283 「 」
「……アルギン……?」
「……」
瞼を伏せたアルギンは、その歪に膨らむ唇に笑みさえ浮かべていた。
それは絶望から来る諦観の笑みだ。何もかもを諦めた彼女は、命さえ必要としていない。
「アタシ、ね。もう、子供産めないんだって。こんなアタシが、ディルの側にいても、意味が無いんだ」
「――そんな事、有る筈が」
「それだけじゃないよ。……この部屋、中、見た?」
言われてディルが周囲を見渡す。見慣れないものばかりが多い部屋だと思っていたら、そこでラドンナが動き出した。
部屋に灯りを付けて、浮かび上がった部屋の設備。彼女の体に繋がれている管。
「アタシね。……この管が、無かったら、死ぬの」
管さえも掴めない、短くなってしまった指がそれらに触れる。
中を流れる液体は、今でも彼女の体内に入っているらしい。
よく見れば、設備の中の液体の量は器の半分程度だ。
「手とか、足とかだけじゃない。内臓、幾つも駄目になってるらしいんだ。ここ最近調子が悪くなったのもあって、……この管が無くても、もう、長くないって言われてたんだよ」
「………」
「おかしいよねぇ。最期に、ディルに……逢いたいって、あんなに……思ってたのに。いざ逢ったら、もう、アタシ、怖くって……貴方に、今の姿を見られて、嫌だって、気持ち悪いって、嫌われるのが何よりも怖かった」
――でも、ね。
小声で繋いだアルギンの声は笑っていた。
「嫌われた方が気が楽だったよ。貴方に躊躇わず殺して貰えるなら、……アタシはそれだけで幸せなの」
最愛の人から殺せと言われたディルは、浅い呼吸でその言葉を聞いていた。
「………」
アクエリアは頭を抱えていた。生きてさえいればいい、と確かに思っていたが、彼女の現状が此処まで酷いとは思わなかった。
救いようの無い状況だ。どうやれば連れて帰れるか、必死で頭を働かせる。
「……管が必要ならば、其の設備ごと酒場に帰れば良い」
「駄目だよ。管だけあっても意味が無いんだ。中身が無いと同じだよ」
「中身の調達は我が何とかしよう。幸い、酒場には薬師が居る」
「……中身ね。アールウィン殿下経由で材料調達して貰ってるんだ。調合は、アールブロウ殿下しか知らないんだって。何が使われているか、アタシは知らない」
「――」
アールウィン、というのはアールブロウの双子の兄である第二王子だ。
今は他国に留学していて、ディルは居場所すら知らない。
そしてアールブロウは、今しがた肉塊へと変貌した。
「……其れでも。何か、何か手段がある筈だ」
「………、ディル」
小さくなってしまった手が、ディルに恐々といった手付きで触れた。
本当はこの男にはもう、触れてはいけないと、そう思っているかのような。
「ディルは、優しいね。でも、もう良いんだよ。貴方まで、暁みたいになる必要は無い」
「……誰が暁のように成る、だと?」
最愛の人の言葉でも、癇に障るものはある。
けれどアルギンは力なく唇を歪めたままだ。
「アタシね、本当はね。六年前に死んでた筈なんだよ。内臓も、外側も、ぐちゃぐちゃで、子供産めたのが奇跡だったんだ」
「……」
「アタシの体、……もう、結構、『アタシの』じゃないの」
「何、――?」
言われてディルが妻を見る。妻の体が妻のではない、なんて、そんな不思議な謎かけのような言葉でディルが理解出来る訳が無い。
傷だらけの身体。昔よりも腕の中に小さく収まるアルギンは、昔と比べるべくもないほどに弱々しいが。
「内臓……も、だけど……。……歯も、……目も、アタシのじゃない。……どっかから暁が調達してきた、……アタシのじゃない、『何か』……なの」
「……どういう、事だ」
「アタシねぇ。……暁が、『連れて来た』、誰かの内臓を移し替えされて、生きてるの」
アクエリアが息を呑んだ音がした。
運んで来た、ではなく、連れて来た。
同時に、工房自体が異様な程清潔にされていたのを思い出す。薄ら寒さを覚えたほどに、工房という名を冠するには不似合いの光景だった。
まるで、その場で医療行為に匹敵するような何かが行われていたような。
「……アタシ一人が生かされる為に、どれだけの人を犠牲にしたのか分からない。……それでもアタシは、ディルと逢いたいって、思ってしまった。もっと早くに、死んでた方が、よかった」
「………アルギン。其れ以上を、口にするな」
「そうだね、ごめんね。……貴方に、聞かせたい話じゃなかった。薬液が切れたら、死んじゃうようなアタシの話なんて」
宝石の瞳が付いたアルギンと、目が合わない。
虚空を見ているような紛い物の瞳が、絶望を映す。
「……忘れないでいてくれて、ありがとう」
「……」
「アタシを、妻だって呼んでくれて、ありがとう。貴方の心に、欠片でも、居させてくれてありがとう。こんな出来損ないを、抱き締めてくれて……ほんの短い間でも、貴方の赤ちゃんのお母さんにさせてくれて、ありがとう」
――アルギンは、ディルの側に居た妊婦の話を、暁から聞いている。
もうその真偽を確かめる事すら、怖くて出来なかった。
「アタシを、殺して、この部屋を出たら。……幸せになってね。幸せにしてあげられなかった、アタシが出来なかった事を、他の優しい誰かと、今度こそ」
「――……」
「貴方の幸せに、アタシは邪魔だろうから。……どうせ遅かれ早かれアタシは死ぬんだ、命が尽きるのを早めて貰う事に感謝しても、恨みはしないから。……って、貴方は……きっと気にしないんだろうけれどね」
