
「もう止めてあげて」
ユイルアルトの背後、御者席側から声がした。
その声に答える義理は無い。
「……ユイルアルト、お前本当に……前から目障りだったけど、余計な入れ知恵されて更に不愉快だ。誰から聞いたんだ、あいつの事。フィヴィエルよりもっと前から誰かから聞いてるだろ、じゃなきゃこんな時にあいつの話題なんて出す訳ないもんな」
「ねぇ、イル。もう止めてよ。それ以上ヴァリンおちょくったら、イルはきっと無傷じゃ済まないよ」
「誰から聞いた。ディルか。それとも何か知ってそうなミュゼか。……いや、ディルは無いだろうな。じゃあミュゼか。あいつこないだ来たばっかだもんな、やっぱり最初に殺しておくべきだったか」
「止めて、イル。関係ない奴の血が流れるのも嫌だよあたし」
ソルビットの声だけは必死に聞こえるが、こんな時になっても姿を見せようとしないのに腹が立つ。
こんなに二人は近くにいるのに、ヴァリンには姿が見えていない。
もし、姿が見えていたらどんな反応を示しただろうか。二人が交互にユイルアルトに声を投げるのを、どこか冷めた気持ちで聞いていた。
「……ふふっ」
知らず、ユイルアルトの唇から笑みが漏れた。
「掛けられたカマに引っかかる気分はどうですか、王子様?」
ユイルアルトにとっては自分の中で導き出した答えに基づいての発言だった。けれどそうやって一気にはぐらかされたヴァリンにとって、その一言で不愉快が怒りに変わって噴出する。
「……貴様……!!」
「イル!!!」
苛立ちに表情を歪めたヴァリンが、レイピアを引き抜いてユイルアルトの側に寄った。普段押し殺している足音も、この時ばかりは大きく響く。
胸倉を掴まれて床に引き倒され、首元にレイピアを突き付けられたユイルアルト。それでも、彼女の表情が大きく歪む事は無かった。床に広がる金色の髪が、荒々しく踏み付けられた。
目の前に王子の端正な顔が近付いた。けれどその表情は憤怒に歪んでいる。
床の上のユイルアルトを心配するようなソルビットの声が耳に届いたのも、彼女だけ。
「……俺の事を舐め腐ってるようだが、その考えも耳を削ぎ落されれば変わるか? 鼻でもいい、片目でもいい。取り敢えずお前の顔の部品を取り外して、中身が詰まって重そうなその頭を軽くしてやろうか」
「………」
不思議と、ユイルアルトには恐怖感など無かった。ここまで直接的に身の危険を感じられる状態でも、殺されるなんて微塵も思えない。
目の前の男は、これまで関わって来た『ギルド副マスター』でも、『王子殿下』でもないような気がした。ただその口が語る言葉だけが大きい、普通の男。ひとりの女の事で簡単に揺らぐ、ただのヒューマンだ。
ユイルアルトが、ヴァリンから視線を逸らす。―――御者席の方向。そこに、居た。
酒場以外で初めてその形を見る。茶の波打つ髪を持つ、ひとりの女。ソルビットは視線に気付いて、ぼろぼろの腕で自分の顔を隠してしまった。
その姿は、脳内で想像していたより悍ましくなかった。ただ、顔は半分が肉色に染まり、肌には裂けたような傷や青痣、抉り取られた肉の中に骨が見える。いつもと違ったのは、見慣れた上半身だけでなくほぼ全身がある事くらいか。白く薄い布を纏っているだけの、酷い傷だらけの体。
ああ、本当に死んでるんだな、と思った。
これで生きていられる者が居るなら見てみたい。
視線を逸らされた事で、ヴァリンの苛立ちが更に募る。レイピアの切っ先が首に食い込み、ぷつりと皮膚一枚を刺した。
「こんな時に余所見なんて、随分余裕だな?」
既に余裕もなくして殺意に満ちた視線は、ユイルアルトだけに向けられる。
それでも、ユイルアルトには恐怖は無い。
「……箱の中身、分かりました」
「―――……」
「ずっと不思議だったんですよね、毎日ヴァリンさんと一緒に見る彼女は姿が違ってて。『纏めて持って出る』なんて言葉にずっと引っかかってたけど……ううん、その言葉で、なんとなく分かってたんですけど考えたくなかったのかも知れません」
「……何を、言ってる?」
「それ、ヴァリンさんが一番分かってますよね」
『この男が自分を殺す訳がない』という出所の分からない自信が、何故かあった。
「死者を弔わず、連れまわすのは冒涜ではないのですか」
「……何の事だ」
「貴方が言ったとおり、箱の中にいるんですね。『宝石』」
ヴァリンの瞳が、揺らぐ。
「ソルビットさんそのものが」




