284「 して 」
力なく項垂れて、ディルに身を任せるアルギン。既に事切れているのはアクエリアの瞳から見ても明らかだった。
ミュゼが酒場へ身を寄せてから、ずっと追い求めていた命が失われた。その光景に愕然とするアクエリア。
握り締めた拳を、床に叩き付ける。
「っ……ぅあ、あ……あああぁっ……!!」
「………」
「アル、ギ……そんな、そんなっ……!!」
ディルが抱えたのは、とても軽くて、小さな体。
こんな小ささで、柔らかさで、ずっと六年間を耐えて来た。
辛い思いをしているのはディルだけでは無かった。その事実が、ディルの心を僅かに慰める。
「ディルっ……!! ディル、てめぇえええっ!!!」
「……」
「何で殺すんだよ!! あんだけ逢いたいって言ってたのお前だろうがっ!! 生き延びさせる方法も、皆で探せばあったかも知れねぇだろうっ!!」
「――アクエリア」
絶望が絶望を呼ぶ。
けれど、アクエリアに振り返ったディルは微笑んでいた。
これまでの皮肉ぶった笑みでも、ぎこちない唇だけの笑みでもない。細めた瞳で、緩やかな弧を描く唇で。
心から愛しい人と再会できた喜びに、微笑んでいた。
「我の願いは、漸く叶ったのだ」
目を細めて頬を摺り寄せる、アルギンの柔らかな深い色をした銀の髪がくしゃりと形を変える。
「……願い、って、なんだよ。お前、アルギン殺したくてここまで来たってのか!?」
「違う……。我は生き別れる前に、妻の……アルギンの願いを、敢えて無視した。愛の言葉を強請ったアルギンに、気付いていながら別の言葉を投げた」
今まで続いていた後悔。アクエリアだって何度か聞かされていた。
本当に彼女が欲した言葉は、ディルからの愛だと。
「もしも、次に逢える日が来るのなら。……我は、アルギンの願いを……全て、叶えると誓った」
それが例え何であれ。
「愛の言葉なら、我も神の国とやらに召された後に幾らでも言える。けれど、アルギンを楽にするなら今しか無かったのだ」
「……そんな、理由で、殺したってのか……!?」
「我もな。……少しは、考えた」
生きていたら他に手段があるんじゃないのか。
どうにかして永らえる方法を探せないのか。
子供達だって、何処かで生きているかも知れない。
もう障害は無いのだから、最期を看取る余裕はある。
酒場に帰って、例え短くとも夫婦としての時間を大切にすればいいのではないか、と。
「考えた、が……。我には、とても耐えきれぬ」
短いと分かっている妻の時間を、焦燥に駆られながら見ている事が。
「死に行くアルギンの手を取って、怖くないから、と繰り返す。……次第に消えていく呼吸を、冷たくなっていく体を、我は今度こそ……目の当たりにする。苦しいと、痛いと呻くアルギンを、死を望む言葉を叶えぬ儘に。其処にあるのは、我の自己満足ではないのかえ?」
生き延びさせるには、妻は傷つき過ぎていた。
包帯に残る浸出液は、傷口が塞がり切れていない事を示している。後から暁達に切り開かれたものかも知れないが、それはつまり、そうまでしないと今までアルギンが生きていられなかった事を示している。
悪戯に彼女の命を延ばすことが、全肯定される事とはどうしても思えなかった。
「子供達の事だって、そうだ。……生きていると信じているうちは、救いがある。然し若し、期待だけを抱きながら、其の死を目の前に突き付けられた時――アルギンは、正気でいられると思わぬ」
騎士隊長であった彼女は、強かった。強く在ろうとして、実際強がって胸を張って見せていた。
それが自分の子供の話になった時――傷だらけの彼女はどうなるだろうか。
「何よりも、だ」
頬を流れるディルの涙は、未だ止まらない。
「此れ以上、苦しむだけのアルギンを見ていれば――我が先に狂う」
愛しい人に、もう一度頬を寄せる。
あれだけ焦がれた肌は、まだ温かい。
「話に聞いた暁のように――誰を、何を手に掛けようと、何れだけアルギンを苦しめようと、其の命を繋ぎ止めようとするだけの化け物に成り果てるだろう」
暁の想いは本物だった。
でなければ、こんな状態のアルギンの命を六年間も繋ぎ止められる訳が無い。
例え非難されるべき手段だったとしても。
愛しい人を生かす手段を持っていたからこそ、暁が凶行に走ったのだ。
「……その何がいけないんだ。俺だって同じ立場に立ったなら、ミュゼの為に何だってするに決まってる」
「汝は、せぬ。……其の手段を取らぬ」
「何で言える!!」
「ミョゾティスが望まぬからだ」
言われてアクエリアが息を呑んだ。
本当に、この男は『例外』を考えない。
ディルの口にするのは希望的観測でしかない。アクエリアが実力行使に移らないなんて断言できないのに。
「ミョゾティスの悲しむ事を、汝が行うとは思えぬ」
その断言は物悲しく、心地良く。
ディルがアクエリアへと向ける純粋な信頼で構成された、呪いのような言葉だ。ディルの信頼が、今は辛い。
「……それでも、生きていて欲しいって、思うのは……お前にとって、いけない事か。いつまでも、愛する人と一緒に居たいって思うのは、普通じゃないのか」
「――いや、広義で言えば普通の事であろうな。実際、我も……今でもそう願っている」
ディルはアルギンに繋がれていた薬液の設備の前まで歩いた。幾つも垂れ下がっている管は、切り離されてからも薬液を垂れ流している。
