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282 ――六年前 下


「妊娠。してる、……みたいだ、よ」

「――え」


 それはアルギンがアールブロウの検診を受けた時だった。

 彼は第三王子でありながら、宮廷医師の一人として働いている。若くて気弱ながらも腕は悪くないそうで、暁とも懇意にしていた。

 アルギンの存在は、二人の共通の秘密として扱われていた。他の者はアルギンが生きている事さえ知らない。

 アールブロウの悩む声が聞こえる。どう話を続けていいか思案しているのだ。


「……あんまり聞きたくない話だけれど……、……暁との子?」

「……は?」

「………いやそれは無いかな……今発覚したってなると寝込みを襲ったか、それでなくとも瀕死のお前に無体したって話になるからな……。暁がそこまでの鬼畜生だなんて、……いや僕でもそれは……否定できないっていうか……」

「聞こえてますよ貴方」


 側には暁も居る。心なしか声が不機嫌だ。

 

「……こほん。話を戻そうか。吐き気は悪阻だ。……それも、かなり酷い。こんな体で産むなんて自殺行為だ、堕胎を勧めるよ」

「堕胎って……赤ちゃん、殺せって事!?」

「ぼっ、母体の危険がある時は、医者は決まってそう言う事になっているんだ! 妊婦の死体の処理より、嬰児の死体の方が処理しやすいのもあるから。……僕が悪い訳じゃない、お前の体がそんなだから」

「……冗談じゃねぇよ」


 その頃のアルギンは、言葉がちゃんと話せるまでになっている。

 体は動かない。自分の欠損についても薄々気付いてはいるが、はっきりと聞くことは無かった。聞いてしまって理解しても、絶望しかない。

 時間帯が変わっても、日付が変わっても、目は見えなかった。見えないどころか光さえ認識できないのだ。

 見えない自分の顔がどうなっているかすら、怖くて考えたくない。


「……堕胎なんて絶対ごめんだ。何があっても、それこそ死んでも産む。アタシをこんな所に連れて来たのは暁だろ、じゃあこのくらいのアタシの希望は承諾して欲しいモンだなぁ!?」

「……アルギン。でもお前、その体じゃあ……育児も出来ないんじゃないの」

「……、……それは」

「そもそも、この体で妊娠継続しようっていうのが無謀……だよ。君の体は――いや、この話は……、今は重要じゃない」


 冷たく言い放たれる、医者からの言葉。

 片腕が確実に無い、両目さえ見えない、腰から下がどうなっているか確かめる事さえ出来ない今の自分の体で子供が育てられる訳が無い。

 でもアルギンにとっては、命を張れるほど愛した男との子供なのだ。宿った命を、簡単に殺せだなんて言われたくなかった。


「……あんな人形みたいな奴でも、誰かと子作りなんかするんだね」


 下世話に呟いたアールブロウの言葉に、見えないながらアルギンが睨む。声が聞こえた方向に向かって、自分なりの険しい顔をして見せた。椅子が揺れる音がして、アールブロウが息を呑んだから、おおよその意向は伝わったらしい。

