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『あたしじゃ駄目なんだよ、殿下はさ』
昔、ヴァリンの事を勝手に決めつけた女が一人だけいた。
『そりゃあたし、こんなに美人だから気持ちは分かるよ』
自分の外見が良い事を知っていて、自分が才能に溢れているのを分かっていて。
『宝石』と呼ばれた美貌、鳶色の瞳に癖の強い茶色の髪。豊満な肢体を使って悦ばせた男は無数にいた。
勉強も、手習いも、料理も芸術事だって彼女はなんだって得意だった。
完璧なヒューマンがいるとしたら、彼女の事を言うのだと思っていた。
『でも……殿下だって、自分と同じくらいの歳のお姫様と関わったら……きっと、そっちの方が良いってなるよ。あたしじゃ不釣り合いってーかさ……年上のお姉さんに憧れる年頃は、きっと終わりが来るから』
その『完璧』に愛されない彼は、何処まで行っても普通の男の筈だったのに。
『お前はそれでいいのか』
『だって、ヴァリンは―――』
普通の男であるならば、普通の家庭に生まれたかった。
普通の家庭で育ったなら、立場にそぐわぬ凡才で生まれた事を嘆いたことも無かったろう。
彼女は隠れて話を聞いているヴァリンの存在に気付かず、普段見せないような苦笑を目の前にいる男に投げかける。
『アールヴァリン殿下は、王子様だから』
全てを投げ出したなら、彼女は求婚に頷いてくれるだろうか。
もし生まれが違ったら、彼女は振り向いて笑ってくれただろうか。
そんな筈はないと分かっている。
責務全てを簡単に投げ出す男を、彼女はきっと愛さない。
凡人が平凡な家庭に生まれ育って凡百の男になっては、彼女は振り向いてくれない。
生まれが特殊でなかったなら、彼女に出逢えなかった。
けれど生まれのせいで、彼女が振り向いてくれないというのなら。
彼女の命が散ったその後に、側に居てくれさえすればいいと願ったのは一度だけではなくて。
そう願ってしまった事を後悔するのは、彼女の命の灯が消えた後だった。
ヴァリンが微睡みから目を覚ました時、日は既に高い所に昇っていた。
仮眠というに丁度いい程度の時間しか眠れていない。仕事中だったな、と思い出すとその場で軽く伸びをして溜息を吐き外を見る。
まだ馬車は動いていない。馬を酷使させたから、その分の休憩が必要なのも分かっていた。そのおかげでヴァリンの頭の中の国土地図によると、既に道は三分の一程度過ぎた所だろう。寝ずの火の番をするよりも、馬を走らせていた方が気分も楽だった。
何かをしていないと、今でも馬鹿な考えに捕らえられてしまうから。
「フィヴィエル」
馬車の中には誰もいない。ならば外は、と思い名前を呼んでみる。
返事は無い。
今回の護衛対象が自分ではなく、医者の女性二人だから離れていても当然だし、彼はヴァリンの直属の部下ではないのでそれに関しては不満は無かった。
手は無意識に、傍らの荷物に向かう。そうして撫でた荷物の中の箱は、いつもは城の私室に置いているもの。この中身を医者二人は気にしていたが、これはヴァリンの『執着』に他ならない。
荷物を撫でる手を引っ込めて、自分の胸元に手を当てる。その手は首元へと滑り、掛かっている細い鎖を引っ張った。
服の中から出てきたのは、中に小さな物なら入れられるタイプのペンダントだ。円筒形のそれを愛しそうに指先で撫でて、その存在を確かめる。
「……こうしてお前と一緒に城下の外に出てると、面倒臭い仕事でもどこか旅でもしてる気分になるよ」
それは誰にも聞こえていない囁きだ。
「なあ、ソル」
聞かれていないから、囁くことができる。
ヴァリンにとってその呼び名は何よりも意味のあるものであるし、その名を持つ人物がヴァリンに齎した影響は計り知れない。
やがて大人しい話声と共に控えめな足音が馬車に近付いてくる。足音は丁度三人分だと思われた。
「でん……アールヴァリン様」
目隠しの布をそのままに、外からフィヴィエルが声を掛けてくる。
「どうした」
「ジャスミン・ユイルアルトの両名が食用の野草を見つけたそうなので採取して参りました。昼食にはまだ早くはありますが、スープにして間食にどうかとの事です」
「スープなぁ……。火を通さないと食えない奴か。余分な煮炊きに使う薪の余裕はないぞ」
「落ちていた枝をまた集めて来ています。一回分のスープになら使っても余裕があるかと」
フィヴィエルとしては医者二人の申し出に賛成なのだろう。確かに持ってきた食事は黒くて固いパンとチーズ、あとは日持ちする果物や種子類。温めたり火を通さなくても食べられる代物だ。有り体に言えば、味気ない。
騎士としてその食事はもう慣れてしまったものだが、温かい食事というものはやはり気分が変わる。ジャスミンの持ってきたというコーヒーでも充分癒されるが、スープともなれば栄養も取れるし少しは腹も膨れる。
「お前の責任でなら別に構わない。……ただ、俺が口にするのはあの二人とお前が食った後だ」
「それは重々承知しています」
ヴァリンはそれがさも当然のように言い、ヴァリンもそれを常としている。
「採って来たのが毒草だったりしたら堪らんからな」
