290 お前のせいだ
正史とされる世界線があった。
アルセン王国に、とある夫婦がいた。
夫は戦争で死亡し、妻は時の権力者に歯向かい処刑される。
彼等の子供達はまた親となり未来へと子を成し命を育み、そして時の権力者たちの手によって倒れる。
その一族を五代に渡って見守り続けたダークエルフにとって、百年という時間は自身に変化を齎した。
追跡者から逃れるために名前を。
動きが取りやすいように外見を。
長い時間は性格を。
少しずつ変わっていった彼は、五代目に当たる養い子からの恋心を薄々感じ取りながらも日々を暮らしていた。
『正史』から逸脱した世界線は、その未来を断たれる。
はみ出した枝葉を切り取るように、余分なものとして。
切り取られて成形された世界は、世界を巻き込まんとした戦争の真っ最中だった。
「………」
彼の一日は、朝日が昇る前に目が覚める所から始まる。
仮の住処としている集合住宅の一室に、用意した寝床で壁に背を預けて眠る。しかし起きる頃には床に転がっていたので、彼の眉間に皺が寄った。緊張感があればどんな体勢でも寝られるというのに、今日に限ってそうではないらしい。
何度も染めた髪は灰色。面倒臭くて医者に頼らず自分で整形して失敗した歪な耳に短い毛先をかけるように掻き上げて、やっと彼は立ち上がった。
不思議な夢を、見ていた気がした。
自分が経験した過去を見ていたようだったのに、その中に養い子の一人がいたのだ。
夢の中の出来事の詳細までは覚えていなかったが、養い子とは死に別れてしまった。
よりにもよってこんな夢を、と思いながら、男は身支度を整えて食事の支度をする。
買い溜めたり作り置きした固く黒いパンに、日持ちしない順から生野菜を挟んでいく。栄養にも気を遣うようになったのは、最初に自分の手元に置いた幼い双子が健やかに成長することを願ってからだ。
自分の朝食が出来た後は、鍋を荷物から引っ張り出した。出す材料は、米とチーズとミルク、あと少しの調味料。
今は側に一人しか居なくなってしまった、最後の養い子のために調達してきた食材だった。
竈が無いので、石造りの床なのをいい事に適当な端材をかき集めて火を点ける。安定しないその上に鍋を乗せた。
煮立つのを待つ間に、朝食を口に運ぶ。もそもそ、味気の無い食事だ。
「……」
養い子は、三日前から目を覚まさない。
敵対勢力の者に胸部を殴打され、昏睡状態になってしまった。向かって来た敵対勢力はその場で壊滅させたが、害虫と同じで倒しても倒しても何処からか湧いて出る。数の暴力に参ってしまいそうだった。
これまでも、何回も。自分と関わった人物の死は見てきたはずなのに。
養い子の昏睡状態と向かい合って、気分が良いとは言えなくて。
「………出来たか」
湯気を出すミルク粥を皿に盛りつけて、完成。
匙と一緒に手にして、眠り姫の部屋へと運ぶ。
彼女が使っている部屋も、仮の住処だから眠るだけの部屋としてしか使っていない。敵勢力に見つかれば出て行かなければならないから荷物も多くない。
そんな彼女の部屋は、静かだった。
「………」
男――エクリィ――は。
養い子の眠る顔を見て一度だけ息を呑み、寝台の側机に粥を置いた。
音を立てて、彼女の眠る寝台に腰を下ろす。古い木造りのそれは、二人分の体重を掛けるには頼りない。
「ミョゾティス、起きろ。飯だ」
声を掛けたくらいでは、養い子は起きない。そのくらいで起きるのなら昏睡さえしていなかったろう。
湯気を立てる粥に、誰も手を付けない。
「……そうだ、ミョゾティス。昔話をしてやろうか。お前、好きだったろ」
怪我人の居る部屋だというのに、エクリィは懐を漁って煙草を取り出した。いつでこどこでも吸うな、といつも養い子に怒られている。
