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281 ――六年前 中


 頼むよ。

 お願いだよ。


 アルギンの譫言は聞き流された。

 痛めた喉のせいか、聞き取れる言葉になっていない吐息は、時折浮かんで来る意識の合間にも繰り返す。

 体の感覚が無い。なのにたまに朦朧とする意識は感覚を取り戻させて、その度に体中を襲う激痛にまた沈む。


 お願いだ。

 アタシなんかより、ソルビットを助けてくれよ。

 アタシの為に一緒に居てくれた、大切な友達なんだよ。


 ずっと本人に言えなかった、二人の関係への呼称。アルギンは意識が戻る度にそう繰り返していた。

 簡単にアルギンの意識が途切れなくなるのは、本人の時間の感覚などとうに消え失せた後だった。


「……、………」


 窓も明かりも無い部屋で目を開いたアルギンは、自分がまだ瞼を閉じたままなのかと思った。

 闇に埋もれたままの景色は、夫の着ていた神官服を思い出させる。彼の白銀との髪の対比を思い出すと、胸が締め付けられるようだった。

 ここは何処なのか。

 自分は生きているのか。

 今は何日なのか。

 自分の体の感覚も薄くて、手を動かそうとして見た。思ったように指が動かなくて、掌を丸めるように動かしてみると右側に強い痛みが走る。


「っ……」


 良かった、右手はある。

 でも左腕は肩から下を動かそうとしても、ぴくりとも動いた様子が無い。

 掠れた記憶の中で、左腕を捥がれた時の事が蘇る。薄っすら思い出したそれが、無い筈の腕の激痛を伴って呼び起こされると同時、アルギンの喉を中から焼くように胃液がせり上がって来る。


「っぅ、ぐっ……!?」


 記憶の中から掬い上げるだけでも、耐えられない痛みだ。 

 嘔気が込み上げて来る体は動かない。吐きやすいよう転がして補佐したのは固い手だった。


「っぐ、ぅげ、う、ううう……」


 吐こうにも、これまで昏睡状態にあったアルギンの胃袋には何も入っていない。僅かに込み上げた胃液すら、そのうち引っ込んでしまっていた。

 優しく背中を擦る手はやっぱり固い。でも、自分は今誰かと一緒に居るという安心感が気を楽にしてくれる。

 やがて吐き気も落ち着いて呼吸も整う頃、その手は暫く離れ、代わりに水を吸わせた綿を口に運んでくれた。


「……っん、……ん、ん」


 直接水を流し込むのではない。いきなり飲ませるのではなく、少しずつ、水を口に出来るように。

 アルギンはちゃんと吸っていたつもりだったが、口から水が少しずつ零れてしまう。

 なんでだ、と自分に不甲斐なさを感じる頃、背中を撫でている人物の声らしいものが聞こえた。


「お加減、いかがです」


 女の声だ。女というほど成熟していない高い声。しかし落ち着いた抑揚だった。

 いかが、と聞かれても悪いと答えるしかない。実際、体はまだ痛い。気分も悪い。でも水を飲ませて貰えた事で、嫌に貼りつく口内が幾らかマシにはなった。


「っあ、い、あく、らお」


 ――最悪だよ。

 言おうとして上手く言えなくて、血の気が引いた。確かに自分の声なのに、舌が動かず言葉が不明瞭。

 痛みの感覚さえ一瞬引き潮のように遠ざかっていく。けれど潮は繰り返すもので、引いてもまた満ちていく。


「……あぁ、し」

「喋らなくていいです。負担が大きいです」


 それは彼女が見せた優しさなのだろうか、それとも命令を実行しているに過ぎないのか。

 アルギンは声の主が何者かも分からないまま、痛みを耐えている。

 腕が痛い、手が痛い、足が痛い、足首が痛い、頭が痛い。

 痛くない場所が無い。

 黙ったまま激痛に唸っていると、どこかで扉が開くような音がした。場所は近いが、それがどっちから聞こえるのかすら分からない。


「……アルギン様……!!」

「……、あ、ぁ……?」


 この声には聞き覚えがある。真っ暗な視界の中、何かが変わった気もしないが別の者が室内に入って来たらしい。

 駆ける足音がして、急に体が揺れた。まるで、横たわる寝台に飛びつかれたような。


「アルギン様、アルギン様!! ウチが分かりますか!?」

「……、あぁ、……っぃ」


 ――暁。

 名前さえ声にならない。

 悶えるように息を出していると、発音しづらいアルギンに気付いたらしい暁が息を呑む。


「……ああ、そう、ですよね。分かっています。大丈夫、口も、ちゃんと治療しましょうね」

「……ぃ、ぉ……お?」

「声帯に問題は無さそうですね。問題は口の中と、外なだけで」


 何を言われているのか分からなかった。


「口蓋裂傷は縫って塞いで貰いましたが不完全ですね。舌は無事でしたが、この三か月殆ど使われなかったから筋肉が衰えているでしょう。あとは今度折れてしまった歯を除去して、代わりの差し歯と交換しましょうか……。うん、折れた顎は大体治ってそうですね」

「……ぇ……?」

「ですが、良かった……。治療が全部済めば、また前みたいに話せるようになりますよ」


 ――前、みたいに。

 アルギンには、暁が先程言った意味が分かっていなかった。

 自分がそこまで酷い怪我を負ってるなんて事も、話の間に漏れた『三か月』という単語も。


「……。アルギン様、貴女は、この三か月間の殆どを眠り続けていたんですよ」

「――ぇ」

「時々譫言を仰るときはありましたが、こちらの話を聞く暇もなく再び昏睡されて……。ずっとスピルリナが付いていたので、貴女に何かあった時は分かるようになっていましたが……ちゃんと目覚めたのは、多分今日が初めてです」


 聞いた事のある名前が聞こえた気がしたが、今はそちらに構っていられない。

 耳にした三か月という時間の重さに息が止まりそうになる。

 三か月経っても、体がこんなに痛いんだ。動かないんだ。何があったかも分からないのに目が見えない。自分の体はどうなっている?


