275 悪魔の死に様
徐々に世界が反転する。
足元が崩れて、深みに落ちていく感覚。
暁にとってのそれは、幻覚ではなく現実の話。
テラスの床を破壊した支柱と共に奈落へと落ちる暁は、ディルだけ飛び上がって退避する姿を見た。
ならば、自分も逃げなければ――と思ったのに。
「――『疾』!!」
最大級の殺意が、暁を襲う。
剣を握り締めたディル、その柄が光る。嵌められた魔宝石が彼の言葉に呼応して眩く光った。
その柄を握った体は、飛び上がった空中でくるり、と宙返りする。足元で踏ん張る事も出来ないのに、その動きはまるで雑技団か何かのようだった。
美しい白銀の髪が翻る。髪に隠れていた、ディルの灰色の瞳が、暁の濁った緑色をした瞳を捉えた。
ディルの手から、剣が離れた。
否、放たれた。
空気を裂いて直線に放たれる刃は、剣と言うよりも弩のようだった。切っ先は閃光のように、暁に向かう。
暁の痛みは、テラスの床が崩れたような一瞬では終わらない。
ディルの渾身の一撃が捉えたのは、落ちていく暁の足。膝から上、太腿の半ばを剣が貫いていった。
血が散った足は分断されていて、切り離された箇所と共に暁が落ちていく。
「――」
見開かれた瞳は、状況が理解出来ていないようにも見えた。
目の前の復讐に燃える悪鬼を恐れて潤んだようにも見えた。
けれど、たったひとつ、誰の目にも明らかなものがあって。
「――、ふ」
ディルが見た最期の暁の唇は、微笑んでいた。
「……」
不気味なものを見た、としか感想を抱けないディルは、空中で暁の白い頭が奈落へと堕ちていく様を見ていた。
悪魔のような男だと思っていたが、死に際まで不気味なものだとは思わなかった。微笑みを浮かべた暁の顔が瞼の裏から離れなくて、首を振って忘れようとする。
まだ、全部が終わった訳じゃない。それに今の状況を、ディル一人では打開しようも無かった。
「アクエリア」
空中に留まったままの戦友へと声を掛ける。
息荒く、ともすれば気絶するのではないかと思える程の顔面蒼白だ。魔力の使い過ぎで負担が酷いのだろう。
ディルが声を掛けて、やっと彼が意識を戻した。瞬く黒の瞳がディルに向いている。
「……ど、う、しました」
「此れは、如何すれば床に戻れる」
「……あ」
崩れる床から逃げようとした。そこまでは良かった。
問題はそこからで、テラスには既に着地できる床が無かった。アクエリアが放った旗の支柱で、ほぼ全面が砕けた。
そこでディルにとっては理解出来ない効果を発揮したのは、アクエリアの魔力を注がれて捻くれてしまった義足だった。この場所が危険だと理解した義足は、己の中にある魔力を消費しながら所有者を床に接地させない事を選んだ。
結果、ディルは無くなった床と共に落ちる事もなく、空中に留まっている。空中で体勢を保つのも、なかなか難しい。
「……待ってください。大丈夫です、床……、そう、床さえあれば、大丈夫。集中すれば、自分ででも動けるんじゃないでしょうか? テラスの入口、あそこに、行けませんか」
「……」
怨嗟の絶叫から、アクエリアの声が掠れている。最愛の女性を間接的に手に掛けられて怒りが抑えきれずにいた。
ディルの救助要請を受けて、掠れた声で応対するアクエリアの目は赤く充血している。そんな男性二人を、所在なげに女性二人が見ていた。
「……私達も、下りられなくなっちゃいました」
「困りました」
床を破壊されては、廊下までも戻る事が出来ない。アールリトは蔦を頼りに移動できても、ユイルアルトはもう無理だ。二人にも疲労の色が濃く出ている。
途方に暮れる二人に近寄るアクエリアは、有無を言わさず一人ずつ小脇に抱える。彼女達も大人しく、愛玩動物か何かのように大人しく輸送された。
ディルは自分で動くことを余儀なくされ、試しにアクエリアのように念じてみた。しかしディルが元から魔力を持たぬからか、それとも義足がそこまで捻くれたのか、一切の動きを見せない。
「……『移動』」
口頭で命令して漸く、義足の癖に渋々といった調子で動き始めた。
のろのろと、アクエリアの魔力を食ってやっと動くのは、まだ新しい魔力に慣れていないだけなのか。それとも所有者であるディルに似てしまったのか。
アクエリアの背中を追うような速度で、やっとテラスの入口に辿り着いた。先に扉を開けられて、最後に城内に入る。
漸く地に足をついた感覚が戻って来て、軽くなった体の感覚も感慨深い。
「……ディルさん?」
一番最初に気付いたのはアクエリアだった。
「剣、どうしたんです」
肌身離さず、とまで言っては過剰だが、それほど側に置いていた剣だった。
しかしディルは事も無げに言う。
「くれてやった」
二度と戻って来ないだろう。あの暁が律義に返しに来るとも思わない。何と言えばそれらしく聞こえるか考えて、その言葉を選んだ。
アクエリアは少しの間反応に困っていたが、少しだけ肩を揺らす。
「……それは。さぞ、喜ばれたでしょうね?」
アクエリアの言葉にも、暁が普段どう思われているかが透けて見えるようだった。