王子として生きてきて、これまで日常生活に毒殺の危険が及ぶこともあった。それは国内での諍いではなく、他国の差し金である場合が殆どだ。
毒と隣り合わせの生活をしたことがあるヴァリンにとっては当たり前の事として言ったのだが。
「そんな初歩的な失敗はしません!!!」
外から怒号が聞こえてヴァリンが身を竦ませた。ユイルアルトの声だ。
聞かれているとは思わず、けれど自分の立場を気にせず遠慮なしに放たれた怒声は久し振りに聞いて、ヴァリンの口許には苦笑いが浮かぶ。
フィヴィエルは事情を知っている。自分は当事者。けれど、王子であるヴァリンの裏の苦しみを知らない女が居るという事を忘れかけていて。
「そうか、まぁ楽しみにはしておいてやるよ」
ヴァリンがそう返すと、足音が三つ分離れていった。
遠くからでもぷりぷり文句を言うユイルアルトの声が聞こえる。それを宥めるジャスミンの声と、苦笑するフィヴィエルの声も。
出発直前の一悶着ではどうなる事かと思ったが、三人が三人ともヴァリンの顔色を窺う事で最低限の意思疎通は出来ているらしい。その点に関しては、王子というだけで腫れ物扱いを受けていたヴァリンは特に気にならない。
スープが出来るまで、まだ暫く時間はあるだろう。
まだ残る怠さと眠気を癒すために、ヴァリンが再び瞳を閉じる。
野草が材料とは聞いていたが、フィヴィエルとヴァリンが思っていたものよりも食いでのあるスープだった。晩春ということもあり、採って来たばかりの筈の葉や茎は少し硬くはあったが味は悪くなかった。城下を出てまだ一日程度しか経っていなかったが、否応なしに溜まっていた疲れが少しは癒えた気がした。
癒えたといってもそれで仕事が終わって解散、という訳ではない。再び馬車は出発し、目的地であるヨタ村を目指す。
時折休憩で馬車を止めても、それは本当に僅かな時間だ。馬に水を遣り、草を食ませ、乗員も少し外に出て体を伸ばす程度。食事は馬車の中でも出来るし、飲み水だって用意してあるから移動しながら諸々を済ませられる。
日の出ている間の御者役はフィヴィエルで、ユイルアルトとジャスミンは寝ているヴァリンに気を遣ってか、はたまた近寄りたくないからか御者席側から外を見ていた。
「……外はこんなに平和に見えるのに、私達は馬車に揺られて強行軍だなんて……」
行く道に障害は無く、空は晴れている。野党や賊、はたまた魔物といった的に遭遇することも無く四人の動向は順風満帆そのものだ。
漏れた呟きはユイルアルトのものだ。それを聞いたフィヴィエルが苦笑を浮かべる。
「……でん……アールヴァリン様が夜も走ってくださったお陰で、何とか今日明日には着きますよ。そうなれば寝床も木張りの上ではなくなるはずです」
「今日着いた所でどうします? ……どうせ夜なのでしょう、それから急ぎで仕事に当たれと言われても困ってしまいます」
「そうですね、その辺りはアールヴァリン様と相談いたします。けれど、仕事より先に休憩をお命じ下さるかも知れませんね」
手綱を引きながら、片手でフィヴィエルが紙を出す。折りたたまれ、広げると大きくなるそれには地図が書いてあるようだった。
三種類のインクを使って書かれている地図は、大まかな道と村の位置、それからちょっとした高低差が記されている。
「今はこの辺りを走っています。山の中腹といった所でしょうか」
「……山って何故こんなにうねうねした道ばかりなんですか……?」
「傾斜のある山は、馬車は真っ直ぐ通れませんからね。人力での直線登山も危険ですよ」
フィヴィエルとユイルアルトの距離が自然と近くなる。二人が最初よりも抵抗なく話しているのを見て、ジャスミンが冷たい視線を送る。
ジャスミンの騎士嫌いと男性不信は今に始まった事ではない。けれど、自分も含めて冷めた目を向けられているとユイルアルトだって気になる。何とか気付いていない振りをするので精一杯だ。
「……ん、フィヴィエルさん。ここは村ですか?」
ユイルアルトが見ていた地図、現在地点の道の先に少し離れたふたつの集落が書き込まれていた。山間に位置する不便な場所だ。しかしそこで生まれ育った者にとっては、不便だとしても故郷なのは知っている。
「……ああ」
そこを指し示すと、フィヴィエルが表情を変える。にこやかとは言わずとも柔和な表情を浮かべていたそれまでから、急に表情を消して。
「すみません、書き加え忘れていました。この村、今あるのはこちらだけです」
片方の集落のみを、もう片方の手綱を握ったままの手で指し示す。ジャスミンがその行動にふと視線を向けた。
へぇ、とユイルアルトが何も考えず声を出す。住民減少で集落がなくなるのは聞いた事が無い話ではなかったから。
「昨年、賊の襲撃に遭って廃村になりました。こちらの村も襲撃されましたが、救助が間に合って被害者は少なく済みましたが」
「え……」
「賊狩りはしてもしても追い付かないんですよね。特にここ数年は……騎士団も戦争の痛手からまだ完全には復帰できていないので、手が回らないんです」
地図を畳み直して鎧の中に仕舞いこんだフィヴィエル。再び手綱を握り直し、視線は道の先へ。
「補給も必要ですし丁度いい。……行ってみますか、この集落へ」