設備に背を凭れて、膝から力を抜いていく。腰が床に下りた時、ディルの溜息だけが部屋の中に聞こえた。
事切れた妻は、ディルの胡坐の上に乗っている。上半身を引き寄せて、
「六年か。……長いようで、短かったな。地獄とさえ思えた年月が、今は……何処か懐かしい」
灰色と思えた年月も、過ぎて思い出せば心が温まる。妻を殺した心の痛みが和らぐことはないけれど。
楽しかったと思う事は、殆ど無かった。けれど、酒場の面々と出逢った事だけは幸いだと思っている。
彼等が居たから、耐えて来られた。
けれど。
「――我は、幸せだ。友と呼べる相手が居て、妻が居て……まるで、夢を……見ているようだ……」
アクエリアの視界で、再度銀色が閃いた。
「――!?」
ディルの掌の上で向きを変える刃先は、柄を握りこまれた時にはディルへと向く。
その銀色が突き立てられたのは、ディルの腹部。
「っふ……、ぐ、うぅっ……!!」
「ディルっ!!」
力無く膝を付いたまま、アクエリアが手を伸ばす。腰に力が入らなくて、手は彼に届かない。
止めてやることも出来なかった。
「……ふ、……っ、ふふ。……ああ、痛いな」
――何で、そんなこと。
分かり切った事を、アクエリアは聞けなかった。
痛いと言いながら笑うディルの表情は、今まで見た事のないほどに安らかで。腕に抱いたアルギンを手放さぬよう、短剣から手を離した後は小さな体を強く抱きしめている。
「……知って、いるか。アクエリア」
「………」
「腹を、……こんな小さな刃物で刺しただけ、では。……生き物は簡単には、死なぬのだ。痛みだけは、強いのだがな」
「っ……、だから、俺に何しろって!?」
「……分かって、いるであろ?」
「分かるか、馬鹿っ!!」
耳を塞いだ。涼やかな声だと、アルギンが褒めそやした音の続きを聞きたくなかった。
アルギンはこの男を何より愛した。好きだと、愛していると、アクエリアにしつこく語って聞かせた。
それが自分だけの想いだと信じて、婚姻を済ませても尚続く片恋の苦しさを笑顔に隠して。
「――てくれ」
「聞きたくないっ!!」
「――して、――」
耳を塞いで。
大声を出して。
それでも、アクエリアの鼓膜はディルの囁きを聞き取ってしまう。
「ころして、くれ」
こんな残酷な言葉を聞かせる声を、アルギンは愛した。
「治療できないよう、内臓を、刺した。如何な、ユイルアルトやジャスミンの、治療とはいえ、延命は望めぬであろう」
自身の命さえ、今は邪魔だと言わんばかりの声だった。
「汝を、……友の一人と見込んで、頼む。我が命を、此処で、断て」
「っ……んな、事……出来るものかっ……!! お前はどうしてそうなんだよっ!! 全部一人で背負いこもうとするんだよ!! お前は、本当にっ……!!」
「汝に、しか……頼めぬであろう?」
先程よりも青い顔は、まだ微笑んだままだ。
「我の腹に穴が開いて、其れでも助けようと躍起にならずに済む者は、汝くらいなものだ」
その言葉を聞いて、確かにな、と思うアクエリアは存在していた。
これがフュンフであったなら、第二の暁になったかのように半狂乱でディルの生存方法を探しただろう。
ヴァリンならばその胸に細剣を突き立てる事くらい簡単に出来る筈だった。――でも、もう彼は居ない。
自分が冷血だと侮られているようで癪に障る。けれど、それもディルは笑顔で注釈を加えて来る。
「長く生きた汝だからこそ、命の引き際を見極められるであろう……?」
「……」
「早く……頼む。ああ、寒い」
笑顔の彼は、更に強く妻を抱き締めた。
「……アルギンの居ない世界は………やはり、寒いな……」
「……」
その温もりを奪ったのは自分だろう――もう、こんな嘲りも意味を持たない。
何が悪かったのだろう。ディルの凶行を止められなかった自分が悪いのか。それとも、暁を激情のままに殺してしまって、アルギンを助ける手段を消してしまった自分が悪いのか。何処から悪かったのか、何が悪かったのか。
アクエリアの頭の中は一瞬そればかりが支配したけれど。
「……分かりました」
その時点で、無言でラドンナは部屋を出て行く。何か、重大な何かを見届けた後のように。
人形を無視して、開いた手に炎を呼び出すアクエリア。
「後悔するなよ。俺の夢見が悪くなるからな」
「……ああ」
「お前を、……一時期、恋敵に認定しそうになった自分が嫌になる。お前みたいなのを、ミュゼが好きになる訳が無いのにな」
その手の中の炎が、何処へ向かうのかは分かり切った話で。
それでも、ディルは動かない。
「……分かり切った話。そうだな、我も、同じことを思う」
「あぁ? ……余裕かよ、ディル」
「ミョゾティスは、……あの者は、アルギンに、似ている。見た目も、酒の好みも、誰かを一途に想う心も」
見せる表情は、変わらず笑顔だ。
アクエリアにはまだ理由も分からない、その余裕に腹が立つ。
「……我等に、よく似ていると思わないかえ?」
「……」
返事は、しなかった。
肯定しても否定しても、ディルの反応は分かっていた。
これ以上、心を乱されたくなかった。死に行く者に乱される心など、無い方がマシだ。
「俺も」
返事の代わりに、言葉を手向ける。
それがディルに向けた最期の言葉になった。
「お前と過ごしたこの六年間、悪くないと思っていたよ。……さっきまでな」