 大袈裟に溜息を吐く音が聞こえた。それはアールブロウとは違う位置から。


「良いですよ、産ませて差し上げます。憎い男が孕ませた子供でありますが、まだ生まれてもいない命に罪はありませんもんね」

「……!! 暁、本当!?」

「ええ。こんな事で嘘ついてもしょうがないでしょ」


 暁が承諾したのは意外だった。けれどその言葉は妊娠発覚と同じくらい嬉しかった。

 最愛の人の子を産める。愛した人との命が繋がる。

 自分が、ディルの妻だった証を残せる。


 ――残せるだけ、だなんて、この時は思わなかった。




 悪阻は酷かったが、安定期に入ると徐々にそれも軽くなっていった。

 腹は日に日に大きくなり、自分の命も危なかったアルギンは無事臨月まで耐えた。

 しかし産道を通らせると母体が危険だという判断で、出産は開腹手術で行われる事になる。

 ――使われた麻酔は、完全に痛みが消える質の高いものではない。

 麻酔で鈍った腹を切り開かれる痛みと、臨月の腹で仰向けになる苦痛に耐えて、取り出された赤子は――二人だった。


「……これはまぁ。大きなお腹だと思っていたら双子ですか」

「……った、ご……? 双子、なの? アタシ、双子、産んだの?」


 生まれるまで分からなかった。双子は、アルギンの見えない視界の中で産声を上げている。


「二人とも女の子ですよ。……こんな小さいのに、あの男の面影があるからムカつきますねぇ」

「……お前さん、二人に手ぇ出すなよ。……出したら、絶っ対、許さねぇからな」

「出しませんよ。本音を言うと、触りたくもない」


 手術は苦しいが、それ以上に喜びがあった。ちゃんとその顔を見られない不甲斐なさも覚えるが、今日から母親になるのだ。

 早く子供達を抱き締めたかった。腕は片方しか無いが、愛なら余りある。小さな命が二人なんて、文字通りの身に余る幸福だった。

 もう名前も決めてある。抱き締めて、決めた名前を呼んであげるのが楽しみだった。最後まで絞り切れなかった名前があって良かったと安堵した。

 なのに。


「さて、送り届ける準備しましょうかねぇ」


 呑気そうな暁の声に、アルギンが嫌な予感を覚えた。

 腹はまだ痛い。何をされているか分からないが、産んだからとそのまま素直に縫合されているという訳ではなさそうだった。

 見えない恐怖が、軽くなった腹に押し寄せる。


「送り届ける……って、誰を、何処へ」


 この時に、『何』ではなく、『誰』と尋ねたアルギンにはもう答えが分かっていた。


「決まってるでしょ。貴女じゃこの子達育てられないから、外に送るんですよ。ウチがココ帰って来た時、子供の死体があったんじゃこっちも寝覚めが悪いですからねぇ」


 アルギンを愛しているとは言っても、子供には一切の愛情を見せない暁。

 声は、呆れたように冷たかった。


「ウチだってあいつの子供の面倒なんて見たくないんですよ。なのに産ませてやった事、感謝してくださいよぉ」

「っ……!!」


 もし動けたなら、暁の顔が原型を留めなくなるまで殴りつけただろう。

 碌に動けない上、麻酔が効いた体では身動ぎすら出来ない。

 子供達の泣く声が聞こえる。アルギンはそれに、残った右腕を伸ばすしか出来ない。


「……やめて、連れて行かないでっ……!! アタシと、ディルの娘達をっ……!!」

「んー? いや、連れて行かなかったらこの子達が死んじゃいますよぉ? そんな事も分からない馬鹿な所も、貴女なら可愛いですねぇ」


