273 確約された絶望
アクエリアの瞳には見えていた。
暁が呪いのような文言を口にした瞬間、ディルの義足から魔力が放出されるのが。
魔力はアクエリアには視認できる、緑色の透明な靄となって義足から抜け出てしまった。途端、ディルが床に崩れ落ちる。
「……」
こうなる事は分かっていた。
分かっていて、アクエリアはディルに指示したから。
――貴方の側に行くまで。暁さんに剣を向けないでください。
この状況はアクエリアの存在があってこそ打開できる。その自負があった。
「貴方は絶対に、『アルギン様を殺す』んです。ウチは絶対にそんな事させない。あの人には命尽きるその時まで、ウチの側に居て貰うんです。貴方は絶対に、アルギン様の側に居させない」
暁は怨嗟を呟いている。ディルに対する妬みと恨み、その両方が絶え間なく繰り返される。
ここまで執念深い男を嘲笑うべきか、それともここまでの怨念を抱きながら表面上は友好的に接していた胆力を褒めるべきか。
どちらにせよ、愛する人と宣う人物の名前に添える言葉としては物騒で、確かにそれは普段口にしない言葉で、一大事を起こす文言に相応しいとアクエリアが変な所で感心した。
アクエリアが見ている間にも、暁は糸の間を潜ってディルに近付こうとする。どの糸を潜れば安全か、彼の頭には全部入っている。
「……殺すだの何だの、本当に分からねぇ男だ」
暁の思考は、アクエリアにもディルにも理解出来ない。
妻を――アルギンを殺すなど、何があっても無いと思っている。今までずっと彼女を求め続けたディルなら尚更に。
けれど何かしらの確信があるような暁は同じ言葉を繰り返していた。
「そんなに死にたきゃ殺してやるよ。――死ぬのはお前の方だがな」
言うが早いか、アクエリアはテラスのディルの側に降り立った。上空から投げられた岩が地に落ちたような鈍い音を立てて床が崩れる。
「ディル。いつまでも寝転がってんなよ、立て。じゃねえと、お前を待たずにあいつを殺す」
「――ふ」
「何がおかしい」
アクエリアの昔の話はきっと、ディルはミュゼ以上を知らない。
けれど時々今のように口調を崩す事があって、それが彼の素なのだろうというのは分かっていた。
「砕けた口調の汝は、久方振りだと思ってな」
「……ふん。口調だなんてもの、お前含めて誰も気にした事が無いだろ」
「我は、普段の汝の方が好ましいのだろう。今の汝に違和感しか無い」
アクエリアがそんな風に言葉を崩すのは――ミュゼの事があるから。
ミュゼは短い時間で、捻くれたアクエリアの心を掴んだ。ディルにとってのアルギンのように、ミュゼはアクエリアの心を包んで温かく癒した。彼女の為になるなら何でもする、と改めて誓わせるほどに。
「……アクエリア。我は、暁の首を譲ってやる気は無い」
「……。そうか」
「然し、汝の『心』は――分かる。己が意志では止められぬ怒り、漲る殺意――ああ、此れを『憎しみ』と呼ばずして何と呼ぶのか。汝が抱えているものが我と同じだとしたら、譲る譲らぬの話では無い」
アクエリアはその場に片膝を付く。傅く為でなく、戦友の身を案じる為に。
ディルの義足がある方の服の上に、掌を翳す。
「共に、倒そう」
「……」
「抱えている感情が同じなら、我等がいがみ合う必要も無い。我等は、一人ではない。大切な者の存在を忘れて、一人で突撃するほど愚かでもあるまい」
アクエリアが瞼を半分伏せた。
ミュゼから言われた言葉が、彼女の声で思い出される。アクエリアはディルを見捨てたりはしない、アクエリアとして生きて欲しい、と。
アクエリアがアクエリアとして生きる、その意味はまだ分からないが、ここで頭に血が上ったまま暁を手に掛けるのは違う気がした。少しだけ、冷静さを取り戻す。
「……都合のいい事を言って、俺を出し抜くんじゃありませんよ」
再びしっかりと目を開いた時には、アクエリアの口調も元に戻っていた。
「誓おう。不測の事態が起きる以外で、汝を出し抜くことはせん」
「不測の事態起こす気満々じゃないですか」
二人が合流して、結託する所を暁も正面から見ている。
アクエリアの翳した掌から、義足へと魔力が注がれる。見えるものにはそれが緑色が斑に混ざった紫色に見えただろうが、アクエリア以外に見えるものは誰も視線を注いでいなかった。
