280 ――六年前 上
――それは、六年前に遡る。
アルセン王国の運命を決定付けた、帝国との戦争の最中。
とある工房の町で迎撃を決めた女達の話だ。
他の者が町を離れ、本隊と合流した後でも、たった二人だけ町に残った者が居た。
それは今は無き『花』隊の隊長と副隊長で、二人は己等の大切なものを守る為に命を張る決意をした。
「ねぇ、たいちょ」
副隊長の女が言う。
「あたしは、貴女を生かして絶対に生きて帰るっすよ。だからたいちょーも、絶対生きて帰るって約束して欲しいっす」
「ええ?」
隊長の女は苦笑いを浮かべた。
「約束なんか、今したくないなぁ。そもそもアタシは、お前さんを巻き込むつもりは無かったよ」
仄かに、二人も自身の死の予感を感じ取っていた。
戦場で、自分達の戦力を超えると言われる種族を相手に二人で戦うなんて無理だ。それでなくとも二人は、他の隊長のように戦闘特化では無い。
「アタシの我儘で、お前さんに何かあったらフュンフに恨まれちまうよ。……何なら、今からお前さんだけでも本隊に」
「たいちょ」
副隊長の――ソルビットの声は、優しく。
「兄貴は分かって、あたしを見送ったんだ。あたし達の覚悟を、たいちょーが勝手に値踏みしないでくんない? ……じゃないと、また怒る」
「……すまん」
「ったく」
ソルビットの表情も、とても優しく。
「許してあげますよ。あたし、たいちょーの事大好きですから」
「……」
その優しさを受けた隊長――アルギンは、一度目を丸くした。
そして微笑む。
「ありがと。アタシも、ソルビットの事大好きだよ」
副隊長の言葉の裏までもを読み取れない、鈍い隊長だ。
その鈍さを分かっていたから、ソルビットの表情には複雑な感情が現れる。いい歳してまで鈍感な所への失望と、鈍感だからこそ気付かれなかったという安堵と。
「……。はぁ」
「え、何その溜息。アタシ何か変な事言った?」
「いいえ、何にも」
入り混じる感情を呑み込んだソルビットは、己の隊長を憐憫入り混じる鳶色の瞳で見た。
やっと想い人と結婚できたというのに、こんな選択で愛を示そうとする不器用さは、本当に哀れだ。
守りたい、側に居たいと、そう思いながらディルの盾になろうとする。その不器用さが、ソルビットにとっては愛おしい。
例え、自分に振り向いてくれることが無かろうと。
「……ねぇ、たいちょ」
再度、ソルビットはアルギンへと声を掛ける。
「もし。……もし、っすよ。この戦いが無事に終わったとして、生きて帰れて。そしたら、何か欲しいものひとつだけ貰えるってなったら、何が欲しいっすか」
「ええ? ……欲しいもの?」
「希望、持っていきましょ。いい事ばっかり考えてたら、……きっと、その手の震えも消えます」
「……」
ソルビットは気付いていた。
強がりばっかり口にする、この鈍感で粗雑で頭が悪くてどうしようもなく一途な女が、自身の死の恐怖に怯えている事を。
見抜かれていた罰の悪さに、アルギンは自分の手を胸の前で握り締める。そんな事では今更止まりようのない震えだったが、彼女は無理に口角を上げる。
「欲しい、ものか。……欲しいものなぁ」
アルギンは言葉を詰まらせた。
ソルビットも、その詰まりが『欲しいものを悩んでいるから』ではないことが分かっている。
「アタシの『欲しいもの』なんて、……『もの』って言い方したくないけど、今はひとつしか思い浮かばないよ」
こんな所でさえ、アルギンは一途だった。
「アタシはね」
他愛もない話をしていたソルビットは、先に倒れた。
「ソル、っ……!!」
何度も戦場を経験しても、幼い頃住んでいた村が燃やされても、仲間――それも、自分が選んだ副隊長――が倒れるのは耐えられない。
プロフェス・ヒュムネから逃れられなかったソルビットの、喉が破れるかのような絶叫は、アルギンでさえ耳を塞ぎかけた。当たり前だろう、自分の足が捻り取られるのだ。
離れた場所で戦闘しているアルギンも、プロフェス・ヒュムネ三体と交戦中だ。目を離してはいられないのに、副隊長が地に倒れる瞬間の音に視線が勝手にそちらへ動いてしまった。
