277 嘲笑と無感情と
――ぺちゃり、ぴちゃりと音がする。
血と緑に染まった謁見の間で、女は一人だった。室内だというのに壁や床には所狭しと蔦が這い、床には草が雑然と生えている廃墟を思わせる異様な光景。既に城下ではありふれた異様さは、この場所に凝縮している。
中央に腰を下ろしている彼女は、この室内にある死体を掻き集めていた。
此の場に転がる死体の数は相当だ。そのひとつひとつを、彼女の足許から出ている木の根や周辺に生えている蔦のような物体が集めている。
部屋の中央に集められ、山となったその死体が次に行き着くところは。
「っ……許さない……許さない、アイツらぁっ……!!」
呪詛を呟く唇が、死体を握る手指が、自分のものではない血で真っ赤に染まっている。
階段上の玉座には遺体が座らされていた。
王妃の玉座に、ミリアルテア。胴と切り離された首は、眠っているだけのような顔で行儀よく膝の上に鎮座している。
それ以外の遺体は一絡げだ。騎士隊長も副隊長も、皆仲良く女の口に運ばれようとしている。
「殺して、やるんだからぁっ……! 皆殺して、殺して、全部、消してやるっ……!!」
――その為には、体力が足りない。栄養も足りない。
がつがつと口で咀嚼する、生臭い肉は好みでは無いが急ぎの食料として最適だった。何しろ、こんなに大量に転がっているのだから。
彼女が患った病は、今も完全に癒えた訳ではない。ある日触れた液体が、体の中を侵食してしまってからというもの、能力の制御が出来なくなっている。
自在に植物の体を操れる、プロフェス・ヒュムネとしての能力。
完全な植物の根になってしまった足は、動きはすれど元の形に戻る事は無い。
彼女――マゼンタは、今でも徐々に植物になろうとしていた。
でも、その前にやりたい事が残っている。殺りたい人物がまだ生きている。
姉であるミリアルテアが殺された。
もう一人の姉であるオルキデの姿が見えない。
途中合流してまた離れたロベリアはまだ側に帰って来ない。
準備が整うまで、悪食の怪物になるしかない。殺さなければならない相手の命を狙うにも、万全の体制ではないマゼンタ一人では心許ない。
どうか。
どうか、無事にロベリアには戻って来てほしい。
そう願いながら謁見の間に居たというのに、開いた扉の向こうから現れる人物では待ち人では無かった。
白銀の髪を靡かせた上半身裸の死神と、くすんだ金の髪を持つ浅黒い肌のダークエルフ。
顔にだけは見覚えのある短い金の髪の女。そして、血筋こそは近しくとも親しくは無かった濃紺の髪の同胞。
マゼンタが視線を向けた四人は、皆一様に不快感を表情に現していた。
「――元から、人の心を解さぬとは思っていたが。その実、此の様な化け物であったとはな」
ディルの口が嘲りを以て開かれる。
口を真っ赤に汚したマゼンタは、その嘲りが自分に向けられたものだとは思っていなかった。化け物、だなんて自分には相応しい称号では無かったからだ。
自分は、滅びた国の王族だ。
同胞の次代を担う、要の存在だ。
そこら辺に居る有象無象とは違うのだ。マゼンタと比べれば、他人の価値はゴミと等しい。今までの熱心な『教育』のお陰で、その価値観は揺るがない。
それに。
「……化け物だなんて心外ねぇ?」
この男にだけは、肉を喰らっただけで、化け物呼ばわりされたくなかった。
「そっちだって、マスターの、アルギンさんの腕、食べたじゃない。私が化け物ならそっちだってそうよ。大好きな奥さんの味はどうだったの? 美味しかった?」
「………」
「美味しかったでしょうね!! こんなゴミみたいな奴等の肉とは比べ物にならないでしょうね! なんなら食べ比べてみる? 今ならどれだけ食べても簡単に無くなりはしないわよ!!」
「……」
ディルは、妻の肉を食った。当時の騎士達の間でも、忌むべき話として囁かれていたものだ。
アクエリアも顔を顰め、ユイルアルトは初耳だとばかりに目を見開く。アールリトは、無表情だった。
「……其の体を墓標とし、身を以て死者を慰めるのかえ? 流石、肥料に成りさえすれば何でも平らげる草の民の広い心は、一味も二味も違うな?」
見え透いた挑発を受けたディルだけが、かすかな嘲笑を唇に浮かべていた。
その顔にマゼンタが驚く。今までマゼンタの目の前ではニコリともしなかった男が、嘲笑といえど微笑んでいるのだ。
「貴様の虚栄と腹を満たすための食肉と、我が妻に行った行為を同列にするな。貴様の頭の出来に同情心さえ湧きそうな程だ。尤も、汝の頭に湧いているのは蛆虫かも知れぬがな」
「っ……はぁ!? 何それ、私を馬鹿にでもしてるの!?」
「うふっ」
激昂したマゼンタに、ユイルアルトが肩を揺らして噴き出した。途端に紫色の瞳が目付き鋭くユイルアルトを見る。
見られた側は恐怖さえ感じていない。幾ら相手が獣とはいえ、手負いが睨んで来ても怖くないのだ。
「ああ、すみませんね。いえね、少し前に私もジャスから似たような事言われたなって思ってしまって」
「……何の話よ」
「『私を馬鹿にしてるの!?』だなんて言われて。そんな馬鹿が使うような言葉を使うから馬鹿に見えるんだって言い返してやったんです。ジャスは頭いいからそんな事言う必要は無かったんでしょうけど」