「っ、ぐ、!?」
それまでは余裕ぶっていたアクエリアだったが、途端に焦ったような表情を浮かべる。翳した手の手首を掴んで無理矢理動かそうとするが、翳した手が動かない。魔力を注ぐのを中止したくても、止まらない。魔力が無理矢理体から引きずり出される感覚が、アクエリアの全身を襲った。
「……アクエリア……?」
ディルが怪訝な顔をする。アクエリアが下手な冗談をするなんて思っていない。
魔力が義足に満ちる頃には、ダークエルフが冷や汗を流しながら息荒く肩と膝を落としていた。
立ち上がる事が出来たディルが、アクエリアに手を貸す。その手を借りて立ち上がるアクエリアの顔色は悪い。
「……全部、吸い取られるかと思いました……。その義足、本当どうなってるんですか……」
「知らぬ。知りたければ、あの痴れ者の口を割るのだな」
アクエリアの具合は悪いが、ディルはこれまでの疲労を除けば万全だ。
けれど暁のその表情に焦りは無く、唇は緩やかな弧すら描いていた。
今でも自分が勝てると思っているのか、それとも。
「お二人ともぉ。仲良きことは美しきかな……とは言いますけど、本当にいつまでも優位ぶっていられるものですかねぇ?」
少なくとも、勝てないと分かっていての諦観の笑顔には見えなかった。
「本当にウチに勝てるかどうか、試してみてくださいよ。ウチに勝てたら、二人にはご褒美がありますよぉ?」
暁の手が、腰の双剣を握る。
構えると同時に刃の切っ先をなぞる光が、先端で消えた。
「――更なる絶望っていう、御褒美がね」
「ユイルアルトさん! 大丈夫ですか!?」
「だい、じょ……な、わけ、ないでしょ……!!」
女性二人は、こちらはこちらで深刻な状況だった。
壁伝いに男衆から離れた後は、その壁に這う蔦を登る。旗を落とせ、と言われて実行しようとしたはいいが、非力な女性二人での作業は無理がある。
距離が遠い。根元が見えない。腹の立つ相手ならまだしも、何の恨みも無い国の象徴を落とせと言われてどうしていいか考えあぐねての一先ずの行為だ。
三人の所を離れたのは正解かも知れない。テラスに視線を向けると、糸の間を掻い潜って三人が戦っている。ディルが暁に肉薄するたびに、テラスに張ってある糸が切れて爆発音が鳴る。ゴゴ、という地鳴りのような音をさせて二人の居る所までが揺れ、落ちないように気を付けるので精一杯だ。
「私っ、いくらパルフェリアのエルフの森で、鍛えられたからって……! こんな崖登りみたいなの、した事無いんですよ!!」
「でも筋はいいわ! 大丈夫、ユイルアルトさんなら出来る!!」
「何の慰めにもならないっ!!」
たった頭一つ分を登るだけで必死なユイルアルトとは違い、アールリトはすいすいと蔦を登っている。長いシスター服の裾もお構いなしに、平然と蔦に手足を引っ掛けては助けの為にユイルアルトへと手を伸ばす。
まるで、こんな状況に慣れているかのように。
「……アールリトさん、蔦登りがお上手、です、ね」
「そう? ……私も、草の民の血を引いているからかしら」
自分で自分の種族の蔑称を口にするアールリト。手に握った蔦が軋むように鳴った。
草の民、と言われてユイルアルトはすぐにそれがなんなのか分からなかった。けれど、彼女の血筋を少しでも耳に入れていれば思い至る。奴隷として扱われているプロフェス・ヒュムネの蔑称だ。
王家の末姫、そして次期国王としては驚くほど自尊心が低い。高慢な態度を取っていたのは、ロベリアの前だけだった。
「そんな顔しないで、ユイルアルトさん。私は自分の血を呪いはしないけど、プロフェス・ヒュムネの味方になる事もないから」
アールリトから言われるくらいの顔だ、自分はどんな酷い顔をしているのだろう。ユイルアルトは自分の顔を覆う事も出来ずに、唇を噛みしめて蔦の先を見た。
まだ、休憩を入れられる上までは遠いようだ。蔦を握り締めた掌が痛みを訴える。
「滅びて当然なんて思わないけれど、私の母は愚かな決断をしたわ。この城下の誰もかもを巻き込んでいい理由にはならないし、私はこの罪を贖えるなんて思わない。貴女も巻き込んでしまって、本当に……申し訳ないって思ってる」
「……アールリトさん? 貴女、王女なんですよね……?」