――その瞬間。
「――っあ」
蔦に絡め取られたアルギンの利き腕が、そのまま彼女の体を宙にぶら下げた。
短刀を持っていたから狙われたのか、肩と肩近くの腕とを同時に蔦を絡ませられる。蔦というには女性の腕ほどに太くて、自在に動く凶悪な緑色だ。
「っ、この、っ! 離せ畜生!!」
蹴り上げようと足を上げても、緑色はびくともしない。力を次第に込められて、手は短刀を取り落としてしまった。
「っ……く、……ぅっ……! い、たい……!」
痛い、と小さくしか呻かなかったのは意地だ。締め上げられる腕には激痛が走り、みしみしと骨が軋む。
――骨が破砕する音に変わるのは、その直後。
「っぐ、うううううううううううっ!!」
先に腕を砕かれた。
そのまま締め上げる緑色は、アルギンの絶叫などお構いなしだ。
鬱血する左腕。その肉さえ縛り上げるように、限界まで締め上げられたアルギンの意識は途切れかけていた。ひぐ、うぐ、と苦痛しか漏らせなくなった喉が、浅い呼吸に震えている。
しかしその呼吸も、またすぐに絶叫へと変わった。
次は、その腕が締め上げられた箇所から引きちぎられたのだ。
「っ……―――――!!」
声にならない叫びだった。
これ程迄の痛みを訴える言葉も、声も、持ち合わせていない。
そこまでされて漸く、アルギンがプロフェス・ヒュムネの拘束から解放された。それで責め苦の全てが終わった訳では無かった。
気が遠くなる。
痛みを訴える箇所が増えた。
自分がどういう姿をしているのかすら分からない。
気付けばアルギンは、地を芋虫のように這っていた。
残った右手には、全ての指の半分から上が無かった。戯れに毟られてしまったらしい。
それでも地を這う、足の感覚が無い。
膝から下がどうなっているのか、見るのも怖かった。
自分の全容がどうなっているのか、考えるのも嫌だった。
周囲にいたプロフェス・ヒュムネは、アルギンとソルビットを弄ぶのに飽きて町を離れようとしていたようだ。
赤色に染まり霞んだ視線の先に居るソルビットは、既に虫の息。自分も芋虫のようだから変わらないな、と、アルギンがどこか冷静な頭で自嘲する。
ここまで来ると痛みも麻痺して、あとは死ぬだけだと思った。ソルビットの側に近寄って、その体に触れて、自分のせいで命を落としかけている腹心に詫びた。
「……っ、……ぁ、……ぉ」
声が、出ない。
どれだけ自分は、拷問と呼べる行為を行われていたのだろうか。ソルビットは、どれだけ苦痛を耐えていたのだろうか。
このまま、二人死ぬだけなのだろうか。本隊は体勢を整えられただろうか。
「……そ、……ぉ、……お。……ご、あっ……」
喉に血が絡む。
息がまともに出来ない。
今際の際に、これまで生きて来た世界を見ると言われる走馬灯まで見え始めた時だった。
――いいかい、アルギン?
覚えのある声が蘇る。
――君に今から精霊魔法を教えるよ。私が契約している精霊を君に譲るね。
育ての親であり、兄と慕ったエイスの声だ。
遠い、遠い昔の記憶だった。自分さえも忘れていたような、恐らくは彼の秘密を知ってから無理矢理な形で仕官させられた時の話だ。
――あのね……。……、いや、やっぱりいいや。ねぇ、アルギン。君に渡すのは……水、うん、水の……精霊だよ。
歯切れの悪い兄を覚えている。でも、その時はアルギンが仕官する事への動揺がまだ抜けきっていないのだと誤魔化された。
自分がもっとしっかり秘密を守れていれば、と何度も謝られた。
――でも、精霊魔法を無理に使おうとしないで。契約しても魔法に頼ろうとしないで。使えない方がいいんだから。ね?
念押しのように何度も繰り返された。
兄はひたすら『水の精霊だからね』と言っていた。
心配してくれる兄には悪いが、しつこいな、と思った。だから自分が契約したのは水の精霊だと疑わなかった。
でも水の精霊に呼びかけても、まともに魔法が発動する方が少なかった。その時は自分にはその才能がないのだと思っていた。
――なのに、何故。
血に塗れた今になって、『その事』を思い出したのだろう?