「アルギンさん、いい加減になさい」
俯いたアクエリアが、痛む頭を抱えて二人の会話に割って入った。
後ろ向きな話しか出来ない義姪を、どうにかして外に連れ出さなければならない。アクエリアの頭はそれで一杯だ。
馬鹿な事を言うな、と頬でも張り飛ばしてやれれば良かったのだが、そうするとアクエリアの力でも今のアルギンは死にかねなかった。
「ユイルアルトさんを急いで連れて来ましょう。薬液が切れる前に、新しいものを補充できればいいんですよね。……この設備も、動かせるなら酒場に持って行きたいのですが……最悪暫くはまだこの場からアルギンさんを動かせないかも知れませんね。城下にはジャスミンさんもいますし、きっと二人ならなんとか出来ます」
「……」
「フュンフさんにも協力して貰いましょう。……使えるものは何でも使いましょう。それでアルギンが助かるのなら、首根っこ引っ掴んででも俺達の為に動いて貰いましょう」
「ねぇ、ディル」
アルギンは、アクエリアを故意に無視する。彼の口にする希望を拒絶するかのように。
「花束、ね。……嬉しかったよ。でも、もう、要らないかな」
「――……!?」
「貴方がアタシに、これ以上、心を割く必要は無いんだ。貴方は自分の幸せを、どうか手に入れて。……私が、貴方の奥さんだったって……幸せな夢を、見てるまま……死なせて欲しい」
アクエリアのやり切れない悲しみが、怒りに変わる。
アルギンは、どれだけディルが愛していたか知らないから言えるのだ。この六年間を業火の苦しみの中で耐えていたディルを知らないから。
やっと妻と再会するという悲願が叶ったディルに言っていい言葉ではない。
幸せな『夢』ではない。彼の想いを、夢なんて言葉で片付けて欲しくなかった。
それなのにディルは、優しい手付きで抱き締めたアルギンの背中を撫でる。ぽんぽん、と、幼子をあやすような手つきで。
「アタシ、ね。あなたのために、……死んでもいいって、思ってた」
「…………。ああ」
「でもね。……こんな目に遭っても、どれだけ願っても」
その優しい手付きが、心からの愛を示していた。
「死にたいのに死ねないなんて、思ってなかったんだよ」
「……」
言葉ではない愛を受けながら、尚も続けるアルギン。
アクエリアの苛立ちが尚も自身の胸を苛んでいた。
「アルギンっ……! いい加減にっ、」
下らない事を言うのを、止めろ。
怒りに任せて言いかけたアクエリアの目の前で、ディルの周囲に白銀が閃いたのが見えた。
「――」
その白銀は、ディルが妻の短剣としてずっと持っていたものだ。
一度、二度、空を翻る小さな刃。それは、躊躇わず彼女に纏わりついていた管を切り落す。
「――……!!」
次の瞬間には、アルギンの胸へと、突き立てられた。
「っく、ぁ……ぅ、あっ」
「……アルギン」
ディルは妻を引き寄せたまま、肩口に顔を埋める。
アルギンの口からは喘鳴が聞こえ、少しずつ、少しずつ、血液が垂れ流れる。
「花を要らない、と言うな。我が汝に出来る事は、最早花を捧げるしか無かった。……汝は永遠に、我が妻だ。他の誰かとの幸福など、毛頭考えていない。……我が伴侶は、死しても永遠に、アルギン……汝だけだ」
「……っか、ふっ……」
「夢になど、させぬ。我が幸福を、汝の夢で終わらせるな。……汝という伴侶を持てて、我が人生は、そう悪くないものだった」
「……っあ、ぁあ……でぃる、っ……」
「我が子を、産んでくれて――心よりの感謝を、述べる」
ディルは微笑みを浮かべる。その唇を掌で撫でるアルギンの口も綻んだ。
灰茶色をした宝石の瞳から、涙が零れる。
痛いだろうに、もう痛みに叫ぶことすら出来ない。アルギンの心も体も、もう疲弊しきっていた。
「うれ、しぃ、よ。……でぃる、アタシ、……うれしい」
「………」
「あなたに、あえ、て。さいごに、あなたが……いて、くれて。……あたし、も、しあわせ、だよ」
幸せ、なんて。
命の灯を吹き消されながら口にする言葉ではない。
でもアルギンのこれまでは、今が一番幸せだといえるほどに酷いものだったから。
「……あい、して、る。……でぃる。ずっと、……」
「……ああ」
「あいし、……て、る。……あり、が……と……」
「ああ」
――裏の意味などひとつも無い、本心からの感謝。
目の前に広がる惨事に、アクエリアが目を見開いたままその場に膝を付いた。
やがて、ディルに触れていたアルギンの手が落ちる。
呼吸も脈も止まった頃に、ディルがそっと短刀を引き抜いた。もう血を噴き出す事もない体が、そっと抱き抱えられる。開いていたままの瞼を、ディルが優しく閉ざした。もう二度と開くことは無い。
「知っている」
アルギンの手が、濡れていた。
それはディルの頬を伝う雫のせいで。
「ずっと、知っていた」
震える声が、優しくアルギンに語り掛ける。
「我も同じだ。――少しだけ先に逝って、待っていてくれ。愛しい我が妻よ」
そんなに優しい声を掛けても、もう二度と彼女は聞けないだろうに。
「……アルギン」
頬を流れる涙が、彼女の顔に流れ落ちた。
「……やっと、やっと、帰って……きてくれたな。……ずっと待っていた。探してやれず、すまなかった」
――もう、返事は無い。
「おかえり、アルギン」
返事をしない代わりに、何処へも行かない。