 嘲笑を加えた馬鹿にする声が耳障りだ。手を伸ばしても届かないのに、止められない。止めたら、アルギンはきっと正気でいられない。

 愛しい我が子。顔を見た事もない、泣き声しか知らない。その髪の色も瞳の色も、確かめる事叶わない。


「やだっ……!! ウィスタリアぁっ……! コバルトっ……!!」


 産声が遠ざかる。

 本当は分かっていた。こんな欠損した体で、自力で産むことも碌に出来なかった女が、誰の助けも無く子を育てるなど出来ないと。

 暁の温情を身勝手に恨んだ。暁にしてみれば、それが温情とは思っていない。ただ、目障りだから捨てに行くのと同じ。


「ウチの気が向いたら、この子達だけでも父親の所に送り届けておきますよぉ」


 暁が戯れに口にした言葉を、信じるしか無かった。心の拠り所にした。


「だからこの先も、ウチの機嫌を損ねる事だけは止めといた方が良いですよぉ?」


 子供達は、父親と出逢う事が出来ると。

 それは確かに、自分の側に居れば叶わない事だった。だから信じた。信じるしか無かった。


 子供達が、何処へ連れていたのは教えてもらえなかった。

 子供達が生まれて、四回目の誕生日が過ぎた。

 双子の様子を暁に聞くと、いつも彼は言いにくそうに、そして忌々しそうに、父親と共に居ると嘘を吐いた。


 自分の心を守る為に、盲目的に信じた。

 子供達は元気で暮らしていると。

 ディルと出逢って、彼を父と慕い、三人で生きて行けているのだと。

 産んであげる事しか出来なかった情けない母の代わりに、離れた場所からディルにその願いを託した。




 ――託していた。

 自分は二度と、愛する人たちに逢えないけれど、自分の居ない所で紡がれる未来を信じた。


 その祈りは、今砕かれる。


「アルギン……! アルギンっ!!」

「嫌だぁああっ、いや、だ、やだ、見ないで、ディル!! お願い、見ないで!!」


 ディルが側に居ると気付いたアルギンの半狂乱は続いていた。

 顔を覆おうとする手の指は長さが足りない。痛々しい傷跡の全てを隠す事なんて出来ないし、暴れる事で頭から被っていた毛布がずれる。露わになる傷痕は、ディルでさえ顔を顰めるもの。

 顰めたのは傷痕が酷いからじゃない。

 それが、最愛の人の肌に残るものだからだ。


「アルギン、気を確り持て!!」


 指先が残っていたら、顔を引っ掻いていただろう。椅子の上で体の許す限り暴れる彼女の手首を引く。

 記憶にある手首より、更に細くなっている。彼女の甘い香りは、消毒液の臭いに掻き消されてしまった。


「見ずに居られるものか、我が何年汝の事で悔いていたと思っている!!」

「――っひ、あ、……や……う、う、……うぅうう」

「……顔を、隠すな……。もっと、良く見せろ」


 指先で触れた俯く頬は、傷痕のせいで肉の盛り上がりが多い。柔らかい土壁を撫でているような感覚なのに、二度と離したくないほど温かくて心地が良い。

 それさえ嫌がるような素振りのアルギンは、まだ顔を上げない。ふるふると首を振り続けて呻いている。


「……生きていると、聞かされた」

「……だれ、から……?」

「優秀な情報源からだ。……アルギン……、……、アルギン。……もう、生きている間は二度と逢えぬものだと……ずっと……思っていた……。……ずっと、……逢いたかった……」