「……でぃ、ぅ」

「――」

「でぃう、は? なぁ、でぃぅ、あいたい」


 切れ切れの言葉で、最愛の人の名を呼ぶ。自分が生きているのなら、彼にだって心配をかけた筈だ。

 灯りもない部屋で、声のする方向に向かって必死で名を呼ぶ。最愛の夫、世界で一番大好きな人。

 けれど暁にその願いは届かない。


「……アルギン様。貴女は、ファルミアで戦死した事になっています」


 戦死。

 騎士であるアルギンに、その言葉が更に重く圧し掛かる。


「プロフェス・ヒュムネを引き付けるために、貴女はファルミアへ残った。左腕だけ発見されましたが、死体は今日に至るまで見つかっていません。……当然ですよね、貴女はこの部屋で生きているのですから」

「……っん、ぇ」

「『なんで』? 今、『なんで』と仰いましたか? 簡単な話じゃないですか」


 見えなくとも、暁が笑顔を浮かべたのが分かった。

 背中が薄ら寒くなる。


「あの時の貴女を、ディル様の元へと帰して差し上げていたら、貴女はきっと本当に死んでいたでしょう」

「――……」

「ウチだから。……俺だから、貴女を助けられた。あんな生き物崩れの何も出来ない役立たずの所になんて帰せる訳が無い。ディル様も貴女の戦死を受けて、大人しく喪に服されましたよ。まぁ、貴女もよくご存じの冷徹な性格で、その姿勢がいつまで続くか見物ですね」


 暁だから、助けられた。

 アルギンだってそれは分かる。あの時に無事なディルの顔を見れば、満足感で自分に未練なんて何も無かったろう。

 同時に胸に湧き上がるのは、じわりとしたあたたかい感情。


 ディルが、生きている。


「……そ……っか」

「……」

「でぃぅ、……いぃて、う。……っ、……ぁ、……よぁあったよぉ……」

「………、そう、ですか」

「あい、た、ぃ。でぃう、あいたい。あわせ、て」


 それだけで、自分が命を張った理由になる。彼が生きてさえいれば、自分のこれまでに意味があるように思えた。

 逢いたい。

 顔が見たい。

 声が聞きたい。

 触れたい。

 愛する人への欲求は、止め処無い。

 なのに。


「何言ってるんですか?」


 暁の声は、冷たくて。


「貴女の命は俺が助けた。だったらもう、貴女は俺のものだ。あんな役立たずの何処がいいんです。貴女の想いに応えもしない、貴女を助ける事も出来ない。ただ剣振ってるだけの男でいいなら俺だってそうしますよ」

「……」

「絶対に、貴女をあの男には渡さない。……俺は、貴女を愛している」


 熱烈な愛の言葉の向こうに、凄絶な程の恐ろしさが透けていた。あまりの寒気に、動かない体が身震いした気がする。

 見えない筈の暁から視線を感じる。自分が動けない以上、その視線から逃れる事が出来ない。


「もう二度と、何処へも行かせませんから」




 最初は知らなかったが、アルギンが目を覚ました部屋は、暁と、その人形と、時折来る、とある宮廷医師しか来ない場所だった。

 どうやら暁の私的な空間に連れ込まれていたらしい。とても静かで、静かすぎて、側にスピルリナが居なければ発狂していたかも知れない。

 暁はアルギンに触れる事は殆ど無かった。触れたとしてもスピルリナの補佐ありきの介助の為だ。愛を紡ぐ割に、アルギンの感情を無視するような行為は一切しなかった。唯一、それだけは素直に有難かった。


 現状は悪夢だった。

 暁は悪魔だった。

 悪魔は代償無しに人の願いを叶えないという。ならばアルギンにとって、暁は悪魔そのものだった。

 ディルに助かって欲しいという願いの代わりに、他の全てを奪っていく。

 たったひとつ残された希望に気が付いて、小さな幸せに縋るアルギンを、再び絶望に突き落としたのも奴なのだから。


 『それ』に気付いたのは、アルギンが意識を取り戻して直ぐの事だ。

 最初は慣れない生活と、動かない体と、それに付随する激痛と、全てに絶望した心が酷い吐き気を齎すのだと思っていた。

 食物を受け付けられず、水さえもまともに飲めない。今まで生きて来た中で一番衰弱したのもこの頃だろう。

 いよいよ自分の命も此処までか。と、終わるなら早く追われ、もう二度とディルに逢えないのなら。と、そう願っていたアルギンに吉報が齎される。


 それは、まるでこの世界に命を繋ぐための枷のような吉報だった。

 けれどその枷に希望を抱いてしまったのも、アルギンだ。


 腹の中に、自分とは別の命が宿っていると聞かされた。

 それは最愛の人との、ちいさなちいさな想いの結晶だった。



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