強気で口煩くて、なのに自分に逆らえない小動物のような女だ。ミョゾティス、なんて気取った名前を親から付けられたエルフの混ざり子。
自分以外と共に居ることが出来たなら、もっと違う気楽な生き方も出来たようなものを。
「……アルギンが処刑された後。俺達は……一時的に、アルセン王国から逃げ出さなきゃいけなくなったんだ。もう王妃の勝利って決まったものだからな。……アルカネットは妹連れ出して逃げて、俺はお前の曾祖母さん達連れて国を離れた。ジャスミンとユイルアルトは、……国内の怪我人を見捨てられないって残ったな。時々は戻ってたけど、俺達が完全に国に帰って来るまで、ずっと、酒場の管理してくれてたよ」
それは、エクリィの記憶。
語られるそれは、ディルと時間を共にしたミュゼから言わせれば否定したくなる記憶の数々だった。
酒場に居たのはアルギンではなくディルで。
王妃はディルに殺されて。
それでプロフェス・ヒュムネを撃退できたと思われる頃には、ミュゼは居なくなって。
その先を生きたアクエリアと、今側に居るエクリィは別人だった。同一人物の筈なのに、違う記憶を有している。
「酒場に戻ってから、コバルトが店を開くって言った。……昼も夜も開店してる、客は少ないけど質の良い料理屋だ。ウィスタリアは冒険者として一人前になって、一人で旅に出たって思ったら……ある日、妊娠して帰って来てな。それはもう驚いて、フュンフのクソ野郎に告げ口したつもりだったんだ。……でもその腹の子、クソ野郎の子って知って……そりゃもう、俺はブチ切れた」
仔細は聞かなかった。
何故ウィスタリアが妊娠したのかなんて聞きたくなかった。
けれどただ純粋に、双子の身を案じていたフュンフは知っていた。同時に、ただの恩師へ向ける感情以上のものがウィスタリアにあった事も。
どれだけ罵倒しても、暴力を振るっても、フュンフは口を割らなかった。ちっぽけな性欲で双子の姉を汚した訳では無いと理解していても、どうしようもないほどの激情が襲って来た。
一緒に双子を育てたようなものだ。戦友という存在に似た相手から裏切られた気分だった。
「……それで、ゼクスが産まれたけど……クソ野郎の家は変わらずクソ野郎どもでな、婚姻を許さないどころか……ゼクスに奴の姓を名乗らせるのも出来なかった。それで、お前のとこまでエステル姓が流れて来たけど……ゼクスもシャスカも、エステル姓の話をする度に喜んでたな。あいつらは、戦争してるアルセンしか知らなかったから……」
ずっと、ずっと。
アクエリアが大切に守ろうとした証だって。
彼等が大きく育った後でも、もう子供じゃないと言われても、その話をすると笑顔になった。
アクエリアだけが知っている、彼等の根源の話だから。
「なぁ、ミョゾティス」
腰掛けた寝台で、音が鳴る。
頭を抱え、背中を丸めて、煙草を取り落としてエクリィが呻いた。
じじ、と、床が焦げる音がする。
「起きろよ、馬鹿」
声は、血の気の失せた彼女へと向かって。
毛布から出ている腕は、既に冷たく。
微笑んでいるように見える口端からはもう変色している血が流れるような形のまま固まっていた。
本来なら呼吸の度に上下している胸元が、全く動いていない。
「……ミョゾティス。……ミョゾティス、馬鹿、お前、……本当、馬鹿野郎……」
既に、事切れている。
彼女は終ぞ、昏睡から目覚める事は無かった。
「……そんな幸せそうな顔してやがって……どんな夢見たかくらい、教えろよ、馬鹿……」
子供の時のように、優しく綺麗な微笑みで。
いつしかそんな顔で笑わなくなってしまった、大切な養い子。
今はもう、誰よりも、何よりも、彼女が居なくなることが怖かったのに。