「……? ええ、そうだけど」
「どうして、そう謝るんです? 王族の謝罪は強い意味を持つと聞きました。ヴァリンさんだって、そうだったのに」
そろそろ、登るのも限界が来た。ユイルアルトの手は早くも皮が剥けた。
それでも登ろうという気力が尽きないのは、ユイルアルトだって現状に憤っているからだ。
ヴァリンとの約束に、間に合わなかった。知っている城下が様変わりしてしまった。
その責を問うべき相手はもう居ないらしい。命というのは、なんとも数奇なものだ。
「王族だって謝るわよ。私はこれまで国政に深く関わらなかったし、私の謝罪自体には国に関する特別な意味は無いわ。謝るのは私が末姫だからで、王族とはいえ権威を剥げばただの命よ。私達だって、他の人の痛みや苦しみを感じない訳じゃないの」
「……」
「でも、謝罪に打算があるのは事実。……少なくとも私は、貴女に不快な思いをして欲しくないから」
「……謝罪が全て、不快な思いをさせないと思ったら間違いですよ。私は必要以上に、貴女に謝って欲しくない」
アールリトは一足先に上へ登り切った。気付けばユイルアルトも、手の皮を剥いて血豆を作りながらも側まで来ている。
ひらりと身を翻し、登り切ったアールリトがユイルアルトへ手を伸ばす。
「そうなの? じゃあ、今度から気を付けるわ。そういうの、疎くて分からないの。教えてもらえたら良かったんだけど」
「そういうのは、……教わる、ものじゃ、ないでしょう。自分で、覚えていくものです」
伸ばされた手を、躊躇いなくユイルアルトが掴んだ。剥がれた皮膚から覗く赤色が、その摩擦に痛みを訴える。
しかしユイルアルトは手を離さない。離したら死んでしまう。
「覚えるにしても、私は人との関わりが少なかった。家族以外で国内で深く関わったのは、ディルのお嫁さんのアンや、仕えてくれた女従くらいなものよ。今から覚えようとして、間に合うかしら」
アールリトの笑顔は、曇っていた。申し訳なさそうに眉が下がっている。
ユイルアルトも遅れて蔦の上へよじ登り、やっと旗の根元が見えた。尖塔との距離は遠く、物理でどうにかしようと思っても無理だった。
「……人と関わろうとする努力は、何歳になっても無駄にはならないでしょう。……少なくとも、今旗を落とそうとする無謀より、何倍も覚えて損は無い筈です」
「やっぱり?」
「アールリトさんで何とか出来ませんか。私は、凍らせるだけで終わってしまう」
言いながらユイルアルトは、エルフの女王より賜った光球の姿を見せる。使えるのはあと四回で、無駄に使っても居られない。
困ったように笑うアールリトは年相応の表情をしていた。
「……うぅん。私もやってみるけど、自信無いわ。『種』を摂取したから使えるようになったこの能力も、完全に自由に使える訳じゃないみたい」
「は? だって、ロベリアさんをあんなにしたのに」
「あれは、頭に血が上っていたし……。それに、これだけ距離が開いてたんじゃ狙いが外れるわ」
言いながらアールリトは掌を尖塔に向けた。
本人はよく狙った筈の細い水の噴射は、風に流されてやや左に逸れた。もう一度狙い直すも、僅かに当たった噴射は旗を落とすに至らない。どうも、空いた距離の間でかなり力が弱まってしまうらしい。
水圧を強めようにも、先ほど開花したばかりの能力だ。すぐに使いこなすのは難しい。
「……困りましたね。これじゃ、落とせって言われたってどうすればいいのか」
「ええ……。完全に意のままになる能力だったら私も助かったのに。……せめて」
アールリトが、自分の手を見た。
特に一般の世の女と変わらない普通の手だ。しかし、彼女は自分の中に流れる『普通』ではない血に気付いている。
「――せめて私が、お母様の血を濃く引いていれば良かったのに」
プロフェス・ヒュムネの能力を発動しても、同胞のように植物へと変貌しない体。
まるで無詠唱の魔法のような能力。
もしかしなくても、これは母よりも父の血を濃く継いでいるからではないのか。
アールリトの煩悶は、ユイルアルトが心配そうに顔を覗き込んで来た時に止まる。
何でもない、と首を振るのは簡単だった。すぐに次の手を考えるために頭を働かせる。
テラスでは、まだ男達が戦闘を繰り広げていた。