「……ぁ」
声はまともに出ないが、思念する事は出来る。
息が途切れる前に、意識が飛ぶ前に。
ソルビットの体を覆うように、上に被さる。痛みなんて感じられない。ただ、大切な腹心を守ろうとした。
記憶の中の兄は続けた。アルギンの額に手を添えて、笑顔を浮かべていた。
――さて、アルギン。ここからは忘れた方がいい話だよ。
添えられた手に、何か意味はあったのだろうか。
意味があったとしても、今のアルギンが知らなくてもいい事。最早、全てが手遅れなのだから。
――その精霊は、優しい君が手に入れるには凶悪な力だ。でもそれだけ、私は君を心配しているんだよ。
アルギンの口が動く。相変わらず吐息だけで言葉は出ず、それでも何かを象る唇は大きく裂けて歯列が見えていた。
――全部、全部。君が嫌になったらその名前を呼んでごらん。君に従えさせた、僕が名付けた闇の精霊の名前を。
全部嫌になった訳では無い。でも絶望はしている。もうここで自分は死ぬのだと思ったから。
死んだ後にでも愛しい人の所へ戻れたら、それでいい。その前に、討ち取り零した敵だけはぶち殺す。
ディルの所へは、絶対に行かせない。
「……――ぁ、ぉ」
その正体すらアルギンも知らない闇の精霊が、自分のような混ざりのエルフの声に応えるのか半信半疑だった。そもそも、闇の精霊とはダークエルフ以外に応えるのか。
分からないけど他に無い。アルギンに残された時間は僅かだった。
必死の思いで、出ない声で、その名を呼ぶために口を開く。
「――う」
――呼んで。呼んで考えてごらん。その力で、君はどうしたい?
そんなこと決まっている。
死を。
自分が憎くて殺したい相手だけに死を。
今側に居るソルビットは関係無いから、どうか今この町に居るプロフェス・ヒュムネだけを。
だからどうか。
力を貸して。
「――」
それは声にならなかった。
けれど掠れた吐息で口から出た音を、精霊は自分の名前と理解したのだろうか。
これまでアルギンが流した血。
今流れ出ている血。
地面を汚した血。
ソルビットに触れて落ちる血。
それら全てが蠢いた。
蠢く赤色は自分達に下された指示を明確に理解したかのように、その姿を変える。
血溜まりは雫となり、雫は粒となり、霧となる。
小さな小さな赤色が町を埋め尽くすまで、一分と掛からない。
逃がすな。
殺せ。
アタシとソルビットを襲ったプロフェス・ヒュムネを。
アルギンがその死の手段について言及しなかったから、血霧は町中に広がった。
そして町を抜け出そうとするプロフェス・ヒュムネ達を逃がさない。
血霧は彼等に付着する。付着した血は、その途端に姿を変える。
霧は粒に、そして雫に。雫は、刃に。
血の刃となった霧の塊は、捉えた異種族を切り裂いた。それは呼吸をすることで体内に侵入した血液も同じ。
内外から切り裂かれたプロフェス・ヒュムネは、命からがら逃げだした者達を除いて町で命を落とした。
けれど、それをアルギンが視認する事はもう出来なかった。
「――ぅぁ」
町が、プロフェス・ヒュムネが、本隊がどうなっているかももう分からない。アルギンはソルビットの体の上で力なく横たわった。
耳に聞こえる彼女の途切れそうな呼吸だけを聞きながら、命の終わる瞬間を待っている。死ぬ時は一緒だと、約束した。じゃあ、自分は彼女を置いて先に逝く訳には行かない、と。
目を開けていようが閉じていようが一緒だった。もう、何も見えない。
辛うじて音だけは聞こえる。そんなアルギンの耳に、誰かの足音だけが聞こえた。
「――『花』隊長」
聞き覚えの無い声だった。あどけない少女の声のようでありながら、抑揚が殆ど無い声だ。
それも自分をこう呼ぶ人物だとしたら、城仕えの誰かかも知れない。
顔を見る事すら出来ない。首が動かない。
「お迎えに上がりました。貴女を、お救いしろとの御命令です」
「……ぁ?」
「貴女を死なせるなと、マスターから言われました」
救え、と言われて浮かんだのは、この激痛から救われるのかという希望。
マスターって誰、と、浮かんで当然の疑問が掻き消える程に、その希望は眩しかった。
「参ります。痛いかと思いますし、揺れますが、暫し我慢をお願いします」
「……っ、て、ま」
辛うじて出た声は、アルギン自身が耳にしたとしてもその意味が分からないただの単音。
しかしアルギンを抱きかかえた、まるで陶器のように滑らかな肌をした腕の持ち主は、その意図を汲み取れたようだった。
「『花』副隊長は救いません」
「……ぇ」
「お救いしろ、と言われたのは貴女だけです。どの道、『花』副隊長は長くない」
やだ。
どうして。
ソルビットを助けろよ。
アタシの大切な副隊長なんだよ。
アルギンの声はもう出ない。気が緩んだせいか、意識を失うほどの痛みが再び襲って来た。何も見えない視界と、経験した事の無い激痛に意識は簡単に飛んでいく。
走り去る、黒を纏った小さな人影の後ろ姿を。
その腕に抱かれたアルギンを。
ソルビットは霞む視界で、僅かに捉えていた。
それが、ソルビットが最後に見たアルギンの姿だった。