ユイルアルトの笑みが嘲笑に変わる。
ディルのものとは比べ物にならない、人を不快にさせる為だけの笑顔だ。
「貴女は駄目ですね、マゼンタさん。貴女は本当に馬鹿にしか見えません」
笑顔で吐き捨てた彼女は更に続ける。
「二度と近寄らないでくださいね。知能が同類だって思われたくないですから」
「っ……!! っ、!! 誰かと思ったら、その嫌味な口調はユイルアルトねっ……!! 貴女誰に対して口利いてるのか分かってるの!?」
「まぁ、一応。ああ、そうそう」
次に口にするそれこそ、マゼンタの逆鱗に触れるもの。
「ロベリアさん? でしたっけ。顔に菊の文様あった人。私が最期を看取りましたよ」
途端、喧しく喚き散らしていたマゼンタの言葉が、その息ごと一瞬止まった。
単語のひとつひとつは理解出来るのに、それら全てを繋げて出来る文章が理解出来ていない。
その理解が追い付いてきた頃。
「……何……ですって……?」
声を怒りで震わせたマゼンタが、目を剥いていた。
「やっぱりお知り合いでしたか。女性の名前を呼んでいらした気もしますが……」
死者を冒涜するのは本来ユイルアルトの趣味ではない。けれど、今のマゼンタの理性なら簡単に乱せそうだと思って言葉を連ねる。
「『紫廉』と、呼んでいらしたでしょうか? 聞き慣れない異国の名前は覚えるの大変です。最後まで、痛いと呻いて虫のように藻掻いていた姿は覚えているんですけどね」
「――……」
「ふふっ、植物の民を虫に例えるのは失礼でしたでしょうか? ですがそれ以外に例え方が分からないんですよ。でも例えられる虫だっていい迷惑ですよねぇ」
絶句するマゼンタ。それまで手にしていた死体の一部を投げ捨てた。
異様な音を立てて身を起こす彼女の下では、足の代わりに巨大な木の幹が華奢な体を支えている。
「……ロベリアを、殺した、ですって? ロベリアが死ぬ訳ないじゃない。私を置いて死ぬなんて有り得ないわ。ロベリアは、私のなのに。心も体も、その命も」
「残念ですが、叔母様」
ぼそぼそと呟くマゼンタに、次に声を掛けたのはアールリトだった。
「ロベリアさんは、弱かったですよ?」
嘲笑を浮かべていたユイルアルトとは違って、アールリトの表情は義務感だけで事実を伝えているような無表情だった。
最愛の人の死を、まるで弱かったせいだと分析するように語り掛けるアールリトに、マゼンタの正気が掻き消える。
「っ――アールリトおおおおおおおおおおおおっ!!」
――葬送の鐘が鳴る。鼓膜を震わせる下劣な鐘の音は、未だ収まる事が無い。マゼンタの叫びに呼応するように、がらん、がらんと品の無い騒音を立てていた。
謁見の間に生える全ての植物から殺意を感じる。葉も茎も全てが四人に向いている。
自らの姿も殆どが植物に成り代わられ、異形の化け物と成り果てたマゼンタの姿に、ディルが溜息を吐いた。
「此れ迄は嘲りを言う側だった者が、言われる側に立って激昂するとは……救いが無いな」
「……こんな人と暫く生活を共にしていたなんて、自分が嫌になります」
アクエリアの苦悩も口から零れる。
かつては近くに居ただけで、交流らしい交流も碌にしていなかったが、同じ空気を吸っていた事実に頭痛がした。
表向きの顔さえ保てなくなったマゼンタの中身は、四人には耐えきれない醜さだ。
「……ディルさん、短剣だけで本当に戦えますか」
「………」
「おい」
この戦闘が最後だと思っていても、装備の乏しさには勝機が薄く感じる。
ディルの手にある短刀は、妻が使っていた時のままだから握りの形が合わない。なのに彼女の手を握っているような不思議な馴染みを感じる。
もうすぐ、逢える。それだけで、疲労したディルの体にも気力が湧いてくる。
「勝つ」
ディルの決意は、それだけで表せる。
アクエリアは自身も疲労困憊だというのに、諦めたように頷いた。
「負けたら殺してやる」
「其れは困る」
目配せし合う男二人の眼前では、マゼンタの両腕が広がった。その腕は樹皮のように色が褪せ、形が変わり、表面が剥げる。ぼろぼろと数多く床に落ちる木肌が、その変化の異常性を物語っていた。
最早、元の形は人型をしていたと言っても信じられない程の姿だ。これが、プロフェス・ヒュムネの国ファルビィティス、次期女王だったマゼンタの姿。
「――!! ――! ――!!」
高音の葉擦れのような声が、彼女の口だった洞から漏れる。その洞ももう動かないが、その他の部分は動く。手だった場所、足だった場所、他にも彼女の意を汲んで動く場所。
滅びた国で民を支える王になる筈だった女が、悪意を以て四人に禍々しい樹の腕を伸ばした。
「……アールリトさん、アールリトさん」
前衛はディルとアクエリア。後衛ではユイルアルトを背に守るようにアールリトが立っている。
後衛とは名ばかりの戦力外扱いではあったが、ユイルアルトが王女に声を掛ける。
「どうしました? 危険だと思いますから、ユイルアルトさんは下がって……」
「違うんです。私に、少し考えがあるんです」
背中に守るユイルアルトの、瞬く瞳は決意を孕んでいた。
「少し、お力を貸して貰えませんか。……さっき、暁さんと戦ってた時にしたみたいに」