 アルギンの髪に、ディルが鼻先を埋めた。震える声を誤魔化す為だ。

 離れて、六年。あの頃と感触は少し変わってしまった。今でも傷口からの浸出液のような香りも混ざっていて、その違和感にもディルが眉間に皺を寄せる。

 六年経っても尚、塞がらぬ傷があるというのか。


「……ディル、……ディル。アタシもね、………アタシ、もね……。ずっと……ずっと……逢いたかったよぉ……」


 腕が無くとも。

 足が無くとも。

 目が見えなくとも。

 それでも、愛している。

 例え誰もが目を覆いたくなるような姿だろうと、ディルにとってのアルギンはこの女しかいない。

 ディルが手首を掴んでいた手を解き、体を抱き締める。記憶にあるより小さくて細い体は、少しでも力を込めれば折れてしまいそうだった。


「……逢いたかった。逢いたかったよぉ、ディル……。欲を言えば、その姿を見たかった。ずっと、思い出の中の、貴方を、思い出して耐えてた」

「……思い出に縋らずとも、我は此処に居る。……二度と離れぬ。傍に、居る」

「………ねぇ、ディル」


 細い体は震えている。

 言い出しにくそうに、何かをもごもごと呟いた。それは、いつぞやに愛の言葉を強請った時に似ている。


「ずっと、……ずっと、気になってたんだ。アタシ、……あのね」

「……どうした?」

「……ウィスタリアと、コバルトは、貴方の事大好きなんだって? 四歳になったよね、元気にしてる?」

「――ウィスタリア? コバルト? ……何の話だ」


 ディルにとってそれは、初対面の時のミュゼから聞いた名前で。

 アルギンにとってのそれは、最愛の人との子供の名前。

 何も知らなさそうな夫の声に、アルギンが愕然とする。


「――でぃ、……え。待って……。ねぇ、待ってよ。ウィスタリア……と、コバルト……だよ? ウィリアとバルト。ねぇ、……知ってるでしょ」

「……何の、話だか」

「………嘘」


 ディルも記憶の中からその名を持つ人物の顔を思い出す。元気かと聞かれる程親しい間柄に、その人物はいない。

 当たり前だ。

 あの二人は、フュンフが施設長をしている孤児院に違う名前で暮らしているのだから。


 それを、この場に居る人物は誰も知らない。


「……ウィスタリア? コバルト? 俺も知らない名前ですね」


 そこで漸く口を開いたのはアクエリア。アルギンは肩を震わせて、声の主の方角を見た。


「だ、……誰? ねぇ、ディル。他に誰か居るの?」

「アクエリアだ。覚えているか?」

「……あく、……アクエリア? どうして、ここに……、ううん、今は、そうじゃなくて、あの二人のことが」


 見開かれた、宝石が義眼として嵌め込まれた目で。

 震える、裂けた跡が痛々しく残る唇で。

 何度も、我が子の名を繰り返す。


「じゃあ、ウィスタリアとコバルト、どこに居るの? まだ、ほんの小さな、子供なんだよ……? 私の可愛い、あの二人は……何処に居るの……?」

「……アルギン」

「アタシと、……ディルの、子供なのに。一度も触れることが出来なかった、アタシ達の……むす、め……」


 逃れられない絶望に、触れた。

 あの暁であろうと、生まれて間もない赤子を手に掛けるだなんて思いたくなかった。だから、必死で信じた。


 夫と幸せに暮らす、我が子の居る世界を。


「っあああああああああああああああああああああああぁあああああああああああああああああああああああぁあああああああああああああああああっ!! 暁あの野郎があああああああああああああああああぁあああああああああああああああああっ!! う、っ、あ、あああああっ、あああああああああああああああああ、あぁああああああああああああああああああああああぁああ!!」


 母としての慟哭。

 腹を痛めて産んだ子が、今何処に居るかも分からない。

 自分の数えていた子の年齢が、もう時を刻む事の無い時計の針だと突き付けられる絶望。

 信じたくない。

 信じられない。

 信じたら壊れてしまう。

 自分の心を支えてくれた、子供の存在が否定される。


「アルギンっ……!!」


 堪らずディルが名前を呼ぶ。慟哭は収まることもないが、隣に佇むラドンナは表情を変えない。

 まるで全てを知っていたかのように、身動ぎすらしない。

 声の痛ましさに、アクエリアが口許を覆った。久し振りの再会で突き付けられる彼女の地獄が、アクエリアには耐えられない。


「……でぃる……、でぃる、アタシ、どうしたらいいの。ウィリアもバルトもいないの? アタシは何で生きてるの? ずっと、貴方と一緒に居るって信じてたんだよ。あの二人は何処に居るの? 寂しいって、痛いよって、今でもアタシを呼んで泣いてるかも知れない。暁に殺されたのかなぁ。アイツ、そんなに鬼畜だったのかなぁ。少しでも信じたアタシが馬鹿だったんだ。本当に、ごめん。ディルにも、謝ったって謝り切れない。貴方の娘なのに、アタシは、あの子達を守れなかった」

「……汝のせいではない。汝には、如何しようも無い話だったでは無いか」

「……ありがとう。ディルは、今でも、そう、言ってくれるんだね」


 力無く、笑顔さえ忘れてしまったアルギンは、呟くようにそう言った。

 体どころか心まで壊れかけた、弱々しい声。


「……でも、もう……、いいんだよ。ディル」


 生きていること自体が地獄だった。


「――ディル。アタシを、殺して」


 地獄で苦しむ者が、楽園へなど行ける訳が無かった。

 更なる絶望が訪れる前に、どうか。


 苦痛からの解放を願ったアルギンの言葉に、ディルが目を見開いた。



 

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