「ミョゾティス、……止めろよ、そんな下手な冗談」
冗談なんか出来る体でないと、エクリィが一番分かっている。
それでも彼女を責めていたら、いつかは反論する怒った声が聞こえそうな気がしていた。
ミルク粥は、じきに湯気すら出さなくなる。日が昇り、時間が過ぎる。
それでも。
ミュゼが起きる事は無かった。
「やれやれ、今回も失敗かい」
エクリィの鼓膜を、不愉快な音が揺らしたのはその時だ。
「ねぇアクエ……、ううん。今は、エクリィだっけ? いい加減、お前は諦めなよ」
「……」
「どうせ、全部終われば消える世界だ。お前の大事なミョゾティスちゃんも、いつか消える存在でしかないんだよ」
「……クソが。何処から入って来た」
頭を抱えるエクリィは声の主に一瞥だけ向けて、それから再び目を逸らす。
笑顔を浮かべるその人物をいつまでも視界に収めておきたくなかったから。
「どうせお前には記憶ないんだろう。『今回の』ミョゾティスちゃんがどれだけ辛い思いしたか知らないんだろ?」
「………」
「言ってあげようか。ミョゾティスちゃんが見て来た世界。ああ、でもどうせ『今の』お前もいつか消えるんだよな。っはは! お前が知らない記憶を、私とミョゾティスちゃんだけが共有してるって訳か!!」
他に人物が居れば意味の分からない、けれど二人にとっては意味の通じる言葉。
苛立ちに身を任せて、エクリィが床を蹴るように立ち上がった。
「んな事言うために来たのかクソが!!」
「……」
「お前が元凶なんだろ、ミョゾティスがどれだけ苦しんだか俺は知らんがお前のせいだろ!! ミョゾティスが死んだのも、お前を俺が憎むのも全部お前のせいだろ!!」
「――あは。私のせい? うん、うん。そうだね。でもねアクエリア」
笑顔が、凍る。
「これ、望んだのはお前だったろ」
「っ――」
「最初に望んだのは、お前だよ。私が元凶? お前の話だろ。お前は本当に昔から馬鹿だったけど、この百年で記憶さえ違えるようになったのか?」
怒りも、憎しみも、投げ掛けてもやり込められる。それだけの力関係が、二人の間にあった。
「私が今の立ち位置に居るのもお前の願いだ。お前とお前の願いのせいだ。ミョゾティスちゃんが死んだのもお前のせいだ。私のせいなんてひとつもない、全部お前の利己的な願いだ」
「っ……違う」
「違う? 違わない。お前は一時的な感情で、その子を犠牲にすることを選んだ。八十年後に後悔する事になるとも知らず、馬鹿な奴」
エクリィは、アクエリアとして責められている。
そしてそう責める男は、口端に笑みを湛えたままだ。
「でも良いよ、私はそんな馬鹿なお前も愛しいよ。最後までアルギンに寄り添ってくれたお前じゃなかったら、あんな事……止める為に殺していただろうから。お前みたいに、馬鹿だと思えるほど愛情深いのも考え物だね」
ずっと、ずっと、笑顔の男。
その本質を知っている人物は数少なくて、エクリィはその数少ない側に入る。
「また始めるよ、アクエリア」
「……」
「次で五十八回目だ。私の心が今以上に擦り切れるのが先か、お前達が止めるのが先か。……ふふ、楽しみだ」
エクリィは、寝台の上のミュゼに視線を向ける。
優しくしてやれなかった。何よりも大切な存在になってからも、伸ばされた手を握り返す事すらしていない。
「……今、ここでお前を殺したら、もうこれ以上ミョゾティスに辛い思いをさせずに済むと思うが、どう思う」
「私を殺す? あっはは!! 面白そうな話だね! 試してみても良いよ!!」
笑顔を向けた男が、続けて口にした言葉は。
「それじゃあ、私はそんなお前を殺してから始めようかな」
エクリィ達の敵勢力である、プロフェス・ヒュムネ達を裏から操る黒幕の笑顔でそう言った。