目を閉じたディルは、最後に見た暁の顔を掻き消したいかのように首を振る。
「……ふん。過ぎた話だ。もう行くぞ」
奴は思わせ振りな態度を取りながら、何も確信に触れるような事は言わなかった。聞いた所で暁も言わなかったろう。その首に刃物を突き付けても、口を割るかは怪しい所だった。
ならば聞く必要が無いと切り捨てたのはディルだ。もう、その選択は覆せない。覆す気も無い、が。
「……」
今でも、嫌な予感が消えないのは何故だろうか。
武器が減った事に無意識に不安を感じているのだろうか。あとひとつ、妻の短剣が残っている。カリオンも暁も王妃も居ない今、必要以上に恐れる相手など居ない筈なのに。
「マスター、アクエリアさん。次って……何処に行くか聞いてもいいかしら?」
口を開いたのはユイルアルトだった。アールリトは先程から、アクエリアの立ち姿を上から下までじっと見ている。見られている方も気付いているが何も言わずに目を逸らしていた。
ディルも、二人の様子がおかしい事に気付いたが何も言わない。こればかりは、ディルの出る幕は無い。
「……仔細は、伝えかねる」
「どうして? 今更じゃないですか?」
「其処な王女殿下の為だ」
「アールリトさんの?」
「気が触れるやも知れぬ」
今まで死んでいたと思われた、彼女にとって親しい友人であるディルの妻。
彼女が生きていると知り、その元凶を知らされれば正気ではいられないだろう。憎むべき相手を今まで、自分達王家の傍に仕えさせていたのだ。
話すのは、彼女に心の余裕が出来てからでいい。少なくとも、アクエリアに何かを感じ取った今ではないと思った。
「気が……?」
ユイルアルトは首を傾げた。王族の住む城の中で、気が触れるような事があるのかといった顔だ。
今この場で詳細を語っている余裕は無い。ディルは焦れていた。
障害は、最早全て消え去ったかのように思えたから。
「急ごう」
ディルはそれだけ返し、足早に廊下を進む。
暁を倒した後に来た安堵のせいか、城内に蔓延る蔦がこれまで見えていなかったものまで見えている気がした。
眼中に無かった蔦が、急に見えるようになった訳では無い事に気付くのにはもう少しだけ時間が掛かる。
その時、城内の蔦は、確実に増えていたのだ。
「……っ、か、……は、っ……」
――その頃、奈落。否、城外。
暁は城の周囲に生い茂る樹々の間に落ちて、なんとか息だけはある状態だった。
共に落ちた旗の支柱は上の方で引っかかって、切断された足は何処へ行ったか分からない。
体を受け止めた樹木と思われる肌は固く、そこに背中から落ちた暁は血を吐いた。もう、長くない事は自分で分かる。
「……っ、ぎ、ん……。ある、ぎ、……」
最期の時までも、最愛の人の名を呼ぶ。
彼女に入れ込んだ時から運命は決まっていたのかも知れない。けれど、気を失いかける程の激痛を訴える足の切断面が、暁の頬を緩ませる。
「……ああ、……ある、ぎん。アルギン」
目の前に彼女が居たら、呪いかと思われるだろう言葉を吐いた。
「『こっち』、だけ、お揃いですね……?」
痛みよりも先に喜びを覚えた程度には、暁は狂っていた。
けれどこれは最初からではない。
きっと、彼女を傍に置いた時から。
誰にとっても取り返しがつかなくなった時には、もう手遅れだった。
「ごめん、なさい……ある、ぎん」
口に上った謝罪は、これまでの事を懺悔するのではなく。
「やくそく、守れ……ませ、……ん」
彼女と交わした約束を反故にすることについての謝罪だった。
荒い息で、意識が途切れるのを待つだけの時間。暁にとって残された時間は短い。
霞む視界の中、どこか遠くで、木々が傷つくような軋む音を聞いた。
「――っ、は、……」
暁が、自らの終わりを悟る。
ディルとアクエリアの殺意が、暁を迎えに来たのだ。
今、暁の霞む視線の向こうでは、上部で止まったままだった支柱が滑り降りて来ようとしている。木の肌を滑り下り、枝を圧し折りながら近付いていた。
遠くで聞こえていた音が、轟音となり近くに。
刃物でも無い殺意が、暁の命を刈り取りに来た。
恐怖は無い。
悲しくも無い。
ただ、暁の心にあったのは、最愛の人と交わした約束を守れなかった事についての無念と。
「……ふ」
これから何が起こるかを予想できてしまう、愉悦。
自分が死ぬだけで全て丸く収まって幸せなまま終わる、そんな物語など存在しないと。
ディルの絶望に歪む表情が見られないことも、心残りのひとつに入ってしまう。
――先に逝って、待っていますよ。
愛しい人に伝えられない言葉を、心の中で。
――だから、すぐに来てくれますよね?
その言葉が心の中に現れた時には、支柱の先は既に暁の鼻先まで落ちて来ていた。
重い物が落ちる音と、何かが激しく潰れる音の直後に、静寂が訪れる。
直後に木々の肌の上を滴る、血の雫。
赤黒い液体が幹を流れ、やがて、支柱は再び奈落に向かって滑り落ちていった。
残ったものは、テラスだったものの破片と、暁だった肉塊。
死に目は勿論、死体さえ確認できるものは誰も居なかった。
その死を惜しむ者すら。